第四話『アリバイ』(後)
桐生の声が、空調の駆動音よりも低く、部屋の底を這うように響いた。
彼は仕立ての良いスーツの内ポケットから、黒い金属製のペンライトを滑り出すような手つきで引き抜いた。カチリ、と硬質なスイッチ音が鳴り、青白いLEDの光の束が、作業台の上の古いトランクの中を照らし出す。
強い光の中、十年という時間を暗闇で過ごしてきた古い紙片や時計の表面が、舞台の上の作り物のように、濃く不自然な影を落とした。
「……証拠品の捏造だとでも? レシートの印字も、劇場の半券も、事件当日のものだ。特にこの『博多座』の半券は、実際に会場に入ってもぎられない限り手に入らない」
桐生の言葉を遮ることもなく、美波はトレンチコートの両ポケットに手を滑り込ませたまま、大きな丸眼鏡の奥の瞳で、強い光に晒されたトランクの中をただ静かに見下ろしている。
「桐生さん。あなたは先ほど、これは警察の証拠品だから、私に指一本触れるなとおっしゃいましたね」
「ああ。素人が触って、余計な指紋でもつけられたら厄介だからな」
「ご安心ください。私は一切触れません。……指一本触れずとも、そこに並べられたモノたちがどれほど不自然な呼吸をしているか、確かめることができますから」
その静かで透き通った声に、桐生の顎のラインが微かに強張った。桂木は両手を前で固く組んだまま、息を詰めて美波の横顔を見つめている。
「あそこに置かれた、銀色の懐中時計を見てください」
美波の視線が、折り畳まれたコートの上に置かれた、鈍い銀色の塊を捉えた。
「時計の針は、午後九時十五分で止まっていますが……右側にある時刻合わせのための『リューズ』のつまみが、どうなっていますか」
桐生は微かに眉根を寄せ、ペンライトの光の焦点を懐中時計の側面へと集中させた。銀色の小さなパーツの輪郭と、そこに生じているわずかな隙間が白く浮かび上がる。
「……一段階、外側に引っ張り出されているな」
「そうです。機械式の時計には、秒単位で時刻を合わせるために、リューズを引くと秒針がロックされる機能がついています。曾根原さんは十年前のあの日、意図的にリューズを引いて、午後九時十五分という時刻で自らの手で針を止めたんです」
美波の言葉に、桐生の持つペンライトの光が、ほんの数ミリだけ揺れた。
「もし本当に博多の街を歩き、ホテルに戻ってこの時計をトランクにしまい込んだのだとしたら……リューズは押し込まれたままでなければおかしい。完全に巻き上げられたゼンマイは三十時間から四十時間は駆動しますから、止まるのは翌日か翌々日の、全く予測できない時間になるはずです。しかし彼は、自分が博多の劇場を出てホテルに戻る途中の時間を、わざと残した。誰かに見せるためだけに、時間を止めてしまったんです」
桐生は薄い唇をわずかに結び、低い声を落とした。
「……奴が時計の時間を意図的に止めたからといって、アリバイが崩れるわけじゃない。自分が博多にいたことを後からでも証明できるように、念を入れて保管した、とも考えられる」
「では、もう一つ」
美波は瞬き一つせずに言葉を継いだ。
「レストランのレシートと、劇場の半券を見てください。桐生さんは普段、飲食店で受け取ったレシートや半券を、どうやって持ち歩きますか」
「財布の中に入れるか、スーツの内ポケットにしまうかだ」
「そうですよね。人間の体に密着する財布やポケットに入れられた紙には、革の曲面や身体の動き、そして体温の影響を受けて、必ずわずかな湾曲や折れ目、あるいは微かなヨレが残ります」
美波の視線が、光の下で一切の影を作らない、ピンと張った状態の古い紙片へと注がれる。
「しかし、この二つの紙片には、十年の経年劣化による黄ばみこそあれど、紙の四隅は鋭利で、折り目一つ、湾曲一つありません。まるで、硬いプラスチックケースの間に挟んで、最初から最後まで大切に運ばれたかのような平面を保っています。これは、博多の街で飲み食いし、観劇をして歩き回った生身の人間のポケットから出てきたモノの形ではありません」
「……」
「博多にいた誰かが、曾根原さんの指示で洋食店で食事をし、劇場に入って半券を手に入れた。そしてそれをケースに挟み、翌日の朝までに、東京にいる曾根原さんの元へ届けた。曾根原さんはそれを受け取り、このトランクの中に綺麗にレイアウトして、このホテルに預けた」
静寂に包まれた保管室に、美波の静かな推論が染み渡っていく。
桂木は小さく息を呑み、桐生はペンライトを持つ手を下ろすことなく、口元を固く結んでいた。
「……状況証拠だ」
やがて、桐生が静かに言った。
「財布の形状によっては紙が全く曲がらないこともある。極度の神経質な奴なら、レシートをシワ一つなく持ち歩くかもしれない。それだけじゃ、奴が博多にいなかったという証明には……」
「曾根原さんが、博多にいなかったという痕跡が、ちゃんと残っていますよ」
美波の言葉が、桐生の声を音もなく遮った。
彼女の琥珀色の瞳は、ただ静かに、コートの上に並べられたモノたちを見つめている。
「十年前の十一月十五日。東京で事件が起きた午後八時頃、博多の街は、どのような天候でしたか」
「そんな十年前の博多の天気なんて、俺が知るわけ……」
「この半券が、教えてくれています」
美波は、トランクの底に鎮座する、ひどく几帳面に折り畳まれたトレンチコートを視線で指し示した。
「劇場の半券の表面を見てください。紙の表面に、水滴が落ちてふやけたような、微細な円状の歪みがいくつも残っています。これは、半券を持っていた人物が、屋外で雨に降られた痕跡です」
桐生は無言で身を屈め、ペンライトの光を半券の表面スレスレから当てる。
斜めから当てられた光によって、古い紙の表面に、雨粒が叩きつけたような無数のクレーター状の歪みがかすかな影となって浮かび上がった。
「半券が雨に濡れている。つまり、開演前の午後六時頃、あるいは終演後の午後九時頃、博多の街は雨が降っていたことになります。……では桐生さん。もし、曾根原さん自身が本当に博多にいて、このコートを着て雨の街を歩いていたのなら。なぜ、一番下敷きになっているこのコートには水濡れの痕跡が一切ないのですか」
桐生の呼吸が、ふっと止まった。
美波の眼は、一切の淀みなく、十年間の嘘の縫い目をほどいていく。
「そのトレンチコートは、綿のギャバジン素材です。雨に濡れたまま密閉された革のトランクに十年も閉じ込められれば、必ず水ジミが残り、生地が不均一に収縮し、カビの臭いを発するはずです。……しかし、このコートには水ジミ一つなく、折り目もクリーニングに出した直後のように完璧にプレスされたまま。まるで、十年間、一度も袖を通されないまま眠っていたかのように」
美波は顔を上げ、桐生の黒い瞳を見つめ返した。
「このコートは、十年前の十一月十五日、博多の雨には一滴も打たれていません。曾根原さんは東京から動かず、誰かが届けた紙切れだけを受け取り、あらかじめ用意してあった綺麗なコートの上に並べただけ。……これが、モノたちが語る真実です」
ひんやりとした保管室の空気に、完全な沈黙が下りた。
空調の低い駆動音だけが鳴り響く中、桐生はゆっくりとペンライトのスイッチを切り、スーツの内ポケットへと戻した。彼の顔から、先ほどまでの刺すような視線が消えている。
「……」
数秒の空白の後、桐生はネクタイの結び目を少しだけ緩めると、スーツのポケットからスマートフォンを取り出した。
「十年もかかって、俺たち警察はこんなトリックに騙されかけていたってわけだ。……もしあんたがいなくて、俺が力任せにこのトランクを壊して中身を取り出していたら、コートと半券の矛盾にも気づかず、曾根原をシロだと断定して捜査を打ち切っていたかもしれない」
桐生はスマホの画面を親指で操作しながら、美波の方をチラリと見た。
「……あんた、何者だ」
「ただの古物商です。普段から、誰かの体温や、不器用な記憶が詰まったモノばかりを見ています。だから……」
美波は少しだけ視線を落とし、トランクの中の、冷たい風景を見つめた。
「だから、こんな風に、誰の体温も移っていないモノは、とても寒そうに見えるんです」
その言葉に、背後で息を詰めていた桂木が、深く頭を下げる気配がした。
「時洲様。……当ホテルの十年来の荷物を、見事に下ろしていただきました。あなたに依頼をして、本当に良かった」
「とんでもありません。桂木さんが、このトランクを大切に守り続けてくださったおかげです。もし乱雑に扱われていれば、この痕跡は壊れていたかもしれませんから」
美波はふわりと、いつもの時洲堂で見せるような静かな笑顔を浮かべ、大きな丸眼鏡のブリッジを押し上げた。
「さあ、ここから先は警察のお仕事ですね。共犯者を洗い出し、奪われたモノの隠し場所を見つけてくださいね」
「ああ。言われなくても、一から徹底的に洗い直してやるさ」
桐生が電話を耳に当て、本庁への報告を始める低く事務的な声を背中に聞きながら、美波は作業台から離れ、革のポシェットのベルトを肩に掛け直した。
クラシックホテルの冷たいバックヤードでの仕事は、これで終わりだ。
美波は静かに保管室の重い扉を後にし、晩秋の空気が待つ、自分の居場所へと足を踏み出そうとした。
「時洲さん、お待ちください」
従業員用の無機質な廊下を抜け、再びロビーへと戻ろうとした美波の背中を、微かに息を切らした声が追いかけてきた。
振り返ると、チーフ・コンシェルジュの桂木が、小走りで近づいてくるところだった。彼のパリッとした燕尾服のシワ一つない完璧さは保たれていたが、その目元には、長年背負ってきた重責による深い疲労の色が滲み出ていた。
「桂木さん。どうかされましたか」
「時洲様……本日は、当ホテルのために素晴らしいお仕事をしてくださいました。心より、御礼申し上げます」
桂木は立ち止まると、ロビーを行き交う他の宿泊客の目を気にする様子も一切見せず、深々と、九十度の角度で美波に向かって頭を下げた。彼が下町の若い古物商に対して見せる、一点の曇りもない敬意だった。
桂木は頭を上げると、少しだけ自嘲するように、唇の端を歪めた。
「ですが……私は、ホテルマンとして失格です。お客様の言葉を信じ、命より大切なものだと伺ったからこそ、十年間、特別クロークの空調を厳密に管理し、誰にも触れさせずにあのトランクを守り続けてきた。……しかし私が心血を注いで守っていたのは、自身の罪を逃れるために仕組んだ、嘘の塊だった」
その声には、四十年間、お客様のために尽くしてきた男の徒労感が重く混じっていた。
彼がどれほど誠実に、そしてどれほどの孤独の中で、あの持ち主の現れないトランクと向き合ってきたかを、美波は理解していた。だからこそ、美波は静かに首を振り、大きな丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳で、桂木を真っ直ぐに見つめ返した。
「違いますよ、桂木さん」
「……え」
「あなたは、嘘を守っていたのではありません。あなたが十年間、あのトランクを完璧な環境で守り抜いたからこそ、今日、警察は真実に辿り着くことができたんです」
美波の静かな声が、ホテルの華やかな喧騒の中で、桂木の耳に真っ直ぐに届いた。
「もしあのトランクが、ただの厄介な忘れ物として、劣悪な環境の倉庫に放り込まれていたら。湿気で革は傷み、中に入っていたトレンチコートには自然とカビが生え、無数のシミができていたでしょう。……そうなれば、曾根原さんが用意した『一度も雨に濡れていないコート』という決定的な矛盾は、時間の経過とともに証拠隠滅され、桐生刑事たちは、トランクの中のアリバイを本物だと信じ込んでしまっていたはずです」
美波はふわりと、秋の陽だまりのような温かい笑みを浮かべた。
「桂木さんが、お客様との最後の約束を信じて、十年間完璧な湿度と温度でそのままの状態で保存し続けてくれた。あなたの一流のホテルマンとしての誠実さが、結果として、嘘を暴き出したんです。……あなたは何も、恥じることはありません」
その言葉が落ちた瞬間。
桂木は言葉を失い、ゆっくりと瞬きをした。その目尻に光るものを、燕尾服の袖口で静かに拭う。彼は何度も何度も、声を出さずに深く頷いた。十年間、誰の迎えも来ない重たいトランクを見つめながら抱き続けてきた彼の孤独な責任感は、美波のその静かな一言によって、ほどかれていったのだ。
「時洲様……。あなたという方に依頼をして、本当に良かった。モノだけでなく、人間の心の在り処まで見透かしてしまうのですね」
「私はただ、モノが語る事実を少しだけ翻訳しただけですよ。……お世話になりました、桂木さん。またいつか、純粋にこの素敵なホテルで、美味しいお茶を楽しみに来ますね」
桂木から手渡された鑑定料の入った分厚い封筒をポシェットにしまい、美波はベルボーイが開けてくれたクラシックホテル・東雲の重厚なガラス扉を後にした。
***
外に出ると、晩秋の傾きかけた柔らかな陽射しが、美波の全身を温かく包み込んだ。
冷え切ったバックヤードの空調と、曾根原という男が遺した冷たい空気に当てられていた身体の芯が、太陽の光を浴びて少しずつ解凍されていくのを感じる。
美波は黄色く色づいた銀杏並木の絨毯を踏みしめながら、ふと、立ち止まって空を見上げた。
飛行機雲が一筋、高く澄み切った秋の空を真っ二つに割るように白く伸びている。
(曾根原さんは、あのトランクを預けてからの十年間、どんな気持ちで生活を送っていたんだろう)
駅へ向かう足取りの中で、美波は孤独に死んでいったという人物に静かに思いを馳せた。
彼は潜伏先のアパートで誰にも看取られずに息を引き取った。彼が最期まで信じ、心の拠り所にしていたのは、人間の温もりではなく、あのトランクの中に詰め込んだアリバイだけだったのだ。
健太が泥だらけになって探したカード。
小百合が泣きながら迎えに来た十五年前の詩集。
結月が失くしてしまった、秘密の手紙。
柴田が不器用な職人技で遺した、感謝の歯車。
これまでの依頼人たちが関わってきたモノには、すべて確かな体温があった。誰かを想い、誰かに愛を伝えるための、不器用な熱が宿っていた。
しかし、今日のトランクにはそれが一切なかった。自分自身を偽るためだけに用意されたモノたちは、どれほど高級な革の鞄に入れられようと、どれほど精巧に並べられようと、恐ろしいほどに空っぽだったのだ。
「……やっぱり、私は」
美波は駅の改札にICカードをかざしながら、小さく呟いた。
「温かいモノに触れている方が、好きだな」
私鉄に揺られること三十分。
車窓からの景色が、洗練された高層ビル群から、背の低い住宅や古びた商店街のアーケードへとゆっくりと変わっていく。
美波の降り立った駅は、どこか醤油の焦げる匂いや、夕飯の支度の生活音が漂う、いつもの下町の空気で満ちていた。この雑多で、少し埃っぽくて、でも確かな人間の生活の息遣いが聞こえる街並みこそが、今の美波にとって一番呼吸のしやすい場所だった。
路地裏に入り、見慣れた黒ずんだ古い引き戸の前に立つ。
少しだけ冷たさを増した晩秋の風が、足元の乾いた落ち葉をカサカサと揺らしている。
軒先には『古物商・時洲堂』の文字。
——カラン、コロン。
引き戸を開けると、真鍮の古いベルが掠れた涼やかな音を立てて美波を迎え入れた。
店内には、古い紙と木材、そして微かな金属の錆の匂いが静かに滞留している。美波は深く深呼吸をし、ようやく肩の力を抜いてトレンチコートのボタンを外した。
「お帰りなさい、時洲さん」
店の奥から、溌剌とした声が飛んできた。
見れば、カウンター席の古い丸椅子に、水色の作業着姿の青年がちょこんと座っていた。この界隈を担当している宅配便の配達員、冬馬だ。彼は手元の伝票の束をまとめながら、美波の帰還を人懐っこい笑顔で迎えた。
「冬馬くん。いらっしゃいませ。……もしかして、ずっと待たせちゃいましたか」
「いえいえ。ちょうど今、荷物を届けに来たところっすよ。今日は時洲さん、えらくカッチリした格好でお出かけしてたんすね。まさか、デートっすか」
冬馬が白い歯を見せて、からかうように笑う。美波は小さく首を振りながらカウンターの中へと入り、自分の定位置であるロッキングチェアの背もたれにコートを掛けた。
「デートなら良かったんですけど。少し遠くのホテルまで、お仕事に行っていたんです」
「へえー。ホテルで出張。さすが時洲さん、カッコいいっすね。で、どんなお宝だったんすか。幻の名画とか、海賊の隠し財宝とか」
身を乗り出してくる冬馬の純粋な反応に、美波は思わずふふっと声を上げて笑ってしまった。
先ほどまで対峙していた、桐生の張り詰めた空気や、曾根原の残した冷たい嘘とは対極にある、この裏表のない真っ直ぐな明るさ。これこそが、時洲堂の愛すべき日常だ。
「残念ながら、海賊の財宝ではありませんでした。ただの、中身が『空っぽ』の古いトランクだったんです」
「空っぽ。なんだ、せっかく遠くまで行ったのに」
「ううん。空っぽだったからこそ、見つけられたモノがあったから。……それより冬馬くん、今日の荷物は」
「あっ、そうでした。はい、これっす」
冬馬がカウンターの上にドン、と重たい音を立てて置いたのは、みかん箱ほどの大きさのダンボールだった。差出人は、美波が時折取引をしている京都の老舗骨董店だ。
「また古そうな……お宝がぎっしり詰まってそうっすね。サイン、ここにお願いします」
冬馬が差し出した伝票に、美波は胸元から取り出した古い万年筆でサラサラとサインを書き込んだ。
冬馬は「毎度ありっす」と元気よく頭を下げると、バタバタと慌ただしい足音を立てて時洲堂を飛び出していった。
嵐のように現れて去っていく彼の背中を見送りながら、美波は再び深い静寂が戻った店内で、ゆっくりと息を吐き出した。
西の高窓から、夕陽の濃いオレンジ色の光が差し込み始めている。晩秋の日は短い。
美波は荷物の入ったダンボールを一旦作業棚に置き、店の奥にある小さなキッチンスペースへと向かった。
古いやかんでお湯を沸かし、カフェ『Lumiere』の木島店長からお礼にと贈られた、上質な中煎りのコーヒー豆を準備する。ハンドドリップでゆっくりとお湯を注ぐと、粉がふわりと膨らみ、芳醇で香ばしい香りが店内の古紙の匂いを押し退けて広がった。
コーヒーの入ったアンティークのマグカップを片手に、美波はロッキングチェアに深く身を沈めた。
ギシッ、と古い木製の椅子が、彼女の体重を受け止めて心地よい音を立てる。
ポシェットの中から、愛用の古い万年筆と、革張りの手帳を取り出した。
パラリ、と厚手のページをめくる。
そこには、これまで時洲堂に持ち込まれた様々な迷子になったモノたちのルーツと、それにまつわる人々の不器用で温かい記憶が、美波の几帳面な字で書き留められていた。
健太が泥だらけで探した、友達のためのカード。
小百合が十五年間後悔し続けた、父親の詩集。
結月が失くした、誰にも言えない秘密の手紙。
柴田が遺した、カフェの時間を動かす黄金色の歯車。
ページをめくるごとに、彼らの流した涙や笑顔、そしてモノが語ってくれた真実の温もりが、美波の指先から伝わってくるような気がした。
美波は、新しい真っ白なページを開いた。
少しだけ考え込み、万年筆のペン先を静かに紙に落とす。
『空っぽのトランクと、不在のコート』
青いインクが紙に染み込み、今日の出来事が文字となって固定されていく。
カリカリという音はせず、ただインクが紙に滑る微かな摩擦音だけが響く。
曾根原が遺したトランクは、あまりにも重く、空っぽだった。
美波はペンを置き、ふうっと小さく息を吐いた。
窓の外ではすっかり日が落ち、冷え込んだ夜の空気に街灯が白く浮かび上がっている。時洲堂の店内も、薄暗い琥珀色の影に包まれていた。
美波はマグカップを手に取り、少しだけ冷めたコーヒーを一口飲んだ。
Lumiereのコーヒーは、やはり最高に美味しかった。柴田の遺した歯車が刻む時計の音が、今もあのカフェで温かく響き続けていることを想像すると、冷え切っていた美波の胸の奥底に、ポッと小さな火が灯ったような気がした。
「……さて」
美波は手帳を閉じ、静かに立ち上がった。
店内にうず高く積まれた古書や、埃を被ったアンティークランプ、様々な時代を生き抜いてきた古物たちが、美波の動きに合わせて静かに呼吸をしている。彼らもまた、いつか自分たちの本当のルーツを解き明かしてくれる誰かを、この時洲堂で静かに待ち続けているのだ。
今日のように、冷たい嘘に触れる日もあるかもしれない。
それでも美波は、モノたちの声に耳を傾けることを決してやめないだろう。
言葉を持たない彼らが、本当は誰に愛され、誰の元へ帰りたがっているのかを見つけ出すために。
「次は、どんな迷子がお迎えを待っているのかな」
美波は大きな丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げると、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
琥珀色の光に包まれた、路地裏の古物商。
時洲美波の静かで、どこまでも優しい日常は、明日もまた、誰かのほどけない記憶を解き明かすために続いていく。




