第一話 楽しかった
ルナは、自分の好きな花を知らなかった。
記録士になって五年。
正式には記録士。
けれど街の人間の中には、彼女たちを呪いの記録係と呼ぶ者もいた。
誰かの最後の言葉なら、何百と書いてきた。
ありがとう。
ごめん。
会いたかった。
寒い。
名前を呼ぶだけで終わった人もいた。声を失い、指先で文字をなぞった人もいた。
そのたびにルナは記録書を開き、万年筆を取る。
聞く。
書く。
閉じる。
提出する。
それで終わる。
記録士は、言葉を残す人間ではない。
言葉を受け取る人間だ。
記録士がいう最後の言葉とは、最後に喉から出た音のことではない。
その人が、最後に残すと決めた言葉のことだ。
記録士はそれを待ち、聞き、一字も変えずに書く。
記録書に残す言葉と、部屋に残る言葉は、同じではない。
記録書は、ギルドへ提出される。
それ以外の言葉は、依頼人の意思に反しない範囲で、必要なら遺族へ伝える。
その判断もまた、記録士の仕事だ。
そう教えられ、そうしてきた。
だから、老婆に聞かれたとき、ルナは答えを持っていなかった。
「あなた、好きな花はある?」
その質問は、仕事に必要なものではなかったからだ。
三時間前、記録士ギルドの受付で、ルナは一通の依頼書を受け取った。
依頼人、マリ・ヴォン。
八十三歳。
呪いの種類、旅人の未練。
緊急度、低。
住所は街の西側。白い漆喰の家。青い扉。
旅人の未練は、進行の遅い呪いだ。
強い苦痛は少ない。意識も最後まで残ることが多い。ギルドの分類では軽症に入る。
ルナは、その言い方が好きではなかった。
軽いかどうかは、受けた本人が決めることだと思う。
ただ、その考えを誰かに話したことはない。
「本日向かわれますか」
受付の女性が尋ねる。
「はい」
「よろしくお願いします」
それだけで話は終わる。
受付の女性は、すぐ次の書類へ目を落とした。
ルナは依頼書を鞄にしまう。
万年筆。
替えインク。
記録書が二冊。
白紙の確認。
封印紙の確認。
帰還後の提出票。
毎朝、同じ順番で確かめる。
順番を崩さなければ、現場で迷わない。
迷わなければ、余計な言葉を出さずに済む。
ギルドの廊下を歩くと、棚の前で見習いが分厚い本を抱えていた。
戻す場所が分からないらしい。背表紙と棚札を何度も見比べている。
目元が赤い。
今朝の実習で泣いたのだろう。
記録士は感情に飲まれてはならない。泣くたびに教官から同じ言葉を言われる。
ルナはその横を通り過ぎた。
助ける必要はない。
自分で覚えた方が早い。
「ルナさん」
背中に小さな声が届いた。
振り返ると、見習いが本を抱えたまま立っている。
胸元の名札に、アリュ、とあった。
「これ、どこに戻せばいいですか」
本の表紙には、呪いの分類表とある。
ルナは棚の上から二段目を指した。
「黒い背表紙の右」
「ありがとうございます」
アリュは笑った。
目元はまだ赤いのに、笑おうとしていた。
ルナは頷くだけにした。
泣いたあとで笑う理由を、うまく掴めない。
ギルドを出ると、十一月の空気が頬に触れた。
昨日の雨が、石畳の隙間に残っている。
市場は開き始めたばかりだった。八百屋が箱を並べ、魚屋が氷を砕き、花屋の若い店員が桶の水を替えている。
あふれた水が細く流れ、ルナの靴先をかすめた。
子どもが三人、笑いながら走っていく。
一人がつまずき、残りの二人が腹を抱えた。転びかけた子どもも、少し遅れて笑った。
何がそんなに楽しいのか、ルナには分からない。
そう思ってから、足がわずかに遅くなる。
自分は最後に、いつ楽しいと思ったのだろう。
記憶を探しかけて、やめた。
依頼が先だ。
角を曲がると、パン屋から焼きたての匂いがした。
腹は空いていない。
それでも歩幅が小さくなる。
ルナは自分の足元を見た。
すぐに歩幅を戻す。
市場を抜けると、人通りは減った。
白い漆喰の家が並んでいる。
どの家も似ていた。違うのは扉の色だけだ。
青い扉。
依頼書の通りだった。
扉の脇に、小さな花壇がある。
花はない。
土だけが、丁寧に耕されていた。
湿った土に、指の跡のような筋が残っている。
誰かが時間をかけた跡だ。
ルナは少し足を止める。
春を待っている土。
そう思ったあとで、眉を寄せた。
今の言葉は、自分のものだろうか。
どこかで誰かが言った言葉を、借りただけのような気がした。
扉を三度ノックする。
「開いてますよ」
声はすぐに返ってきた。
部屋に入ると、最初に窓が見えた。
その前に老婆が座っている。膝には毛布。細い両手が重ねられている。
老婆は外を見たまま、振り返らなかった。
「記録士のルナです。マリ・ヴォンさんでよろしいですか」
老婆がゆっくりとこちらを向く。
皺の多い顔に、小さな目があった。
その目が細くなる。
笑ったのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「来てくれてありがとう。座って」
ルナは椅子を引き、腰を下ろした。
革鞄から万年筆と記録書を取り出す。インクを確認し、白いページを開いた。
「若いのね。いくつ?」
「仕事には関係のない情報です」
「そうね。ごめんなさい」
マリはすぐに引いた。
怒った様子はない。
それどころか、少し楽しそうに首を傾げた。
「お腹は空いていない?」
「食べてきました」
「よかった」
それだけだった。
理由を聞くわけでも、話を広げるわけでもない。
ただ安心したように頷く。
ルナは万年筆を持つ指に少し力を入れた。
なぜ、そんなことを気にするのか。
答えは出なかった。
「あなた、好きな花はある?」
唐突だった。
ルナは記録書から顔を上げる。
「花、ですか」
「ええ。花」
答える必要はない。
最後の言葉にも、呪いの状態にも関係がない。
そう判断するまでに、いつもより時間がかかった。
「特には」
「そう」
マリは残念そうではなかった。
ただ、外へ目を戻す。
「私はチューリップが好きだったわ。手がかからないところがいいの。勝手に春を連れてきてくれるでしょう」
勝手に春を連れてくる。
ルナはその言い方を、記録しなかった。
最後の言葉ではない。
窓の向こうに、枯れた木が一本立っている。
葉は一枚も残っていない。細い枝だけが、曇った空へ伸びていた。
「あの木ね。この時期が一番好きなの」
「葉がないからですか」
「そう。葉があると、形が隠れてしまうでしょう。冬になると本当の形が出てくる。正直になるのよ、木が」
正直。
木にそういう言葉を使う感覚が、ルナにはまだ遠い。
「ここに住んで三十年よ。毎年あの木を見てきた。来年も見たかったけど、まあ、しかたないね」
「後悔していますか」
「していないわ」
答えは早かった。
「ただ、そう思っただけ」
部屋に静かな時間が落ちた。
マリは窓の下へ視線を移す。
「あの花壇ね。毎年チューリップを植えていたの」
「今年は植えられなかったんですね」
「間に合わなかったわ。でも土だけ耕しておいたの。隣の奥さんが花好きだから、春に植えてくれるかもしれないと思って」
「ご自分は見られなくても、ですか」
「ええ」
マリは迷わなかった。
「花は、咲けばそれでいいの」
ルナは万年筆を止めた。
今の言葉は、残すべきだろうか。
記録士が書くのは最後の言葉だけだ。途中の言葉を書いてはいけない。
けれど、書かないでおくには惜しい気がした。
惜しい。
その感覚が胸のどこから来たのか、ルナには掴めなかった。
「ずっとこういう仕事をしているの?」
「五年になります」
「つらくない?」
「仕事ですから」
「そういう人がするのね、この仕事」
責める声ではなかった。
マリは少し笑う。
「悪い意味じゃないわよ。そういう人がいてくれて、よかったという意味」
「私は、特別なことはしていません」
「そう思っているのは、あなただけかもしれないわ」
ルナは返事を探した。
見つからない。
「一つだけ聞いていい?」
「はい」
「あなたの言葉は、誰が書くの」
万年筆を持つ手が止まった。
ルナは記録書を見る。
白いページ。
まだ、何も書かれていない。
「私は、記録する側ですから」
「記録する側には、言葉がないの?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、あるのね」
マリの声は穏やかだった。
問い詰めているわけではない。
それなのに、ルナは息をする場所を一つ間違えた気がした。
ある。
あるはずだ。
たぶん。
言葉は、ある。
ただ、どれを自分のものと呼べばいいのかが分からない。
「……最後の言葉を、話していただけますか」
マリはすぐには答えなかった。
時計の針が、小さな音を立てる。
遠くで、雨の匂いがした。
「楽しかったわ」
万年筆が走った。
楽しかった。
四文字が紙に移る。
「続きはありますか」
「ないわ」
マリは笑った。
「それだけよ」
「八十三年で、それだけですか」
言ってから、ルナは自分の言葉に気づいた。
仕事には必要のない聞き方だった。
記録士は、最後の言葉を評価しない。
長さも、重さも、正しさも。
けれどマリは怒らなかった。
むしろ、おかしそうに笑う。
「それだけでいいの」
「嫌なことも、あったのでは」
「もちろん」
マリは窓の外を見たまま言った。
「忘れられないくらいにはね」
それ以上は言わなかった。
ルナも聞かなかった。
「でもね」
マリは、雨の前の空を見る。
「最後に近くに残るのは、そういうことじゃなかったの」
「近くに残るもの、ですか」
「ええ。春に花が咲いたこと。お客さんが笑って帰ったこと。誰かが、お腹は空いていないかって聞いてくれたこと」
少しだけ笑う。
「そういう小さいことの方が、最後まで残るのね」
ルナは記録書を見る。
楽しかった。
四文字しかない。
それなのに、短いとは思えなかった。
「十分でしょう?」
マリが言った。
ルナは答えられない。
紙へ移したはずの言葉が、まだ自分の中にも残っている気がした。
そんなことは、五年間で初めてだった。
記録書の端が、かすかに温かい。
呪いが断たれた印だ。
異常はない。
手順通りに終わっている。
それなのに、終わった気がしない。
「ありがとうございました」
ルナは記録書を閉じた。
「こちらこそ。来てくれて、ありがとう」
マリはまた窓の外を見る。
ルナは椅子を戻し、鞄を持った。
玄関へ向かおうとしたとき、背中に声が届く。
「記録士さん」
振り返る。
マリは窓の外を見たままだ。
「仕事だけじゃなくて」
静かな声だった。
「あなたも、楽しんで生きるのよ」
ルナは答えられなかった。
はい、でいい。
ありがとうございます、でもいい。
どちらも言えるはずだった。
でも口を開いたとき、出てきたのは息だけだった。
一礼して部屋を出る。
外では、細かい雨が降り始めていた。
ルナは傘を差さない。
革鞄だけを外套の内側へ抱え、石畳を歩く。
花壇の前を通った。
三歩ほど進み、足が止まる。
振り返る。
耕された土が雨に濡れている。
誰かが春のために残した土。
ルナはしばらく見ていた。
今日だけで、答えのないものが増えている。
また歩き出す。
路地を抜けると、小さな花屋があった。
店は閉まっている。
店先の桶には白い花が数本、雨に濡れながら立っていた。
ルナは通り過ぎる。
少し進んでから、戻った。
桶の前で足を止める。
白い花の名前を、ルナは知らない。
値札には、短く「白花」とだけ書かれていた。
そのままだと思った。
買う理由はない。
置く場所もない。
誰かに渡す相手もいない。
ルナは手を伸ばしかけ、やめた。
濡れた指先だけが、冷たくなる。
その日は、少しだけ歩くのが遅かった。
ギルドに戻ると、受付の女性が顔を上げた。
「お疲れ様でした。提出はこちらで」
ルナは記録書を渡す。
受付の女性が確認する。
「マリ様の記録ですね。最後の言葉は……楽しかった、ですか」
「はい」
「よい言葉ですね」
ルナは答えなかった。
よい言葉。
そうなのだろうか。
判断の仕方が分からない。
ただ、紙へ移したはずの四文字が、まだ残っている。
「それと、ルナさん」
受付の女性が、別の封筒を取り出した。
「指名依頼が届いています」
「指名依頼」
「はい。依頼人が、ルナさんをご指定です」
封筒を受け取る。
依頼人の欄には、名前だけが書かれていた。
ソル。
年齢も、住所も、呪いの種類もない。
裏へ返す。
備考欄に、一文だけある。
君のことを知っているから。
ルナはその文字を見た。
知らない名前だった。
知っているはずがない。
五年間の仕事で、ルナを指名してきた人間など一人もいなかった。
そもそも、ルナを知っている人間はほとんどいない。
受付の女性が、少し困った顔をする。
「備考が、もう一枚あります」
差し出された小さな紙を、ルナは受け取った。
そこには、別の筆跡で一行だけ書かれていた。
君がまだ、自分で返事をできるうちに。
指先が止まった。
「ルナさん?」
呼ばれている。
聞こえている。
それでも、すぐには返事が出なかった。
やがてルナは、封筒と紙を鞄に入れた。
「持ち帰ります」
声は、いつも通りだった。
そう聞こえたかどうかは、分からない。
ギルドを出る。
雨はまだ続いていた。
石畳に落ちる雨粒が、小さな波紋を作っては消えていく。
楽しかった。
君のことを知っているから。
君がまだ、自分で返事をできるうちに。
三つの言葉が、紙へ渡したあとも消えなかった。
その夜、ルナは自分の部屋で、白い花の名前を思い出そうとした。
思い出せなかった。
それでも、花の白だけが眠るまで消えなかった。




