第五話『泥棒』(前)
カレンダーが最後の一枚に変わり、十二月も半ばに差し掛かると、街を吹き抜ける風は急激に冷たさを増した。
駅前の銀杏並木はすっかり黄金色の葉を落とし、鈍色の空に向かって寒々しい裸の枝を突き出している。道を行き交う人々の歩みもどこか足早になり、誰もがコートの襟を立て、マフラーの奥に白い息を細く吐き出していた。
本格的な冬の到来は、路地裏にある古い木造建築の『時洲堂』にとって、少々厄介な季節の始まりでもあった。
戦前から残る建物をそのまま居抜きで使っているこの古物商は、気密性という概念が皆無に等しい。引き戸のわずかな隙間や、板張りの壁の継ぎ目からは北風が吹き込み、冷え切った床は靴下を二重に履いていても足の芯から体温を奪っていく。
そのため、店主である時洲美波の冬の朝は、年代物の石油ストーブに静かに火を入れることから始まるのが日課となっていた。
チリチリ、と微かな音を立てて燃えるオレンジ色の炎。
対流式の古いストーブはじんわりと確かな熱気と、どこかノスタルジックな灯油の匂いを店内にゆっくりと満たしてくれた。
ストーブの天板には古いホーローのやかんが乗せられ、シューシューと白い湯気を上げている。その湿り気を帯びた温かい空気が、店内にうず高く積まれた古い洋書や、埃を被ったアンティークランプ、そして様々な時代を生き抜いてきた古物たちの輪郭を、柔らかく霞ませていた。
美波は厚手の赤いウールのカーディガンに身を包み、定位置であるカウンター奥のロッキングチェアの上で、タータンチェックの膝掛けにくるまっていた。
大きな丸眼鏡の奥の瞳は、膝の上に広げられた分厚い海外のオークションカタログへと向けられている。一九世紀末のヨーロッパの工芸品が並ぶそのページを、彼女は万年筆の尻軸でトン、トンと微かなリズムで叩きながら、冬の朝の一人の時間を過ごしていた。
あのホテルでの出張から数週間。
時洲堂には相変わらず、迷子になったモノたちが時折持ち込まれては、美波の手によってあるべき場所へと帰されていく、穏やかな日常が流れていた。
壁掛け時計の太い針が、午前十時を回った頃。
――カラン、コロン。
引き戸の上の真鍮ベルが、外の冷たい冬の空気と一緒に涼やかな音を立てて鳴った。
カタログから顔を上げた美波の視線の先、少しだけ重たそうに開かれた引き戸の隙間から、一人の男性が店の中へと足を踏み入れるところだった。
年齢は六十代の半ばから、後半に差し掛かったあたりだろうか。
ロマンスグレーの髪を綺麗に撫でつけ、上質なカシミヤのチェスターコートに、落ち着いた柄のシルクのマフラーを巻いている。一見して、育ちの良さと品格を感じさせる初老の紳士だ。
しかし、その顔立ちには、落ち着かない強張りが張り付いていた。彼は上等なコートを着ているにもかかわらず、肩を小さくすぼめ、視線を何度も左右に泳がせている。
その手には、藍色の風呂敷に大事そうに包まれた四角い箱のようなものが、胸元に強く抱き抱えられていた。
「いらっしゃいませ。外は冷えたでしょう。どうぞ、中へ入って戸を閉めてください」
美波はカタログをカウンターの端に置き、ロッキングチェアから音もなく立ち上がった。
男性は「あ……いやぁ、申し訳ありません。お邪魔いたします」と、少し上ずった丁寧な口調でお辞儀をし、引き戸を閉めた。
「ストーブのそばへどうぞ。今、温かいお茶をお淹れしますから」
「お気遣いいただき、恐縮です」
美波がストーブの近くに古い丸椅子を引き寄せると、男性はコートを脱いで腕に掛け、ゆっくりと腰を下ろした。
やかんのお湯を急須に注ぎ、ほうじ茶を淹れる。湯呑みを二つトレイに乗せて男性の前に運ぶと、彼は凍えきった両手で湯呑みを包み込み、ふうっと長く、かすれた息を吐き出した。
「私は篠田と申します。駅の向こう側にある区役所で、数年前まで勤めておりました。退職してからは、妻と二人で静かな余生を送っているただの老人です」
「初めまして、篠田さん。私が店主の時洲美波です。……こちらの『時洲堂』には、何かお探しのものがあって見えられたのですか。それとも、ご自宅で眠っていた古物の査定でしょうか」
「……実は、知人の伝手で、こちらの店主が『探し物を見つけてくれる』という噂を耳にしまして。藁にもすがる思いで、足を運ばせていただいた次第です」
篠田は湯呑みをソーサーに置くと、膝の上に抱えていた風呂敷包みを、極めて慎重な手つきでカウンターの上へと置いた。その指先が微かに震えているのを、美波は見逃さなかった。
「探し物、という表現が正しいのかどうか、私にもわかりません。強いて言うなら……『半世紀ぶりに突然帰ってきた家出人』、でしょうか」
篠田の震える指先が結び目を解き、深い藍色の風呂敷が四方に広がる。
中から姿を現したのは、大人の手のひらを二つ並べたくらいの大きさの、重厚なアンティークの『箱』だった。
全体は深い黒色に沈んだ、極めて質の高い黒檀の木材で作られている。そしてその黒檀の表面には、精緻な象嵌細工によって、百合の花のモチーフが描かれていた。
箱の四隅や、鍵穴の周辺の装飾も金属で補強されており、一見して、相当な身分の人間が特注で作らせた一級品の工芸品であることがわかる。
「これは……素晴らしい細工のシリンダー・オルゴールですね。明治から大正にかけて、スイスで作られたムーブメントを輸入し、日本の銀細工師に外装を作らせた特注品でしょう」
美波は丸眼鏡の奥の目を細め、箱の表面に顔を近づけた。
「……ですが、随分と金属の変色が激しい。本来は輝きを放っていたであろう銀の象嵌が、空気中の硫黄分と長期間反応し続けたせいで、真っ黒に『硫化』してしまっています。少なくとも数十年は、誰の手入れも受けずに放置されていた状態ですね」
「おっしゃる通り、これはオルゴールです。……そしてこれは、五十年間もの長きにわたり、行方不明になっていたものなのです。我が、篠田家の元から」
篠田は真っ黒に変色した銀の百合を、ためらうように指の腹でそっと撫でた。
「今から五十年前。私がまだ、中学生だった頃の話です。当時、私の実家はこの界隈でも少し名の知れた、広い土地を持つ地主の家系でした。……時洲さんは、その当時のこの辺りで、都市伝説のように囁かれていた『怪盗』の噂をご存知ありませんか」
「怪盗、ですか」
美波は小首を傾げた。
「ええ。その年の冬、この界隈の裕福な家を狙った、連続空き巣騒ぎが起きていたのです。その泥棒の手口は非常に鮮やかで、足跡はおろか、指紋一つ、窓ガラスの破片一つ残さずに家屋に侵入し、金庫や隠し場所を的確に暴いて、価値のある金品だけを盗んでいくというものでした。近所の大人たちは『まるで映画に出てくる怪盗のようだ』と噂し合っていました」
五十年前の下町を騒がせた空き巣。
篠田の語る声のトーンは、少しだけ早口になり、現在の強張りが入り混じっていた。
「そして……ある底冷えする冬の夜。ついに我が家にも、その泥棒が入ったのです」
篠田は声のトーンを一つ落とし、ストーブのオレンジ色の炎を見つめながら続けた。両手が無意識に、自分の膝のあたりを擦っている。
「朝、母の悲鳴で目を覚まして客間へ向かうと、部屋の隅にあった立派なガラスの飾り棚が、壊されていました。バールのようなもので強引にこじ開けられたのでしょう。そして、棚の中に飾られていた品々の中で……この、代々伝わる銀のオルゴールだけが、忽然と姿を消していたのです」
「他にも高価なものはあったのに、ですか」
「ええ。警察も捜査をしてくれましたが、結局犯人の足取りは全く掴めませんでした。足跡もなく、指紋もなく、ただオルゴールだけが消えた。近所の人々は『あの泥棒が、篠田の家の家宝に目をつけたんだ』と噂しました。……それ以来、このオルゴールが二度と私たちの元へ戻ってくることはありませんでした」
泥棒に盗まれた、銀のオルゴール。
それが篠田の語る、五十年前の出来事だった。
「私はその後、大学へ進学して実家を出ました。両親も相次いで亡くなり、旧家は取り壊してしまいました。今はその土地の半分を売り払い、残りの半分に一軒家を建てて、妻と二人で暮らしています。……あの泥棒騒ぎのことなど、私の中ではすっかり、遠い過去の記憶になっていたんです。昨日の朝、これがポストに届くまでは」
篠田の言葉に、美波は小さく瞬きをした。
「昨日、ですか」
「はい。昨日の朝、新聞を取りに出ると、家のポストに小包が無理やり押し込まれていました。消印はなく、差出人の名前も住所も書かれていない、ただの茶色い箱でした。不審に思いながらも中を開けると、緩衝材に包まれて……この真っ黒に汚れたオルゴールが、入っていたんです」
篠田は口元に手を当て、視線を細かく左右に泳がせた。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「五十年前の泥棒が、突然返してきたということでしょうか。死期を悟り、かつての篠田の家の跡地にこれをこっそり置いていったのか。あるいは、泥棒の遺族が遺品整理の中で盗品だと気づき、元あった場所へ返してきたのか。……私には見当もつきません」
篠田は深く息を吐き、両手で顔を覆った。
「時洲さん。……お恥ずかしい話ですが、私は、ただ薄気味悪いんです。五十年間、このオルゴールはどこで、誰の手に渡り、どんな時間を過ごしてきたのか。……本当に、あの噂されたような泥棒の手の中にずっとあったのか。突然目の前に突きつけられたこのモノの『空白の五十年』の記憶を、あなたの目で確かめてはいただけませんか。このままでは、どうにも落ち着かなくて……」
ストーブの火が、チリッと小さく爆ぜた。
その音が、時洲堂の店内に、響き渡る。
半世紀の時を超えて、突如として返却された盗品。
差出人不明の小包。
泥棒の懺悔か、遺族の贖罪か。
「……承知いたしました」
美波は静かに頷き、ロッキングチェアから立ち上がった。
そして、カウンター越しに両手を前へ差し出し、篠田の手から、黒檀と銀のオルゴールを受け取った。
ずっしりとした重みの中には、長い年月を経た古物特有の沈黙が詰まっていた。
美波はカウンターの奥の作業台へオルゴールを移し、棚から愛用の銀のルーペと、細いピンセットを取り出した。
そして、大きな丸眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと押し上げる。彼女が、モノのルーツと人の心に寄り添うスイッチだった。
「篠田さん。モノは、ご自身の過去を偽りません。泥棒の手に渡っていたとされる五十年間が、どのようなものであったか。このオルゴール自身に、語ってもらいましょう」
美波はオルゴールの裏側に隠された、小さな真鍮のゼンマイ巻きのネジに細い指をかけ、静かに回した。
ジリ……ジリ……と、内部の香箱に収められた太いゼンマイが巻き上がっていく、重く確かな手応えが美波の指の腹に伝わる。
五十年の空白などまるで感じさせない、滑らかで均等な抵抗感。内部のギアが欠けている様子も、油が固着して動かなくなっている様子もない。巻き切ったところで美波は箱をそっと裏返し、正面の小さな銀の留め具に指をかけた。
カチャリ、と金属が外れる音が鳴る。
重厚な黒檀の蓋を、ゆっくりと持ち上げた。
その瞬間、時洲堂の空気に、澄み切った硬質な音の粒がこぼれ落ちた。
奏でられたのは、古いイギリスの民謡『グリーンスリーブス』の旋律だった。
蓋の裏側に設えられた鏡が、ストーブのオレンジ色の炎を反射してきらきらと光る。ガラス板の奥にある黄金色のシリンダーがゆっくりと回転し、そこに打ち込まれた無数の極小のピンが、鋼鉄でできた櫛歯を次々と弾いていく。
チロロン、と深い余韻を残すその音色は、硬く重い黒檀の木箱全体を反響板として響き渡り、灯油の匂いと混ざり合いながら、まるで五十年前の空気をそのまま切り取ってきたかのように鮮明に空間を満たした。
「ああ……」
篠田の口から、掠れた吐息のような声が漏れた。
彼は慌てて懐からハンカチを取り出すと、目元を強く押さえた。
「この音です。間違いない。……母が愛し、五十年前のあの冬の夜に失われた、我が家のオルゴールの音色だ」
篠田の丸めた背中が微かに震えている。
半世紀という時間を飛び越え、少年の日の記憶が蘇っているのだろう。冷たい隙間風の吹く広い客間で、母がこの黒檀の箱を愛おしそうに撫で、ゼンマイを巻いていたあの光景。
美波は黙ってその音楽に身を委ね、ルーペを右目に当てて、ムーブメントへと静かに身を乗り出した。
ガラス板越しに見える真鍮のシリンダー、鋼鉄の櫛歯、そしてそれらを支える土台の金属。美波の琥珀色の瞳は、美しい旋律に耳を奪われることなく、『事実』だけを正確に見極めていく。
やがて旋律が静かに終わりを迎え、シリンダーの回転が完全に止まると、美波はルーペを外してふうっと細い息を吐き出した。
「素晴らしい音色です。調律の狂いもほとんど見られない」
美波はオルゴールの蓋を支えながら、篠田を見つめた。
「ですが、篠田さん。……このオルゴールが五十年間、泥棒の手によって裏社会を渡り歩いてきたというのは、考えにくいです」
「考えにくい、とは」
篠田がハンカチを握りしめたまま、小さく瞬きをした。
「このオルゴールの、アンバランスな状態です」
美波は細い指先で、外装の真っ黒に変色した銀の百合をそっと撫でた。
「確かに外側の銀象嵌は、空気中の硫黄分と長期間反応し続けたせいで、真っ黒に『硫化』してしまっています。銀は手入れを怠ればこうなりますから、少なくとも数十年は、誰にも磨かれずに放置されていた証拠です。……しかし、内部の機械部分は、異常なまでに『完璧』すぎるんです」
美波はピンセットの先で、ガラス板の奥にある金属部品をコツンと指し示した。
「もしこの品が泥棒に盗まれ、故買屋やコレクターの手に渡ったのなら、必ずどこかで粗雑に扱われた痕跡が残ります。泥棒の隠れ家や、湿気の多い倉庫に置かれれば、日本の高温多湿な気候では鋼鉄の櫛歯に赤錆が浮きます。無理に鳴らそうとすれば、歯車の溝に金属粉や埃が溜まる。ですが……このムーブメントには錆一つ、埃の侵入一つ見られません。機械油も完全に干からびてはおらず、均一な被膜を保っています」
美波の静かな説明に、篠田の表情から少しずつ生気が失われていく。
「それは……その泥棒が、とても丁寧に保管していたということではないのですか」
「泥棒の目的はお金です。こんな足のつきやすい特注品を、五十年も手元に隠し持っておく理由がありません。それに、このオルゴールの内部の保存状態は、素人の泥棒や個人のコレクターが管理できるレベルを超えています。……まるで、温度と湿度が一年中一定に保たれた、分厚い土壁の『蔵』の奥深くに、何重にも布に包まれて大切に安置されていたかのような状態なんです」
美波の言葉が落ちた瞬間。
篠田の呼吸が、ヒュッと音を立てて喉の奥で止まった。
彼はハンカチを握りしめた両手を膝の上に強く押し付け、美波とオルゴールを交互に見つめた。
その顔から血の気が引き、人の良さそうに下がっていた目尻の筋肉が引き攣っている。
蔵の奥深く。
その言葉が、篠田の中に眠っていた記憶の鍵を、こじ開けたのは明らかだった。
「篠田さん……」
美波が小さく首を傾げる。
しかし篠田は答えない。ストーブの炎がチリチリと空気を焦がす音と、遠くで吹き荒れる冬の北風が古いガラス戸をガタガタと揺らす音だけが、時洲堂の静寂を満たしていく。
五十年前の怪盗。
真っ黒に変色した銀の箱。
そして、完璧に守られていた内部の機械。
モノが語る事実の前に、半世紀もの間閉じ込められていた嘘の輪郭が、冷たい風とともにゆっくりと浮かび上がろうとしていた。




