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呪いの記録係 ~誰にも残されなかった最後の言葉は、死んでも消えない~  作者: ヒア


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第八話 誇り

朝、ルナは七枚の紙を見た。


スノウベル。


夕飯、食べた?


約束、守れたよ。


分かりません。


雨の音が、少しうるさかった。


許さない。

あの子を、私に許させる理由にするな。


名前を、忘れたくなかった。


机の上は、もう狭かった。

それでもルナは、まだ片づけなかった。

紙の端が触れ合わないように、一枚ずつ少しだけ間を空ける。

六枚目だけは、今も少し離してある。


スノウベルは、ほとんど下を向いていた。

白い花弁は薄く、光に透ける。

もう長くはないのだろう。

そう思ってから、ルナは首を傾げた。


長くはない。

それは、花に対して使う言葉なのか。

人に対して使う言葉なのか。


どちらでもある気がした。


ギルドへ着くと、廊下の空気が少しざわついていた。

新人たちが数人、壁際で小声を交わしている。

アリュもその中にいた。

名札は今日はまっすぐだった。


「何かありましたか」


ルナが声をかけると、アリュはびくりと肩を揺らした。


「おはようございます」

「おはようございます」

「あの、今日の依頼人のことを聞いて」


アリュは教本を胸に抱える。


「灰番の人だって」

「灰番」


遺体を焼く仕事をする人々の呼び名だ。

正式には焼送人。

だが、街の人間はたいてい灰番と呼ぶ。

尊敬を込めた呼び名ではない。


「怖いのですか」

「怖いというか」


アリュは言葉を探した。


「昔、子どものころ、悪いことをすると灰番が連れていくって言われていました」

「実際には連れていきません」

「分かっています。でも、言葉だけ残っていて」


言葉だけ残っている。

それは呪いに似ていた。


受付の女性が依頼書を差し出す。


「ルナさん、午前の依頼です」

「はい」


依頼人の名前は、ギル・サナ。

六十四歳。

焼送人。

呪いの種類は、職責性残留。

緊急度は中。


「立ち会いは」

「ありません。本人希望です」

「家族は」

「なし。ただし、弟子が一人います。家の外で待機しているそうです」

「承知しました」


受付の女性は少しだけためらった。


「今回の依頼人は、長く街の焼送場にいました」

「はい」

「人によっては、近づくことも嫌がります」

「記録士は、依頼人を選びません」

「はい」


受付の女性は頷いた。

その表情には、どこかほっとしたものがあった。


ギルの家は、街の外れにあった。

焼送場へ向かう道の途中、低い丘のふもとに建つ小さな家だ。

周囲には木が少ない。

風がよく通り、灰の匂いが薄く漂っている。


家の前に、若い女が立っていた。

短く切った髪に、灰色の上着。

袖口には細かな白い粉がついている。

灰だろう。


「記録士さんですか」

「はい。ルナです」

「ミオです。ギル親方の弟子です」


ミオは背筋を伸ばした。

年は二十歳前後に見える。

目の下に疲れはあったが、視線はまっすぐだった。


「立ち会いは」

「しません。親方に出ていろと言われました」

「はい」

「でも、終わったら教えてください。親方が何を言ったのか、聞いていいことなら」


ルナは頷いた。


「依頼人の意思に反しない範囲で」

「分かっています」


ミオは少しだけ口元を歪めた。


「親方、最後まで偉そうなんです」

「嫌なのですか」

「嫌です」


即答だった。

けれど、そのあとでミオは小さく息を吐いた。


「でも、嫌いではありません」


ルナは扉を三度ノックした。


「入れ」


低い声が返る。

ルナは扉を開けた。


部屋は簡素だった。

机、椅子、寝台。

壁には道具が掛けられている。

灰を払う刷毛、火箸、厚い手袋、黒ずんだ革の前掛け。

窓は開いていた。

冷たい風が入り、灰の匂いを外へ逃がしている。


寝台の上に、男が座っていた。

肩幅は広い。

病で痩せてはいるが、骨格の強さは残っている。

手は大きく、指の節が黒く染みついていた。

洗っても落ちない煤の色だった。


「記録士か」

「はい。ルナです」

「座れ。灰を嫌がるなら立ってろ」

「座ります」


ルナは椅子に座った。

椅子の脚に、灰が少しついた。


ギルはそれを見て、鼻で笑った。


「嫌がらないんだな」

「仕事です」

「便利な言葉だ」

「はい」


ルナは記録書を開いた。


「聞き取りを始めてもよろしいですか」

「始めろ」


ギルは窓の外を見た。

丘の上には、焼送場の煙突が見える。

今日は煙が出ていない。

空は晴れているのに、その場所だけ少し暗く見えた。


「俺が何をしてきたか、知っているか」

「遺体を焼き、遺灰を遺族に渡す仕事です」

「教本の答えだな」

「はい」

「街では何と言われる」

「灰番」

「悪くない」


ギルは笑った。

笑い方は硬いが、嫌そうではなかった。


「子どもには嫌われる。親には避けられる。葬儀の場では必要にされるが、飯の席には呼ばれない」

「つらかったですか」

「別に」


答えは早かった。


「誰かがやらなきゃならない仕事だ。なら、誰かがやる」

「それだけですか」

「最初はな」


ギルは自分の手を見る。

黒く染みた指。

煤と火で固くなった皮膚。


「若いころは、金のためだった。親もいない。学もない。腕力だけはあった。焼送場なら雇ってもらえた」

「はい」

「初めて焼いたのは、老人だった。家族が泣いていた。俺は火加減を間違えた」


ギルの眉が少し動く。


「骨が、綺麗に残らなかった」

「それは」

「失敗だ」


彼は短く言った。


「遺族は分からなかった。だが、俺には分かった。先輩にも殴られた」

「殴られたのですか」

「ああ。死者に二度目の失礼をするな、と」


ルナは万年筆を持つ手を少しだけ止めた。

死者に二度目の失礼。

その言葉は、記録士にも刺さるものがあった。


「それから、覚えた。火の入れ方。風の読み方。骨の拾い方。遺族に壺を渡す時の手の位置」

「手の位置」

「震えてはいけない。遺族はこっちの手を見る」


ギルは自分の手を少し持ち上げた。


「汚い手だろう」

「黒いです」

「正直だな」

「はい」

「だが、この手が震えると、遺族はもっと震える」


ルナは自分の手を見る。

記録書を持つ手。

万年筆を握る手。

依頼人は、この手を見ているのだろうか。


「あなたは、それを誇りに思っているのですか」

「思っている」


迷いのない答えだった。


「嫌われても」

「嫌われても」

「避けられても」

「避けられても」

「怖がられても」

「怖がられても」


ギルは少しだけ目を細めた。


「死んだ人間は、自分で火に入れない。遺族は、入れたくても入れられない。だから俺がやる。火を見て、骨を拾って、灰を渡す。それだけだ」

「それだけ」

「ああ。それだけを、雑にやるな」


その声は、強かった。

怒りではない。

諦めでもない。

もっと固いものだった。


誇り。

ルナはその言葉を思い浮かべた。


「弟子のミオさんについて伺っても」

「外にいるのか」

「はい」

「入れるな」

「はい」

「あいつはよく泣く」

「泣く」

「初めて子どもの遺体を焼いた日に、窯の裏で吐いて泣いた。次の日、来ないと思った」


ギルは少しだけ口元を緩めた。


「来た」

「なぜでしょう」

「知らん。馬鹿だからだろう」


その言い方に、嫌悪はなかった。


「それから毎日来た。灰まみれになって、火傷して、それでも来た」

「認めていますか」

「認めていない」

「そうですか」

「まだ火の読みが甘い」


ギルは窓の外を見る。


「だが、死者の扱いは荒くない」


それは、褒め言葉なのだろう。

ハンの「塩は少ない。けれど、食える」に似ていた。


「最後の言葉は、決まっていますか」

「決まっている」


ギルはすぐに言った。


「だが、記録士」

「はい」

「最後の言葉は、誰かに向けなきゃならんのか」

「いいえ」

「死者にでも、生者にでもなくていいのか」

「本人の言葉であれば」

「ならいい」


ギルは息を吐いた。

肺の奥で、音が引っかかる。


「俺には家族がいない。妻もいない。子もいない。親も覚えていない」

「はい」

「焼いた人間の数も覚えていない。数えたこともない」

「はい」

「だが、一つずつは覚えている」


ルナは顔を上げた。


「一つずつ」

「あの老人は手の骨が細かった。あの兵士は左脚に古い傷があった。あの母親は、赤子の灰を抱くとき手袋を外した。あの子どもは、小さすぎて、壺が大きく見えた」


ギルは淡々と話した。

泣きもせず、飾りもせず。

ただ、火の前に立ってきた人の声だった。


「忘れていないのですね」

「忘れないようにした」

「なぜ」

「誰かが覚えていなきゃ、ただの灰になる」


ルナの指が止まった。

ただの灰。

ただの記録。

ただの言葉。


「記録士」

「はい」

「あんたの仕事も似たようなもんだろう」

「似ていますか」

「知らん。だが、人が最後に残したものを、雑に扱うな」


ルナは記録書の白いページを見る。

自分は雑に扱っていない。

そう言い切れるだろうか。

正確に書くこと。

改変しないこと。

裁かないこと。

それだけで、雑ではないと言えるのだろうか。


「あなたは、ご自身の仕事を良い仕事だと思いますか」


問いは自然に出た。

業務に必要な質問かどうか、少し遅れて考えた。


ギルはルナを見た。


「良い仕事かどうかは知らん」

「知らない」

「良いと思われたことは少ない。礼を言われることもあるが、大抵は泣いていて覚えていない。金を払う時だけ、急に現実の顔になる」

「はい」

「だが、悪い仕事だとは思わない」


ギルの声は、低く静かだった。


「きつい。嫌われる。誰かに誇れるような見た目でもない」

「はい」

「でも、俺は手を抜かなかった」


ギルは黒く染みた指を開いた。

爪の際まで煤が入り、節の皮膚は硬く割れている。


「壺を渡すとき、指先が汚れていれば布で拭いた。骨が欠ければ、欠けた理由を確かめた。風が悪ければ、火を待った」


それが、彼の答えだった。

良いかどうかではない。

雑にしなかった。

その事実だけが、彼の中に残っている。


ルナは、記録士としての自分を考える。

五年間、一度も感情を見せず、人々の最後を記録してきた。

正確だった。

早かった。

揺れなかった。


それは、手を抜かなかったことになるのだろうか。

それとも、ただ自分をどこかへ置いてきただけなのだろうか。


「記録士」


ギルの声が戻る。


「書け」


ルナは万年筆を構えた。


ギルは窓の外の煙突を見た。

今日は煙のない煙突。

その向こうの空。


「いい仕事だった」


ルナの万年筆が動く。


いい仕事だった。


記録書の端が温かくなる。

穏やかな熱だった。

火のそばにいるときのような、乾いた温かさ。

呪いが断たれる感覚と一緒に、灰の匂いが少しだけ薄くなった気がした。


ギルは目を閉じた。


「……ミオに」


小さな声だった。

最後の言葉ではない。

けれど、ルナは聞いた。


「はい」

「火を怖がるなとは言うな」

「はい」

「怖がらないやつは、いつか雑になる」

「はい」

「怖がれ。だが、手を抜くな」


ルナは頷いた。


「伝えます」

「記録には」

「書きません」

「それでいい」


ギルの呼吸は、少しずつ浅くなった。

最後に、彼は自分の黒い指を見た。

その目には、嫌悪はなかった。

誇りという言葉を使うには、静かすぎる顔だった。

けれど、恥じてはいなかった。


やがて、呼吸が止まった。


ルナはしばらく待った。

それから記録書を閉じる。

壁に掛けられた刷毛の下に、灰が少し落ちている。

ルナはそれを払おうとして、手を止めた。

この部屋の灰は、汚れではない気がした。


扉を開けると、ミオが立っていた。

背筋は伸びている。

でも、両手はきつく握られていた。


「終わりましたか」

「記録は完了しました」


ミオは目を閉じる。

涙は出なかった。

泣かないようにしているのではなく、泣く場所をまだ決められないように見えた。


「親方、何か言ってましたか」

「最後の言葉は、ご自身の歩いてきたものへ向けたものでした」

「仕事へ」

「はい」


ルナは少し迷った。

最後の言葉ではない。

けれど、伝えてよい言葉だと判断した。


「あなたへ、伝言があります」

「私へ」

「火を怖がるなとは言うな。怖がらない者は、いつか雑になる。怖がれ。だが、手を抜くな」


ミオの顔が崩れた。

けれど、声は出さなかった。

彼女は自分の袖口についた灰を見た。


「最後まで、親方ですね」

「はい」

「褒めてくれましたか」

「死者の扱いは荒くない、と」

「それだけですか」

「はい」

「十分です」


ミオは笑った。

少しだけ泣きそうな笑顔だった。


「十分すぎます」


焼送場の方から、風が吹いた。

灰の匂いが薄く届く。

ミオはその匂いに顔を背けなかった。


「明日から、私が火を入れます」

「はい」

「怖いです」

「はい」

「でも、手は抜きません」


ルナは頷いた。

それは、約束に似ていた。

けれど、第八話の机には、もう約束という紙がある。

同じ言葉ではない気がした。


ギルの家を出ると、空は晴れていた。

丘の上の煙突は、今日も煙を出していない。

けれど、そこに仕事の気配は残っている。

火が消えても、灰は残る。

誰かが手を抜かなかった跡として。


ギルドへ戻る途中、ルナは自分の手を見た。

記録書を持つ手。

万年筆を握る手。

黒くはない。

煤もついていない。

でも、何もついていないわけではないのかもしれない。


受付で記録書を提出すると、受付の女性は表紙を確認した。


「ギル様の記録ですね。お疲れ様でした」

「はい」

「問題はありませんでしたか」

「記録は完了しました」

「ルナさん」

「はい」

「問題は、記録だけではありません」


受付の女性の声は穏やかだった。

ルナは答えを探す。

問題。

疲労。

異変。

自分の仕事。


「手を抜いてはいません」

「はい。存じています」


受付の女性は少しだけ目を細めた。


「だから、心配しています」


その言葉に、ルナは返せなかった。


食堂へ行くと、アリュがいた。

今日は待っているというより、偶然そこにいたようだった。

教本を開きながら、干し果物を少しずつ食べている。


「おかえりなさい」

「戻りました」

「今日の依頼は」

「焼送人でした」

「灰番の」

「正式には焼送人です」


アリュは少し恥ずかしそうに頷いた。


「そうですよね」

「仕事の名前は、正しく呼ぶべきだと思います」

「はい」


言ってから、ルナは自分の言葉に少し驚いた。

仕事の名前。

人の名前。

正しく呼ぶこと。

昨日の依頼と今日の依頼が、薄くつながった気がした。


「ルナさんは、記録士であることを誇りに思っていますか」


アリュの問いは、まっすぐだった。

まっすぐすぎて、避ける場所がなかった。


ルナは答えようとした。

記録士は必要な仕事です。

呪いを断つための仕事です。

最後の言葉を改変しない仕事です。


どれも答えではなかった。


「分かりません」


そう言ってから、ルナは続けた。


「でも、手を抜いたことはありません」


アリュは静かに頷いた。


「それは、すごいことだと思います」


すごい。

ルナはその言葉を受け取れなかった。

褒められたのだろうか。

慰められたのだろうか。

それとも、ただアリュがそう思っただけなのか。


判断できなかった。


夜、ルナは机の前に座った。

七枚の紙の横に、新しい紙を置く。


いい仕事だった。


八枚目の紙だった。

書いたあと、ルナは万年筆を置けなかった。

もう一枚、余り紙を取る。


記録士。


そう書いた。

その下に、少し迷ってから別の言葉を書く。


いい仕事。


二つの言葉を並べる。

記録士。

いい仕事。


線の間に、どうしても少し隙間があった。

ルナはその隙間を見ていた。

埋める言葉は、まだ見つからなかった。

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