表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
呪いの記録係 ~誰にも残されなかった最後の言葉は、死んでも消えない~  作者: ヒア


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/10

第五話 疲れますか

朝、机の上は少し狭かった。


スノウベル。


夕飯、食べた?


約束、守れたよ。


三枚の紙は、窓から入る薄い光の中に並んでいる。

どれも記録書ではない。

それなのに、ルナは起きて最初にその三枚を見た。


スノウベルは、さらに首を下げていた。

白い花弁の端が少しだけ透けている。

水は替えた。

茎も、昨日の夜に少し切った。

正しいかどうかは、まだ知らない。


ルナは椅子に座り、机の端から一枚の余り紙を取った。

万年筆を持つ。

何も書く必要はなかった。

それでも、昨夜のことを確かめたかった。


ルナ。


自分の名前を書く。

最初の線は、すぐに出た。

いつも通りに見えた。

二文字は、黒いインクで紙の上に残った。


問題ない。


そう思ったあとで、ルナはその紙を三枚の横に置いた。

置いてから、すぐに違和感を覚える。

これは、残すべきものではない。

確認のために書いただけだ。


ルナは紙を折り、屑籠へ入れた。

屑籠の中で、自分の名前が半分だけ見えた。

しばらく見てから、部屋を出た。


ギルドへ向かう道には、パンの匂いがなかった。

昨日の朝、ハンの店から流れていた甘い匂いは、もう通りのどこにもない。

けれど、ルナの指にはまだ小麦粉の感触が残っている気がした。


受付では、いつもより人が少なかった。

雨の前だからだろう。

窓の外の空は低く、薄い灰色をしている。


「ルナさん」


受付の女性が顔を上げた。


「今日は午前の依頼はありません」

「はい」

「午後に、ソル様から指名があります」


ルナは目を伏せる。


「内容は」

「聞き取りではありません。面会、とだけ」

「緊急度は」

「記載なしです」


受付の女性は、少しだけ声を落とした。


「最近、ソル様からの指名が続いていますね」

「はい」

「体調に問題はありませんか」


体調。

ルナは一拍置いて答えた。


「問題ありません」

「昨日の署名欄に、少しだけ滲みがありました」

「インクの拭き取りが不十分でした」

「そうですか」


受付の女性はそれ以上は聞かなかった。

代わりに、細い封筒を差し出す。

中にはソルの筆跡があった。


昼過ぎに来てください。

急がなくていい。

けれど、来ないままで済ませない方がいい。


ルナは封筒を閉じた。


「午後まで待機します」

「はい」


廊下の奥で、アリュが教本を抱えて歩いていた。

昨日より足取りが重い。

見習い用の濃い灰色の上着は少し大きく、肩のあたりが浮いている。


「おはようございます、ルナさん」

「おはようございます」

「あの、昨日のパン、食べましたか」

「食べていません」

「えっ」


アリュは目を丸くした。


「なぜですか」

「ギルドの皆さんへ、と届けられたものです」

「ルナさんもギルドの人です」

「そうですか」


言ってから、ルナは少し考える。

そうですか。

自分でも、どこか他人ごとのような返事だった。


アリュは教本を抱え直した。


「一つ、残っていました。食堂の棚に」

「まだありますか」

「たぶん」

「では、あとで」


アリュは嬉しそうに頷いた。


「はい。あとで」


その言い方が、ルナには少し不思議だった。

自分がパンを食べることを、どうしてアリュが喜ぶのか。

考えても、答えは遠かった。


午前の時間、ルナは保管室の整理を手伝った。

記録書は年代ごとに並べられている。

背表紙には名前と日付、呪いの種類が記されている。

人が最後に残した言葉は、死後もここに保管される。


棚の奥に、古い記録書があった。

革の表紙は色が抜け、角が擦れている。

ルナはそれを持ち上げようとして、手を止めた。


背表紙の文字が、一部だけ薄い。


担当記録士の名だけが読めない。

依頼人の名も、日付も残っている。

呪いの種類も残っている。

けれど、担当記録士の名前だけが、水に濡れたように滲んでいた。


「それは触らないでください」


背後から声がした。

振り返ると、教官の一人が立っていた。

新人教育を担当している中年の記録士だ。


「古いものなので、傷みやすい」

「はい」


ルナは記録書を棚へ戻した。


「担当者名が読めませんでした」

「古い記録ですから」

「他の文字は残っています」

「古い記録です」


教官は同じ言葉を繰り返した。

それ以上、聞くなという意味だった。


ルナは頭を下げる。


「失礼しました」


保管室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じられた。

けれど、背表紙の滲みは目の奥に残っている。

担当記録士の名前だけが薄い。

偶然、と片づけるには、そこだけが薄すぎた。


昼過ぎ、ルナは北の水路沿いへ向かった。

空は曇ったままだった。

雨はまだ落ちていない。

水路の水は灰色を映し、建物の影をゆっくり流している。


ソルの部屋の前に立つ。

ノックをする前に、中から声がした。


「開いています」


ルナは扉を開けた。


部屋の中は、以前より少し暗かった。

窓辺の帳が半分下ろされ、紙と薬草の匂いが濃い。

ソルは机の前に座っていた。

膝の上には、古い記録書ではなく、白い紙が何枚か置かれている。


「来ましたね」

「指名を受けました」

「指名というほどのものではありません」


ソルは椅子を示した。


「座ってください」


ルナは椅子に座る。

机の上には、乾いたインク瓶が三つ並んでいる。

そのうち一つは空だった。


「昨日、名前を書き損ねましたか」


ルナは答えなかった。


「受付の方から聞いたわけではありません。顔を見れば分かります」

「顔に出ていますか」

「出ていません。だから分かるのです」


意味が分からない。

けれど、ソルは本気で言っているようだった。


「一瞬だけです」

「何が」

「署名欄に、自分の名前を書く線が分からなくなりました」

「報告しましたか」

「いいえ」

「なぜ」

「症状かどうか、判断できませんでした」

「それを判断するために、報告するのです」


ソルの声は穏やかだった。

責めているわけではない。

それが、かえって逃げ場をなくした。


「疲れますか」


ルナは反射的に答える。


「体は問題ありません」

「体ではありません」


ソルは細い指で、机の上の白い紙を一枚撫でた。


「言葉の方です」


言葉。

ルナはその単語を聞いた瞬間、三枚の紙を思い出した。

スノウベル。

夕飯、食べた?

約束、守れたよ。


「記録士は、言葉を聞きます」

「はい」

「聞いて、書きます」

「はい」

「それで終わると思いますか」


ルナは答えを探した。


「記録書に書かれた言葉は、呪いを断ちます」

「ええ。そこまでは、正しい」


ソルは静かに言った。


「けれど、すべてが紙に移るわけではありません」


ルナは膝の上で指を握った。


「規則にありません」

「規則に書けないこともあります」


ソルは目を伏せる。


「私も、知らないままではいられなかった」


ソルはそこで、白い紙から目を離した。


「最後の言葉についても、誤解されやすいことがあります」

「誤解」

「最後に出た声ではありません。その人が、最後に残すと決めた言葉です」

「決めたあとに零れた言葉は」

「記録には入れません。けれど、消えたわけでもありません」


部屋の中の紙が、わずかに鳴った。

風は入っていない。

ルナは机の上の白い紙を見る。


「それは、以前見せていただいた白紙ですか」

「いいえ。これは、私の練習用です」

「練習」

「自分の言葉を忘れないための」


ソルは紙を一枚、ルナの前に置いた。

そこには短い文が書かれていた。


今日は雨が降りそうだ。


何の変哲もない文だった。

記録でもない。

最後の言葉でもない。

ただの天気の話。


「毎朝、書きます」

「なぜですか」

「自分が何を見て、何を思ったかを確かめるためです」

「効果は」

「覚えていません」


ソルは少しだけ笑った。


「でも、書かないよりはましです」


ルナは紙を見る。

今日は雨が降りそうだ。

確かに、外は雨の前の匂いがした。

けれどルナは、その匂いについて何も思わなかった。

雨が降る。

濡れる。

道が滑る。

それだけだ。


「あなたも書いているでしょう」

「何をですか」

「記録ではない言葉を」


ルナは顔を上げた。


「なぜ、それを」

「君の鞄から紙の匂いがします」

「紙の匂い」

「使われていない紙と、使われた紙では違います」


ソルは目を細めた。


「昔は、私も分かりました」


今は、とルナは聞かなかった。

ソルの机には白い紙が並んでいる。

それが答えだった。


「見せる必要はありません」

「はい」

「捨てない方がいい」

「なぜですか」

「それは、君が聞いた言葉ではなく、君が持ち帰った言葉だからです」


ルナは言葉を探す。


「持ち帰るべきではないと教わりました」

「教わったことは、すべて役に立ちます。けれど、すべて正しいわけではありません」


ソルは咳をした。

乾いた、短い咳だった。


「記録士は、最後の言葉を改変してはいけない」

「はい」

「依頼人を裁いてはいけない」

「はい」

「感情に飲まれてはいけない」

「はい」

「では、記録士自身の言葉は、誰が記録するのでしょう」


ルナは答えられなかった。

ソルは答えを求めていないようだった。


「書いてみてください」

「何を」

「今、思ったことを」


ソルは白い紙を差し出した。

ルナは万年筆を取る。

紙の上にペン先を置く。


今、思ったこと。


書くべき文章が見つからなかった。

雨が降りそうだ。

部屋が暗い。

紙が白い。

ソルは痩せている。

それは観察に近かった。

思ったことではない気がした。


「何でもいいのです」

「何でも」

「はい。短くても構いません」


ルナはしばらく紙を見ていた。

雨の匂いがする。

部屋が暗い。

紙が白い。

いくつも浮かんでは、どれも自分のものではない気がした。


やがて、ゆっくりと書いた。


分かりません。


ソルは紙を見た。

驚かなかった。


「それも言葉です」

「答えではありません」

「答えではない言葉もあります」


ソルはその紙を返した。


「持って帰ってください」

「これは、あなたの紙です」

「いりません」

「なぜ」

「私の言葉ではないからです」


ルナは紙を受け取る。

分かりません。

自分で書いた文字なのに、どこか遠いものに見えた。


「ルナさん」


ソルが名前を呼んだ。

ルナは顔を上げる。


「記録士の呪い、という言葉を聞いたことはありますか」


部屋の空気が変わった。

雨が降る前の、重い空気に似ていた。


「ありません」

「正式な名称ではありません。そう呼ぶ者がいるだけです」

「呪いなのですか」

「病と呼ぶ者もいます」


ソルは自分の手を見る。

細い指が、膝の上でわずかに震えていた。


「最初は、些細なことです。言葉が頭から離れない。好きなものを答えられない。名前を書くときに、手が止まる」


ルナは喉の奥が冷たくなるのを感じた。


ソルはしばらく黙っていた。

机の上の白い紙が、雨の暗さを吸っている。


「最後は」


ルナが聞くと、ソルはすぐには答えなかった。

窓の外で、雨粒が水路に落ちる音がした。


「声が、出なくなります」


淡々とした声だった。

だからこそ、その言葉だけが部屋に残った。


「他人の最後の言葉は聞こえる。記録もできる。けれど、自分の言葉だけが、どこにも見つからなくなる」


ルナは紙を握りしめそうになり、やめた。

分かりません。

紙の上のその文字が、少しだけ滲んで見えた。


「治るのですか」

「治った者もいます」

「あなたは」

「治ったとは言いません」


ソルは窓の外を見る。

灰色の水路に、雨粒が一つ落ちた。

輪が広がり、すぐに消える。


「私は、遅すぎました」

「では、なぜ私に」

「君はまだ、机の上の紙を捨てていない」


ルナは何も言えなかった。


「それは、良い兆候です」

「良い」

「ええ。自分の言葉かもしれないものを、まだ捨てずにいられる」


雨が少しずつ強くなっていく。

窓に細い線がいくつも走った。


「これから先、君は怒りも聞きます」

「怒りも、記録します」

「記録してください。裁かずに」

「はい」

「ただし、持ち帰ったなら、捨てたふりをしないことです」


ルナは紙を鞄に入れた。

分かりません。

その一枚が、他の記録書より重く感じられた。


「今日は以上ですか」

「ええ」

「依頼ではありませんでした」

「そうですね」

「では、これは何ですか」

「確認です」


ソルは静かに答えた。


「君が、まだ返事をできるうちの」


第一話の依頼書にあった言葉が戻る。

君がまだ、自分で返事をできるうちに。

ルナはその文を思い出した。

あの時は意味が分からなかった。

今も、全部は見えない。

けれど、分からない場所が少しだけ変わっていた。


帰るころには、雨が降っていた。

ルナは傘を持っていなかった。

水路沿いの道を歩くと、肩に雨が落ちる。

冷たい。

けれど、不快なのかどうか、言葉が遅れた。


ギルドへ戻ると、受付の女性が顔を上げた。


「濡れています」

「雨です」

「拭くものを持ってきます」

「大丈夫です」


受付の女性は立ち上がり、布を持ってきた。

ルナは受け取る。


「ありがとうございます」


その言葉は、少し遅れて出た。

受付の女性は気づいただろうか。

何も言わず、いつもの表情で戻っていった。


食堂の棚に、丸パンが一つ残っていた。

布に包まれ、端が少し硬くなっている。

ルナはそれを手に取った。

席に座り、半分に割る。


昨日、テオは言った。


明日は直します。


その明日に焼かれたパンかどうかは分からない。

それでも、ルナは小さくかじった。


塩は、確かに少なかった。


でも、食べられた。


一口、また一口と食べる。

味は薄い。

けれど、温かくなくても、パンはパンだった。

誰かが焼いたものは、冷めてもまだ残る。


廊下からアリュが顔を出す。


「あ、食べてますね」

「はい」

「よかったです」


アリュはそれだけ言って、すぐに教室の方へ戻っていった。

ルナは残りのパンを見る。

よかったです。

その言葉は、なぜかパンより長く口の中に残った。


夜、ルナは机の前に座った。

三枚の紙の横に、今日受け取った紙を置く。


分かりません。


四枚目の紙だった。

机の上は、さらに少し狭くなった。


ルナは万年筆を持つ。

余り紙を一枚取る。


今日は雨が降った。


そこまでは書けた。

そのあとに続く言葉を探す。


冷たかった。


違う。

濡れた。


違う。

嫌だった。


それも違う気がした。


しばらく考えて、ルナは最後に一行だけ書いた。


雨の音が、少しうるさかった。


書いたあとで、それが正しいのかは判断できなかった。

それでも、ルナは消さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ