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呪いの記録係 ~誰にも残されなかった最後の言葉は、死んでも消えない~  作者: ヒア


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第六話 怒り

朝、ルナは机の上の紙を数えた。


スノウベル。


夕飯、食べた?


約束、守れたよ。


分かりません。


雨の音が、少しうるさかった。


五枚になっていた。

机の上は、もう少し狭い。

それでも、どの紙も重なってはいない。

ルナは無意識に、紙と紙の間を指でそろえた。


スノウベルは、花弁の端が透けている。

白はまだ白い。

けれど、最初に買った日の白とは少し違っていた。


枯れているのだろうか。

それとも、花はこうして変わるものなのだろうか。


ルナには判断できなかった。


ギルドへ向かう途中、雨上がりの道に小さな水たまりが残っていた。

水面には空が映っている。

踏まないように歩いても、裾に少し泥が跳ねた。


受付には、いつもより人が多い。

雨の翌日は、呪いの相談が増える。

湿った空気は、残った言葉を重くする。

そう教本には書かれている。


「ルナさん」


受付の女性が、厚い依頼書を一枚差し出した。


「午前の依頼です」

「はい」


依頼人の名前は、エダ・リム。

五十二歳。

元仕立屋。

呪いの種類は、怨恨性残留。

緊急度は高。


ルナは依頼書を見る手を止めた。


「高、ですか」

「はい。本人の希望で、記録士は一人のみ。立ち会いなしです」

「家族は」

「息子さんが一人。ただし、依頼人本人が入室を拒否しています」


受付の女性は声を落とした。


「事前報告では、依頼人はかなり強い怒りを抱えています」

「承知しました」

「無理に鎮めようとしないでください」

「記録士は、依頼人を裁きません」

「はい」


受付の女性は少しだけルナを見た。

何か言いたそうだったが、結局、別の書類に目を落とした。


廊下でアリュとすれ違った。

アリュは教本を抱えたまま、立ち止まる。


「ルナさん、今日の依頼、危ないんですか」

「誰から聞きましたか」

「教官が、怨恨性は新人に見せるなって」

「見せるものではありません」

「怒っている人の言葉も、記録するんですか」

「します」

「怖くないですか」


ルナはすぐに答えようとして、少し遅れた。

怖い。

その言葉を、自分に当てるべきかどうか分からない。


「仕事です」


言ってから、違うと思った。

以前なら、それで終わっていた。

今は、少しだけ足りなかった。


「ただ、近づきすぎないようにします」

「はい」


アリュは小さく頷いた。


「戻ってきたら、食堂にいます」

「なぜですか」

「何となくです」


アリュはそれだけ言って、教室の方へ走っていった。

ルナはその背中を見送る。

何となく。

その言葉は、理由にならない。

でも、理由の代わりになることがあるのかもしれない。


エダの家は、東の古い住宅区にあった。

通りには洗濯物が少なく、窓は半分ほど閉じられている。

雨上がりの石壁は黒く濡れ、細い路地に湿った布の匂いがこもっていた。


依頼書の住所へ着くと、軒の低い家が見えた。

扉の前に、若い男が立っている。

二十代半ばほど。

髪は濡れたまま乾いておらず、上着の袖を握りしめていた。


「記録士の方ですか」

「はい。ルナです」

「母を、お願いします」


男は深く頭を下げた。

額が膝につきそうなほどだった。


「あなたは」

「リオです。エダの息子です」

「立ち会いは拒否されています」

「分かっています」


リオはすぐに答えた。

けれど、扉の前から退かなかった。


「母は、私を見たくないと言いました」

「はい」

「でも、私は、最後に謝りたい」

「それを依頼人本人が望んでいません」

「分かっています」


同じ言葉だった。

だが、今度は声が少し潰れた。


「分かっているんです。でも」


ルナはリオを見る。

男の手は袖を握りしめすぎて、指先が白くなっていた。


「謝罪を伝えることはできません」

「……はい」

「最後の言葉を聞き、記録することが私の役目です」

「分かっています」


三度目の返事だった。

もう中身はほとんど残っていないように聞こえた。


ルナは扉を三度ノックした。


「入れ」


中から、低い声がした。

リオが一歩下がる。

ルナは扉を開けた。


部屋の中は、暗かった。

窓には厚い布が掛けられ、外の光をほとんど入れていない。

布の匂い。

薬の匂い。

そして、何か焦げたような匂いがした。


寝台に、女が横たわっている。

頬は痩せ、目だけが強く開いていた。

枕元には裁縫箱がある。

針山、糸巻き、銀色の鋏。

どれも古いが、丁寧に手入れされていた。


「記録士か」

「はい。ルナです」

「若い」

「よく言われます」

「若いやつは嫌いだ」


エダはすぐに言った。


「はい」

「はい、じゃない。嫌いだと言っている」

「聞いています」


エダは鼻で笑った。


「聞くだけなら、誰でもできる」


ルナは記録書を開いた。

万年筆を持つ。


「聞き取りを始めてもよろしいですか」

「始めろ。どうせ時間がないんだろう」


エダの声には、棘があった。

小さな棘ではない。

触れれば皮膚を裂く種類のものだった。


「ご家族の立ち会いを拒否されています」

「当たり前だ」

「理由を伺っても」

「あいつの顔を見たら、最後の言葉が変わる」


ルナは万年筆を止めた。


「変わるのですか」

「変わる。たぶん、許してしまう」


エダは天井を睨んだ。


「それが嫌なんだ」


部屋の奥に、未完成の服が掛けられていた。

子ども用の上着だ。

袖が片方だけついていない。

淡い緑の布に、小さな白い刺繍が入っている。


「その服は」

「見るな」

「失礼しました」


ルナは視線を戻した。

エダはしばらく黙ったあと、自分から言った。


「孫の服だ」

「お孫さん」

「死んだよ」


言葉が、部屋の床に落ちた。


「三年前だ。熱を出して、夜に医者を呼びに行くはずだった。あいつが行くはずだった。だが、酒を飲んで寝ていた」


エダの指が毛布を掴んだ。

骨ばった手だった。


「朝になって、子どもは冷たくなっていた」

「それで、息子さんを」

「許さない」


早かった。

刃物のような返事だった。


「嫁は出ていった。あいつは泣いた。謝った。何度も頭を下げた。仕事も変えた。酒もやめた。毎月、花を持ってきた」


エダは乾いた唇を歪める。


「だから何だ」


ルナは沈黙を選んだ。

何も言わないのではなく、今は言葉を置かない方がいいと判断した。

その違いを、少しだけ意識した。


「三年だ」

「はい」

「三年も経てば、周りは言う。もう許してやれ。息子も苦しんでいる。お前まで憎んでいたら、孫が悲しむ」


エダの目がルナを射た。


「死人の気持ちを、勝手に使うなと思った」


その怒りは、正しかったのだろうか。

間違っていたのだろうか。

ルナは判断しない。

記録士は、裁かない。


けれど、怒りは部屋の中に満ちていた。

息を吸うと、喉の奥に引っかかる。

焦げた匂いの正体が少し分かった。

これは、燃え残った布の匂いだ。


「服を燃やしたのですか」

「ああ」


エダは少し笑った。


「あの子に作るはずだった服を、一度燃やした。全部燃やしたつもりだった。でも、一枚だけ残った」

「なぜ残したのですか」

「残したんじゃない。燃え残った」


エダは目を閉じる。


「憎しみも同じだ。燃やしたつもりでも、残る」


ルナの指が、万年筆を握り直した。

怒り。

ソルの言葉が戻る。

これから先、君は怒りも聞きます。

記録してください。裁かずに。


「最後の言葉は、決まっていますか」

「決まっている」

「伺います」


エダはすぐには話さなかった。

喉の奥で呼吸が絡む。

痛そうだった。

それでも、声だけは弱くならなかった。


「記録士」

「はい」

「最後の言葉は、綺麗なものじゃないとだめか」


ルナの中で、いくつかの声が重なった。


楽しかったわ。

夕飯、食べた?

約束、守れたよ。


どれも、最後にはどこか温かかった。

しかし、それだけが最後の言葉ではない。


「本人の言葉であれば」

「それだけか」

「はい」

「醜くても」

「はい」

「誰かを傷つけても」

「私は、改変しません」


エダはしばらくルナを見ていた。

その目に、初めて少しだけ迷いが浮かんだ。


「便利な仕事だな」

「便利ではありません」

「じゃあ何だ」

「分かりません」


言ってから、ルナは息を止めた。

また、その言葉だった。

分かりません。

机の上の紙が脳裏に浮かぶ。


エダは笑った。

喉の奥で擦れるような笑いだった。


「あんた、嘘が下手だ」


ルナは答えなかった。


「昔はな、あいつは優しい子だった」

「息子さんが」

「ああ。虫も殺せない。泣く子がいたら、自分の菓子をやる。私が縫い物をしていると、針をなくすなと毎日うるさかった」


エダの声が少しだけ変わった。

怒りが消えたのではない。

怒りの下から、別のものが覗いただけだった。


「そういう子だったから、余計に許せない」

「はい」

「悪い人間なら、憎むだけで済んだ」


ルナは記録書の白いページを見る。

言葉はまだ降りてこない。

エダの怒りは、ただの怒りではなかった。

愛していたから、許せない。

優しかったから、許せない。

その形は、教本には載っていなかった。


「記録士」

「はい」

「外にいるのか」

「息子さんですか」

「ああ」

「います」

「泣いているか」

「泣いてはいません」

「そうか」


エダは目を閉じた。

長い沈黙だった。

雨上がりの水滴が、軒から落ちる音が聞こえる。


「入れるな」

「はい」

「でも、逃がすな」

「どちらの意味でしょうか」

「聞かせるな。けれど、帰すな」


ルナは扉の方を見た。

リオはまだそこにいるのだろうか。

扉一枚隔てた向こうに、謝りたい人がいる。

こちらには、許したくない人がいる。


どちらの言葉も、行き場を失っている。


「記録士」

「はい」

「書け」


エダの声が低くなった。

ルナは万年筆を構える。


エダは、天井ではなく、未完成の子ども服を見た。


「許さない」


ルナのペン先が紙に触れる。


許さない。


そこで終わりだと思った。

しかし、エダは続けた。


「あの子を、私に許させる理由にするな」


ルナの手が止まりかけた。

けれど、止めてはいけない。

最後の言葉は、一文字も変えない。


許さない。

あの子を、私に許させる理由にするな。


記録書の端が熱を持った。

温かい、ではない。

熱い。

指先が少しだけ痛む。


エダは息を吐いた。

それは安堵ではなかった。

怒りを出し切ったあとの、空白のような呼吸だった。


「……寒い」


小さな声だった。

最後の言葉ではない。

ルナは毛布を引き上げた。


エダの目は、もう未完成の服を見ていなかった。

少しだけ扉の方を向いていた。

だが、リオを呼ぶことはなかった。

ルナも呼ばなかった。


やがて、エダの呼吸が止まった。


記録は完了した。

呪いは断たれた。

手順としては、何も間違っていない。


それなのに、部屋の中にはまだ怒りの匂いが残っていた。

燃え残った布の匂いとよく似ていた。


ルナは記録書を閉じる。

裁縫箱の蓋が少し開いているのに気づいた。

中に、白い糸が一つある。

未完成の服と同じ色ではない。

ごく普通の、白い糸だった。


扉を開けると、リオはまだ立っていた。

本当に、逃げていなかった。

顔色は悪い。

だが、目はルナを見る。


「母は」

「記録は完了しました」


リオは唇を噛んだ。


「最後に、何と」

「お伝えしてよろしいか、確認が必要です」

「母は、私に聞かせるなと言いましたか」

「はい」

「でも、帰すな、とも言いましたか」


ルナは少しだけ息を止めた。


「聞こえていましたか」

「少しだけ」


リオは笑おうとして、失敗した。


「あの人、声が大きいので」


ルナは記録書を抱える。

最後の言葉は、本人のものだ。

勝手に渡してはいけない。

けれど、扉の向こうで聞いた言葉を、なかったことにもできない。


「私は、最後の言葉を改変できません」

「はい」

「また、依頼人の意思に反して伝えることもできません」

「はい」

「ですが、あなたが扉の向こうで聞いたものを、私が消すことはできません」


リオは目を閉じた。

涙は出なかった。

もう出尽くしたのかもしれない。


「許されなかったんですね」

「はい」


ルナは言った。

嘘ではなかった。

慰めでもなかった。


「でも、逃げるなとは言われていました」


リオの肩が震えた。


「それは、どういう意味ですか」

「私には判断できません」

「そうですか」


リオは、閉じた扉を見る。

その向こうにはもう、怒る人はいない。

許さない人もいない。

けれど、許されなかった事実は残っている。


「これからも、来ていいと思いますか」


ルナは答えを探した。

記録士は助言しない。

けれど、これは助言ではなく、確認に近いのかもしれない。


「花を持ってくることは、禁止されていません」

「……はい」


リオはゆっくり頷いた。


「ありがとうございます」


その礼が、誰に向けられたものかルナには分からなかった。

エダへか。

記録士へか。

それとも、扉の向こうにまだ残る怒りへか。


家を出ると、雨は上がっていた。

空はまだ低い。

路地の端に、水たまりが一つ残っている。


ルナは水たまりを避けようとして、足を止めた。

映っている空は灰色だった。

踏めば濁る。

避ければ、そのまま残る。


どちらにも意味があるようで、どちらにも意味がないように見えた。


ギルドへ戻ると、食堂の端にアリュがいた。

本当に待っていた。

教本を開いているが、ほとんど読んでいないようだった。


「おかえりなさい」

「戻りました」

「大丈夫でしたか」


ルナはすぐに答えられなかった。

大丈夫。

その言葉は、今日は使えなかった。


「記録は完了しました」

「そうじゃなくて」


アリュの声は小さかった。

ルナはアリュを見る。

泣きそうではない。

ただ、不安そうだった。


「怒りは、熱いです」


言ってから、ルナは自分の言葉に驚いた。

アリュも目を丸くした。


「熱い、ですか」

「はい」

「痛かったですか」


ルナは指先を見る。

記録書の熱が、まだ残っている気がした。


「少し」


アリュは何か言いかけて、やめた。

代わりに、食堂の水差しを指さす。


「水、飲みますか」

「はい」


ルナは水を飲んだ。

冷たかった。

喉を通る感覚が、はっきりと分かった。


その夜、机の上に六枚目の紙が増えた。


許さない。


そこまで書いて、ルナは手を止めた。

続きを書くべきか迷った。


あの子を、私に許させる理由にするな。


最後の言葉をそのまま書けば、紙が重くなりすぎる気がした。

けれど、削れば、エダの怒りを飾ることになる。


ルナはしばらく迷ったあと、続きを書いた。


あの子を、私に許させる理由にするな。


六枚目の紙だけ、ほかの紙より少し離して置いた。

机の上はさらに狭くなった。

それでもルナは、その紙を裏返さなかった。

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