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名前を返す夜  作者: reika1021


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2/10

第2章:紙の隅の生活

雨の名残は翌朝の管理室にもまだ薄く残っていた。窓ガラスの端には乾ききらない水の筋が残り、外を走る車の音は、濡れた膜を一枚通したかのように鈍く響いた。透花は鍵を開けて室内に入り、空気の冷たさを胸の奥で感じながら棚の番号札をひとつずつ確認した。


机の上には夜の間に届いた拾得物が小さく積まれていた。革の定期入れ、黒い折り畳み傘、細いチェーンのついた鍵、片方だけの手袋。誰かの生活から外れたそれらの品々は、眠っているというよりも目を開けたまま持ち主を待っているように見えた。


透花は白い封筒から受付票を取り出し、書かれた名前を順に追った。知らない名前ばかりの中に、見覚えのある文字が現れた瞬間、指先がほんの少し止まった。


水篠朔。


その三文字を見ただけで、管理室の空気が昨日とは違う重さを持った気がした。定期入れ、黒革、駅構内で拾得。備考欄には「内側に古いレシート数枚あり」と小さく記されていた。


透花は目を逸らした。目を逸らしたところで文字は消えない。紙の上にある名前は静かで声など持っていないはずなのに、昨日窓口で呼ばれた自分の名前まで一緒に連れて戻ってくる。


仕事をするだけだ。


声に出さず胸の中でそう決めた。定期入れを受け取ったときと同じ番号が棚の下段に貼られていた。透花は薄い手袋をつけ、透明袋に入ったそれを持ち上げた。


黒い革は角が擦れて白くなり、縫い目のあたりに細かなほこりが入り込んでいた。よく使われているもので、新しくはなく、大切に扱われているとも言い切れないが、捨てられずに毎日どこかへ持ち運ばれているため、疲れが見えた。


透花は袋越しにそれを見つめた。持ち主の顔を想像しないようにしても、水篠朔の指が勝手に浮かんでくる。傘の骨を確かめる時の指先、受領書に名前を書く時のためらい、物をなくしているのに受け取る瞬間だけ妙に慎重な手つき。


定期入れの中身を確認する必要があった。本人特定につながるものは記録として控えるため、透花は作業机にそれを置き、袋を開けた。すると、革の匂いと乾いた紙の匂いがわずかに混ざって立ちのぼってきた。


中には交通系のカードが一枚と古いレシートが数枚挟まっていた。コンビニのもの、駅近くの喫茶店らしいもの、どこかのコインランドリーのもの。日付は見ないようにしていたが、紙の色や折れ目から、長く入れっぱなしにされていたことが分かった。


レシートの端には雨に濡れたのか数字の一部がにじんでいた。夜遅くに買ったらしい温かい飲み物、洗剤、小さな絆創膏。並んだ品名だけで生活を決めつけることはできないが、それでも整った顔で窓口に立つ青年の背後に少し散らかった部屋の明かりが見えるようで、透花は息を浅くした。


見てはいけないものを見たわけではない。これは業務で必要な確認だった。そう分かっているのに、誰かの暮らしの隙間に触れてしまったときの後ろめたさは指に薄く残る。


透花は必要事項だけを控え、定期入れを袋に戻した。黒革の角が透明袋の内側に触れ、小さな音を立てる。その音が朝の管理室では妙に大きく響いた。


窓の外では雨上がりの白さが少しずつ街の色に混ざり始め、濡れた道路を自転車が通り過ぎるたびに、泥除けに残った水が細く跳ねていた。遠くの工事現場から鉄を打つ音が聞こえてきたかと思うと、すぐにバスの低い走行音に消された。


透花は受付票に保管番号を書き込み、棚へ向かった。定期入れを置く場所は、昨日の傘があった場所より少し上だった。名前は違う棚に移っても、やはり同じ管理室の中にいる。


水篠朔。


自分で記録した文字を見ながら透花はペンを止めた。名前を呼ばれるのが苦手だったはずなのに、今は呼ばれなかった名前のほうまで意識している。呼ばれる前からもう乱れているのかもしれない。


管理室の開室を告げるベルを鳴らすと、入口の外にいた空気がゆっくりと流れ込んできた。最初の来訪者は、折り畳み傘を探しに来た年配の女性だった。透花は本人確認をし、傘の色と特徴を聞いてから、保管棚から該当の傘を取り出した。


声は乱れなかった。相手の目を見て、必要なことだけを尋ね、丁寧に返す。仕事はできている。そう思うたび、仕事の外へはみ出した昨日のわずかな動揺が、かえって輪郭を濃くした。


次に来たのは、社員証をなくした若い会社員だった。彼は額に汗を浮かべて何度も「すみません」と言った。透花は慣れた声で手続きを案内し、「焦らなくて大丈夫です」と伝えた。


自分の声は誰かを落ち着かせるためにうまく使えるが、自分を落ち着かせるためにはあまり役に立たない。透花は、受付票を閉じる手つきの中でそのことをぼんやりと思った。


外の光が少し強くなり、アクリル板に室内の棚が薄く映り、透花の顔もそこに重なっていた。表情はきちんとしていたが、きちんとしているほど内側の落ち着かなさが不自然に思われた。


昼に近づくにつれて、管理室の空気は紙と革と濡れた傘の匂いで少し重くなったので、透花は換気のために窓を少し開けた。すると、外から湿った風が入り、舗道の匂いと近くの植え込みから漂う青い匂いが混ざった。


その風が棚に吊るされた番号札をわずかに揺らし、小さな紙片が触れ合う音がした。その音の中に水篠朔の名前があると思うと、透花はすぐに窓を閉めたくなったが、閉めなかった。そんなことで変わるものではない。


休憩に入る前、透花はもう一度だけ定期入れの棚を確認した。理由はあった。保管番号の記入に間違いがないか見直す必要がある、という理由を自分でもつけていた。


透明袋の中で黒い革が静かに横たわっているのを見て、透花は中に挟まっていた古いレシートを思い出し、無意識に自分の財布を見た。使い終わった紙を捨てられずに持ち歩くことなら自分にもあるし、何も特別なことではない。


しかし、彼の場合、その紙のくたびれ方が妙に胸に残った。夜に買った飲み物、洗剤、絆創膏。どれも誰かに見せるためのものではなく、生活を繋ぎとめるための小さなものだった。


透花は昼食を簡単に済ませた。小さな休憩室の窓から見えるビルの壁は雨のあとに浮いたような灰色をしていて、弁当のご飯は少し冷えていて口の中で味が遅れて広がった。


食べながら、朔はちゃんと昼を食べているのだろうかと思った。思ってから、自分に呆れた。忘れ物を取りに来る来訪者の昼食まで気にする職員はいない。


ただ、古いレシートの中に温かい飲み物があったからだ。あれをどこで飲んだのか。駅のベンチか、車の中か、撮影帰りの古い建物の前か。想像は勝手に場所を作り、そこに彼を立たせてしまう。


透花は箸を置き、水を飲んだ。冷たい水が喉を通っても、落ち着きは底まで届かなかった。


午後の管理室には午前よりも少し人の声が聞こえる。外で働いていた人たちが合間に立ち寄り、電車を乗り換える途中の人が駆け込んでくる。失くしたものを説明するとき、人は少しだけ自分の生活について話してしまう。


どこで落としたのか覚えていない、気づいたらなかった、昨日は疲れていて、たぶんあの時だと思う、というように、言葉の端々から透花は一人ひとりの朝や夜を感じ取る。


小さな窓口の管理室に、東京中の生活のほころびが集まってくる。駅の階段、雨の歩道、古いアパートの入口、改札前の混雑、タクシーの座席、どこかの洗面台。それぞれの場所で手を離れたものにここで番号が与えられる。


番号になったものは扱いやすいが、名前になったものは少し扱いにくい。透花はそれを知っている。


夕方の手前で入口のベルが鳴り、透花は書類から顔を上げた。窓口の向こうに昨日と同じ青年が立っていた。


水篠朔は今日も少し困ったように笑っていた。髪は昨日より乾いており、薄いシャツの襟元には外の風がまだ残っている。片手には小さなカメラバッグのようなものを持っており、もう片方の手はコートのポケットに入っていた。


来ると分かっていた。定期入れが届いているのだから、取りに来るのは当然だった。それなのに、実際に姿を見ると、透花の体は一瞬だけ準備を忘れた。


「こんにちは。定期入れの件で」


「受付番号をお願いします」


言葉は出たが、少し急いでいた。朔はそれに気づいたのか、ポケットから紙を取り出す前に窓口の内側を静かに見た。


「昨日の傘、ちゃんとありました」


「そうですか」


「ちゃんと、というのも変ですね。自分の傘なのに」


朔はそう言って笑った。透花は受付票の束を開き、彼の名前がある紙を探した。探すまでもなく、指はその位置を覚えていた。


「定期入れは、こちらでお預かりしています」


「またお世話になります」


「確認をいたしますので、身分証をお願いします」


「はい」


朔は財布から身分証を取り出した。手元の動きは昨日よりも少し慎重だった。透花はそれを受け取り、名前と生年月日を確認した。「水篠朔」。「二十六歳」。文字としては昨日と同じなのに、目の前に本人がいるだけで、紙の名前に体温が戻った。


「確認できました」


「よかった」


「こちらでお待ちください」


棚に向かう間、透花は背中を見られている気がした。振り返らない。振り返る必要はない。保管番号を確認し、黒い定期入れの入った袋を取り出すだけの動作に集中する。


透明袋を持った手にわずかに力が入る。レシートの存在を知っていることが急に重く感じられた。彼の生活の一部を見てしまったことを彼は知らない。知らないままでいい。


窓口へ戻ると、朔は、人と人の間に置かれた小さな通り道である、アクリル板の下の隙間を見ていた。そこを通って物が返され、紙が行き来し、時々余計な感情まで渡りそうになる。


「水篠様の定期入れでお間違いないか、ご確認ください」


透花は袋から定期入れを取り出し、朔に差し出した。朔はそれをすぐに開けず、まず角に親指を当てて革の擦れた部分を確かめた。


「これです」


「中身の確認をお願いします」


「はい」


朔は定期入れを開けた。古いレシートが少しだけ見える。透花はそれを見ないようにした。すでに確認しているのに今さら目を逸らすのは逆に不自然かもしれないと思いつつ、それでも視線を受付票に落とした。


「全部あります。すみません、こんなものまで見せることになって」


透花の指が止まった。


「必要な確認だけです」


「そうですよね」


朔はレシートを少し奥へ押し込んだ。隠すようでもあり、整えるようでもあった。その動きに、透花の胸が小さく痛んだ。見てはいけない場所に触れてしまったのは、やはり自分のほうなのかもしれない。


「駅で落としていたそうです」


「だと思います。昨日、物件を見たあとに少し歩いていて」


「お仕事ですか?」


と聞いた後、透花はまた少し後悔した。必要以上だった。けれど、朔は嫌な顔をしなかった。


「古いビルの撮影でした。雨のあとって壁の傷がはっきり出るんです」


「壁の傷ですか?」


「はい。乾いているときは見えないものが、濡れると出てくるんです。ひびとか、塗装の浮きとか」


朔は、定期入れを指先で軽く挟んだままそう言った。透花は、その声を聞きながら濡れた壁に浮かぶ傷を想像した。雨は、隠すものだと思っていた。けれど、雨は、見えなかったものを浮かび上がらせることもあるのだ。


「そういうところを撮るんですね」


「きれいなところだけ撮っても、あとで困るので」


「正直んですね」


「建物にはたぶんそのほうが良いです」


人に対してもそうなのだろうか、と思ったが、言葉には出さなかった。言葉にしたら、窓口の仕事ではなくなってしまう。


朔は定期入れを見下ろし、少し笑った。


「僕はあまり正直ではないんですけど」


透花は返事に迷った。肯定も否定もできない距離だった。彼のことを知っているわけではないが、知らないとも言い切れなくなっていた。


「こちらに受領の署名をお願いします」


透花は昨日と同じペンを差し出した。朔はそれを受け取り、確認書に名前を書いた。


水篠朔。


昨日よりも少し早い筆跡だったが、最後の一画だけやはり息を置いた。透花は見すぎないようにしていたが、結局見てしまった。


「見ていますね」


「確認しています」


「そう言われると思いました」


朔の声には、からかうほどの軽さはなかった。むしろ、自分の名前が書かれるところを見られるのに慣れていない人の、少し照れたような響きがあった。


「字を見られるのが苦手なんですか?」


透花は思わず昨日の言葉を返していた。言ってから口元が熱くなり、覚えていたことを伝えてしまったような気がした。


朔はペンを止め、ゆっくり顔を上げた。


「覚えていたんですね」


「業務上必要なことは」


「僕の字が苦手なことも?」


「それは、業務ではありません」


透花がそう言ってから、自分の声が少し柔らかくなったのを感じた。窓口のこちら側で、管理室の空気がわずかに傾く。朔は笑わなかったが、目元だけが少し緩んだ。


「蓮見さんは、仕事の声とそれ以外の声が違いますね」


その言葉に透花の呼吸が浅くなり、名札に触れそうになった手を受付票の上で止めた。見抜かれたくなかった。仕事用の声で隠しているものをこんなに早く誰かに知られたくなかった。


「そう聞こえますか?」


「はい、悪い意味ではなくて」


「悪い意味でなければ、何ですか」


少しだけ硬い声になった。朔はその変化に気づいたようで、言葉を探す間を置いた。窓口の外では、誰かが廊下を歩いていて、靴音が遠くへ消えていった。


「無理にまっすぐ立っているような声、という感じがします」


透花は何も言えなかった。変な表現だと思ったが、変だからこそすぐには否定できなかった。自分でも気づかなかった部分を言葉の指先で押されたようだった。


「すみません、変なことを言ってしまいました」


「いえ」


透花は確認書を受け取り、目を落とした。彼の署名がそこにある。水篠朔。黒いインクで書かれた名前が、さっきより少し近くに見えた。


「お手続きは以上です」


「ありがとうございます」


朔は定期入れを鞄に入れようとして途中で止め、中からレシートを一枚抜き取り、少し考えてから折り畳んだ。捨てるのかと思ったが、彼はそれをまた別のポケットにしまった。


「捨てないんですね」


と言ってしまった。


透花はすぐに唇を閉じた。これは業務ではない。明らかに踏み込みすぎたのだ。窓口の内側で空気が細く張り詰める。


朔は驚いた顔をした後、少しだけ視線を落とした。


「捨てるのが下手なんです」


「すみません、今のは」


「いいです」


彼は軽く首を振ったが、その笑い方は少し苦かった。


「買ったものを覚えておくためというか、あとで見たときにあの日ちゃんと帰ったんだなって分かるので」


透花はその意味をすぐには理解できなかった。ちゃんと帰った、という当たり前のことを紙で確かめる夜があるのだろうか。


「変ですよね」


「変ではないと思います」


「蓮見さんは優しいですね」


「優しいわけではありません」


「では、仕事ですか?」


「……仕事です」


答えながら、透花は自分の中でその言葉が少しだけ薄くなるのを感じた。「仕事です」と言えば安全だった。窓口の線を越えずに済む。けれど、その言葉だけで片付けるには、彼の今の声は静かすぎた。


朔はそれ以上レシートの話をせず、定期入れを鞄にしまった。持ち手を確かめ、帰る準備をしているはずなのに、なぜかすぐに離れない気配があった。


「蓮見さん」


名前を呼ばれた。


昨日よりも少し慎重な声で、急に触れないように、でも触れずにはいられないような響きだった。透花は顔を上げたが、すぐには返事をしなかった。


「はい」


遅れて出た声は、また少しだけ仕事の形を失っていた。


朔は言葉を選ぶように定期入れの角に指を当てた。


「昨日、名前を呼んで、困らせましたか?」


透花の胸元で名札が急に重くなった。困らせたかと聞かれると、困っていないとは言えない。けれど、困ったという言葉にしてしまえば、彼はもう名前を呼んでくれないかもしれない。


それは困る。


そう思った自分に、透花は動揺した。


「窓口では、名札を見て呼ばれることはあります」


「そういう返事が来ると思いました」


「事実です」


「事実だけではない顔をしていました」


透花は受付票の端を指で押さえた。紙が少し歪んだ。朔の視線は強くなかった。ただ、逃げ道を塞がず、こちらが逃げるかどうかを待っているようだった。


「水篠様」


透花は彼の名前を呼んだ。仕事の声で、名字だけを丁寧に、距離を保って。しかし、口にした瞬間、その音は思っていたよりも深いところに落ちた。


朔の表情がほんの少し変わった。


「はい」


その返事は低く短く、窓口の向こうで何かが静かに揺れた気がした。透花は自分が彼の名前を呼んだことに遅れて気づき、喉の奥が熱くなった。


「お忘れ物をされないよう、お気をつけください」


定型的な言葉に逃げた。朔はそれを聞いて、今度は少しだけ本当に笑った。困ったときではなく、何かを受け取ったときの笑い方だった。


「はい、気をつけます」


「本当に、お願いします」


「信用がないですね」


「何度もいらっしゃっているので」


「それはそうですね」


会話は軽いはずなのに、言葉の間に別のものが混ざっている。透花はそれを見ないふりをして、朔もたぶん気づかないふりをした。


彼が窓口から離れると、管理室前の廊下に薄い影が伸びた。夕方の光が建物の中に入り、アクリル板の表面を少しだけ金色に染めた。朔は一度だけ振り返ったが、何も言わなかった。


透花も何も言わなかった。


扉が閉まり、彼の足音が遠ざかっていく。定期入れはもう棚にない。返却済みの印を押せば、それで終わるはずだった。


透花は朱肉を開け、確認書の欄に印を押した。小さな丸が紙に沈む。その赤だけが室内の色から少し浮いて見えた。


水篠朔の名前は返却済みのファイルに移った。物は戻り、手続きは完了した。しかし、彼が帰った後も管理室の空気はすぐには元に戻らなかった。


名前を呼んだ。


透花はその事実を胸の中で何度も反芻した。名字だけだった。仕事上の呼称だった。来訪者を呼ぶときの正しい言葉だった。それでも、自分の声の中に彼の名前が入った瞬間、どこかの線が細く震えた。


外の光はゆっくりと傾き、棚の影が床に長く落ちた。革の定期入れがあった場所は空いている。空白はただの空白なのに、そこに名前の形が残っているように見えた。


透花は棚を閉めて鍵をかけた。手元の金属音が小さく響く。今日はもう彼は来ない。そう思うと安心するはずなのに、胸の奥底が少し物足りなく感じた。


仕事が終わるまで、透花はいつもより少し多く書類を整えた。机の角を拭き、ペンの向きを揃え、番号札を種類ごとに分けた。しかし、整えれば整えるほど、整わないものだけが残った。


管理室の照明を落とすころには、外は雨に洗われた空気の中で、灯る明かりの輪郭がやわらぎ、夜へと変わっていた。透花は名札を外し、鞄の内ポケットへしまった。


外へ出ると、舗道から昼の熱がまだ少しだけ戻ってきた。雨のあとに乾ききらなかった石の匂いと、地下鉄の入口から上がる風が混ざる。街は濡れているのに、昨日よりも人の足取りが早かった。


透花は駅へ向かいながら、定期入れの古いレシートを思い出した。温かい飲み物、洗剤、絆創膏。どれも小さなものなのに、彼の夜の輪郭を少しだけ明かしてしまう。


あの日ちゃんと帰ったんだなって分かるので。


その言葉が、帰り道の人混みの中で何度もほどけた。ちゃんと帰るということが、誰にとっても簡単だとは限らない。そう考えた時、透花の中で彼の忘れ物は、ただの不注意ではなくなった。


信号待ちの人々の中で、透花は鞄の紐を握り直した。車のライトが濡れた車道に伸び、赤と白の光が薄く混ざる。誰かの携帯電話の通知音が鳴り、すぐに雑踏へ沈んだ。


水篠様。


自分の声で呼んだ名字を心の中でなぞる。仕事用の呼び方だったはずなのに、口の中には仕事ではない温度が残っていた。呼ばれるよりも呼ぶほうが、怖いこともあるのだと透花は初めて知った。


駅の階段を下りると空気が変わり、地下の湿った冷気が頬に触れた。足元からは、かすかに電車の振動が伝わってくる。透花は改札の前で足を止め、鞄から定期入れを出した。


自分の定期入れは薄い灰色で角はまだ擦れておらず、中に余計なレシートは入っていなかった。必要なものだけを入れ、不要なものはすぐ捨てる。そうしておけば生活は乱れない、と思っていた。


けれど、乱れない生活が本当に平穏な生活なのか、急に分からなくなった。


改札を抜けるとき、機械の読み取り音が短く鳴った。その音に背中を押され、透花は人の流れに入った。ホームへ続く通路は、濡れた靴のにおいと疲れた服の湿りを含んでいた。


毎日、誰かの名前を扱う仕事をしている。名前を確認し、記録し、呼び、返す。そのはずなのに、あるひとつの名前だけが仕事の棚を抜け出し、自分の帰り道までついてくる。


透花はホームの柱のそばに立ち、電車が来る風を待った。線路の奥から近づく音が、まだ姿の見えないものの気配を連れてくる。髪の先がわずかに揺れた。


「蓮見さん」


「水篠様」


呼ばれた名前と、呼んだ名前が胸の中で近づきすぎない距離に並んでいた。どちらもただの名字なのに夜の空気の中では少し危うく見えた。


透花は目を閉じなかった。閉じれば窓口越しの朔の顔が浮かぶ気がしたし、閉じなくてももう十分に浮かんでいた。


電車の光がホームの床を白く滑り、風が服の裾を揺らした。透花は鞄の内ポケットにしまった名札の位置を指先で確かめた。そこには自分の名前があった。


けれど今夜、その名前は自分だけのものではないように思えた。


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