第七話 名前
朝、六枚目の紙だけが、少し離れていた。
許さない。
あの子を、私に許させる理由にするな。
ルナはその紙を見た。
ほかの紙よりも、文字が黒く見える。
同じインクで書いたはずなのに、そこだけ乾ききっていないような気がした。
スノウベルは、もうまっすぐには立っていなかった。
花弁の端は薄く、茎は水の中で少し柔らかくなっている。
枯れるという言葉が頭に浮かんだ。
けれど、ルナはその言葉を紙には書かなかった。
机の端には、余り紙がある。
ルナは万年筆を取った。
ルナ。
そう書こうとして、手が止まった。
昨日より長かった。
最初の線は分かる。
けれど、その次の払いが、どちらへ流れるのか一瞬だけ曖昧になった。
ルナは息を吸う。
もう一度、書く。
ルナ。
今度は書けた。
黒い二文字が紙の上に残る。
問題ありません。
声には出さなかった。
紙を折って、屑籠へ入れる。
折った紙の端から、自分の名前の最後の線だけが見えた。
ルナはしばらくそれを見ていた。
それから、部屋を出た。
ギルドへ着くと、受付の前でアリュが待っていた。
両手で教本を抱え、目の下に少しだけ影がある。
「おはようございます」
「おはようございます」
「昨日、大丈夫でしたか」
昨日。
怒りの熱。
記録書の端の痛み。
水差しの冷たさ。
六枚目の紙。
ルナは一拍遅れて答えた。
「戻りました」
「それは、見れば分かります」
「はい」
アリュは困ったように笑った。
それから、少しだけ声を落とす。
「ルナさん、最近、返事が遅いです」
「そうですか」
「はい。前より、少し」
ルナはアリュを見る。
責める声ではなかった。
ただ、見たものをそのまま言っている声だった。
「記録しておきます」
「えっ」
「いえ」
ルナは言い直す。
「覚えておきます」
アリュは少し驚いた顔をしたあと、ゆっくり頷いた。
「はい」
受付の女性が依頼書を差し出す。
「ルナさん、午前の依頼です」
「はい」
依頼人の名前は、ナギ・オルト。
七十七歳。
元写字師。
呪いの種類は、忘名性残留。
緊急度は中。
「忘名性」
「名前に関する呪いです。本人または周囲の人間が、特定の名前を思い出せなくなる症状が出ています」
受付の女性は書類をめくった。
「依頼人は、自分の名前と息子さんの名前は覚えています。ただし、亡くなった夫の名前をどうしても思い出せない、と」
「夫の名前」
「はい。三十年前に亡くなっています」
「立ち会いは」
「息子さんが一人。ただし、聞き取りは本人のみ希望です」
ルナは依頼書を受け取る。
名前。
その文字を見たとき、自分の手が少しだけ重くなった。
「承知しました」
ギルドを出る前に、アリュが小さく言った。
「ルナさん」
「はい」
「名前って、忘れるものなんでしょうか」
ルナは答えを探した。
自分の名前の線が、今朝一瞬ほどけたことを思い出す。
「分かりません」
言ってから、少しだけ息が止まる。
またその言葉だった。
けれど、今日は紙に書くより先に、声で出た。
アリュは頷いた。
「私も、分かりません」
それだけ言って、アリュは教室へ戻っていった。
ナギの家は、西の書庫通りにあった。
古い本を扱う店が並ぶ通りで、朝でも薄暗い。
店先には紙束が積まれ、軒下に吊るされた札には、写本、修理、目録作成、と細い字で書かれている。
ナギの家は、その通りの奥にあった。
扉の横に小さな看板が掛かっている。
文字修復承ります。
看板の字は古いが、乱れていない。
線の始まりと終わりが、とても静かだった。
扉を叩くと、中から男の声がした。
「はい」
出てきたのは、四十代ほどの男だった。
髪に少し白いものが混じっている。
目元は疲れていたが、服装は整っていた。
「記録士の方ですね」
「はい。ルナです」
「私はオルンです。母が奥で待っています」
オルン。
依頼書にあった息子の名前だ。
「聞き取りは、依頼人本人のみと伺っています」
「はい。母がそう言いました」
オルンは廊下の奥を見る。
「母は、私には何度も同じ話をするんです。でも、肝心なところだけ抜ける」
「肝心なところ」
「父の名前です」
彼は小さく息を吐いた。
「顔は覚えているそうです。声も、手の形も、咳の癖も。なのに名前だけが出てこない」
「それはいつから」
「半年前からです。最初は笑っていました。年だね、と。でも最近は、眠れなくなりました」
オルンは手に持っていた古い紙片を差し出した。
そこには、いくつもの名前が書かれている。
アラン。
エリオ。
カイト。
ミルド。
ロウ。
どれも違う、と赤い線で消してあった。
「母が毎晩書いています。思いつく名前を全部」
「この中にはないのですか」
「ありません。少なくとも、母は違うと言います」
「あなたは覚えていますか」
「もちろん」
オルンはすぐに答えた。
しかし、その後で視線を落とした。
「でも、私が教えても、母は納得しないんです。違う、と言う」
「なぜ」
「分かりません」
ルナは紙片を見る。
たくさんの名前。
すべて、違う名前。
名前は、正しい音であればいいわけではないのだろうか。
奥の部屋は、紙の匂いで満ちていた。
本棚が壁を覆い、机には筆、刃物、糊、薄い紙が整えられている。
窓辺の椅子に、小柄な老女が座っていた。
膝に布を掛け、両手を重ねている。
指先は細く、爪の形まで整っていた。
「記録士さん」
「はい。ルナです」
「いい名前ね」
ルナは少し止まった。
「ありがとうございます」
「月の名前でしょう」
「はい」
「月は、欠けても戻るからいいわ」
ナギは穏やかに笑った。
その笑みは、疲れてはいたが、乱れてはいない。
「聞き取りを始めてもよろしいですか」
「ええ。お願い」
ルナは記録書を開く。
万年筆を持つ。
ナギは机の上の紙束を指した。
「そこに、私が書いた名前があるでしょう」
「はい」
「全部、違うの」
「息子さんは、お名前を覚えているそうです」
「知っているわ」
「教えていただいたのでは」
「何度も」
ナギは目を伏せる。
「でも、教えられた音は、私の中のあの人に届かないの」
ルナは万年筆を持つ指に力を入れた。
「届かない」
「ええ。たとえば、机の上に鍵があるのに、どの扉の鍵か分からないみたいなものね」
ナギは笑おうとして、できなかった。
「あの人の顔は覚えているの。いつも紙の端を舐めて怒られていたことも。冬になると右膝が痛むことも。字は下手だったけれど、封筒の宛名だけは丁寧に書いたことも」
「はい」
「でも、名前だけがない」
部屋の中に、紙の乾いた音がした。
どこかの棚で、一枚がずれたのかもしれない。
「名前がないと、その人はいなくなるのですか」
ルナの問いに、ナギは少しだけ首を傾げた。
「いなくならないわ」
「では、なぜ」
「呼べないの」
ナギは自分の膝の上の手を見る。
「思い出すことはできる。でも、呼べない。誰かに話すことはできる。でも、呼べない。謝ることも、お礼を言うことも、遅くなってごめんねと言うこともできない」
ルナは記録書の白いページを見る。
名前は、呼ぶためのもの。
それは、教本にはなかった。
「ご主人に伝えたいことがあるのですか」
「たくさんあるわ」
「最後の言葉は」
「決められないの」
ナギは小さく笑った。
「どれも、名前が最初に来るの。ねえ、あなた。いいえ、あなたじゃない。お父さん。違うわ。あの人。違う」
彼女の声が細くなった。
「違うの。全部、違う」
ルナは何も書かなかった。
書いてはいけない言葉ばかりだった。
まだ最後の言葉ではない。
まだ、探している途中の声だった。
「記録士さん」
「はい」
「あなたは、自分の名前を忘れたことがある?」
ルナの手が止まった。
ほんの少しだけ。
けれど、ナギはそれに気づいた。
「あるのね」
「忘れたわけではありません」
「では」
「書き方が、一瞬分からなくなったことがあります」
「怖かった?」
ルナは答えられなかった。
怖い。
その言葉は、まだ自分のものにならない。
「分かりません」
「そう」
ナギは責めなかった。
「でも、その一瞬に、少しだけ寒くなったでしょう」
「……はい」
言ってから、ルナは気づく。
寒かった。
確かに、そうだったのかもしれない。
「名前を忘れるのはね、暗くなることより、寒くなることに似ているの」
ナギは窓の外を見る。
冬ではない。
けれど、その声には小さな寒さがあった。
「私は、あの人の名前を忘れたくなかった」
「はい」
「顔より先に名前が消えるなんて、思わなかった」
「はい」
「ひどいでしょう」
ルナは答えを探す。
ひどい。
誰が。
何が。
死が。
呪いが。
記憶が。
名前だけを奪う何かが。
「はい」
その一文字しか出なかった。
けれど、ナギは少しだけ笑った。
「そう言ってくれてよかった」
しばらく沈黙が落ちた。
ナギの呼吸は浅くなっている。
窓の外で、紙を売る店の呼び声が聞こえた。
古紙、修理、目録。
名前のない紙にも、値がつく。
名前のある人も、忘れられる。
「息子さんを呼びますか」
「呼ばないで」
「はい」
「あの子は、私の代わりに名前を覚えている。だから、今は呼ばないで」
ナギは目を閉じた。
「聞けば、きっと私はそれを受け入れてしまう。あの子が覚えている名前を、私の記憶だと思うことにしてしまう」
「それではいけないのですか」
「いけなくはないわ」
ナギはゆっくり首を振る。
「でも、最後くらい、自分がなくしたものを、自分のものとして言いたいの」
ルナは記録書を開いたまま待った。
最後の言葉は、本人しか決められない。
たとえ、そこに欠けた部分があっても。
ナギは、膝の上で手を握った。
「記録士さん」
「はい」
「あの人の名前は、書かなくていい」
「はい」
「忘れたままでも、書けるかしら」
「本人の言葉であれば」
「それだけ?」
「はい」
ナギは息を吸った。
とても小さな息だった。
「名前を、忘れたくなかった」
ルナの万年筆が動く。
名前を、忘れたくなかった。
文字が紙に移った瞬間、記録書の端が静かに温かくなった。
熱くはない。
第三話の鍋のようでも、第四話の窯のようでも、第六話の怒りの熱のようでもない。
冷えた手の中に、誰かがそっと息を吹きかけたような温かさだった。
ナギは目を閉じたまま、少しだけ笑った。
「ねえ」
それは最後の言葉ではなかった。
けれど、ルナは聞いた。
「はい」
「もし、いつかあなたが自分の名前を忘れても」
「はい」
「誰かが呼んでくれたら、少しは戻れるかもしれないわ」
ルナは返事を探した。
ありがとう、と言うべきなのか。
覚えておきます、と言うべきなのか。
分かりません、と言うべきなのか。
「はい」
結局、それだけになった。
ナギの呼吸は、ゆっくりと遠くなった。
部屋の紙の匂いだけが残る。
机の上には、赤い線で消されたたくさんの名前があった。
どれも違う。
でも、その一つ一つが、誰かの名前だった。
ルナは記録書を閉じた。
部屋を出る前に、机の上の紙片を見た。
アラン。
エリオ。
カイト。
ミルド。
ロウ。
違う名前たち。
ルナはそれらを裏返さなかった。
廊下に出ると、オルンが立ち上がった。
「母は」
「記録は完了しました」
オルンは目を閉じた。
しばらくしてから、深く息を吐く。
「父の名前は、思い出しましたか」
「いいえ」
「そうですか」
その声には、落胆よりも、覚悟のようなものがあった。
「最後の言葉を、伺っても」
「はい」
ルナは一字も変えずに言った。
「名前を、忘れたくなかった」
オルンの顔が歪んだ。
彼は泣かなかった。
ただ、古い紙片を胸に押し当てた。
「父の名前を教えたら、母はいつも怒ったんです」
「怒った」
「違うって。お前の覚えている名前じゃないって」
オルンは苦笑した。
「私は、正しい名前を言っているつもりでした」
「はい」
「でも母は、音だけが欲しかったわけではなかったんですね」
ルナは答えなかった。
オルンも、答えを求めてはいなかった。
「母の名前を、もう一度呼んでもいいですか」
「私に許可を求めることではありません」
「そうですね」
オルンは奥の部屋へ向き直る。
小さく、しかしはっきりと呼んだ。
「ナギ」
その名前は、閉じた扉に当たって消えた。
けれど、完全には消えなかったように、ルナには聞こえた。
ギルドへ戻る道で、ルナは自分の名前を頭の中で何度も繰り返した。
ルナ。
ルナ。
ルナ。
音はある。
意味もある。
けれど、繰り返すほど、少しだけ遠くなる。
門の前で立ち止まり、ルナは依頼書の裏に自分の名前を書いた。
ルナ。
書けた。
けれど、すぐに安心できなかった。
書けたことを確かめるために、もう一度書く。
ルナ。
二つ並んだ名前は、同じ形をしていた。
それなのに、二つ目の方が少しだけ知らない字に見えた。
ルナは依頼書を折り、鞄に入れた。
ギルドの食堂では、アリュが水を飲んでいた。
ルナを見ると、立ち上がる。
「おかえりなさい」
「戻りました」
「今日の依頼は、どんな言葉でしたか」
アリュは聞いてから、はっとした顔をした。
「すみません。聞いていいことじゃなかったです」
「最後の言葉は、記録書にあります」
「はい」
アリュは肩を落とす。
ルナは少しだけ考えた。
「名前に関する依頼でした」
「名前」
「はい」
アリュは自分の名札に触れた。
少し曲がっている。
「私、名札がないと、よく名前を聞き返されます」
「なぜですか」
「声が小さいからです」
「そうですか」
「でも、ルナさんは一度で覚えてくれました」
ルナはアリュを見る。
「覚えています」
「はい」
アリュは笑った。
「それだけで、少し嬉しいです」
嬉しい。
その言葉は、ルナの中に落ちた。
まだ、自分のものにはならない。
けれど、どこかに触れた。
夜、ルナは机の前に座った。
六枚の紙の横に、新しい紙を置く。
名前を、忘れたくなかった。
七枚目の紙だった。
それを書いたあとで、ルナは別の余り紙を取る。
少し迷ってから、そこに自分の名前を書いた。
ルナ。
その下に、もう一つ書く。
アリュ。
二つの名前を並べて、ルナはしばらく見ていた。
自分の名前より、アリュの名前の方が確かに見えた。
そのことを、ルナは誰にも報告しなかった。




