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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と遠い日の約束―』  作者: 長月有希


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第五話『泥棒』(後)

「蔵……」


 篠田の口から漏れた声は、空気に溶けて消えた。彼はわずかに眉を寄せ、両手の指先を宙に彷徨わせた。


 美波はオルゴールの重厚な黒檀の蓋をカチャリと音を立てて閉め、箱を両手でそっと裏返した。そして、底面の四隅のうちの一箇所、木材の表面を右手に持ったルーペで覗き込みながら、篠田にもよく見えるように細い指先で指し示した。


「篠田さん、ここを見てください。黒檀の硬い木肌に、極小の穴が二つ、一センチほどの間隔で開いています。そしてその周囲の四角い形に沿ってだけ、ごくわずかに木の色が明るく残っている」


「穴……。本当だ。何か、細い画鋲のようなものを刺した跡に見えますね。しかし、こんな底の傷が何を」


「押しピンの跡です。これが、このオルゴールが五十年間、泥棒の隠れ家ではなく『どこ』で静かに待っていたのかを、教えてくれているんです」


 美波はルーペを作業台に置き、ずり落ちた丸眼鏡のブリッジを人差し指で静かに押し上げた。


「篠田さん。五十年前、ご実家のあった界隈には、まだ質屋がたくさんありましたよね」


「質屋……。ええ、まあ……商店街の裏手や細い路地に、土蔵を持った古い質屋が何軒かありましたが。それがどうしたというのですか」


「昔の質屋は、預かった品物を管理するために、和紙でできた『質札』を品物に直接括り付けたり、押しピンで留めたりしていました。……この底面の二つの穴は、質札を留めていた跡です。そして、札の紙が覆い被さっていた部分だけ、経年変色が防がれたため、周囲よりわずかに色が明るく残っているんです」


 篠田は小さく息を呑んだ。


「質屋に……預けられていた。しかし、あれは泥棒に盗まれたはず……。いくらなんでも、泥棒が地元の質屋に盗品を持ち込むなど、足がつく危険な真似をするはずがありません」


「ええ。『泥棒なら』、絶対に地元の質屋には持ち込みません」


 美波の透き通るような声が、篠田の言葉をすっと受け止めた。

 彼女はオルゴールを元の向きに戻し、ストーブのオレンジ色の炎越しに、篠田の顔を見つめた。


「篠田さん。五十年前、このオルゴールがなくなった日の朝のことを、もう一度詳しく思い出してください。飾り棚が壊されていたとおっしゃっていましたが、割られたガラスの破片は『どこ』に落ちていましたか」


 美波の声は、波一つ立たない水面のような響きを持っていた。

 篠田は視線を落とし、五十年前の記憶の糸を手繰り寄せる。


「どこにって……飾り棚のすぐ前の、畳の上です。外側から木枠ごと叩き割られ、ガラスの破片が畳に散乱していたのを、母が箒で片付けて……」


「おかしいと思いませんか」


 美波の声が、ストーブの爆ぜる音と共に店内に落ちた。


「外からガラスを叩き割ったのなら、力の向かう先は奥です。破片は『飾り棚の中』に落ちるはずです。……畳の上に大量の破片が散乱していたということは、そのガラスは、飾り棚の『内側から外側へ向かって』割られたということです。外から侵入し、一刻も早く逃げたい泥棒には、不自然な割り方です」


「内側から……」


 篠田の呼吸が浅くなる。

 半世紀の間、疑うことすらなかった怪盗の噂が、美波の静かな言葉の前で形を変えていく。割れたガラスの破片一つが、五十年の時を経て真実の形を突きつけていた。


「五十年前のあの日。篠田家には、泥棒は外から来ていないんです」


 美波の声は、どこまでも温かく、寄り添うような響きを帯びていた。


「ガラスを内側から割り、鍵を壊し、世間で噂になっていた怪盗の仕業に見せかけたのは……その家の中にいた人間。オルゴールの持ち主である、お母様ご自身です」


 完全な沈黙が、時洲堂の店内を支配した。

 ストーブの上のやかんから上がる白い湯気だけが、静かに空気を揺らしている。


「母が……。そんな馬鹿な。母は誰よりもこのオルゴールを大切にしていたんですよ。なぜ自分で壊して、自分で隠すような真似を……」


「大切だったからです。オルゴールも、そして……篠田家のことも」


 美波は音もなく立ち上がり、カウンターの奥の棚から古いスクラップブックを取り出した。この地域周辺の昔の土地の売買記録などを美波がまとめた資料だった。


「篠田さん。……五十年前のあの冬を境に、ご実家は、少しずつ周囲の土地を手放し始めていますね。当時、何か経済的に苦しい事情を抱えてはいませんでしたか」


 美波の静かな問いに、篠田は喉を詰まらせ、両手を膝の上で固く握りしめた。


「……父が、知人の借金の保証人になってしまったのです。私が中学生の頃……あの泥棒騒ぎの少し前のことでした。家の中はいつも暗く、夜になると父と母が言い争う声が絶えませんでした」


「由緒ある旧家の当主であったお父様は、先祖伝来の家宝を売り払うという選択はできなかった。……お母様は、追い詰められていたのでしょう。このままでは家が潰れてしまう。でも、夫に家宝を手放すとは言えない」


 美波は再びロッキングチェアに座り、黒檀のオルゴールを優しく指先で撫でた。


「だからお母様は夜中に客間へ行き、ガラスを外側へ向かって割り、泥棒の仕業だと警察に届け出た。警察の捜査が落ち着いた後、お母様はこっそりとこのオルゴールを地元の質屋へ持ち込み、借金を返すための『お金』に換えたんです」


 五十年前の、幻の怪盗。

 その正体は、沈みゆく家をたった一人で支えようとした、母親の哀しい嘘だった。


「そんな……。じゃあ、母は、家族を救うために自分一人で泥棒の罪を被って……」


 篠田の目から、大粒の雫がこぼれ落ちた。

 彼は両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 裕福だったはずの旧家の奥方でありながら、母は晩年までずっと、古い着物を何度も仕立て直して着ていた。自分のものは一切買わず、ただ黙々と家事をこなし、気難しい父に尽くしていた。

 あの徹底したつましい生活は、質屋からオルゴールを取り戻すための節約だったのだ。


 ストーブの火がチリチリと燃える音だけが、店内に響いている。

 美波は黙って立ち上がり、やかんからほうじ茶を急須に淹れ直した。新しく注がれた温かい湯気と香りが、篠田の震える背中を優しく包み込んでいく。


「……でも、時洲さん」


 やがて、呼吸を落ち着かせた篠田が、ハンカチで目元を拭いながら、かすれた声で美波に問いかけた。


「どうしても、わからないことがあります。……もし母がこのオルゴールを質に入れたのだとして、なぜそれが五十年間も質屋の蔵の中で保管され、今になって私の元へ返ってきたのですか」


「と、言いますと」


「普通、お金を返せなくなれば、流質期限を過ぎた時点で『質流れ』になって、品物は他の人に売られてしまうはずです。母が亡くなったのも、もう二十年以上前のことです。五十年前の借金のかたが、そのままの状態で残っているなど……」


 篠田の疑問に、美波はロッキングチェアを小さく揺らしながら、静かに首を振った。


「篠田さん。お母様は、このオルゴールを完全に手放したわけではなかったんです」


「手放していない。でも、お金が返せなかったのなら……」


「質屋のシステムにおいて、お金を借りた人間が品物の所有権を維持し続けるための、たった一つの方法があります。……それは、『利息だけを払い続ける』ことです」


 美波の言葉に、篠田の動きが止まった。


「元金が返せなくても、定期的に利息さえ払い続ければ、流質期限は延長され、品物は質屋の蔵で大切に保管され続けるのです。……お母様は、家計のやりくりの合間を縫って、何十年も……おそらくご自身が亡くなるその直前まで、誰にも内緒で地元の質屋へ足を運び、このオルゴールの利息を払い続けていたのでしょう。いつか必ず買い戻して、家族の元へ帰す日を夢見て」


「まさか……。母が、何十年も一人で……」


 篠田は言葉を失い、カウンターの上の黒檀の箱を見つめた。


「でも、証拠はあるんですか。遺品整理をした時には、質屋の札や通い帳なんて、一枚も出てきませんでしたよ」


「証拠なら、このオルゴール自身が持っています」


 美波はオルゴールの正面の留め具を外し、重い蓋をゆっくりと開けた。


「篠田さん。このオルゴールの箱の『深さ』を見てください」


 美波は箱の外側の底面から縁までの高さを指で示し、次に、内側のベルベットの布が敷かれた小物入れの深さを指差した。


「外側から測ると、底面から縁まではおよそ十五センチあります。しかし、内側の小物入れの深さは、十センチほどしかありません。……つまり、この底板の下には数センチの空間が存在しているんです」


 美波は細いマイナスドライバーを手に取ると、小物入れの底板の隅、木目と完全に同化しているごくわずかな隙間に、スッとその先端を差し込んだ。

 てこの原理で微かな力を加える。


 ――カチリ。


 小さな音が鳴り、小物入れの底板が斜めに跳ね上がった。


 篠田が身を乗り出す。


 跳ね上がった底板の下の薄暗い空間には、古く黄ばんだ和紙の束と、一通の古い封筒が隠されていた。

 美波はピンセットでそれらを丁寧に摘み出し、マホガニーのカウンターの上へと並べた。封筒の表面には、インクはすっかり色褪せているものの、篠田にとって見慣れた、母親の丸く丁寧な文字が記されている。


「これは……」


「お母様の、何十年にもわたる愛情の記録です」


 美波は束になった和紙の小片を、一つずつ指で開いて見せた。

 それは、古い『質入れ札』と、その後に毎月支払われた利息の受取証の山だった。日付は五十年前の冬の月から始まり、篠田の母親が病床に伏す直前の年月まで、途切れることなく何百枚と重なっている。


「質屋の主人も、お母様のその想いを痛いほど知っていたのだと思います」


 美波は、古びた封筒を静かに篠田へと押しやった。


「だから、お母様が亡くなり、利息の支払いが途絶えて『質流れ』になっても、このオルゴールを売り払うような真似はしなかった。ずっと蔵の奥で、大切に保管し続けてくれたんです。……そして五十年の時が経ち、お父様も亡くなられ、泥棒騒ぎの時効も完全に過ぎ去った今。質屋を畳むことになった店主か、ご遺族が、お母様が遺していた願いに従って、あなたのご自宅にこれを送り届けたのでしょう」


 篠田の震える手が、カウンターの上に置かれた封筒へと伸びた。

 糊付けはされておらず、折り畳まれたフラップを開くと、中から二枚の薄い便箋が姿を現した。


 篠田は両手でその便箋を持ち、ストーブの明かりを頼りに、そこに記された文字を一つ一つ追っていった。


『質屋のご主人様へ。

 もし私が、このオルゴールを買い戻すことができず、寿命を迎えてしまったら。

 どうか五十年の時が過ぎるまで、これをこのまま預かってはいただけないでしょうか。

 夫を騙し、世間に泥棒の嘘をついた私の罪が、時と共に許される日が来ることを祈って。

 そして、時効を迎え、私のついた嘘が誰かを傷つけることのない未来が来たならば……どうか、息子にこれを返してやってください』


 便箋の文字は、ところどころ水滴が落ちたように滲んでいた。


『修一へ。

 嘘をついてごめんなさい。家宝を守れなくて、ごめんなさい。

 でも、どうしてもあなたたちと過ごすあの家を、手放すことはできなかった。

 いつかあなたがこの手紙を読み、このオルゴールを開けた時……再びあの美しい音が、我が家に響き渡りますように。

 母より』


「母さん……っ」


 手紙を読み終えた篠田は、五十年前の脆い便箋を両手で包み込むようにして胸に当て、肩を震わせた。


 五十年前の怪盗。

 それは、家を守り、家族を残すために、母親がついた嘘だった。

 そして、その嘘を半世紀もの間守り抜いてくれた、質屋の主人の義理人情。


 様々な人々の思いが交差し、五十年の時を経て、銀のオルゴールはついに本当の持ち主の元へと帰還を果たしたのだ。


 美波は何も言わず、ストーブの火に手をかざしながら、ただ静かに篠田の姿を見守っていた。

 モノは言葉を持たない。

 しかし、その完璧に保存された機械、底面に残された小さな押しピンの穴、そして隠し収納に収められた何百枚もの受取証は、どんな言葉よりも雄弁に、半世紀にわたる母親の愛情を証明していた。


 ***


 やがて、呼吸を落ち着かせた篠田が、ハンカチで目元を拭って美波を見つめた。

 その手には、母の遺した便箋と、半世紀ぶりに帰還した銀のオルゴールがしっかりと抱きしめられている。


「時洲さん。ありがとうございました」


 篠田の声は嗄れていた。


「もしあなたに見てもらわなければ、私はこのオルゴールを恐ろしい盗品だと勘違いし、母の本当の想いに気づくことはできませんでした」


「いいえ。このオルゴールが、篠田さんの元へ帰りたがっていただけですよ」


 美波はふわりと、冬の陽だまりのような温かい笑顔を浮かべた。


「外側の銀の黒ずみは、専用の布で磨けばすぐに元の輝きを取り戻します。これからは、ご自宅で、お母様の代わりにたくさん音を鳴らしてあげてくださいね」


 篠田は深く頭を下げて、時洲堂の引き戸を開けた。

 冷たい北風が吹き込んできたが、帰っていく彼の背中は、店を訪れた時よりもずっと暖かく見えた。


 引き戸が閉まり、真鍮のベルが鳴り止むと、店内には再びストーブのチリチリという音と、深い静寂だけが残された。

 美波はロッキングチェアに深く座り直し、ポシェットから古い革の手帳を取り出した。

 万年筆のキャップを外し、新しい真っ白なページにペン先を落とす。


『家族を守るための、泥棒の嘘』


 その一行を静かに書き記した時、美波の胸の奥で、微かな風が吹き抜けたような気がした。


 美波はペンを置き、手帳を閉じた。

 窓の外では、初冬の冷たい風が音を立てて吹き荒れている。

 時洲堂の店主は、今日も無事に一つの迷子を本来の場所へと帰すことができた温もりと共に、ストーブの火に手をかざした。

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