第三話 夕飯、食べた?
朝、スノウベルは少しだけ傾いていた。
空のインク瓶に挿した白い花は、机の端で窓の方を向く。
ルナは水を替えようとして、手を止めた。
花の世話をしたことがない。
水をどのくらい入れればいいのか。茎は切るべきなのか。日に当てるべきなのか。
知らないことが、また一つ増えた。
机の上には、昨夜書いた紙がある。
スノウベル。
記録書ではない。
依頼人の言葉でもない。
仕事に必要なものでもない。
それでも、ルナはその紙を捨てなかった。
ギルドへ着くと、受付の女性がいつもより早く顔を上げた。
「ルナさん、午前に一件お願いできますか」
「午前ですか」
今日は午後にソルの再訪問がある。
そう言いかけて、ルナは口を閉じた。
受付の女性は、分かっている顔をした。
「ソル様の訪問は夕刻に変更されています。先方から伝書便が届きました」
「伝書便」
封筒を受け取る。
中には、見覚えのある細い筆跡がある。
急がなくていい。
日が落ちる前に来てください。
それだけだった。
昨日のような、こちらの内側を覗く言葉はない。
ルナは短い文面を見たあと、封筒を閉じた。
「午前の依頼人は」
「ルイ・カナ。四十六歳。呪いの種類は、帰宅者の未練。緊急度は中です」
帰宅者の未練。
家に帰りたい、誰かの帰りを待ちたい、帰ってこない人を待ち続けたい。
そうした感情が残ったときに現れる呪いだ。
症状は静かだが、進行すると同じ言葉を繰り返すことがある。
「立ち会いは」
「娘さんが一人。ただし、依頼人本人が最初の聞き取りは一人で、と希望しています」
「承知しました」
受付の端で、アリュが紙束を抱えて立っていた。
名札は、昨日よりまっすぐだった。
目が合うと、アリュは小さく会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます」
「あの、ルナさん」
「何ですか」
「ソルさんのところ、また行くんですよね」
「夕方に」
「気をつけてください」
ルナは少しだけ眉を動かした。
「危険だと聞いていますか」
「いえ、そうじゃなくて」
アリュは紙束を抱え直す。
「何となくです。すみません。変なことを言って」
「変ではありません」
言ってから、ルナは自分の言葉に少し驚く。
アリュも驚いた顔をした。
「では、行ってきます」
「はい。いってらっしゃい」
いってらっしゃい。
その言葉を背中に受けて、ルナはギルドを出た。
ルイ・カナの家は、南の職人街にあった。
朝から針を打つ音や、木を削る音が通りに混じっている。布屋の軒先では、染めたばかりの布が風に揺れている。
依頼書の住所へ着くと、二階建ての小さな家が見えた。
玄関の横に、古い鍋が伏せてある。
窓辺には乾いた香草が吊るしてある。
扉を三度ノックする。
「どうぞ」
中から女の声が返った。
ルナは扉を開ける。
部屋には、煮込み料理の匂いが残っている。
火は消えていた。
台所の鍋には蓋がされ、食卓には器が二つ並ぶ。
一つは空。
もう一つには、まだ何も注がれていない。
寝台には、半身を起こした女がいた。
痩せている。けれど、髪はきちんと結われ、胸元の布も乱れていない。
死を待つ人というより、誰かの帰りを待つ人に見えた。
「記録士のルナです。ルイ・カナさんでよろしいですか」
「ええ。来てくれてありがとう」
「聞き取りを始めてもよろしいですか」
「その前に、鍋の火を見てもらえる?」
ルナは台所を見る。
「火は消えています」
「よかった。焦がすと、ミナが嫌がるから」
ミナ。
依頼書にあった娘の名前だ。
十六歳。染物屋の見習い。
ルナは記録書を開く。
万年筆を持ったところで、ルイが小さく笑った。
「何でも書くの?」
「最後の言葉だけです」
「じゃあ、これはまだ書かないでね」
ルイは寝台の横に置かれた布を指さした。
「そこに青い布があるでしょう」
「はい」
「それ、ミナの作業着の当て布なの。袖が破れていてね。あとで縫おうと思っていたんだけど、間に合わなかった」
「娘さんに伝えますか」
「伝えなくていいわ。見れば分かるから」
ルイは穏やかに言った。
見れば分かる。
ルナはその言葉を、少しだけ考える。
「娘さんは、今どちらに」
「仕事。呼ばないでって言ったの」
「理由を伺っても」
「あの子、朝から何も食べずに出ていったのよ」
ルイは困ったように笑う。
「喧嘩したの。大したことじゃないのに。私が、もう知らないって言ってしまって」
「大したことではないのですか」
「大したことよ」
ルイはすぐに言い直した。
「今でも、少し腹が立ってるもの」
「腹が立っている」
「ええ。あの子、何度言っても朝ご飯を抜くの。作った方の気持ちなんて、少しも考えないで」
ルイの声には、小さな棘がある。
死を前にした人間の声にも、怒りは残る。
ルナはそれを少し意外に思った。
「でもね」
ルイは食卓の空の器を見る。
「腹が立っていても、お腹が空いていないかは気になるの。困ったものね」
部屋の外では、職人街の音が続く。
針を打つ音。木を削る音。誰かが遠くで笑う声。
生活の音だった。
ルイの部屋だけが、その音から少し離れている。
「最後の言葉は、考えてありますか」
「考えたわ。たくさん」
ルイは目を伏せる。
「ごめんね、とか。ありがとう、とか。幸せになって、とか。ちゃんと生きて、とか」
「その中から選びますか」
「選べなかったの」
ルナは万年筆を持ったまま待った。
急かしてはいけない。
最後の言葉は、本人しか決められない。
「ねえ、記録士さん」
「はい」
「最後の言葉って、立派じゃないとだめ?」
マリも似たようなことを言っていた。
それだけでいいの。
ルナの中で、四文字が動く。
「本人の言葉であれば」
「それだけ?」
「はい」
「じゃあ、みっともなくてもいいのね」
「みっともないかどうかは、私が判断することではありません」
ルイは安心したように息を吐いた。
「よかった」
少しだけ沈黙が落ちる。
ルイは天井ではなく、食卓の器を見ていた。
「あの子、小さい頃から食べるのが下手でね」
「下手、ですか」
「ええ。遊ぶことに夢中になると、すぐ忘れるの。お腹が空くと機嫌が悪くなるくせに、自分では気づかない」
ルイの声は弱い。
けれど、話す速度は乱れなかった。
「昨日もね、帰ってきてから、ちゃんと食べたのって聞いたの。そしたら、うるさいって」
「それで喧嘩を」
「そう。私も言い返したの。じゃあもう知らないって」
ルイは目を閉じる。
皺の少ない手が、毛布の上で少し動いた。
「本当は、知らないわけないのにね」
ルナは返事をしなかった。
知らないわけがない。
その言葉は、記録するべきものではない。
でも、部屋に残るには十分な重さがあった。
「娘さんを呼びますか」
「いいえ」
ルイは首を振る。
「あの子、きっと走ってくるわ。走って、転んで、泣きながら来る。そういう子なの」
「では」
「だから、今は呼ばないで」
ルナはルイを見る。
「なぜですか」
「最後の私を、急いで来た罰みたいに見てほしくないの」
ルイは食卓の器へ目を向けた。
「帰ってきたら、鍋を温めて食べればいい。青い布も見つける。怒っていたことも、たぶん忘れない。でも、それでいいの」
それでいい。
マリの声にも似ていた。
花は、咲けばそれでいいの。
ルナは記録書の白いページを見る。
また、書いてはいけない言葉を書きたくなった。
「記録士さん」
「はい」
「あなたは、夕飯を食べた?」
ルナは顔を上げた。
「私ですか」
「ええ」
「朝なので、夕飯はまだです」
「そうね」
ルイは小さく笑った。
「おかしなことを聞いたわね。でも、誰かに聞きたくなったの」
ルナは答えを探す。
仕事に必要のない質問だ。
けれど、無視するには少しだけ近すぎた。
「朝食は食べました」
「よかった」
ルイは安心したように言った。
マリと同じだった。
お腹は空いていない?
食べてきました。
よかった。
ルナは万年筆を握る指に力を入れた。
誰かが誰かの腹を気にする。
それは、最後のそばまで残るものなのだろうか。
外で、木の階段が鳴る。
一段、止まる。
また一段。
急いでいる足音ではない。
迷っている足音だった。
ルイが目を開ける。
「ミナだわ」
ルナは扉の方を見る。
「入れますか」
「少しだけ待って」
ルイの声は震えていない。
けれど、呼吸は浅くなっていた。
扉の向こうで、誰かが立ち止まっている。
近くにはいる。
けれど、入ってこない。
ルナは、その沈黙ごと聞いていた。
「最後の言葉を、話していただけますか」
ルイは頷いた。
そして、扉の向こうへではなく、食卓の空の器へ向かって言った。
「夕飯、食べた?」
ルナの万年筆が走る。
夕飯、食べた?
紙に移った瞬間、記録書の端がかすかに温かくなった。
呪いが断たれた印だ。
手順通りに終わっている。
けれど、部屋の中にはまだ食事の匂いが残っていた。
器は二つのままだった。
扉の外から、小さな声がした。
「お母さん?」
ルイは目を閉じたまま、少しだけ笑った。
もう返事はない。
ルナは記録書を閉じた。
立ち上がり、扉を開ける。
ミナは戸口に立っていた。
走ってきたのではない。
ずっとそこで迷っていたような顔だった。
作業着の袖が破れている。髪は乱れ、手には染料の青が残っている。
目は、まだ泣く前の形をしている。
「母は」
「記録は完了しました」
いつもの言葉が出た。
ミナの顔がこわばる。
「間に合わなかったんですね」
ルナは答えを探した。
間に合ったかどうか。
それを決めるのは誰だろう。
ミナは部屋の中を見た。
食卓の器。蓋をされた鍋。寝台の横の青い布。
そして、母の顔。
「怒ってましたか」
小さな声だった。
「朝、私、ひどいこと言って。何も食べないで出ていって。お母さん、怒ってましたか」
ルナは記録書を抱えたまま立っていた。
記録士は、依頼人の感情を代弁しない。
慰めのために言葉を変えてはいけない。
けれど、ルイは怒っていた。
それも本当だった。
そして、それだけではなかった。
「少し、怒っていました」
ミナの顔が歪む。
ルナは続けた。
「でも、最後にあなたのことを聞いていました」
ミナが顔を上げる。
「私の?」
「はい」
ルナは一字も変えずに言った。
「夕飯、食べた?」
ミナの顔が崩れた。
泣いた、というより、表情を支えていたものがほどけたようだった。
彼女は口元を押さえ、声を出さずに頷く。
その手には、まだ青い染料が残っている。
「食べてない」
ミナはようやくそう言った。
「まだ、食べてない」
ルナは台所を見た。
鍋には蓋がされていた。
火は消えていた。
「鍋があります」
「はい」
「焦げていません」
「はい」
ルナは少しだけ迷った。
それから、言葉を足した。
「食べてください」
ミナは顔を上げた。
「命令ですか」
「いいえ」
ルナは首を横に振る。
「記録ではありません」
ミナは何かを言おうとして、やめた。
それから、何度も頷いた。
「ありがとうございます」
ルナは頭を下げる。
部屋を出る前に、寝台の横の青い布を見た。
ルイが言った通り、見れば分かる場所に置いてある。
ミナも、いずれ気づくだろう。
外に出ると、職人街の音が変わらず続いていた。
針を打つ音。木を削る音。誰かが昼の支度を急かす声。
人は死んでも、鍋は冷める。
布の袖は破れたまま残る。
夕飯は、誰かが食べなければそのままだ。
ルナはギルドへ戻る道を歩いた。
鞄の中には記録書がある。
そこには、夕飯、食べた? と書かれている。
短い言葉だった。
でも、ルナにはもう短いとは思えなかった。
ギルドの受付で記録書を提出すると、受付の女性は表紙を確認した。
「ルイ様の記録ですね。お疲れ様でした」
「はい」
「ソル様の訪問まで、少し時間があります。休憩されますか」
ルナは首を横に振った。
「大丈夫です」
言ってから、また気づく。
今日は二度目だった。
受付の女性は少しだけ目を細めた。
それ以上は聞かなかった。
廊下の奥で、アリュが教官に叱られていた。
理由は聞こえない。
アリュは泣きそうな顔で、それでも頷く。
ルナは通り過ぎようとして、足を止めた。
「アリュさん」
アリュが振り向く。
「はい」
「昼食は、食べましたか」
アリュはぽかんとした顔をした。
それから、困ったように笑う。
「まだです」
「食べた方がいいと思います」
「はい」
教官が驚いた顔でルナを見ていた。
ルナは一礼して、その場を離れる。
窓の外は、まだ明るい。
日が落ちる前に、ソルの部屋へ行かなければならない。
ルナは鞄の留め具を確かめる。
スノウベルの名前を書いた紙は、部屋の机に置いてきた。
記録ではない言葉。
消さなかった言葉。
そこへ、今日もう一つ、別の言葉が加わる気がした。
記録書は、もう閉じてある。
それでもルナは、帰り道で何度も同じ言葉を思い出した。
夕飯、食べた?




