第四話 約束
前日の夕刻、ルナはソルの部屋を訪ねた。
ソルは寝台ではなく、窓辺の椅子に座っていた。
壁一面の帳面には触れず、古い万年筆だけを膝の上に置いている。
「昨日より、顔色が悪いですね」
ソルが言った。
「問題ありません」
「そう答えると思いました」
「依頼は」
「今日はありません」
ルナは少しだけ眉を動かした。
「では、なぜ時間を変更してまで」
「確認したかっただけです。君が、昨日聞いた言葉を持って帰ってきたかどうか」
ルナは答えられなかった。
夕飯、食べた?
その言葉は、記録書に書いてギルドへ提出したはずだった。
それでも、帰り道で何度も思い出した。
「持って帰ってきたようですね」
ソルは目を細めた。
「悪いことではありません」
「記録士は、言葉を持ち帰るべきではありません」
「そう教わりましたか」
「はい」
「では、誰も持ち帰らなかった言葉は、どこへ行くのでしょう」
ルナは黙った。
ソルはそれ以上、追わなかった。
「約束をしたことはありますか」
「覚えていません」
「覚えていないのか、したことがないのか、どちらでしょう」
「分かりません」
ソルは少しだけ笑った。
「では、誰かの約束を聞いたときに、考えてみてください」
その言葉の意味は分からなかった。
分からないまま、翌朝になった。
スノウベルは、昨日より少しだけ下を向いていた。
水は替えた。
茎は切っていない。
それが正しいのかどうか、ルナにはまだ分からない。
机の端には、二枚の紙がある。
スノウベル。
夕飯、食べた?
どちらも記録書ではない。
どちらも、提出する必要はない。
それでも、ルナは捨てなかった。
ギルドへ着くと、受付の前に甘い匂いが残っていた。
焼きたてのパンの匂いに似ている。
けれど、ギルドの食堂はまだ開いていない。
受付の女性が一枚の依頼書を差し出した。
「ルナさん、午前の依頼です」
「はい」
依頼人の名前は、ハン・ロッカ。
六十八歳。
職業、パン職人。
呪いの種類は、未完の約束。
緊急度は中。
「立ち会い人は」
「店の若い職人が一人。名前はテオです。ただし、聞き取りは依頼人本人のみで、とのことです」
「承知しました」
依頼書の端には、油の染みがあった。
受付の女性は少しだけ困った顔をする。
「先ほど、店の方が届けてくださいました。急いでいたようで」
「急いでいた」
「はい。紙袋を一つ置いていかれました」
受付の横の机に、小さな紙袋があった。
中には丸いパンが三つ入っている。
焦げ目は薄く、表面に白い粉が残っていた。
「依頼人からですか」
「おそらく。ギルドの皆さんへ、と」
受付の女性はそう言って、紙袋の口を閉じた。
ルナはパンを見た。
温かいものは、時間がたつと冷める。
それは分かる。
でも、冷めても匂いが残ることは、あまり考えたことがなかった。
廊下の端で、アリュが紙袋を見つめていた。
目が合うと、すぐに顔を上げる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「あの、パン、いい匂いですね」
「はい」
「ルナさんは、朝食を食べましたか」
ルナは少しだけ止まった。
昨日、自分がアリュに聞いた言葉が返ってきた。
「食べました」
「よかったです」
アリュは安心したように笑った。
その笑い方が、ルナには少しだけまぶしかった。
「行ってきます」
「はい。いってらっしゃい」
南通りを抜けると、朝の市場が始まっていた。
野菜を並べる音。魚屋が水をまく音。馬車の車輪が石畳をこする音。
その中に、焼けた小麦の匂いが混じっている。
ハンの店は、通りの角にあった。
看板には、丸いパンの絵が描かれている。
店先の札は「営業中」ではなく、「本日分、焼き上がりました」となっていた。
扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
「記録士さんですか」
奥から若い男が出てきた。
袖をまくり、腕に白い粉がついている。
目の下に濃い影があった。
「記録士のルナです」
「テオです。師匠は奥にいます」
テオは厨房の方を見た。
声は硬い。
「聞き取りは一人で、と聞いています」
「分かってます」
テオはすぐに答えた。
けれど、その場を動かない。
「何か」
「いえ」
テオは唇を噛む。
「師匠、昨日まで普通に怒鳴ってたんです。塩が多い、火が強い、手が遅いって。今朝も、早く起きろって扉を蹴られました」
「はい」
「なのに急に、記録士を呼べって」
テオの手は粉で白い。
その指先だけが少し震えている。
「怒っているんですか」
「え」
「依頼人に」
「怒ってます」
テオは吐き出すように言った。
「怒ってるし、怖いです。まだ教わってないことが山ほどあるのに」
ルナは返事をしなかった。
怒っている。
怖い。
どちらも本当なのだろう。
「聞き取りが終わりましたら、お呼びします」
「はい」
テオは頷いたが、しばらく動かなかった。
それから、厨房の棚に置いた丸パンへ目をやり、ようやく店の方へ戻っていった。
厨房の奥に、ハンはいた。
大きな窯の横に椅子を置き、背中を丸めて座っている。
手は厚く、指の節は固い。
爪の間には、小麦粉が入り込んでいた。
「記録士か」
「はい。ルナです」
「若いな」
「よく言われます」
「そりゃそうだろう。年寄りから見りゃ、だいたい若い」
ハンは低く笑った。
笑うと、咳が続いた。
ルナは一歩近づこうとして、止まる。
「そのままでいい」
「聞き取りを始めてもよろしいですか」
「ああ」
ハンは窯を見た。
火は落ちている。
けれど、石の内側にはまだ熱が残っているようだった。
「焼き上がりは」
「終わった。今日の分はな」
「今日の分」
「決まりだからな」
ルナは記録書を開いた。
「約束について、伺ってもよろしいですか」
「まだ書くなよ」
「最後の言葉だけを書きます」
「ならいい」
ハンは少しだけ顎を上げた。
厨房の壁には、古い布が掛かっている。
その下に、小さな額があった。
若い女性が笑っている絵だ。
髪を布でまとめ、両手に丸パンを抱えている。
「妻のミラだ」
「奥様ですか」
「十五年前に死んだ」
ハンは額を見ない。
見なくても、そこにあると分かっているようだった。
「俺は昔、店を畳むつもりだった」
「なぜですか」
「流行らなかったからだ。朝から晩まで焼いても売れ残る。粉代も払えない。客は向かいの菓子屋に行く。俺は毎日怒ってた」
ハンは太い指で膝を叩く。
「ミラはな、売れ残ったパンを捨てるなと言った。硬くなっても、食えないわけじゃない。腹を空かせた子どもに配ればいいって」
「それが約束ですか」
「違う」
ハンは首を振った。
「俺は嫌だった。金にならないものを焼くなんて、職人のすることじゃないと思ってた。そう言ったら、ミラに笑われた」
ルナは黙って聞いた。
「じゃあ、あなたは誰のためにパンを焼いているのってな」
その言葉は、記録書には書かない。
けれど、窯の熱のように部屋に残った。
「それで、そういう決まりにした。毎朝、一番最初に焼けた丸パンを三つ、店の外の棚に置く。金を払えない子どもが持っていけるように」
「毎朝ですか」
「ああ。晴れても雨でも、客が来ても来なくても。ミラが死んだあとも」
ハンは少しだけ口の端を上げた。
「十五年だ」
「続けるのは、難しかったのですか」
「何度もやめたくなった」
ハンはあっさりと言った。
「粉はただじゃない。火を入れれば薪も減る。礼も言わずに持っていくやつを見て、腹が立った日もある」
「それでも」
「焼いた」
ハンの声に、誇りだけではないものが混じった。
疲れと、意地と、少しの照れだった。
「店先に置いてありますか」
「いや。今日はギルドに持たせた」
「なぜですか」
「そこに、腹を空かせた新人がいるかもしれん」
ルナはアリュの顔を思い出した。
パンを見つめていた目。
よかったです、と笑った声。
「それで、果たされたのですか」
「まだだ」
ハンは厨房の奥を見た。
そこには、焼き上がった丸パンが何十個も並んでいる。
形は少しずつ違う。
よく膨らんだものもあれば、端が裂けたものもある。
「今日の分は、あいつが焼いた」
「テオさんですか」
「ああ。塩が少ない。焼き色も甘い。丸め方も雑だ」
容赦のない言葉だった。
しかし、ハンの目は穏やかだった。
「でも、食える」
「それは、褒め言葉ですか」
「パン屋にとってはな」
ハンは咳をした。
今度は長かった。
ルナは水差しへ手を伸ばす。
「そこに置け」
「はい」
ハンは水を飲み、少しだけ息を整えた。
「記録士」
「はい」
「こういうものは、守れなかった時だけ残るんじゃない」
「ソルさんも、似たことを言っていました」
「誰だ、それは」
「元記録士です」
「なら、分かってるやつだ」
ハンは目を細めた。
「守れたものも残る。毎朝、同じ火を入れて、同じ粉をこねて、同じ棚に置く。誰が見てなくても、残る。そういうものだ」
ルナは万年筆を持つ手を見る。
毎日、同じように記録書を開く。
同じように最後の言葉を書く。
同じようにギルドへ提出する。
それは約束なのだろうか。
誰との。
「あなたは、奥様との約束を守るために、店を続けてきたのですか」
「最初はな」
ハンは小さく笑った。
「途中からは、違った」
「違う」
「あの棚にパンがないと、困るやつがいた。名前も知らない子どもが、夜明け前に持っていく。声もかけない。礼も言わない。でも次の日にはまた来る」
ハンは窯を見る。
「礼くらい言え、と思った日もある」
「はい」
「でも、次の日に来なければ、それはそれで気になった」
ハンは短く息を吐いた。
「それでよかった」
それでいい。
ルナの中で、マリの声とルイの声が重なった。
咲けばそれでいい。
帰ってきたら、鍋を温めて食べればいい。
何かを残す人たちは、よく似た言い方をする。
「テオさんには、そのことを伝えていますか」
「怒鳴ってはいる」
「伝わっていますか」
「さあな」
ハンは肩を揺らした。
「伝わってなきゃ、あいつは今朝、丸パンを三つ余分に焼いたりしない」
厨房の外で、小さな物音がした。
テオが動いたのかもしれない。
ハンはそちらを見なかった。
「記録士」
「はい」
「最後の言葉は、決まっていますか」
「それを伺いに来ました」
ハンは深く息を吸った。
焼けた小麦の匂いと、落ちた火の匂いが混じる。
「本当はな、もっと立派なことを言おうと思った」
「はい」
「店を頼む、とか。火を絶やすな、とか。俺のパンを忘れるな、とか」
ハンは少しだけ顔をしかめた。
「でも、どれも嘘くさい」
「嘘なのですか」
「嘘じゃない。だが、最後に言いたいことじゃない」
ルナは記録書の白いページを見る。
最後の言葉は、本人しか決められない。
記録士は、選ばない。
飾らない。
急かさない。
ハンは額の方を見た。
初めて、妻の絵をまっすぐに見た。
「ミラ」
小さな声だった。
その名前は、最後の言葉ではなかった。
呼びかけだった。
「約束、守れたよ」
ルナの万年筆が走る。
約束、守れたよ。
紙に文字が移った瞬間、記録書の端が温かくなった。
ハンの肩から力が抜ける。
窯の奥で、残っていた熱が静かに沈んでいく気がした。
「……塩は、少ない」
ハンは目を閉じたまま、かすれた声で言った。
「でも、食える」
それは最後の言葉ではなかった。
記録書には書かない。
けれど、厨房の外で誰かが息を呑む音がした。
ルナは振り返らなかった。
ハンの呼吸は、もう戻らなかった。
しばらくしてから、ルナは記録書を閉じた。
椅子を戻し、額の前に置かれた粉まみれの布を整える。
それから厨房の扉を開けた。
テオがそこに立っていた。
目は赤い。
それでも泣いてはいなかった。
「終わったんですか」
「記録は完了しました」
テオは奥を見た。
窯の横の椅子。
額の絵。
並んだ丸パン。
「何か、言ってましたか」
ルナは記録書を抱える。
「最後の言葉は、奥様へ向けたものでした」
「奥さんへ」
「はい」
テオは少しだけ俯いた。
「俺には、何も」
ルナは言葉を探した。
記録士は、最後の言葉を変えない。
でも、最後の言葉ではないものまで、消す必要はない。
「最後の言葉ではありませんが」
「はい」
「塩は、少ない。けれど、食える、と」
テオの顔が歪んだ。
怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「それ、褒めてるんですか」
「パン屋にとっては、褒め言葉だそうです」
テオは口元を押さえた。
そして、厨房に並んだ丸パンを見る。
「塩、少ないのか」
「はい」
「……あの人、最後までそれですか」
「はい」
テオは鼻をすすった。
それから、丸パンを一つ手に取る。
「明日は直します」
明日。
その言葉が、ルナの中で小さく残った。
「店を開けるのですか」
「開けます」
テオは迷わず言った。
けれど、すぐに少しだけ声を落とす。
「たぶん、焦がします。怒鳴る人もいないので」
「それでも」
「はい」
テオは棚の上から丸パンを三つ取った。
紙に包み、店先へ向かう。
「これは、決まりなので」
その背中は、まだ頼りなかった。
でも、戸口に出る足取りは止まらなかった。
ルナは店を出た。
外の棚には、丸パンが三つ置かれている。
通りの子どもが一人、遠くからそれを見ていた。
店へ近づくか迷っている。
テオはその子に声をかけなかった。
ただ、扉を少しだけ開けたまま、奥へ戻っていく。
子どもはしばらく迷い、それから一つだけパンを取って走った。
ルナは、その光景を見ていた。
礼はない。
名前もない。
けれど、パンは一つ減っていた。
ギルドへ戻る道で、ルナは自分の手を見た。
万年筆を持っていた指に、小麦粉が少しだけついている。
いつ付いたのか分からない。
白い粉は、指先の皺に入り込んでいた。
受付で記録書を提出する。
受付の女性は表紙を確認し、いつものように受領印を押した。
「ハン様の記録ですね。お疲れ様でした」
「はい」
提出欄の下に、記録士の署名欄がある。
ルナは万年筆を置いた。
ルナ。
その二文字を書く。
それだけのことだった。
けれど、最初の線をどこから引くのか、一瞬だけ分からなかった。
ほんの一瞬だった。
次にはもう、いつも通り書けた。
ルナ。
黒いインクは、何事もなかったように紙へ沈んだ。
受付の女性は気づいていない。
ギルドの廊下も、いつも通りざわめいている。
ルナは記録書から手を離した。
報告するべきだろうか。
そう思った。
けれど、何を報告すればいいのか分からなかった。
名前の書き方を、一瞬忘れました。
それは症状なのか。
疲労なのか。
ただの思い違いなのか。
ルナは万年筆の先を布で拭う。
指先に残った小麦粉が、黒いインクに少しだけ混じった。
その日の夜、ルナは机の上の紙を見た。
スノウベル。
夕飯、食べた?
そこに、新しい紙を一枚並べる。
約束、守れたよ。
三枚目の紙を置くと、机の上は少しだけ狭くなった。
ルナは、それを片づけなかった。




