第二話 黒い折り鶴
午前九時。
雨は上がっていた。
警視庁科学捜査研究所――通称・科捜研の廊下を、九条恒一は無言で歩いていた。
昨夜ほとんど眠れなかった。
机の上に残された黒い折り鶴。
真帆の筆跡。
二十年前の事件。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。
「九条さん。」
振り返ると、白衣姿の朝比奈美月が小走りで近づいてきた。
昨夜のレインコート姿とは違い、白衣の胸にはいくつものペンが差されている。
髪も一つに束ねられ、研究者らしい雰囲気だった。
「……寝てませんね。」
開口一番、それだった。
九条は苦笑する。
「顔に出てるか。」
「ええ。ひどい顔です。」
「遠慮がないな。」
「事実ですから。」
そう言って朝比奈は笑った。
昨日より少しだけ柔らかい笑顔だった。
「こちらです。」
二人は筆跡鑑定室へ入る。
室内には大型モニターが並び、数名の研究員が忙しく作業していた。
中央の机には、透明なケースに収められた黒い折り鶴。
そして昨夜、九条の部屋で見つかったもう一羽も並べられている。
「まずは繊維分析です。」
朝比奈が資料を開く。
「普通の市販品ではありません。」
「紙の原料は楮ですが、特殊な樹脂加工がされています。」
「製造元は?」
「まだ不明です。」
「国内でも流通記録がありません。」
九条は折り鶴を見つめる。
昨日の出来事が頭を離れない。
あの折り鶴は、本当に誰かがベランダへ置いたのだろうか。
「それと……。」
朝比奈は少しためらった。
「筆跡鑑定ですが。」
「結果が出たのか。」
「はい。」
彼女はモニターを操作する。
二つの画像が並ぶ。
一つは折り鶴。
もう一つは、古い手紙。
『約束だよ。絶対に忘れないで。』
真帆が大学時代に書いたメモだった。
画面いっぱいに重ねられた文字。
線の角度。
筆圧。
止め。
払い。
癖。
コンピューターが解析を終え、数値を表示する。
一致率 九九・八パーセント。
部屋の空気が止まった。
研究員の一人が小さく呟く。
「あり得ない……。」
朝比奈も言葉を失っている。
「同一人物と判断して問題ない精度です。」
九条だけは黙っていた。
驚かなかった。
心のどこかで、そうだろうと思っていた。
「白石真帆さん。」
朝比奈が静かに口を開く。
「死亡年月日は二〇〇六年七月十五日。」
「二十年前ですね。」
九条はゆっくり頷く。
「俺の恋人だった。」
朝比奈は息を呑んだ。
「……そう、だったんですね。」
九条は写真を見つめる。
「犯人は捕まらなかった。」
「迷宮入りだ。」
その声には、十九年間抱え続けた後悔が滲んでいた。
「刑事になった理由も。」
「その事件ですか。」
「そうだ。」
短く答える。
朝比奈はそれ以上聞かなかった。
聞けば、きっと傷を抉る。
そう分かったからだ。
その時だった。
ノックもなく扉が開く。
鬼塚管理官が入ってきた。
「九条。」
「高橋修一の娘が来ている。」
「会えるそうだ。」
九条は資料を閉じた。
「行きます。」
鬼塚は頷く。
「ただし気を付けろ。」
「父親を亡くしたばかりだ。」
「分かっています。」
一時間後。
都内の小さな喫茶店。
窓際の席に、一人の女子高校生が座っていた。
制服姿。
細い肩。
泣き腫らした目。
父・高橋修一の一人娘、美咲だった。
九条は静かに向かいへ座る。
「警察の九条です。」
美咲は小さく頭を下げた。
「父のこと……ありがとうございました。」
その言葉に、九条は胸が痛んだ。
ありがとうと言われる資格などない。
父親は守れなかった。
それでも少女は礼を言う。
「お父さんは、どんな方でしたか。」
美咲は少しだけ笑った。
「嘘が下手な人でした。」
「嘘?」
「はい。」
「誕生日プレゼントも。」
「サプライズのつもりなのに、すぐ顔に出るんです。」
そう言って笑う。
だが、その笑顔はすぐ涙へ変わった。
「でも。」
「最後だけは。」
「本当に上手に嘘をついた。」
九条の鼓動が止まる。
「どういう意味ですか。」
美咲は鞄から一通の封筒を取り出した。
「昨日。」
「父の机から見つかりました。」
封筒には一言だけ書かれていた。
『美咲へ』
九条は静かに封を開く。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
> ごめんな。
>
> お父さんは、最後までお前に嘘をつく。
九条は息を呑む。
――まただ。
また死者は、誰かを守るために嘘をついている。
そして、その手紙の最後には。
見覚えのない、小さな黒い折り鶴の絵が描かれていた。
喫茶店には、昼前の柔らかな陽射しが差し込んでいた。
だが、美咲の前だけは時間が止まったように静かだった。
九条は便箋をもう一度見つめる。
震える文字。
インクがところどころ滲んでいる。
急いで書かれた手紙ではない。
何度も書き直し、ようやく書き上げたような筆跡だった。
最後の一文だけが、妙に力強い。
『お父さんは、最後までお前に嘘をつく。』
九条はゆっくり顔を上げた。
「この手紙は、いつ見つかった?」
「今朝です。」
美咲は小さく答えた。
「会社の机の、一番奥の引き出しに入っていました。」
「鍵は?」
「掛かっていました。」
「誰が開けた?」
「警察の方が……。」
鬼塚の報告にはなかった。
九条は違和感を覚える。
事件発生から一夜。
犯人が会社へ侵入していても、おかしくない時間だった。
「この封筒、他に触った人は?」
「私だけです。」
「中は読んだ?」
美咲は首を横に振る。
「怖くて読めませんでした。」
九条は静かに頷く。
父親が最後に残した言葉。
読むには、まだ幼すぎる。
「お父さんは、最近変わった様子はなかった?」
その質問に、美咲は少し考え込んだ。
「……夜になると。」
「夜?」
「誰かに電話していました。」
「毎晩ですか。」
「はい。」
「でも、一度も話しませんでした。」
「黙ったまま?」
「はい。」
九条の眉が動く。
無言電話。
昨夜、自分の携帯にも掛かってきた。
偶然とは思えない。
「それから……。」
美咲は言いにくそうに続けた。
「最近、お父さん、折り紙を買ってきたんです。」
九条は思わず身を乗り出した。
「折り紙?」
「黒い紙でした。」
胸の奥が冷たくなる。
「どこで買った?」
「分かりません。」
「でも。」
美咲はバッグの中を探り、小さなレシートを差し出した。
『雨宮文具店』
住所は台東区。
購入日は事件の三日前だった。
九条はレシートを写真に収める。
「ありがとう。」
その時だった。
美咲が九条を見つめた。
「刑事さん。」
「父は。」
「人を殺したんですか?」
静かな声だった。
責める声ではない。
ただ真実を知りたい娘の声だった。
九条は答えに詰まる。
死者の記憶では、高橋は犯人ではなかった。
しかし、それを説明することはできない。
能力の存在は誰にも話せない。
九条は少しだけ考え、ゆっくりと言った。
「お父さんは。」
「最後まで、誰かを守ろうとしていた。」
美咲の瞳から涙がこぼれた。
「……そうですか。」
その一言だけで十分だった。
娘は父を信じることを選んだ。
店を出ると、朝比奈が待っていた。
「どうでした?」
「一つ分かった。」
「何です?」
九条はレシートを差し出す。
「折り紙は買われている。」
朝比奈は目を丸くした。
「ということは。」
「犯人が置いたわけじゃない?」
「まだ分からない。」
「だが。」
九条は空を見上げる。
雲が切れ始めていた。
「高橋は、自分が死ぬ前から折り鶴を知っていた。」
朝比奈は息を呑む。
それは事件が偶発的ではなく、計画されていたことを意味していた。
警視庁へ戻ると、鑑識係が慌ただしく廊下を走っていた。
「九条警部補!」
若い鑑識員が駆け寄る。
「防犯カメラの解析が終わりました!」
「現場のか。」
「はい。」
「妙なものが映っています。」
九条と朝比奈は顔を見合わせる。
すぐ映像解析室へ向かった。
大型モニターに映し出されたのは、事件現場。
時刻は午後十時四十七分。
雨が激しく降っている。
高橋修一が路地へ入る。
その三秒後。
黒いレインコートの男が続く。
さらに数秒後。
画面の外で争う音。
男が飛び出してくる。
慌てた様子で走り去った。
ここまでは、九条が見た記憶と一致していた。
「止めて。」
朝比奈が映像を静止させる。
高橋の遺体だけが映っている。
胸元には何もない。
「次。」
コマ送り。
一秒。
二秒。
三秒。
その瞬間。
画面がわずかに乱れた。
ノイズが走る。
そして。
次のコマには。
黒い折り鶴が、遺体の胸元に置かれていた。
誰も映っていない。
誰も近付いていない。
それなのに。
折り鶴だけが現れた。
映像解析室が静まり返る。
若い鑑識員が震える声で言う。
「編集じゃありません。」
「AI解析でも改ざんなしです。」
朝比奈は画面を見つめたまま、小さく呟く。
「あり得ない……。」
九条だけは黙っていた。
その光景を知っていたからだ。
二十年前。
真帆が殺された事件でも。
まったく同じ映像を見ている。
だが、その映像は翌日、警察のサーバーから消えていた。
誰かが。
意図的に。
証拠を消した。
九条はモニターを見つめながら、胸の奥で確信する。
二十年前の事件は、まだ終わっていない。
映像解析室には、誰一人として口を開く者はいなかった。
大型モニターには、静止した映像が映っている。
雨に濡れた路地。
倒れた高橋修一。
そして――誰も近づいていないにもかかわらず、その胸元に現れた黒い折り鶴。
「もう一度、最初から再生してくれ。」
九条の声で、解析員が映像を巻き戻す。
午後十時四十六分五十八秒。
高橋が路地へ入る。
十時四十七分十二秒。
黒いレインコートの男が姿を現す。
十時四十七分三十九秒。
男は慌てた様子で路地から飛び出し、そのまま画面外へ消える。
そして――。
十時四十七分五十一秒。
画面に一瞬だけ白いノイズが走る。
ほんの〇・三秒。
次のコマには、黒い折り鶴が置かれていた。
「……そこだ。」
九条が指をさす。
「ノイズを拡大できるか。」
解析員は頷き、映像を一コマずつ引き伸ばしていく。
画面いっぱいに荒れたノイズが映し出される。
砂嵐のような画像。
しかし、その中に朝比奈が息を呑んだ。
「待って……。」
「止めてください。」
ノイズの中央。
無数の白黒の点の中に、わずかな輪郭が浮かんでいた。
人影。
傘を差した誰かが、ほんの一瞬だけ映り込んでいる。
顔は見えない。
だが、その右手だけがはっきり映っていた。
手袋をした指先から、何かを落としている。
黒い折り鶴だ。
次の瞬間、人影は完全に消えた。
「フレーム抜けじゃない……。」
朝比奈はモニターに顔を近づけた。
「ちゃんと映ってる。」
「でも、一コマしか存在しない。」
解析員が青ざめた顔で言う。
「通常の監視カメラで、こんな現象は起きません。」
鬼塚管理官は腕を組んだ。
「合成か?」
「違います。」
解析員は首を横に振る。
「改ざんの痕跡はありません。」
「撮影データそのものです。」
九条は静かに目を閉じた。
やはりだ。
二十年前も同じだった。
真帆が殺された夜。
防犯カメラには、一瞬だけ黒いコートの人物が映っていた。
そして翌日、その映像は警察のサーバーから消えた。
偶然ではない。
誰かが、ずっと証拠を消し続けている。
夕方。
九条は一人、台東区の雨宮文具店を訪れた。
昭和の面影を残す小さな店だった。
棚には和紙や万年筆が並び、店の奥から年配の店主が現れる。
「警察です。」
九条は警察手帳を見せた。
「三日前、この黒い和紙を買ったお客さんを覚えていますか。」
店主は眼鏡を掛け直し、紙を見つめた。
「……ああ。」
「覚えてますよ。」
「珍しい紙でしたからね。」
九条は身を乗り出す。
「高橋修一という男性です。」
「その人だけですか。」
店主は少し考え込み、ゆっくり首を振った。
「いや。」
「もう一人いました。」
九条の鼓動が速くなる。
「どんな人物です。」
「黒いコートを着た人でした。」
「男か女かは分かりません。」
「帽子を深くかぶっていて。」
「声も聞いていません。」
「ただ……。」
店主は眉をひそめる。
「その人、不思議なことを言ったんです。」
「何と?」
店主は当時を思い出すように、小さく呟いた。
「"もうすぐ約束の日だから。"」
九条は息を呑んだ。
約束の日。
それは真帆が口癖のように使っていた言葉だった。
夜。
警視庁へ戻ると、鬼塚管理官が封筒を持って立っていた。
「九条。」
「お前宛だ。」
差出人は書かれていない。
消印もない。
誰かが直接、受付へ置いていったらしい。
九条は慎重に封を開く。
中から現れたのは、一冊の古びた青いファイル。
表紙には赤い文字で書かれていた。
『平成十八年 殺人事件 被害者・白石真帆』
九条の手が震える。
「そんな……。」
その事件記録は、二十年前に紛失したはずだった。
いや――。
警察内部では、「存在しなかったこと」にされた資料だ。
朝比奈が隣で息を呑む。
「これ……本物ですか。」
九条は答えられない。
ゆっくりと表紙を開く。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
そして最後のページに、一枚の写真が挟まれていた。
事件現場の写真ではない。
若い男女が笑っている、ごく普通のスナップ写真。
二十歳の九条と、真帆だった。
写真の裏には、新しいインクで、たった一行だけ書き加えられている。
『次は、君の嘘を思い出して。』
九条の全身から血の気が引いた。
その文字は、今日見つかった折り鶴と同じ筆跡だった。
誰かが、二十年前の事件を知っている。
いや、それだけではない。
自分しか知らないはずの「嘘」まで知っている。
九条は静かにファイルを閉じた。
十九年間止まっていた時間が、音を立てて動き始める。
そして彼はまだ知らなかった。
この事件が、高橋修一殺害事件ではなく――
「二十年前から続く連続殺人」の始まりだったことを。




