第3章:音のない片側
朝の管理室には、乾いたはずの雨が別の形で残っていた。窓の外の歩道はすでに乾いているのに、ビルの隙間から吹く風にはまだ雨の匂いが混じり、金属棚の表面だけが夜の冷たさを少し長く保っていた。透花は鍵を開け、室内の空気が動き出す前に、受付台の上に届いていた透明な袋を一つずつ並べた。
その中の一つに片方だけのイヤホンが入っていた。それは、白い小さな殻のような形をしていて、透明袋の内側で軽く転がるたびに、持ち主から離れたもの特有の頼りなさを見せた。品名欄には「片耳用イヤホン、駅前歩道付近で拾得」と書かれていた。
透花は受付票の名前を見た。
水篠朔。
胸の奥がもう驚くことにも慣れ始めているのが嫌だった。昨日までは名前を見つけるたびに指先が止まっていたのに、今朝はその名前があることをどこかで予感していた気がする。予感していた自分が少し怖かった。
片方だけのイヤホンはほかの拾得物よりもずっと軽かった。財布や鍵のように生活を直接困らせるものではないかもしれないが、それでも耳に入れるものだからだろうか。透花にはそれが妙に身近なものに見えた。
誰かの耳の奥に届いていた音、電車の中で流れていた声、雨の道を歩くときに聞いていた曲、誰にも話したくない夜を薄く覆っていた何か。そういうものが片方だけ欠けてここに来たのだと思うと、透明袋の軽さが逆に重たく感じられた。
透花は記録用のペンを持ち直した。手元に集中すればするほど、名前の周囲だけがにじむ。水篠朔という文字は、もう紙の上で静止していなかった。
呼ばれた自分の名前、呼んでしまった彼の名字、古いレシート、黒い定期入れ、傘の傷。いくつもの小さなものが積もって、透花の中で水篠朔という人の輪郭を作ろうとしていた。
作ってはいけない、と思った。仕事で扱うのは拾得物であって、その人自身ではない。けれど、忘れ物というものはいつも少しずるい。持ち主より先に、その人の生活の入口だけをこちらへ差し出してくる。
管理室の蛍光灯が小さく点滅し、棚の奥まで白い光が差し込んだ。透花はイヤホンを入れた袋に保管番号を貼り、下段ではなく中段の棚に置いた。あまり目立つ場所でもなく、かといって見えない場所でもない位置を選んでいる自分に気づき、すぐにその考えを打ち消した。
朝の来訪者は少なかった。濡れた傘の日の翌日は返却に来る人の足取りが少し鈍る。急ぎのものだけが先に取りに来られ、急がなくても生きていけるものは保管棚の中で数日分の沈黙を積もらせる。
透花は受付票の束を整え、昨日までの返却済み書類をファイルに綴じた。紙をめくるたびに水篠朔の署名を探してしまいそうになるが、見ても何も変わらないのに、見ないようにするほうがずっと疲れる。
窓口の外を清掃の気配が通り過ぎた。濡れたモップが床を滑る音が廊下の奥でゆっくり近づき、また遠ざかっていく。水を含んだ布の匂いが一瞬だけ漂い、管理室の紙の匂いと混ざった。
透花は自分の名札を指で直した。「蓮見透花」。今日はその文字がいつもより肌に近い。胸元にあるだけなのに、誰かの視線がそこへ届く前から、名前のほうが先に反応しているようだった。
窓口のベルが鳴った。
透花は顔を上げた。そこに立っていたのは、初めて見る女性だった。社員証を探していると言い、少し早口で特徴を話した。透花は手順どおりに確認し、棚から該当するケースを取り出し、相手の焦りが落ち着く速度に合わせて声を低くした。
「こちらでお間違いないか、ご確認ください」
「はい、これです。助かりました」
「見つかって良かったです」
そのやり取りは自然に終わり、相手は何度も頭を下げ、社員証を胸に抱えるようにして出て行った。透花はその背中を見送りながら、さっきまで自分の声がきちんと仕事の形をしていたことに少し安心した。
安心した直後に、なぜ水篠朔の前ではそれができなくなるのかと思った。
できないわけではない。できている。たぶん、外から見れば何も崩れていない。ただ自分の中だけで、声の端がほんの少し乱れる。そのわずかさが厄介だった。
昼に近い光が窓口の上に落ち、アクリル板を薄く照らした。透明な板の向こう側には誰もいないけれど、透花はそこに傘を持った朔の立ち姿や定期入れを確かめる指先を想像してしまう。
片方だけのイヤホン。
その言葉が頭の中で転がった。片方だけなくすというのはどんな感じだろう。音が半分だけ欠けるのか、それとも残った片耳でかえって街の音を強く聞くことになるのか。
透花は、朝の通勤中に自分がイヤホンを使わないことをふと思い出した。音楽を流すよりも、周りの音を聞いているほうが落ち着く。電車のブレーキ音、足音、誰かのカバンについた金具が触れる音。そういう音を聞いていると、街の中で自分が浮かないで済むような気がする。
朔はどうだろう。片方の耳で何を聞いていたのか。もう片方の耳にはどんな音を残していたのか。
考えすぎだ。
透花はペンを置き、机の端を布で拭いた。拭く必要のない場所まで拭いている。汚れではなく考えを消したいとき、人はこういう無駄な動きをするのかもしれない。
午後へ移る前、管理室の外は少しだけ明るさを増した。雨上がりの白ではなく、雲の薄い日差しがビルの壁に静かに当たり、窓枠の影を細く床に落としていた。空気は乾き始めているのに、肌の奥にはまだ湿度が残っていた。
昼食は休憩室ではなく、管理室の奥で済ませた。来訪者が途切れた短い間に、透花は小さなおにぎりを食べ、温くなったお茶を飲んだ。海苔の香りと紙袋の匂いが混じり、事務所の空気の中に少しだけ家庭的な雰囲気を作っていた。
味はしたけれど、考えは別の場所にあった。片方だけのイヤホンが棚にある。水篠朔はまだそれを知らないのだろうか。それとも、連絡を受けてまたここへ来る準備をしているのだろうか。
来てほしいと思っているのか。
問いが浮かんだ瞬間、透花はお茶を飲んだ。喉を通る温度でその問いを沈めようとしたが、沈めたものは消えるのではなく底のほうで形を変えて残るだけだった。
来てほしいわけではない。仕事が増えるだけだ。何度も忘れ物をする人は管理する側からすれば困る、という正しい言い分を並べるほど、その下にある小さな期待が逆に浮き彫りになる。
透花は昼食の袋をたたみ、ゴミ箱へ入れた。袋の角がうまく折れず、少しだけ膨らんだまま落ちた。整えようとしても、どうしても残る余白があった。
窓口に戻ると、外の廊下から人の気配が近づいてきた。足音は速くない。迷っている人のように一度止まり、また近づいてくる。透花は反射的に名札に触れそうになり、途中で指を止めた。
ベルが鳴る。
水篠朔が立っていた。
今日は傘を持っていなかった。薄いグレーのシャツに黒いバッグを斜めにかけており、髪は少し風に乱れていた。いつもの困ったような笑みを浮かべていたが、その目の奥には寝不足とは別の淡い疲れが見て取れた。
「こんにちは」
「こんにちは。ご用件をお伺いします」
透花の声は、仕事モードに戻っていた。朔はそれを聞いて、少しだけ眉を動かしたように見えた。
「イヤホンの件で連絡をいただきました」
「受付番号をお持ちですか?」
「はい」
彼は折りたたまれた紙を差し出した。指先がアクリル板の下の隙間を通る。透花は、その紙を受け取るときに自分の指が近づきすぎないように気を付けた。
番号を確認し、分かっていた番号を分からないふりをして追った。棚へ向かう前に、透花は一度だけ受付票の名前を見た。
水篠朔。
「確認します。少々お待ちください」
棚の前に立つと、片方だけのイヤホンがすぐに目に入った。透明袋の中で小さく傾いており、午前中よりもさらに軽そうに見えた。透花はそれを手に取り、戻る前に一瞬だけ息を整えた。
窓口へ戻ると、朔は管理室の中ではなく、アクリル板に映る透花の姿を見ていた。直接見るよりも遠慮がちだが、見ていないわけではない視線。透花は、朔にそのことに気づかれたくないと思った。
「こちらでお間違いないか、ご確認ください」
「はい。これです」
朔はイヤホンを受け取り、透明袋から取り出した小さな白い機械をすぐに耳に戻さず、手のひらに乗せて親指で表面を一度だけなぞった。
「片方だけよく失くすんですか?」
透花はそう聞いて、言葉が先に出てしまった。業務の範囲ではあるが、少しだけ余計だった。
朔は視線を上げた。
「よく、というほどではないです」
「そうですか」
「でも、片方だけ残っていることは多いです」
その言い方に透花は受付票から目を上げ、朔はイヤホンを指先でつまんでしばらく見つめていた。小さなものなのに彼の手の中では、何かの証拠のように見えた。
「片耳だけで使っているんですか?」
「歩くときは、だいたい」
「危ないからですか?」
「それもあります。街の音が全部消えると、少し落ち着かないので」
透花は返す言葉を探した。自分も同じだ、と言いそうになったが、そう言えば窓口の線がまた少し薄くなる。
「外の音を聞いていたいんですね」
「聞いていたいというより、消しきれない方が安心します」
朔は軽く笑ったが、その笑いはいつものように逃げるためのものではなく、少し自分の中へ下りていくようだった。
「部屋に帰ると、逆に静かすぎることがあるので」
静かすぎる部屋。
その言葉だけで、透花の頭の中に、見たことのない部屋が立ち現れた。床に置かれた撮影機材、畳まれていないシャツ、冷えた窓ガラス、机の上に置かれたレシート。そこに、実際の彼の部屋がどれほど似ているのかは分からない。
けれど、想像してしまったことだけは、もう戻せなかった。
「音があるほうが、いいんですか?」
「全部ではなくて、少しでいいです」
朔はイヤホンを、定期入れの時と同じようにすぐにはしまわなかった。指先で確かめる癖。小さなものを持ち直すたびに、大切にしているのか失くす前から諦めているのか、透花には分からなくなる。
「片方だけだと、聞こえ方が変わりませんか?」
「変わります。音が偏ります」
「それでいいんですか?」
「完全に塞がるよりは」
彼の言葉は静かだった。透花はそこにまだ入ってはいけない影を感じた。聞きたいことはあった。どうして部屋が静かすぎるのか、どうして片方だけ残して歩くのか、どうしていつも失くしたものを受け取るときにそんな顔をするのか、と。
しかし、何も聞かなかった。
「中身の確認ができましたら、こちらに署名をお願いします」
透花は確認書を差し出した。朔はペンを受け取り、名前を書いた。その動作にもう見慣れ始めている自分がいた。見慣れてはいけないとまでは思わないが、見慣れるほど会っていることが少し危うく感じられた。
水篠朔。
彼の名前が紙に書かれるたびに、透花の中でそれはただの記録ではなくなった。声に出さなくても、文字が音を持ち始めた。水の気配を含んだ名字と、欠けた月のような一文字。
「蓮見さん」
彼が呼んだ。
透花は、署名欄を見ていた指を止めた。今日は、呼ばれる前に息を置かれたことがわかった。その小さな間が、呼ばれたことそのものよりも胸に響いた。
「はい」
「前に忘れ物をしないようにって言われたのに、また来ちゃいました」
「そうですね」
「呆れましたか?」
「業務上は、正確にお返しするだけです」
「業務上は」
朔はその言葉を繰り返した。責めるような響きではなく、むしろ透花が引いた線を確かめるような声だった。
「何度も来られると、保管場所を覚えてしまいます」
「僕のですか?」
「水篠様の忘れ物です」
と言い直したつもりだったが、あまり意味はなかった。朔はそこにあるわずかな乱れを拾ったかのように口元だけで笑った。
「それ、あまり変わらない気がします」
透花は答えなかった。変わらない。たぶんそうだった。彼の忘れ物を覚えることと彼を覚えることの境目はすでに曖昧になり始めていた。
窓口の外を人が通り過ぎ、廊下の空気が一度だけ揺れた。 朔はイヤホンを透明袋から取り出し、片方だけを耳に挿入した。もう片方はなく、空いた耳がこちら側に向いているように見えた。
「それで聞こえますか?」
「聞こえます」
「片方だけでも」
「片方だけだから、聞こえるものもあります」
透花はその言葉を受け取ったまま少し黙った。彼が何を聞いているのかは分からない。音楽なのか、何も流していないのか。けれど、空いた耳で管理室の音も透花の声もきっと消さずに残している。
それを意識した瞬間、声を出すのが少し難しくなった。
「返却手続きは以上です」
「ありがとうございます」
朔はペンを返した。指が触れたわけではないが、ペンの温度が移っていた。透花はそれを受け取り、受付台の上へ置いた。
「今日はほかに失くしていませんか?」
「今日はたぶん大丈夫です」
「たぶん、が続きますね」
「自信が持てなくて」
「物にですか?」
「自分に、かもしれません」
朔の声は軽くなかった。言った後で、彼自身も少し驚いたように目を伏せた。透花は返事を探したが、正しい言葉はすぐには見つからなかった。
自分に自信が持てない人は、そんな風に笑うのだろうか。困ったときに笑い、失くしたものを受け取るときに指先で確かめる。何かを持ち続けられないことを、薄い冗談の膜で包んでいる。
「失くしても、届けば返せます」
透花はそう言ったが、それが慰めなのか業務案内なのか分からなくなった。
朔は顔を上げた。
「届かなかったら?」
「探すしかありません」
「見つからなかったら?」
透花は受付票の端に指を置いた。彼はふざけているわけではなく、答えを試しているというよりも、本当にそういう夜を知っている人の声だった。
「そのときは、なくしたものを覚えておくしかないと思います」
自分で言って少しだけ胸が痛んだ。失くしたものを忘れるよりも覚えておくほうが、つらいこともある。けれど完全に忘れたふりをするよりは、たぶんましだ。
朔は小さく息を吐いた。
「蓮見さんは変に正直ですね」
「変に、ですか」
「優しいと言うと否定されるので」
透花は返す言葉に迷い、少しだけ視線を落とした。否定しようとしたが、うまく声に出なかった。彼は優しいわけではない。ただ、彼の言葉を雑に扱いたくないだけだった。
それは優しさなのだろうか。
分からない。
「水篠様も変に正直です」
透花が言うと、朔は意外そうにまばたきをした。
「僕が?」
「隠しているようで、たまに隠しきれていません」
と言ってしまった後、胸が熱くなった。踏み込みすぎた、と思ったのに、朔は傷ついた顔をしなかった。窓口の向こうで少し黙って、自分の手の中のイヤホンを見ただけだった。
「蓮見さんには、そう見えるんですね」
その呼び方がまた少し慎重で、昨日より今朝より名前の前に置かれる沈黙が長かった。呼ぶことに意味があると彼も気づき始めているのかもしれない。
「見えるというより、聞こえる時があります」
「何が?」
「……声の端です」
透花は答えてから受付票に目を落とした。そんなことを窓口で言うべきではなかったが、言ってしまった言葉は消せない。
朔はすぐに返事をしなかった。片耳に入れたイヤホンの向こうで何かが流れているのかもしれないが、彼の空いた耳は、こちらの沈黙を聞いているようだった。
「声の端って、どういうものですか?」
「分かりません」
「分からないのに言ったんですか?」
「はい」
その返事に朔は少し笑った。今度は困った笑いではなく、透花の不器用さをからかうでもなく、ただ受け止めたような笑いだった。
「分からないまま言われる方が残りますね」
「残さないでください」
「それは難しいです」
窓口の上の光が夕方の色を少し帯び始め、朝には白かったアクリル板が今は薄い飴色に見えた。そこで透花は、時間が少し進んでいることに気づいた。
朔はイヤホンを耳から外し、ケースに入れずにそのまま小さなポケットにしまった。その動きが不意打ちのように感じられ、透花は思わず口を開いた。
「また失くします」
「あ」
彼は手を止めた。透花は受付台の引き出しから小さな透明袋を取り出し、窓口の隙間から差し出した。
「一時的にでも、こちらに入れてください」
「いいんですか?」
「ただの袋です」
「でも、蓮見さんがくれたので」
透花の手が止まり、袋を持つ指先に力が入った。
「備品です」
「はい、備品ですね」
朔はそう言いながらどこか嬉しそうにそれを受け取り、小さなイヤホンを袋に入れて口を折った。たったそれだけの動作が妙に親密に見えてしまうのはなぜだろう。
仕事の中にある親切は誰にでも同じように与えられるべきものだと、透花は知っている。それなのに、彼が透明な袋を大事そうに持った瞬間、ただの備品が別の意味を持ちそうになった。
「ありがとうございます。これならたぶん失くしません」
「たぶん、ですか?」
「今は、失くしたくないと思っています」
朔の声が少し低くなった。イヤホンの話をしているはずだった、たぶん。けれど、透花の胸はその一言を別の場所で受け取ってしまった。
失くしたくない。
何を。
聞けなかった。
「お気を付けてお帰りください」
透花はいつもの言葉を言い、声は整っていた。少なくとも形だけは。朔は小さくうなずいて窓口から少し離れた。
「蓮見さん」
また呼ばれた。
透花は返事をする前に呼吸を整えた。彼が名前を呼ぶ前に置いた間を、自分でも同じように置いてしまったことに気づいた。
「はい」
「片耳だけ空けていると、聞こえるものが増えます」
「はい」
「だから、今日は少し困りました」
「何がですか?」
朔は笑った。今度はほとんど声にならない笑いだった。
「管理室の音がよく聞こえました」
それだけ言って、彼は透明袋に入ったイヤホンを鞄の内側へしまいながら出て行った。扉が閉まる前、廊下の向こうから街の音が一瞬だけ流れ込み、すぐに途切れた。
透花は立ったまま、しばらく動かなかった。
管理室の音。
棚の金属音、紙をめくる音、ペンを置く音、自分が息をする音。そんなものを聞かれていたのだろうか。空いた片耳で、彼は何を拾っていたのだろう。
透花は、受付台に置かれたペンを見た。彼が触れた後、そこには何の痕跡もなかったが、それでも手に取るのに少し時間がかかった。
返却済みの印を押す。確認書をファイルに入れる。透明袋の在庫を引き出しへ戻す。すべての動作をいつも通りにしているつもりなのに、体のどこかが少し遅れている。
夕方の管理室には細かな影が増え、棚と棚の間や窓口の下、受付票の束の隙間に現れていた。日が落ちる前の光は物を明るくするのではなく、かえって影の輪郭を濃くする。
透花は片付けをしながらイヤホンのない棚を見た。そこにはもう何もない。朝からあった小さな白いものは朔の手元に戻ったが、空いた場所には彼の言葉が残っている。
管理室の音が、よく聞こえました。
それはどういう意味だったのか。透花の声が聞こえたということなのか。呼吸の乱れまで届いたということなのか。それともただの会話の延長で、深い意味などないのか。
意味を探すこと自体がもう危ない。
透花は棚の扉を閉めて鍵をかけた。金属の小さな音が今日は少しだけ乾いて聞こえた。朝の湿りは薄れ、代わりに別の熱が室内に残っている。
仕事を終えるころ、外の空は淡い灰色から夜の色へ移りかけていた。雨の後の東京は暗くなるのがいつもより遅い気がする。それは、舗道やガラスや車の屋根が昼の光を名残のように返し続けているためかもしれない。
透花は名札を外した。蓮見透花の文字を指でなぞるつもりはなかったのに、留め具を外すとき、指の腹が名前の上をかすめた。そこだけ少し温かい気がして、すぐに鞄へしまった。
管理室の戸締まりを終え、外へ出た。建物の入口には昨日ほどの湿り気はなかったが、風の奥には雨が通り過ぎた後の青い匂いがまだ残っていた。遠くで聞こえる救急車のサイレンは、すぐにビルの壁に吸い込まれた。
駅へ向かう道には人の流れができていた。仕事を終えた人、これからどこかへ向かう人、電話をしながら歩く人、イヤホンを両耳に入れてまっすぐ前を見る人。東京の夜は誰かの音で満ちているのに、ひとりひとりの沈黙も同じくらい濃い。
透花はイヤホンを使わないので、信号待ちの靴音やバスの停車音、誰かの笑い声、傘を持たない人たちの鞄が揺れる音など、街の音がそのまま入ってくる。今日はそのすべてが、片耳を空けた朔の感覚に少しだけ近づいているように思えた。
片耳だけだから、聞こえるものもあります。
その言葉を思い出すと胸の奥が静かにざわめいた。完全に閉じないこと、少しだけ外を残しておくこと、それは彼の癖であり防御であり、たぶん寂しさの形でもあった。
透花は横断歩道の手前で足を止めた。 街灯の光が、濡れ跡の残る歩道に落ちて白い線を淡く浮かび上がらせていた。隣に立った人のイヤホンからわずかに音漏れがしていた。曲名も言葉も分からないほど小さな音だったが、誰かの夜の内側が一瞬だけ漏れているようだった。
朔の部屋は静かすぎる、と彼は言っていた。静かすぎる部屋に帰る前に、彼は街の音を片耳に残して歩く。そう考えると、忘れ物の一つ一つが、彼の生活の乱れというよりも、どこかに置き去りにされた呼吸のように思えてくる。
信号が変わり、人が動き出したので、透花も歩き出した。車道の向こうから吹いてくる風は、昼の熱をわずかに含んで頬に触れ、踏み出すたびに靴底の下で舗道の硬さを感じた。
駅の入口に近づくと、地下から冷えた空気が上がってきた。鉄のにおい、湿った壁、たくさんの人が含んだ外気。透花は階段を下りながら、今日は音がやけに近く感じられた。
改札前の機械音が短く鳴り、誰かが小走りで通り過ぎる。ホームへ続く通路で子どもの声が一度だけ響き、すぐに大人の足音に紛れた。音は消えずにただ重なり合い、どれが自分に届いているのか分からなくなった。
その中で、朔の声だけが妙に低い場所に残っていた。
「蓮見さん」。
呼ばれるたびに仕事用の自分が少しだけほどけていく。ほどけたものを誰にも見られないように、透花はいつも受付票やペン、名札を触る。けれど今日は、彼が片耳で管理室の音に耳を傾けていたと知ってしまった。
もしかしたら、隠していたつもりの小さな動揺も、彼の空いた耳に届いていたのかもしれない。
透花はホームの端に立った。線路の奥から、まだ姿の見えない電車の気配が伝わってくる。空気が先に動き、広告の紙がわずかに震えた。人々はそれぞれの画面を見つめ、耳を塞ぎ、あるいは何も聞いていない顔をしている。
透花は自分の耳に触れた。何も入っていない。街の音がそのまま届いている。届きすぎるくらいに。
水篠朔。
声には出さなかったが、心の中でその名前を呼んだ瞬間、片耳だけが熱を持ったような気がした。名前というのは不思議なものだ。文字で書けばそれなのに、思い浮かべるだけで音になる。
電車が入ってきた。風が強くなり、髪が頬に触れる。扉が開く前の短い間、ホームの音が一斉に押し寄せ、透花は思わず息を止めた。
あの人は、この音を片方だけで聞いているのだろうか。
そう思った瞬間、朔の孤独が自分のすぐ隣に立っているような気がした。かわいそうだとは思わなかったし、救いたいとも思わなかった。ただ、彼の空いた片耳に残る街の音を少しだけ知ってしまったことが、苦しかった。
電車に乗り込むと、車内の空気は人いきれで温かかった。誰かの濡れていない傘が足元に当たり、車体がゆっくり揺れ始めた。窓の外ではホームの光が流れていき、暗いガラスに透花の顔が映し出された。
そこにいるのは、いつもの帰り道の自分だった。名札を外し、仕事の声を落とし、誰にも名前を呼ばれない場所へ戻っていくはずの自分。けれど、ガラスに映る目元だけが管理室にまだ残っているように見えた。
透花は鞄の内ポケットに手を入れた。名札の硬い感触が指先に当たる。その近くには今日使った透明袋の予備が1枚だけ入っていた。朔に渡したものと同じ、薄くて頼りない袋。
捨てればいい。備品を間違って持ち帰っただけだ。そう思ったのに、指はそれを取り出さなかった。
車内の揺れに合わせて人々の肩が少しずつ触れ合ったり離れたりしている中、透花は窓の外の黒い部分を見つめた。街の光が線になり、また点に戻る。その速さの中で今日の窓口だけが静止したまま残っていた。
管理室の音が、よく聞こえました。
彼の言葉はまるで告白ではない。もちろん、そんなものではない。ただの短い感想で、片耳の話の続きで、何も始まっていない会話の一部だ。
それなのに透花は、その言葉の置き場所を見つけられなかった。仕事の棚にも返却済みのファイルにも夜の電車の窓にもうまく収まらない。
自分の中に置くしかないのだろうか。
そう思って透花は小さく息を吐いた。窓に映った息は白くならなかったが、胸の奥に残っていたものが少しだけ動いた気がした。
電車が次の駅に近づき、車体の下から響く音が深くなり、立っている人たちの足元に細かな振動が広がった。透花は、いつもより長く、片耳に入ってくるその音に耳を傾けていた。
失われたイヤホンは、もう彼の手元に戻っている。しかし、片方だけ空いたまま街の音を聞く人のことを、透花は今夜から知ってしまった。知らなかった頃には戻れない。
扉が開き、夜の空気が車内に少しだけ入り込んできた。降りる人の流れを避けながら、透花は鞄の内ポケットに触れた。名札と透明袋が薄い布越しに並んでいる。
名前と、失くさないための袋。
どちらも小さく頼りないが、今夜の透花には少し重かった。




