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死人は嘘をつく ――死者の最後の三十秒だけが、真実を知っている。  作者: 鷹司 怜


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第一話 死人は嘘をつく

はじめまして。


この作品を開いてくださり、本当にありがとうございます。


私は昔から、「人はなぜ嘘をつくのか」を考えるのが好きでした。


人を傷つける嘘もあります。


けれど、大切な誰かを守るためにつく嘘もあります。


もし亡くなった人の最後の三十秒を見ることができたなら、その人が本当に伝えたかった想いは何だったのか。


そんな問いから、この物語は生まれました。


少しでも九条たちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。

 人は、死ぬ間際に嘘をつく。


 助かりたいからではない。


 自分が楽になりたいからでもない。


 残される誰かを、少しでも悲しませないために。


 だから俺は、死者の最後の言葉を信じない。


 信じるのは――その人が最後に見た景色だけだ。


 六月の雨は、人の記憶を曖昧にする。


 街灯に照らされた細い路地で、一人の男が血を流して倒れていた。


 胸には一本の包丁。


 白いワイシャツは赤黒く染まり、雨がその血をゆっくりと洗い流していく。


 規制線の向こうでは野次馬たちがスマートフォンを掲げ、赤色灯だけが静かに回り続けていた。


 「九条警部補。」


 声を掛けられ、九条恒一は傘を閉じた。


 三十九歳。


 警視庁捜査一課。


 十九年間、殺人事件だけを追い続けてきた刑事だった。


 「被害者は高橋修一。四十五歳。商社勤務。胸部を一突きされています。」


 若い刑事が資料を差し出す。


 九条は受け取らない。


 遺体から目を離さず歩き続けた。


 鉄の匂い。


 濡れたアスファルト。


 降り続く雨。


 現場には何度立っても慣れない。


 人は数字ではない。


 一人ひとりに人生があった。


 家族がいた。


 帰る家があった。


 それを忘れた刑事から、人は真実を見失う。


 遺体の前で足を止める。


 胸の傷は深い。


 即死に近いだろう。


 それでも九条の視線は傷ではなく、被害者の顔へ向かった。


 苦しそうだった。


 けれど口元だけが、誰かを安心させるように笑っている。


 「……またか。」


 小さく呟く。


 守りたい誰かを残して死んだ人間だけが浮かべる笑顔だった。


 「抵抗創はありません。」


 澄んだ声が背後から響いた。


 振り返ると、白衣の上にレインコートを羽織った若い女性が立っている。


 二十代半ば。


 肩までの黒髪。


 切れ長の瞳が真っ直ぐ九条を見つめていた。


 「警察科学捜査研究所、朝比奈美月です。本日から合同捜査本部に参加します。」


 九条は軽く会釈した。


 「よろしく。」


 「一つお願いがあります。」


 「何だ。」


 「遺体には触れないでください。」


 現場の空気が一瞬止まった。


 若い刑事たちが顔を見合わせる。


 朝比奈は怯まない。


 「証拠保全の基本です。」


 九条は静かに革手袋を外した。


 「分かってる。」


 「いいえ。」


 朝比奈は一歩前へ出る。


 「分かっている人は素手で触れません。」


 鬼塚管理官が苦笑した。


 「朝比奈君。」


 「止めても無駄だ。」


 「え?」


 「見ていれば分かる。」


 朝比奈は理解できないまま九条を見る。


 九条は膝をつき、ゆっくりと右手を伸ばした。


 冷たくなった被害者の額。


 あと数センチ。


 胸が痛む。


 嫌な汗が背中を流れる。


 見たくない。


 もう誰かの最後なんて見たくない。


 十九年前から、一度も慣れたことはない。


 それでも刑事である以上、逃げることはできない。


 「……すまない。」


 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。


 そして指先が遺体へ触れた。


 瞬間。


 世界が砕け散る。


 胸へ包丁が突き刺さった。


 「っ……!」


 息が止まる。


 肺が裂ける。


 喉いっぱいに血が込み上げ、呼吸のたびに激痛が走る。


 九条は歯を食いしばった。


 これが能力の代償だった。


 死者の最後の三十秒を視る代わりに、その苦しみを自分も味わう。


 耳鳴りが響く。


 雨音が遠ざかる。


 視界が暗転する。


 そして――。


 九条は、もう九条ではなかった。


 狭い路地。


 激しく降る雨。


 目の前には黒いレインコートの男が立っている。


 男の顔は逆光で見えない。


 ただ震える声だけが聞こえた。


 「……許してくれ。」


 その声には憎しみではなく、深い絶望が滲んでいた。


 男はゆっくり包丁を握り直す。


 高橋修一は逃げない。


 逃げられない。


 それでも最後まで男を見つめていた。


 まるで――。


 自分よりも、その男を心配するように。


 刃が振り下ろされる。


 その瞬間、九条は直感する。


 この男は、本当の犯人ではない。


 そして世界は、鮮血の赤に染まった。


世界が砕けた。


 胸の奥で、骨が軋む音がした。


 肺へ流れ込んだ血が呼吸を塞ぎ、視界が赤く滲んでいく。


 ――痛い。


 その一言だけが頭の中を巡る。


 九条は知っている。


 これは幻覚ではない。


 死者・高橋修一が人生で最後に味わった三十秒を、自分の神経が追体験しているのだ。


 何度経験しても、この能力だけは慣れない。


 いや、慣れてはいけない。


 痛みに慣れた刑事は、人の死にも慣れてしまう。


 それだけは嫌だった。


 高橋の視界は揺れていた。


 雨粒が頬を打ち、血と混じって地面へ落ちる。


 黒いレインコートの男が目の前に立っていた。


 包丁を握る手が震えている。


 肩も震えている。


 「……俺は。」


 男は何かを言おうとしていた。


 だが高橋は、その言葉を最後まで聞かなかった。


 ゆっくり首を振る。


 違う。


 そんな顔じゃない。


 九条は胸の奥で違和感を覚えた。


 殺人犯が被害者を見る目ではない。


 まるで、大切な家族を傷つけてしまった人間の顔だった。


 男は膝をつく。


 「救急車を……!」


 ポケットからスマートフォンを取り出そうとした、その手首を、高橋が掴んだ。


 力は弱い。


 それでも男は動きを止めた。


 高橋は苦しそうに息を吐きながら、小さく笑う。


 「……いい。」


 「しゃべるな!」


 「聞け。」


 男は首を振り続ける。


 「俺が全部話す。」


 「俺が捕まる。」


 「だから……!」


 高橋は、もう一度だけ首を振った。


 その目は驚くほど穏やかだった。


 「娘には……。」


 言葉が続かない。


 血が喉へ逆流する。


 それでも、高橋は笑った。


 「事故だったって……言ってくれ。」


 男は泣いた。


 声を殺しながら、子どものように泣いた。


 九条は息を呑む。


 まただ。


 また死者は、自分ではなく誰かを守ろうとしている。


 これだから死人は嘘をつく。


 自分を殺した相手まで守ろうとする。


 その時だった。


 高橋の視線が、男の肩越しへ向いた。


 路地の入口。


 雨の向こう。


 街灯の下に、一人の人物が立っている。


 黒い傘。


 黒いコート。


 顔は見えない。


 輪郭だけが闇へ溶け込んでいる。


 その人物はゆっくり右手を上げた。


 指先から、小さな何かが滑り落ちる。


 一羽の黒い折り鶴だった。


 風もないのに、それは地面へ落ちず、高橋の胸元へ吸い寄せられるように舞い降りた。


 九条の鼓動が速くなる。


 嫌な予感がした。


 この光景を知っている。


 いや、忘れたことがない。


 二十年前。


 恋人・白石真帆が殺された現場にも、同じ黒い折り鶴が残されていた。


 その時――。


 黒い影が、ゆっくりこちらへ顔を向けた。


 あり得ない。


 これは死者の記憶だ。


 こちらが見えるはずはない。


 それなのに。


 影は確かに九条を見ていた。


 口元だけが、ゆっくり笑う。


 そして。


 唇が、たった四文字だけ動いた。


 「まだだ。」


 その瞬間。


 世界は音を立てて崩れ落ちた。


 「九条さん!」


 耳元で誰かが叫んでいる。


 肩を激しく揺さぶられ、九条は現実へ引き戻された。


 息ができない。


 肺が焼ける。


 胃の中のものが込み上げ、アスファルトへ吐き出した。


 「しっかりしてください!」


 朝比奈美月だった。


 彼女は白衣も気にせず、九条を支えている。


 その瞳には、怒りではなく心配が浮かんでいた。


 「また……。」


 九条は苦笑する。


 「格好悪いところを見せた。」


 「笑い事じゃありません。」


 朝比奈はきっぱりと言った。


 「あなた、自分がどんな顔をしていたか分かりますか。」


 九条は首を横に振る。


 「泣いていました。」


 その言葉に、九条の表情が止まった。


 泣いていた。


 自分が。


 死者の痛みではない。


 死者の悲しみを、自分も背負ってしまったからだ。


 九条はゆっくり遺体へ視線を向ける。


 高橋修一は、もう何も語らない。


 それでも、その穏やかな表情だけが、最後まで誰かを守ろうとしたことを物語っていた。


 九条は心の中で静かに誓う。


 ――あなたが命を懸けて守ろうとした嘘を、俺が真実に変えてみせる。


「管理官!」


 鑑識員の緊張した声が、静まり返った現場に響いた。


 「被害者の右手から、これを確認しました」


 透明な証拠袋の中には、一羽の黒い折り鶴が収められていた。


 雨に濡れたはずなのに、不思議なくらい紙は乾いている。


 鬼塚が眉をひそめた。


 「被害者の持ち物か?」


 「分かりません。ポケットではなく、握り締めていました。」


 朝比奈は袋を受け取ると、ライトへ透かした。


 「普通の折り紙じゃない……。」


 紙の繊維は異様に細かい。


 防水加工まで施されている。


 まるで長期間保存されることを前提に作られた特殊紙だった。


 「開きます。」


 鑑識員が静かに折り目をほどいていく。


 誰も話さない。


 現場には、雨音だけが響いていた。


 一枚の黒い紙が机の上へ広げられる。


 何も書かれていない。


 そう思った瞬間、朝比奈がライトの角度を変えた。


 銀色の文字が、ゆっくり浮かび上がる。


 『約束を忘れるな。』


 九条の呼吸が止まった。


 頭の奥で、二十年前の記憶が軋む。


 大学二年の夏。


 海へ行く約束をした夜。


 恋人・白石真帆は笑いながら言った。


 「恒一は忘れっぽいから。」


 「約束って、ちゃんと書いておくね。」


 その文字。


 丸みのある「約」。


 少し右へ流れる「束」。


 最後だけ少し強く止める「な」。


 忘れるはずがない。


 何百回、何千回と見返した文字だった。


 だが、それはあり得ない。


 真帆は二十年前に殺された。


 死人が新しい紙へ文字を書くことなど、不可能だ。


 「九条。」


 鬼塚の声で我に返る。


 「心当たりがあるのか。」


 九条は一瞬だけ迷い、小さく首を振った。


 「……ありません。」


 嘘だった。


 刑事が一番ついてはいけない嘘を、今、自分は口にした。


 しかし、この場で真帆の名前を出せば、二十年前の事件まで表に出る。


 まだ確証がない。


 今は、守らなければならない。


 朝比奈はそんな九条の横顔をじっと見つめていた。


 この人は何かを隠している。


 そう確信した。


 だが責めようとは思わなかった。


 あの能力を見たあとでは、九条が普通の刑事ではないことだけは分かっていた。


 現場検証が終わったのは、午前一時を回っていた。


 雨は止み、夜空には細い月が浮かんでいる。


 「送ります。」


 朝比奈が車の鍵を回す。


 九条は苦笑した。


 「歩く。」


 「また倒れます。」


 「もう倒れない。」


 「さっきも同じことを言いました。」


 返す言葉がなく、九条は肩をすくめた。


 朝比奈は少し笑う。


 「頑固ですね。」


 「刑事は頑固なくらいでちょうどいい。」


 「患者だったら困りますけど。」


 思わず二人は笑った。


 事件現場で初めて交わした、小さな笑顔だった。


 マンションへ戻ると、部屋は静まり返っていた。


 九条はスーツを脱ぐこともなく、机の引き出しを開ける。


 古い写真立て。


 そこには二十歳の自分と、真帆が肩を寄せ合って笑っていた。


 写真の裏には、彼女の字でこう書かれている。


 『約束だよ。絶対に忘れないで。』


 今日見つかった折り鶴。


 写真の裏書き。


 同じ筆跡。


 偶然で済ませられるはずがない。


 その時だった。


 スマートフォンが震えた。


 画面には「非通知」。


 九条はゆっくり応答ボタンを押す。


 「……。」


 何も聞こえない。


 息遣いだけが、微かに受話器の向こうで揺れている。


 女なのか。


 男なのか。


 それすら分からない。


 三十秒ほど沈黙が続き、通話は切れた。


 履歴は残っていない。


 悪質ないたずらか。


 そう思った、その瞬間だった。


 ――コン。


 窓ガラスを叩く、小さな音。


 九条はカーテンを開けた。


 誰もいない。


 だが、ベランダには一羽の黒い折り鶴が置かれていた。


 今度は間違いなく、自分の部屋だ。


 誰かがここまで来た。


 九条は息を殺し、ゆっくり折り鶴を拾い上げる。


 紙は冷たい。


 しかし、雨には濡れていなかった。


 慎重に折り目を開く。


 そこに書かれていた文字を見た瞬間、九条の全身から血の気が引いた。


 『あなたは、あの日も嘘をついた。』


 その下に、もう一行。


 『次は、本当の真実を見せてあげる。』


 そして最後に、小さく記されていた日付。


 二〇〇六年七月十五日。


 真帆が殺された日だった。


 九条の手から紙が滑り落ちる。


 喉が渇く。


 呼吸が浅くなる。


 あの日のことを知る人間は、もういない。


 自分と、犯人以外は。


 では――。


 これは、誰が書いた?


 部屋の明かりが一瞬だけ消えた。


 暗闇の窓ガラスに、自分の姿が映る。


 その背後に。


 黒いコートを着た誰かが立っているように見えた。


 九条は反射的に振り返る。


 誰もいない。


 再び窓を見る。


 もう何も映っていなかった。


 だが床には、一枚の紙だけが残されていた。


 そこには、たった一文。


 ――死人は、嘘をつく。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。


少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、とても励みになります。


感想やご意見も、一つひとつ大切に読ませていただきます。


そして、この先も九条たちの物語を見届けていただけるようでしたら、ブックマークや評価をしていただけると、本当に嬉しいです。


次回も、どうぞよろしくお願いいたします。

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