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死人は嘘をつく ――死者の最後の三十秒だけが、真実を知っている。  作者: 鷹司 怜


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第三話 消えた事件ファイル

 事件ファイルは、驚くほど軽かった。


 それなのに、九条恒一の手には鉛の塊を抱えているような重さがあった。


 警視庁捜査一課、資料室。


 窓の外では、梅雨明け前の青空が広がっている。


 昨夜まで降り続いていた雨が嘘のようだった。


 「……開けます。」


 朝比奈美月が小さく言った。


 九条は黙って頷く。


 青い紙製のファイルには、古びた管理番号が印字されている。


 平成十八年 第七八三号。


 白石真帆殺人事件。


 十九年間、九条が追い続けてきた事件。


 本来なら、このファイルは存在しない。


 捜査本部解散後、証拠品とともに保管されていたはずの資料は、ある日突然、警察内部から消えた。


 紛失。


 そう処理された。


 だが九条は信じていない。


 誰かが消した。


 そう確信していた。


 朝比奈が慎重に表紙を開く。


 一枚目。


 事件概要。


 二枚目。


 現場見取図。


 三枚目。


 検視報告書。


 すべて当時の資料と一致している。


 「本物ですね……。」


 朝比奈が息をついた。


 九条は答えない。


 四枚目をめくった、その時だった。


 「……え?」


 朝比奈の指が止まる。


 「どうした。」


 「この書類……。」


 彼女は報告書の端を指差した。


 そこには肉眼では気付かないほど小さな印字で、コピー機の管理番号が記録されていた。


 朝比奈は資料を光に透かす。


 「最新型の複合機です。」


 「少なくとも二十年前のものではありません。」


 「つまり?」


 「この資料は……。」


 彼女はゆっくり九条を見た。


 「最近、誰かがコピーしています。」


 静かな部屋に、時計の秒針だけが響く。


 九条はもう一度資料を見つめた。


 二十年前の事件資料を、最近になってコピーした人物がいる。


 警察関係者か。


 それとも――。


 「管理官。」


 九条は鬼塚を振り返った。


 「この資料、受付へ持ってきた人間は?」


 鬼塚は首を横に振る。


 「監視カメラを確認した。」


 「誰も映っていない。」


 九条は苦く笑う。


 「またか……。」


 黒い折り鶴。


 消えた人影。


 映らない差出人。


 誰かが警察の目をあざ笑うように、痕跡だけを残している。


 「九条さん。」


 朝比奈が静かに言う。


 「これを見てください。」


 机の上には一枚の写真。


 真帆の遺体が横たわる現場写真だった。


 九条は十九年間、その写真を見ることができなかった。


 見るたびに、自分を責めてしまうからだ。


 それでも今日は目を逸らさなかった。


 真帆は白いワンピースを着ていた。


 胸元には深い刺し傷。


 血は雨に流され、ほとんど残っていない。


 「報告書では、刺創は一か所。」


 朝比奈は写真を拡大する。


 「でも……。」


 画面が大きくなる。


 胸元。


 さらに首筋。


 「ここ。」


 彼女がペン先で示した。


 首の付け根。


 髪に隠れた場所に、小さな黒い穴がある。


 「これ……。」


 九条の声が震える。


 「傷……か?」


 「ええ。」


 朝比奈は頷く。


 「刺し傷ではありません。」


 「もっと細い。」


 「注射針のような痕です。」


 九条の鼓動が速くなる。


 検視報告書には、そんな記載は一切ない。


 もし朝比奈の見立てが正しければ――。


 真帆は刺される前に、何かを投与されていた。


 「鑑定書が……。」


 九条は呟く。


 「書き換えられている。」


 その瞬間。


 資料室の扉が勢いよく開いた。


 若い刑事が息を切らして飛び込んでくる。


 「九条警部補!」


 「二十年前の真帆事件で現場指揮を執った元刑事、佐倉義雄さんですが――」


 刑事は言葉を詰まらせた。


 嫌な予感が、部屋を満たす。


 「三日前、自宅近くで交通事故に遭い、亡くなっていました。」


 九条は立ち上がる。


 「……いつだ?」


 「高橋修一さんが殺害された、その前日です。」


 朝比奈と九条の視線が重なった。


 偶然ではない。


 真帆事件を知る人間が、また一人消された。


 九条は静かにファイルを閉じる。


 十九年前の事件は、過去ではない。


 今も誰かが、真実を隠し続けている。


 元警視庁捜査一課警部補・佐倉義雄の自宅は、東京郊外の古い住宅街にあった。


 築四十年ほどの木造住宅。


 庭には手入れの行き届いた紫陽花が咲き、軒先には風鈴が揺れている。


 静かすぎる家だった。


 まるで主人の帰りを、今も待ち続けているように。


 九条は玄関先で靴を脱ぎ、ゆっくりと室内へ足を踏み入れた。


 室内には事故死とは思えないほど生活の痕跡が残っている。


 食卓には湯飲みが一つ。


 新聞は事件当日の朝刊のまま。


 テレビのリモコンは定位置に置かれていた。


 朝比奈が小さく呟く。


 「生活感がありますね……。」


 「ああ。」


 九条は頷いた。


 「自殺する人間の部屋じゃない。」


 鬼塚管理官も腕を組む。


 「事故と断定されたが……違和感はある。」


 九条は仏壇の前で立ち止まった。


 遺影の佐倉は穏やかに笑っている。


 十九年前、真帆事件の現場で何度も顔を合わせた刑事だった。


 厳しかったが、誰よりも被害者に寄り添う男だった。


 その佐倉が、事件の直前に事故死。


 偶然とは思えない。


 「管理官。」


 九条は振り返る。


 「事故現場の写真は。」


 鬼塚は封筒を差し出した。


 道路脇のガードレール。


 大破した乗用車。


 そして、運転席で息絶えた佐倉。


 九条は写真を一枚ずつ確認する。


 最後の一枚で手が止まった。


 「……これは。」


 助手席の足元。


 黒い紙片が写っている。


 鑑識はただのゴミとして扱ったのだろう。


 だが九条には分かった。


 折り鶴を開いた時と同じ特殊な和紙だった。


 「朝比奈。」


 「はい。」


 「拡大できるか。」


 彼女はスマートフォンで撮影し、画像を拡大する。


 紙の端に、銀色の文字が見えた。


 『約束の日』


 朝比奈の表情が変わる。


 「また、この言葉……。」


 九条は唇を噛んだ。


 真帆。


 高橋。


 佐倉。


 三人とも同じ言葉に繋がっている。


 「九条さん。」


 部屋を調べていた若い刑事が声を上げた。


 「押し入れから箱が見つかりました。」


 古びた段ボール箱だった。


 表には油性マジックで、


 『平成十八年 私物』


 とだけ書かれている。


 九条は慎重に蓋を開けた。


 中には事件資料。


 古い手帳。


 メモ帳。


 使い込まれた万年筆。


 そして、一番下から透明なケースが現れた。


 カセットテープだった。


 ラベルには佐倉の字で書かれている。


 『九条には必ず聞かせること』


 部屋の空気が凍り付いた。


 鬼塚が顔を上げる。


 「再生機はあるか。」


 押し入れの奥から古いラジカセが運ばれてくる。


 朝比奈が慎重にテープを入れた。


 ガチャリ。


 再生ボタンが押される。


 ザーッというノイズ。


 十秒ほど無音が続く。


 そして。


 男の声が流れ始めた。


 『……佐倉です。』


 『この録音を聞いているということは、私はもう生きていないかもしれない。』


 九条は息を止める。


 佐倉の声だ。


 十九年前と変わらない、低く落ち着いた声。


 『真帆さんの事件には、警察が発表していない事実がある。』


 朝比奈が思わず九条を見る。


 鬼塚も表情を変えない。


 『私はずっと後悔してきた。』


 『あの日、本当の証拠を守れなかった。』


 ノイズが入る。


 テープが少しだけ乱れた。


 そして。


 佐倉は最後に、ゆっくりと言った。


 『九条。』


 『お前は、本当に何も覚えていないのか。』


 その言葉に、九条の心臓が大きく脈打つ。


 『お前は……』


 『あの日、真帆さんの最後の言葉を聞いている。』


 九条の瞳が見開かれた。


 そんなはずはない。


 真帆が殺された時、自分は現場にいなかった。


 そう信じて生きてきた。


 だが。


 テープの向こうで、佐倉は静かに続ける。


 『だから、お前は嘘をついた。』


 ブツッ――。


 そこで録音は切れた。


 部屋に重い沈黙が落ちる。


 誰も口を開けない。


 九条だけが、震える手でテープを見つめていた。


 記憶がない。


 だが、胸の奥では何かが軋んでいる。


 忘れたのではない。


 忘れようとした記憶が、今、少しずつ目を覚まし始めていた。


 部屋の中には、テープが止まったあとの無音だけが残っていた。


 ラジカセの回転音が、やけに大きく聞こえる。


 朝比奈が最初に口を開いた。


 「……九条さん。」


 返事はなかった。


 九条はテープを見つめたまま動かない。


 佐倉の最後の言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。


 ――お前は、本当に何も覚えていないのか。


 ――真帆さんの最後の言葉を聞いている。


 そんなはずはない。


 十九年間、何度も記憶をたどった。


 あの日、自分は大学の研究室にいた。


 刑事から電話を受け、病院へ駆け付けた。


 それが自分の記憶だった。


 だが。


 その「記憶」は、本当に自分のものなのか。


 「九条。」


 鬼塚管理官が静かに言った。


 「帰るぞ。」


 九条は小さく頷いた。


 しかし立ち上がろうとした瞬間だった。


 視界が揺れた。


 胸が締め付けられる。


 息が苦しい。


 目の前の景色が白く(かす)み始めた。


 朝比奈が異変に気付く。


 「九条さん!」


 その声が遠ざかる。


 そして――。


 九条の意識は暗闇へ落ちた。


 雨だった。


 また雨が降っている。


 街灯がぼんやり滲み、濡れたアスファルトに赤い光が揺れている。


 九条は、その道を知っていた。


 忘れるはずがない。


 二十年前。


 真帆が殺された夜の路地だった。


 「……真帆!」


 思わず叫ぶ。


 路地の奥で、一人の女性が振り返った。


 白いワンピース。


 長い黒髪。


 白石真帆。


 二十歳のまま、そこに立っていた。


 九条は駆け寄ろうとする。


 だが、足が動かない。


 まるで誰かの身体を借りて景色を見ているようだった。


 これは夢ではない。


 能力だ。


 しかし、死者に触れていない。


 それなのに記憶が流れ込んでくる。


 真帆が微笑む。


 「あ、恒一。」


 その笑顔は、あの日と同じだった。


 「ごめんね。」


 「待たせちゃった。」


 九条の胸が締め付けられる。


 違う。


 このあと何が起こるか、自分は知っている。


 「逃げろ!」


 叫ぶ。


 届かない。


 真帆は何も聞こえないように笑っている。


 その時だった。


 背後から黒いコートの人物が近付く。


 顔は見えない。


 しかし、その歩き方だけで分かった。


 この人物を、自分は知っている。


 いや――。


 知っていた。


 黒い影がゆっくり右手を上げる。


 銀色に光る刃。


 九条は必死に身体を動かそうとする。


 動け。


 頼む。


 動いてくれ。


 その瞬間。


 真帆がこちらを見た。


 今度は確かに目が合った。


 唇がゆっくり動く。


 「思い出して。」


 世界が砕け散る。


 「九条さん!」


 朝比奈の声で目を覚ました。


 白い天井。


 病院の診察室だった。


 鬼塚が腕を組み、窓際に立っている。


 「五分ほど意識を失っていた。」


 九条はゆっくり起き上がる。


 額には冷たいタオルが乗せられていた。


 「また……能力ですか。」


 朝比奈が尋ねる。


 九条は首を横に振った。


 「違う。」


 「今回は……死者の記憶じゃない。」


 自分の記憶だ。


 そう言いかけて、言葉を飲み込む。


 もし本当に自分の記憶なら。


 十九年間、自分は最も大切な記憶を失っていたことになる。


 その時、病室のドアがノックされた。


 若い刑事が封筒を抱えて入ってくる。


 「九条警部補。」


 「受付に、これが。」


 また差出人はない。


 九条は静かに封を開く。


 中には、一枚の写真だけが入っていた。


 二十年前。


 大学祭の日。


 笑う九条と真帆。


 その写真の端に、誰かが赤いペンで丸を付けている。


 二人ではない。


 背景。


 人混みの中。


 黒い帽子を被った一人の男。


 顔は半分しか映っていない。


 しかし。


 九条は凍り付いた。


 その男を知っていた。


 知っているはずがない。


 なのに名前だけが、頭の奥から浮かび上がる。


 「……御影。」


 鬼塚が振り返る。


 「誰だ?」


 九条は写真から目を離せない。


 心臓が激しく脈打つ。


 口が勝手に動く。


 「俺は……。」


 「この男を知っている。」


 だが。


 どうして知っているのか。


 それだけが、どうしても思い出せなかった。

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