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名前を返す夜  作者: reika1021


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4/10

第4章:閉じた部屋の名

朝の管理室は昨日までより少しだけ乾いた匂いがし、窓の外では雲の薄い光がビルの壁をなぞっていた。通りを走る車の音は水を含んだ鈍さから、少しずつ固い響きに戻りつつあった。透花は戸口の鍵を開け、まだ人の声を知らない室内へ入った。


机の上には、夜のうちに届いた拾得物が並んでいた。折りたたまれた紺色の傘、擦れた名刺入れ、黒いハンカチ、小さな巾着袋、そして金属の鍵がひとつ。透明な袋に入れられたその鍵は、他のものよりもずっと小さかったが、机の上で妙に重たく見えた。


透花は受付票を手に取った。鍵、銀色、古い革のキーホルダー付き、駅近くの路地で拾得。持ち主の欄に書かれた名前を見た瞬間、胸の奥で朝の空気が少し止まった。


水篠朔。


もう驚かない、と思っていた。けれど、鍵だけが傘や定期入れやイヤホンとは違っていた。鍵は、どこかへ入るためのものだ。誰かの帰る場所、誰かが閉めている部屋、誰にも見せない生活の奥へとつながっている。


透花は透明袋をそっと持ち上げた。鍵の歯は少し摩耗していて、革のキーホルダーには細かな傷がいくつも入っていた。長く使われているもの特有の手触りが袋越しでも伝わってくるようだった。


見てはいけないものを見てしまったような気がした。もちろん、鍵そのものを確認するのは仕事であり、拾得物の特徴を記録するのも必要な作業だった。しかし、鍵というものは持ち主の不在をこちらに知らせてしまう。


朔は今どこにいるのだろう。鍵がここにあるということは、彼は自分の部屋に帰れていないのではないか。そう考えた瞬間、透花は受付票を机に置き、浅く息を吸った。


考えない。


そう決めても考えは指先から入ってくる。透明袋の中で鍵が小さく揺れ、その金属音が管理室の朝を細く裂いた。傘の水滴ともペン先の音とも違う、もっと個人的な響きだった。


透花は保管番号を貼り、鍵を棚の中段に置いた。見えすぎず、隠れすぎない場所。そう選んでしまう自分をまた意識した。水篠朔のものだけを特別に扱ってはいけない、と。


けれど、特別に見えてしまう。


そのこと自体は、もう否定しきれなかった。


開室の準備を終えるころ、外の通りは少しずつ人の流れを増やしていた。濡れ跡の消えた舗道を革靴が叩き、バス停のほうからかすかな話し声が流れてくる。管理室の窓ガラスには通りの明るさが平たく反射していた。


透花は受付台の上を整えた。ペンの向きを揃え、番号札の箱を開け、返却済みのファイルを端へ置く。そうして手を動かしている間だけ、胸の中の鍵の音は少し遠くなった。


けれど完全には消えない。棚の中に置いたはずの小さな金属が、見えない場所からずっとこちらを見ているようだった。物に視線があるはずもないのに、鍵だけが持ち主の沈黙を運んでくる。


最初の来訪者は、名刺入れを探しに来た男性だった。透花は本人確認をし、必要な項目を尋ね、保管棚から該当のものを取り出した。相手は中身を見て安堵し、少し恥ずかしそうに笑った。


その笑いを見ながら、透花は忘れ物を返す仕事の単純さと複雑さを同時に感じた。物が戻れば人はほっとするが、戻ってきたものの中には失くした時間や焦り、見られたくなかった生活の断片が含まれていることもある。


次に来たのは巾着袋を取りに来た若い女性で、中に入っていた小さな薬のケースを見つけると彼女は深く息を吐いた。透花は、その息の重さを感じ取り、何も聞かずにただ返却確認書を差し出した。


管理室にはさまざまな息が残る。安心した息、焦った息、謝る前の息、うそをつこうとしてやめる息。透花はそれらを受け取りすぎないようにしてきたはずだった。


それなのに、朔の呼吸だけがなぜか受け取る前から胸元へ届いてしまう。


昼へ向かう光が棚の番号札を淡く照らし、来訪者が途切れたすきに透花は鍵の保管票をもう一度確認した。記入漏れはなく、番号も合っており、連絡済みの印も押されていた。


つまり、彼は来る。


その事実が仕事の予定であると同時に胸の奥に小さな緊張を生んだ。待っているわけではないと言い聞かせるにはもう少し早かった。意識している時点で待つことに似ている。


透花は窓を少し開けた。外から乾いた風が入り、アスファルトの熱と近くの植え込みの青い匂いを運んできた。雨の残り香は薄くなっていたが、完全には抜けていなかった。


東京の空気はいつも何かを少しだけ残す。雨のあと、昼の暑さ、人の足音、言いかけた言葉。すべてがその場で終わらず、薄い膜のように次の時間へ貼りついていく。


透花は窓を閉めて鍵の棚から視線を外すと、視線の先に自分の名札が映った。「蓮見透花」。胸元のその文字は仕事のためにあるはずなのに、最近は仕事以外の場面で反応してしまう。


朔が呼ぶ前に置く息。


それを思い出すだけで、まだ名前が呼ばれていない空白の部分まで熱を持つ。呼ばれるのが怖い。呼ばれないのもたぶん怖い。自分がそんな面倒なことを考えるようになるとは思わなかった。


午後に近い時間の前、管理室の廊下に足音が近づいた。急いでいる足音ではなかったが、少し乱れていた。歩幅がそろわず、一度だけ床を強く踏む音がした。


透花は受付票を揃えたが、名札には触れなかった。触れないでいられるか試すように、手を台の上に置いた。


ベルが鳴った。


水篠朔が立っていた。


髪は少し乱れ、シャツの襟元には外の風が残っている。いつものバッグを肩にかけていたが、片手が空いていて何かを持っていない不自然さが、そのまま表れていた。鍵を失くした人はこんな顔をするのか、と透花は思った。


「こんにちは」


彼の声はいつもより低かった。困ったように笑う前に、わずかに息を飲むのが分かった。


「こんにちは。ご用件をお伺いします」


透花はそう言った。仕事の声だったけれど、その声の内側に少しだけ心配が混ざりそうになるのを抑えた。


「鍵の件で連絡をいただきました」


「受付番号をお持ちでしたら、お願いします」


朔は折りたたまれた紙を差し出した。紙の角は、指で何度も押されたように柔らかくなっていた。透花はそれを受け取り、番号を確認した。


「確認いたします。少々お待ちください」


棚に向かう背中に、彼の視線を感じた。いつもの見守る視線ではなく、今日は少し切実で、彼自身もそれを隠しきれていないようだった。


鍵の入った透明袋を取り出すと、金属が袋の中で小さく鳴った。その音に、窓口の向こうで朔の気配がわずかに動いた。


透花は窓口に戻り、アクリル板の下の隙間に袋を差し出した。


「こちらでお間違いないか、ご確認ください」


朔は鍵を見るなりほっとしたように目を伏せた。笑うよりも先に肩の力が抜けた。彼がいつも物を受け取る前に指先で確かめる理由が少しだけ分かった気がした。


「これです」


「中身の確認をお願いします」


「はい」


彼は袋から鍵を取り出し、古い革のキーホルダーを親指でなぞって鍵の歯を一度だけ光にかざし、そうしてようやく短く息を吐いた。


「よかった」


その一言は透花に向けたものではなかったかもしれないが、聞こえてしまった。鍵が戻ったことへの安堵が窓口の隙間を通って、こちらまで届いた。


「お困りでしたか?」


と言ってから、透花は少しだけ目を伏せた。聞かなくても分かることだった。鍵をなくして困らない人はいない。


朔は苦笑した。いつものように軽く流そうとしたが、その表情は途中で疲れに引っかかった。


「困りました。昨日、部屋の前で気づいて」


「お帰りになれなかったんですか?」


「少しだけ」


「少しだけ」という言い方で済むことではないだろうと思ったが、彼はそれ以上を言いたくなさそうだった。透花は受付票に視線を落とした。


「拾得場所は駅近くの路地と記録されています」


「たぶん物件を出た後です。写真を確認しながら歩いていて」


「危ないです」


「はい、そうですね」


朔は素直にうなずいた。今日はいつものように言葉を薄く笑いに変えない。鍵を失くすということが彼の中のどこかを少し剥がしているようだった。


透花は彼の手元を見た。鍵を握る指にわずかな赤みがあった。どこかで何かを強く押した跡かもしれない。部屋の扉の前でポケットを探し、鞄の底まで見て、それでも見つからなかった時間がきっとあったのだろう。


想像しないようにしても、帰れない夜の廊下が浮かんだ。古い建物の通路、蛍光灯の白さ、閉じたドア、かばんの中で擦れる定期入れ、片耳だけのイヤホン。彼はその前でどんな顔をしていたのだろう。


「昨日は、どうされたんですか?」


と、声が出ていた。透花は自分の言葉に少し遅れて気づいた。業務に必要な質問ではない。


朔は鍵から視線を上げて、少しだけ困った顔をした。答えたくないのかもしれないと思い、透花はすぐに言葉を足した。


「すみません。必要な確認ではありません」


「いいです」


朔は鍵を手の中で握り直した。革のキーホルダーが掌に隠れる。


「会社に戻りました。古いソファがあるので、そこで少し」


「そうでしたか」


「こういうの、あまり言うことではないですね」


「言いたくなければ、言わなくて大丈夫です」


透花がそう言うと、朔は不意に静かになった。窓口の向こうで音がひとつ消えたように感じた。


「蓮見さんは、そういう逃げ道をすぐ作りますね」


胸元が小さく鳴った気がした。名前を呼ばれる前に、彼はまた少し息を置いていた。その間が、今では透花にも分かってしまう。


「逃げ道ですか?」


「はい、相手が困らないように」


「業務上、必要な配慮です」


「また業務ですね」


朔の声には責める色はなかったが、少しだけ寂しさに似たものもにじんでいた。透花は返却確認書を差し出すことで、その気配から目をそらした。


「こちらに受領の署名をお願いします」


「はい」


朔はペンを受け取り、名前を書いた。「水篠朔」。何度見ても、その文字は同じはずなのに、いつもと少し違っていた。今日の筆跡は、最後の一画がいつもより強かった。


透花は手元を見すぎないようにしていたが、彼が鍵を左手で握ったまま書いていることに気づいた。失くしたくないものを離せない人のように、しっかりと。


「そんなに握っていなくても、もう返却済みです」


思わずそう言った。声は少し柔らかかった。


朔は自分の手元を見て少し笑った。


「そうですね。でも、一度失くすと」


言葉が途中で止まった。透花は続きを待った。待っている自分を、もう止められなかった。


「戻ってきても、まだ信じられないときがあります」


鍵の話なのだろう、と思うことはできたが、彼の声は鍵だけを指しているようには聞こえなかった。


「水篠様は」


透花はそこで一度止まった。名字を呼んだだけで、彼の目がこちらに向いた。窓口の距離は変わらないのに、その視線によって少し近づいた気がした。


「物を大事にされていないわけでは、ないんですね」


朔は意外そうに瞬きをした。


「そう見えますか?」


「受け取る時、いつも確かめるので」


「見ているんですね」


「確認しています」


「便利な言葉ですね」


「仕事ですから」


「はい」


朔は笑った。けれど、今度は逃げるための笑いではなく、少しだけ諦めて少しだけ受け入れるような笑いだった。


「大事にしているつもりでも、手から抜けることがあります」


透花は返却確認書を受け取りながらその言葉を聞いた。手から抜ける。まるで、物だけでなく日々そのものが、彼の指の間からこぼれていくようだった。


「鍵は困ります」


「はい、本当に」


「予備はないんですか?」


「あります。でも、会社に置いたままで」


「それでは予備になりません」


「蓮見さんに言われると、ちゃんと反省しますね」


「普段はしないんですか?」


「します。少しだけ」


その軽いやりとりに戻ったことで、透花はほんの少し呼吸が楽になった。けれど、さっきの言葉は消えない。戻ってきてもまだ信じられない。彼の手の中の鍵がそのまま彼の不安の形に見えた。


「お手続きは以上です」


透花はそう言った。終わらせるための言葉だった。物は戻り、署名も済み、確認書も受け取った。管理室としてはそれ以上の用はない。


朔は鍵を鞄にしまおうとしてやはり途中で止め、今度はポケットを探って小さな金属の輪に鍵を通し直した。透明袋に入れる必要はないが、その慎重な動きは失くさないための小さな儀式のように見えた。


「今日は袋はいりませんか?」


透花が言うと、朔は顔を上げた。少し驚いてから、口元に笑みを浮かべる。


「鍵は袋に入れると逆に失くしそうなので」


「それは、そうかもしれません」


「でも、言ってくれたんですね」


「前回、イヤホンを失くしかけていたから」


「覚えていることが増えていきますね」


その言葉に透花は息を詰めた。覚えていることが増える。それは彼の忘れ物の話であり、彼自身の話でもあった。


「忘れ物の記録は残ります」


「記録だけですか」


朔の声が少し低くなり、窓口の外の空気が静かに張り詰めた。透花は受付票に視線を落としたが、もう逃げられない問いだった。


「記録以外のことは仕事では扱えません」


「そうですね」


朔はあっさりと頷いた。けれど、そのあっさりとした受け答えが、かえって透花の胸に残った。


彼は踏み込む直前で止まる。こちらが困る場所までは来ない。だからこそ、余白が残る。その余白に透花は、自分の動揺を置いてしまった。


「蓮見さん」


また名前を呼ばれた。


今日の呼び方は昨日よりもさらに慎重だった。彼はもう、自分の声が透花の内側に何かを起こすことを知っているのかもしれない。知った上で呼んでいるのかもしれない。


「はい」


「呼びにくくなりました」


透花は一瞬、意味を掴めなかった。彼は鍵を握った手を少し下げ、窓口の端へ視線を逸らした。


「名前を。前は名札を見て、普通に呼べたんですけど」


透花の胸が静かに熱を持った。普通に呼べた、その言葉がもう普通ではなくなったことを伝えていた。


「呼ばなくても、手続きはできます」


透花はそう言った。それは正しい答えだった。しかし、言ったあとですぐに苦しくなった。


朔は小さく笑った。少しだけ困っていて、少しだけ痛そうな笑い方だった。


「そう言われると思いました」


「では、なぜ聞いたんですか?」


「聞いたというより、言ってしまいました」


透花は返却確認書の端を指で押さえた。紙はもはや歪まなかった。自分の手が、思ったよりも強くそこに置かれていることに気づいた。


「困ります」


と言ってから、透花は自分でも驚いた。いつものように整えた言葉ではなく、少しだけ本音に近い場所から出てしまった言葉だった。


朔の目がまっすぐにこちらを見る。


「困らせていますか?」


「少し」


正直すぎたが、もう引き返せなかった。窓口のこちら側で、透花は自分の声が仕事の高さからずれていくのをはっきりと聞いた。


朔はすぐに謝らなかった。そこが彼らしい、と透花は思った。軽く謝ってすべてをなかったことにするよりも、彼はまず言葉の重さを手の中で確かめる。


「すみません」


少し遅れて、彼は言った。


「でも、呼ばないのも少し困ります」


その言葉で管理室の空気がさらに静かになった。外では誰かの足音が通り過ぎ、遠くのドアが閉まる音がした。日常の音は続いているのに、窓口の前だけが細く切り取られているようだった。


透花は何も返せなかった。


呼ばれると困るし、呼ばれないのも困る。そんな曖昧なことは仕事では扱えない。けれど、今彼も同じような曖昧さの中にいるのだと分かってしまった。


「水篠様」


透花は彼の名前を呼んだ。名字だけ。けれど、前より少しだけ声が低かった。自分でもそれが分かった。


朔は息を止めたように見えた。


「はい」


「鍵を、失くさないでください」


その言葉は業務上の注意だったが、透花は言いながら、鍵以外の何かにも触れている気がした。帰る場所を失わないでほしい。閉じた扉の前で立ち尽くす夜をもう少し減らしてほしい。


言葉にはしなかった。言えるはずがなかった。


朔は鍵を握ったまましばらく黙っていたが、それからゆっくりとうなずいた。


「気をつけます」


「本当に」


「はい、本当に」


いつもの軽い返事ではなかった。透花はその違いに気づき、気づいたことを隠すために、確認書をファイルに挟んだ。


朔は窓口から離れようとして、一度だけ立ち止まった。


「蓮見さん」


今度は呼ぶ前の息が短く、呼びたい衝動が慎重さを少しだけ上回ったような声だった。


透花は顔を上げた。


「はい」


「今日は、帰れます」


たったそれだけだった。


けれど、その言葉は透花の胸の奥底に響いた。鍵が戻ったから帰れる。部屋の扉を開けられる。たぶん、それ以上でも以下でもない。そう思おうとした。


それでも、彼がそれを自分に言ったことがどうしようもなく残った。


「お気を付けて」


透花は言った。


朔はうなずき、今度こそ管理室を出て行った。扉が閉まる音は静かで、鍵を持った彼の足音は廊下の先へ少しずつ遠ざかっていった。


透花は窓口の前に立ったまましばらく動かなかった。鍵はもう棚にない。小さな空き場所が残っているだけだ。けれど、その空き場所はさっきまでよりずっと広く見えた。


今日は帰れる。


その一文が管理室の中に残っていた。失くした鍵が戻っただけなのに、まるで彼の夜が少しだけこちらへ開いたようだった。


透花は返却済みの印を押した。朱色の丸が紙に沈む。これで手続きは終わり、仕事は完了だ。そう自分に何度も言い聞かせる。


けれど、心には印を押せない。


夕方の光は窓の外でゆっくり薄くなり、雨の湿気が抜けた分、空の色は少し硬く、ビルの輪郭も昨日よりくっきりと見えるようになった。管理室の棚の影が床に落ち、番号札の白さだけがぼんやりと残った。


透花は机の上を片づけた。ペンを元の場所に戻し、確認書を束ね、鍵の保管票を返却済みのファイルに移す。水篠朔の名前は、傘、定期入れ、イヤホン、鍵と少しずつ違う紙の上に、その痕跡を残していく。


記録だけですか。


彼の声がさっきのまま耳に響く。透花はファイルを閉じた。記録だけだと言えばそこで終われるはずだったのに、そう答えた自分の声が一番信じられなかった。


窓の外では通りの灯りが点き始め、ビルの入り口に人影が集まり、バス停のそばで誰かが傘もない空を見上げていた。東京の夜は雨がなくても少し湿っていて、人の疲れを薄く含んでいる。


透花は管理室の照明を一つ落とした。棚の金属が暗くなり、窓口のアクリル板に自分の顔が映る。名札の文字は光を受けて、そこだけ小さく浮かんでいた。


蓮見透花。


朔はその名前を呼びにくくなったと言った。呼ばれるほうも、もう平気ではいられない。それなら名前とはいったい誰のものなのだろう。自分につけられたはずの音は、誰かの声を通った瞬間こんなにも戻り方を変える。


透花は名札を外そうとして手を止めた。今日は外す前にその文字をしばらく見てしまった。仕事用の名前、窓口に立つための名前、彼が呼ぶときだけ少し違う場所へ連れていかれる名前。


外せば終わるわけではない。胸元から離しても、もう耳の奥に残っている。


仕事を終えて戸締まりをした。鍵をかけるとき、自分の手にある管理室の鍵の重さをいつもよりはっきりと感じた。鍵は場所を閉じるためのものだが、誰かがそこに戻ることを許すものでもある。


透花はその金属を鞄にしまい、建物の外へ出た。


夜の手前の東京は、まだ少し明るさを手放しきれず、空の低いところに灰色の薄い筋が残っていた。街灯の輪が舗道に柔らかく広がり、地面は乾いているのに植え込みの土だけが昼の湿度を隠し持っていた。


透花は駅へ向かう道を歩いた。いつも通る横断歩道の手前で、鍵を探す仕草をしている人を見かけた。鞄の外ポケット、上着の内側、ズボンの後ろ。慌てた手の動きは、見ているだけで胸が詰まる。


すぐにその人は鍵を見つけ、安堵したように笑った。透花はそれを見て、朔の顔を思い出した。「よかった」と言った時の声。「帰れます」と言った時の、少しだけこちらへ預けられたような響き。


帰る場所があることとそこへ帰れることは、もしかしたら違うのかもしれない。そんなことを透花は、今まで深く考えたことがなかった。自分の部屋はいつも自分の鍵で開く場所だった。


けれど、扉の前に立ったまま入れない夜がある。部屋はそこにあるのに、自分だけが締め出される。物理的なことだけではなく、たぶん心にもそういうことがある。


朔は何から締め出されていたのだろう。


踏み込みすぎだ、と透花は思った。けれど、もう思うことまでは止められない。彼の忘れ物はいつも、彼の暮らしの輪郭を少しずつこちらに差し出している。


傘は雨のあとを、定期入れは夜の買い物を、イヤホンは片耳に残す街の音を、そして鍵は帰る場所の扉を。


それらをすべて返したのに、透花の中では返せないものが増えていく。


駅に近づくにつれ、人の流れが濃くなり、店先の光が歩道にこぼれ、どこからか焼けたパンのような香りが漂ってきた。通り過ぎる車の窓に信号の色が一瞬だけ映り、消えた。


透花は鞄の内ポケットに手を入れた。名札の硬い感触と管理室の鍵が、別々の場所にある。どちらも自分の一部であるはずなのに、今日は少し遠く感じられた。


信号待ちの間、彼の名前を声に出しそうになった。水篠様、と仕事用に。水篠朔、と、まだ口にしたことのないフルネームで。どちらも唇の手前で止まった。


呼ぶことは、思ったよりも危ない。


呼ばれることばかりを怖がっていたが、自分の声で誰かの名前を呼ぶことも同じくらい体の内側を変えてしまう。名前は相手へ向かうようでいて、まず自分の中を通るからだ。


信号が変わった。人の流れがゆっくりと解け、透花も歩き出した。鞄の中で管理室の鍵が小さく鳴り、朔の鍵を思い出した。


今日は、帰れます。


帰れるなら、それでいい、と彼女は思った。そう思うだけで終われれば、どれだけ楽だろう。


駅の階段を下りると、地下の空気が頬に触れた。地上の湿度とは違う、鉄と石と人いきれが混ざったような冷たさだ。電車の振動が壁の奥から伝わって、足元が細かく震える。


透花は改札を抜け、ホームへ向かった。人の肩と鞄の間をすり抜けるたびに、誰かの生活のにおいが少しずつ漂ってくる。洗剤、たばこ、雨ではない水のにおい、疲れた服のあたたかさ。


ホームの端で立ち止まると、線路の向こう側に暗い窓が並んでいた。そこには、仕事を終えたはずの自分の顔、けれどどこかまだ窓口に立っている自分の顔がぼんやりと映っていた。


透花は鞄の中の名札に触れた。透明な板の角が指に当たる。その名前を、彼は今日も呼んだ。呼びにくくなったと言いながら、それでも呼んだ。


呼ばないのも、少し困ります。


その言葉がホームのざわめきの中で静かに響いた。これは告白ではない。まだそんな言葉にしてはいけない。けれど、ただの窓口での会話でもなかった。


遠くから電車の気配が近づいてくる。空気が先に押されて髪の毛が揺れる。透花は目を閉じなかった。閉じたら、鍵を握る朔の手が浮かぶと分かっていたから。


今日は、彼は帰れる。


その事実だけを胸の中で何度も確かめた。自分には関係のないはずのことがどうしてこんなに静かな安心感をもたらしてくれるのだろう。誰かが帰れることをこんな風に思ったのは初めてだった。


電車がホームへ入ってきて、光が床を横切った。扉が開き、人が降りてきて、また人が乗ってくる。透花は流れに合わせて車内へ入った。


窓の外では、駅の柱がゆっくりと流れていく。車内の明かりに照らされたガラスには、鞄を胸元に寄せる自分の姿が映っていた。名札も管理室の鍵も、外からは見えない。


それでも透花には、その二つが今夜の自分の内側で小さく鳴っているのがわかった。


鍵は返した。


けれど、彼の帰る場所を少しだけ知ってしまった。


そのことが夜の電車の揺れの中でいつまでも指先に残っていた。


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