第二話 君のことを知っているから
朝になっても、白い花の色は消えなかった。
ルナは窓際の椅子に座り、革鞄の中身を一つずつ確かめる。万年筆。替えインク。記録書二冊。封印紙。昨日受け取った封筒。
最後に封筒を取り出した。
依頼人の欄には、ソル、とある。
年齢も、住所も、呪いの種類もない。
緊急度も空欄。
あるのは、二枚の備考だけだった。
君のことを知っているから。
君がまだ、自分で返事をできるうちに。
ルナはその二行を、もう何度も読んでいる。
読めば読むほど、意味は遠くなった。
自分で返事をできるうちに。
昨日、マリの部屋で返事が出なかったことを思い出す。
はい、でいい。
ありがとうございます、でもいい。
言えるはずの言葉が、息に変わった。
たまたまだ。
そう考えて、封筒を閉じる。
けれど、紙の重さだけが、鞄の底に残った。
ギルドへ着くと、受付の前でアリュが立っていた。
昨日見かけた見習いだ。胸元の名札は少し曲がっている。両手で紙束を抱え、受付の女性に何度も頭を下げていた。
「すみません、もう一度お願いします。提出先は記録保管室で、控えは分類室で、写しは……」
「写しは教官室です」
「ありがとうございます。すみません」
アリュは振り向き、ルナに気づくと背筋を伸ばした。
「おはようございます、ルナさん」
「おはようございます」
「昨日はありがとうございました。本、ちゃんと戻せました」
「そうですか」
会話はそこで終わるはずだった。
ルナは受付へ向かう。
その背中に、アリュの声が追ってきた。
「あの、昨日の依頼、マリさんですよね」
ルナは足を止めた。
「なぜ知っているんですか」
「あ、いえ、受付で少しだけ見えてしまって。すみません。覗いたわけではなくて」
アリュは慌てて紙束を抱え直す。
「マリさん、前にギルドへ来たことがあるんです。受付の人に飴を配っていました。私ももらいました」
「そうですか」
「優しい方でした」
アリュはそれだけ言うと、少し目を伏せた。
また泣きそうな顔をしている。
ルナは何か言うべきか考えた。
お悔やみを言う場面だろうか。記録士は依頼人の死を感傷として扱わない。少なくとも、ルナはそう教わってきた。
「記録は完了しました」
結局、そう言った。
アリュは一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「はい」
その返事が、なぜか痛そうに見えた。
受付で訪問確認を済ませる。
「ソル様の件ですね」
受付の女性は、依頼書の控えを見ながら眉を寄せた。
「情報がかなり少ないですね。通常なら差し戻しになるのですが、ギルド長の確認印があります」
「ギルド長の?」
「はい。ですので、正規依頼として扱います」
受付の女性は引き出しから薄い紙を一枚取り出した。
「こちらが追記用紙です。訪問先だけ、ギルド長の権限で追加されています」
「依頼書には住所がありませんでした」
「はい。指名を受ける記録士が決まるまでは、住所を伏せるようにとのことです」
「理由は」
「私には分かりません」
分からない。
その言葉を聞いて、ルナは昨日の自分を思い出した。
答えのないものが、また増えた。
追記用紙には、街の北、古い水路沿いの集合住宅、三階の奥、とある。
「依頼人について、追加情報はありますか」
「元記録士、とだけ」
「元記録士」
「古い名簿に名前が残っています。ただ、退職年も担当記録も閲覧制限がかかっています」
受付の女性は声を少し落とす。
「ルナさん、無理に深追いはしないでください」
「理由は」
「元記録士の依頼は、通常と違うことがあります」
「違うこと、とは」
「それも、私には分かりません」
ルナは依頼書と追記用紙を受け取り、鞄に入れた。
受付の端に、アリュがまだ立っている。こちらを見て、何かを言いたそうに口を開き、すぐ閉じた。
ルナは先に視線を外した。
北の水路沿いは、街の中でも古い区域だった。
石造りの建物が狭い間隔で並び、窓辺には洗濯物が下がっている。水路には細い舟が一艘、誰も乗せずに揺れていた。
白い花を売っていた店は、今日は開いているだろうか。
そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。
ルナは足を止めなかった。
今日はソルの依頼だ。
住所の建物は、外壁に蔦の絡んだ集合住宅だった。
階段は人一人がようやく通れる幅しかない。三階まで上がると、奥の扉だけが少し開いていた。
中から声がした。
「開いています」
ルナは扉の前で止まる。
まだノックしていない。
「記録士の足音は、昔から変わらない」
老人の声だった。
ルナは扉を三度叩いてから、室内へ入った。
部屋には、紙の匂いがあった。
古い本、乾いたインク、少しだけ薬草。
壁一面に棚があり、背表紙のない帳面がぎっしり並んでいる。窓際の机には、使い込まれた万年筆が一本置かれていた。
老人は、部屋の中央にある椅子に座っていた。
白い髪を後ろで束ね、膝に薄い毛布を掛けている。顔は痩せている。けれど、目だけは眠っていない。
「記録士のルナです。ソルさんでよろしいですか」
「ええ。来てくれてありがとう」
昨日、マリも同じことを言った。
来てくれてありがとう。
言葉は同じなのに、聞こえ方が違う。
ソルの声には、迎えるというより、待っていたという響きがあった。
「座ってください」
「先に確認を行います」
ルナは立ったまま記録書を開く。
「依頼書に不備があります。年齢、呪いの種類、緊急度が未記入です」
「年齢は七十二」
「呪いの種類は、まだ書かない方がいい」
「理由は」
「君がその欄を見た時点で、余計な先入観を持つからです」
「記録士は先入観を持ちません」
「そう教わる」
ソルは微笑んだ。
「けれど、持たない人間はいない」
ルナは万年筆を止めた。
「緊急度は」
「低、でいいでしょう。今日死ぬ予定はありません」
「予定」
「死は、予定通りに来ることの方が少ない」
冗談のようにも聞こえたが、ソルは笑っていなかった。
ルナは記録書へ最低限の情報だけを書く。
七十二歳。
元記録士。
呪いの種類、保留。
緊急度、低。
「最後の言葉を伺う依頼ではないのですか」
「いずれは」
「では、今日は何のために」
「君に会うためです」
ルナは顔を上げた。
「その理由は、依頼に必要ですか」
「必要です」
「では説明してください」
ソルは机の上の万年筆へ目を向けた。
「君は、昨日の依頼で何を記録しましたか」
「守秘義務があります」
「最後の言葉を聞いているわけではありません」
「依頼内容そのものも、原則として外部へ話せません」
「いい答えです」
ソルは頷いた。
試された気がした。
ルナは記録書を閉じかける。
「依頼の意図が不明瞭であれば、ギルドへ差し戻します」
「差し戻しても、また君のところへ戻ってきます」
「なぜですか」
「私が君を指名するから」
「なぜ私を」
「備考に書いたでしょう」
君のことを知っているから。
ルナは鞄の中の封筒を思い出す。
紙の重さまで、指先が覚えていた。
「私は、あなたを知りません」
「でしょうね」
「では、知っているとはどういう意味ですか」
ソルはしばらく答えなかった。
窓の外で、水路を通る舟の音がした。木が水を押す、低い音。
「ルナさん」
初めて、名前を呼ばれた。
「あなたは疲れていませんか」
部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。
疲れているか。
よくある気遣いの言葉だ。
答え方も決まっている。
「仕事に支障はありません」
「それは、疲れていないという意味ではありません」
「記録士の体調確認であれば、ギルドの診療室を通してください」
「体ではありません」
ソルは静かに言った。
「言葉の方です」
ルナは返事をしなかった。
言葉が疲れる。
その言い方は、職務上の分類にはない。
「昨日、返事が出なかったことはありませんか」
ルナの指が、記録書の角を押さえた。
「なぜ、それを」
「当たりましたか」
「元記録士の勘です」
「不愉快です」
「それはよかった」
「よくありません」
「不愉快だと言えたなら、まだ大丈夫です」
ソルの声は穏やかだった。
穏やかなぶん、腹の底を見られているようで落ち着かない。
「あなたは、何を知っているのですか」
「記録士が、最後まで持っていられると思い込んでいるものを」
「思い込んでいるもの」
「君はまだ教わっていない」
「何をですか」
ソルは答えなかった。
代わりに、少しだけ咳をした。
咳は短かったが、胸の奥で引っかかる音がする。
ルナは鞄から診療票を出そうとした。
「医師を」
「必要ありません。これは私の依頼ではありません」
「依頼人はあなたです」
「そうです。でも今日、記録してほしいのは私ではない」
「では誰を」
「まだ、記録ではありません」
ソルは言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「まず、君に聞いてほしい」
部屋の中で、古い紙の匂いが少し濃くなる。
「意味が分かりません」
「今はそれでいい」
「よくありません。記録士は、理由のない聞き取りを行いません」
「理由ならあります」
ソルの目が、ルナをまっすぐ見た。
「君の中に、まだ残っている言葉があるからです」
マリの声が、ふいに重なった。
あなたの言葉は、誰が書くの。
ルナはそれを振り払うように記録書を閉じた。
「本日の聞き取りは終了します。依頼内容が不明瞭なため、ギルドへ報告します」
「構いません」
ソルは止めなかった。
「ただ、一つだけ答えてください」
「業務に必要な内容であれば」
「昨日の最後の言葉は、まだ残っていますか」
ルナは答えなかった。
言ってはいけないからではない。
答えが、先に胸の中で動いたからだ。
楽しかった。
四文字が、まだある。
昨日より薄くなっていない。
むしろ、何かの形を持ち始めている。
「守秘義務があります」
ようやく、それだけ言った。
ソルは静かに頷いた。
「いいでしょう」
ルナは立ち上がる。
鞄を持ち、扉へ向かった。
「ルナさん」
背中に、ソルの声が届く。
振り返らない。
「次に来るときは、好きな花を一つ考えてきてください」
ルナは振り返った。
「なぜ、それを」
「当たりましたか」
また同じ言い方だった。
「君は顔に出ない。でも、返事に出る」
「私は、顔にも返事にも出していません」
「だからです」
ソルの声は細いのに、よく届いた。
「出さないようにしている人間ほど、出なくなったときに気づけない」
ルナは扉の取っ手を握る。
「失礼します」
今度は言えた。
それだけのことなのに、言えたことを確認している自分がいた。
「もう一つだけ」
ソルが机の引き出しを開けた。
中から一枚の古い紙を取り出す。
ルナは目を細めた。
それは記録書に似ていた。
ただし、正式な保管紙ではない。端が黄色く、角が擦り切れている。個人が持っていていいものには見えなかった。
「それは」
「私が、最後に残したものです」
「記録書の私有は禁じられています」
「ええ。だから、これはもう記録書ではない」
ソルは紙を机に置いた。
ページは白紙だった。
古い紙なのに、一文字もない。
「白紙?」
「私は昔、誰かの最後の言葉を書きました。確かに書いた。声も、表情も、部屋の匂いも覚えている」
ソルは白紙を指で撫でた。
「でも、言葉だけが消えた」
ルナはその紙を見た。
記録書に記された最後の言葉は、消えない。
そう教わってきた。
だから保管室には、何百年分もの記録が眠っている。
消えるはずがない。
「偽造では」
「そう思って構いません」
「証拠としては不十分です」
「証拠として出したわけではありません」
ソルは白紙を机の引き出しに戻した。
「今日は、これを見せたかっただけです」
「なぜ私に」
「似ているからです」
「何が」
「あの頃の私に」
ルナは言葉を返そうとした。
私はあなたではありません。
そう言えばいい。
だが、それはあまりに簡単で、なぜか口に出せなかった。
代わりに、別の言葉を選ぶ。
「私は業務を問題なく遂行しています」
「私もそうでした」
ソルはすぐに返した。
「誰よりも早く、誰よりも正確に記録した。泣かない。揺れない。依頼人に余計なことを言わない。ギルドからは優秀だと言われました」
「それが問題なのですか」
「問題になることがあります」
「曖昧です」
「曖昧なうちに来てもらいました」
ルナは返事をしなかった。
返事をしない方が、安全だと思った。
「失礼します」
今度こそ部屋を出た。
階段を下りると、水路の匂いがした。
湿った石と古い木の匂い。
外は曇っていたが、雨は降っていない。
ルナは建物を出て、橋の上で立ち止まる。
水面に、自分の顔が少しだけ映っていた。
いつもと同じ顔だ。
疲れているようには見えない。
壊れているようにも見えない。
それでも、ソルの言葉は離れなかった。
体ではありません。
言葉の方です。
ルナは鞄の留め具を押さえる。
中には記録書がある。封筒がある。ソルの依頼書がある。
それから、まだ記録していない自分の言葉がある。
そんなものはない。
そう思おうとした。うまくいかなかった。
ギルドへ戻ると、廊下でアリュとすれ違った。
今度は紙束を落としていない。
代わりに、両手で一冊の記録書を抱えている。
「あ、ルナさん。お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
「ソルさん、どうでしたか」
ルナは足を止めた。
「なぜ名前を」
「受付で聞こえてしまって。すみません」
アリュはまた慌てて頭を下げる。
「でも、ソルさんって、あのソルさんですよね。昔、すごい記録士だったって教官が」
「私は知りません」
「そうなんですか」
アリュは少し意外そうにした。
「教官が言っていました。昔、どんな呪いでも一度で記録した人がいたって。でも、急に辞めたって」
「詳しく聞きましたか」
「いえ。聞いたら、教官が怒りました」
アリュは記録書を抱え直す。
「記録士には、知らない方がいいこともあるって」
知らない方がいいこと。
ルナはその言葉を頭の中で繰り返した。
「アリュさん」
「はい」
「泣いたあとで笑えるのは、なぜですか」
聞いてから、ルナは自分で驚いた。
業務に関係がない。
聞く必要もない。
けれど、言葉はもう出てしまっている。
アリュは目を丸くしたあと、少し困ったように笑った。
「分かりません。でも、泣いたままだと、次の人の話を聞けない気がするので」
「泣かない方が、聞けるのでは」
「そうかもしれません」
アリュは素直に頷く。
「でも、私は泣かない方が難しいです」
ルナは返事を探した。
今度は、少しだけ見つかるのが早かった。
「そうですか」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど、ルナの中に小さく残った。
受付で報告を済ませる。
依頼内容不明瞭。継続確認必要。依頼人は元記録士。呪いの種類は不明。
受付の女性は報告書を読み、眉を寄せた。
「継続しますか」
「はい」
答えてから、ルナは自分の声を聞いた。
迷いはなかった。
「理由は」
「依頼人が、最後の言葉の記録を希望しています」
「今日ではないのですね」
「はい」
「次回訪問日は」
「明日」
受付の女性が顔を上げる。
「明日ですか」
「はい」
「依頼人から指定が?」
「いいえ」
ルナは一拍置いた。
「私が確認します」
受付の女性は何か言いかけて、やめた。
「分かりました。明日で手配します」
ギルドを出る頃には、夕方になっていた。
市場の花屋はまだ開いている。
昨日の白い花は、店先の桶に残っていた。
ルナは足を止める。
白花。
値札はそのままだ。
「それ、長持ちするよ」
店主の声がした。
ルナは顔を上げる。
「名前は」
「それ? スノウベル。冬の初めに出る花だよ」
スノウベル。
ルナは口の中で、その名前を一度だけ転がした。
買う理由は、今日もなかった。
置く場所も、渡す相手もない。
それでもルナは、財布を取り出した。
「一本ください」
店主は何も聞かなかった。
白い花を一本、薄い紙で包んで渡す。
ルナはそれを受け取り、帰路についた。
部屋に戻ると、机の上に花を置いた。
花瓶はない。
代わりに、空のインク瓶を洗って水を入れる。
白い花は、少し傾いたままそこに立った。
ルナは椅子に座り、しばらくそれを見る。
好きかどうかは、まだ分からない。
けれど名前は分かる。
スノウベル。
ルナは記録書ではなく、余った紙の端にその名前を書いた。
書いたあと、すぐに消すべきだと思った。
仕事ではない言葉だ。
記録する必要はない。
それは記録ではなかった。
けれどルナは、消さなかった。




