第四話『アリバイ』(前)
いつもの沈丁花の香りが漂う路地裏を抜け、地下鉄と私鉄を乗り継ぐこと三十分。
区の西側に位置するそのエリアは、時洲堂のある下町とは、流れている空気の重さも、すれ違う人々が鳴らす革靴の足音の響きもまるで違っていた。
美波は駅前の立派な銀杏並木を抜け、目的地である巨大な建物の前で足を止めた。
『クラシックホテル・東雲』。
大正時代に建てられた洋館を改修して作られたそのホテルは、周囲を取り囲む近代的なガラス張りのビル群の中で、重厚な威容を誇っている。赤レンガの外壁には青々とした蔦が絡みつき、エントランスの広い車寄せには、黒塗りのハイヤーがタイヤの摩擦音すら立てずに滑り込んでいく。
美波は少しだけ背筋を伸ばし、着ていたトレンチコートのベルトをキュッと締め直した。
今日、彼女がここへ足を運んだのは、時洲堂の薄暗い店先で待ついつもの日常とは違う、出張依頼を受けたからだった。
自動ドアではなく、燕尾服を着た初老のベルボーイが手で開けてくれる重いガラス扉を潜ると、そこは外界のノイズが遮断された別世界だった。
足音が完全に吸い込まれる、分厚い真紅の絨毯。高い天井から吊るされたバカラ製のシャンデリアが、無数の光の破片を落としている。空調の微かな風に乗ってほのかに漂うのは、生花のカサブランカの甘い香りと、古いマホガニー家具を磨き上げる蜜蝋ワックスの匂い。
少し大きめの丸眼鏡をかけ、使い込まれた革のポシェットを斜め掛けにした美波の姿は、この洗練された空間にあっては、いささか浮いているように見えたかもしれない。だが、彼女のすっと伸びた立ち姿は、この歴史あるホテルの空気に不思議なほど抵抗なく溶け込んでいた。
「お待ちしておりました、時洲様」
ロビーの隅の柱の陰から、一人の男性が足音を立てずに歩み寄ってきた。
パリッとした糊の効いた上質な燕尾服に身を包み、左胸に『チーフ・コンシェルジュ』の金色のバッジを輝かせたその男性は、桂木と名乗った。
年齢は五十代半ばだろうか。ロマンスグレーの髪を綺麗に撫でつけ、姿勢は定規を当てたように真っ直ぐだ。しかし、目尻に刻まれた深いシワや、少しだけ下がった眉尻の角度には、ホテルマンとして何十年も客の要望に応え続けてきた男の疲労と、分厚い人間臭さが同居している。
「初めまして、桂木さん。時洲美波です。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、ご足労いただき感謝申し上げます。古物商のネットワークで、時洲堂の若き店主のお噂は、かねがね伺っておりました。……さあ、どうぞこちらへ。お話はバックヤードで」
桂木は流れるような所作で美波を促し、一般客の立ち入らない、フロント裏の従業員用エリアへと彼女を導いた。
華やかなロビーとは打って変わり、冷たい蛍光灯の光が落ちる無機質な廊下をしばらく歩いた先。厳重な電子ロックのかかったドアの向こうが、宿泊客からの預かり物の中でも、特に長期間、あるいは特別な事情で保管されている品を収める『特別クローク』だった。
ひんやりとした空調の風が吹き抜ける部屋の中央。無機質なステンレス製の作業台の上に、問題のモノは重々しく鎮座していた。
「こちらです、時洲様」
桂木が白手袋をはめた手で示した先。
そこにあったのは、横幅が八十センチほどもある、ひどく頑丈な作りのアンティークの革製トランクだった。
全体は深い飴色に変色した分厚い牛革で覆われ、四隅はくすんだ真鍮の金具で補強されている。中央には鍵穴のついた重厚なロック機構があり、さらにその左右を、太い革のベルトがしっかりと締め上げていた。一見して、相当な年代物であることがわかる。
「立派なトランクですね。イギリス製……一九五〇年代のものでしょうか。でも、ずいぶんと革の油分が抜け切って、表面に細かなひび割れが起きています。長い間、手入れがされていない」
「ご慧眼です。……このトランクは、今からちょうど『十年前』に、うちのホテルに宿泊されたお客様が、クロークに預けていかれたものなのです」
十年。
その時間の長さに、美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳をわずかに細めた。
「本来、お預かりした荷物の保管期限は最大でも三ヶ月と規定されております。期限を過ぎれば、規定に則り処分させていただくのがホテルのルールです。ですが……」
「捨てられなかったんですね、桂木さんは」
「……ええ。お恥ずかしい話ですが」
桂木は燕尾服のベストの裾を無意識に引き下げ、視線を落とした。
「このトランクを預けた男性のお客様は、チェックアウトの際、『三日後に必ず取りに来る。命よりも大切なものが入っているから、誰にも触れさせないでくれ』と、ひどく切迫した様子でおっしゃったのです。……結局、そのお客様がホテルに戻られることはありませんでした。お残しになった連絡先も繋がらず、足取りは完全に途絶えてしまった」
桂木はトランクのくすんだ真鍮の金具を見つめ、細く、長い息を吐き出した。
「十年です。私もホテルマンとして、そろそろ決断を下さねばなりません。ですが、そのまま焼却炉に入れるには、このトランクはあまりにも重すぎた。……ですから時洲さん。あなたの力で、このトランクを開錠して中身を鑑定していただきたいのです。もし、ただのガラクタであれば未練なく処分できます。もし、本当に彼にとって命より大切な、ご家族に返すべき遺品のようなものであれば……なんとか、持ち主の痕跡を探し出したい」
美波は桂木の言葉の裏にある不器用な誠実さに静かに頷き、作業台の上のトランクへと歩み寄った。
いつもの依頼のように、そこに宿る誰かを想う記憶をほどくために。
そう思って、美波が革の表面にそっと右手の指先を這わせた、その瞬間だった。
(……)
美波の指先が、微かに硬直した。
肌から伝わってくる感覚。嗅覚が捉える古い革の匂いの奥にあるもの。
健太のカード探しや、小百合の古本、結月の封筒、そして柴田のコーヒーミルの時に感じた熱が、このトランクからは一切感じられなかったのだ。
あるのは、強固な拒絶の意思だけ。
トランク自体が息を潜めて警告を発しているような違和感だった。
「桂木さん。このトランクの持ち主は、どのような風貌の男性でしたか」
美波の声のトーンが、わずかに一段階下がった。
「風貌、ですか。ええと、当時は四十代半ばの、仕立ての良いスーツを着た男性でした。ただ、周囲を常に気にしているような、そんな様子で……」
桂木が当時の記憶を探りながら答えようとした、まさにその時。
保管室の重い電子ドアが、事前のノックもなく、乱暴な金属音を立てて開け放たれた。
「そこまでだ、コンシェルジュさん。そしてそこのお嬢さん。そのトランクから、今すぐ離れろ」
低く、静かな声を持った男が、ドアの入り口に立っていた。
歳は美波より少し上、二十代後半だろうか。息を呑むほどに端正な顔立ち。
仕立ての良い細身のダークスーツを着崩し、ネクタイをわずかに緩めている。長いまつ毛の下にある切れ長の瞳は、一切の感情を排した虚無を湛えていた。
男はズカズカと踏み込むように保管室へと入ってくると、内ポケットから黒い手帳を取り出し、美波と桂木の目の前でバサリと開いて見せた。
そこに輝いていたのは、金色の警察バッジだった。
「警視庁捜査一課、桐生だ。……桂木さん。あなたが十年前に預かったというそのトランクはな、迷子の忘れ物なんかじゃない」
桐生と呼ばれた若い刑事は、美波の肩越しに、作業台の上のトランクを見据えた。
「それは、十年前の未解決事件の重要参考人が隠し持っていた『証拠品』だ。警察が押収する」
クラシックホテルの空気が、一瞬にして静まり返った。
桂木の喉の奥から息を呑む音が漏れ、彼の肩が強張る。
しかし、美波だけは違った。
彼女はトランクの革の表面から指先を離すことなく、ずり落ちた大きな丸眼鏡のブリッジをくいっと押し上げ、琥珀色の瞳で桐生という刑事を真っ直ぐに見つめ返した。
静かな睨み合いのような数秒間。
沈黙を破ったのは、桂木だった。
長年、この一流ホテルで客の要望に応え続けてきたコンシェルジュ。桂木は両手を背中で固く組み、美波を庇うように一歩前に出た。踏み込んできた桐生に対して、彼はあくまで慇懃な態度で対峙した。
「当ホテルでは、警察の捜査には全面的に協力する方針でおります。ですが、事前の連絡もなく、ましてや令状もなしに従業員専用の保管室へ押し入るような真似は、いささか強引が過ぎるのではないですか」
「令状なら今、本庁の連中が裁判所で取っている最中だ。あと一時間もすればここへ届く」
桐生は美しい顔をわずかに傾け、短く吐き捨てた。
彼は作業台の上にあるアンティークの革製トランクを、暗い目つきで睨みつけている。
「俺は先行してブツが本当にここにあるのか確認しに来ただけだ。……ビンゴらしいな。まさか、東雲ほどの格式あるホテルが、指名手配犯の荷物を十年間も大事に預かっていたとは。世間が知ったらいい笑い者だ」
「指名手配犯……。一体、何の話をしているのですか。十年前にこのトランクをお預けになったお客様は、確かに少し神経質な様子ではありましたが、犯罪に関わるような方には到底見えませんでした」
桂木の抗議に、桐生は薄い唇の端をわずかに上げた。
「人を見かけで判断するのは、ホテルマンの悪い癖だな。桂木さん。アンタが十年前に接客したその男の名前は『曾根原』。……ちょうど十年前の十一月、都内の宝飾店から三億円相当のダイヤモンドが強奪された事件を覚えているか」
「三億円の……確かに、連日ニュースで報道されていました。未だに犯人が捕まっていない、未解決事件のはずですが」
「ああ。実行犯の目星はついていたが決定的な証拠がなく、主犯格と見られていた曾根原は事件直後に忽然と姿を消したからな。だが先週、事態が動いた」
桐生はスーツの内ポケットから、透明な証拠品袋に入った一枚の古い紙切れを取り出して見せた。それは、黄ばんで端が擦り切れた、ホテルの『荷物預り証』だった。
「潜伏先のアパートで、曾根原が死んでいるのが発見されたんだ。病死だ。孤独にな。そして奴の部屋の畳の裏から、この東雲の預り証が出てきた。日付は、事件の翌日。……あの用意周到な曾根原が、死ぬまで誰にも見つからないように隠し持っていた荷物だ。このトランクの中に、消えた三億円のダイヤが眠っている可能性は極めて高い」
桐生の説明を聞き、桂木は顔から血の気を失い、言葉を詰まらせた。
自分が十年間、処分することもできずに律儀に守り続けてきたトランクが、未解決事件の犯罪者の隠し財産だった。
「さあ、説明は終わった。お嬢さん、そこをどけ。令状が来る前に、中身がダイヤかどうかだけでも確認させてもらう」
桐生が腰のベルトに手をやった。鍵を壊してでも、トランクをこじ開けるつもりなのは明らかだった。桂木が「お待ちください」と制止しようとしたが、それよりも早く動いたのは、作業台の前に立つ美波だった。
「壊すおつもりですか」
美波の静かな声が、空調の効いた保管室に響き渡った。
彼女はトランクの前に立ち塞がり、琥珀色の瞳で桐生を見据えた。
「これは、桂木さんが十年間、ホテルマンとしての責任と良心で守り抜いてきたお預かり物です。令状もないのに、物理的な暴力で外側を破壊することは、私が許しません」
「三億円の盗品が詰まった証拠品だぞ。古ぼけたカバンの外側の価値なんて、ゼロに等しいんだよ。大人しくそこをどけ」
桐生の声のトーンが、さらに一段低くなった。
「価値を決めるのはあなたではありません。それに、このトランクの鍵をこじ開けようとすれば、あなたはダイヤを手に入れる前に、すべての手がかりを永遠に失うことになりますよ」
美波はトランクの中央にある、重厚な真鍮のロック機構を細い指先でトン、と軽く叩いた。
「このトランクは、一九五〇年代にイギリスの熟練の鞄職人が作った特注品です。鍵穴の構造を見てください。内部に六つの独立したピンが複雑に噛み合う『ブラマー錠』の応用型が使われています。もし外部から強力な衝撃を加えたり、無理にこじ開けようとすれば、内部の鋼鉄製のトラップが作動し、二度と開かないように完全にロックされる仕組みになっています。そうなれば、バーナーで革ごと焼き切るしか中身を取り出す方法はありません」
桐生の動きが、ピタリと止まった。
彼は美波とトランクを交互に見た。強引にこじ開けて中身のダイヤに傷をつけたり、トランクごと焼き切って他の紙の証拠などを灰にしてしまえば、始末書どころの騒ぎでは済まなくなる。
「……じゃあ、どうするって言うんだ。鑑識の鍵師を呼べば、到着までに二時間はかかるぞ」
「私が開けます。私は桂木さんから、このトランクの開錠と中身の鑑定を依頼されてここに来ているんですから」
美波は大きな丸眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに言った。
「五分。五分だけ時間をください。トランクにも、中身にも一切の傷をつけることなく、私がこの鍵を開けてみせます。……もし開けられなければ、好きに壊していただいて構いません」
桐生は美波の瞳をしばらく無言で見つめ返していたが、やがて短く鼻で息を吐いた。
「いいだろう。五分だ。お嬢さんのお手並みを拝見させてもらおうじゃないか。ただし、中身が出た瞬間から、それは警察の証拠品だ。指一本触れることは許さん」
「ありがとうございます。……桂木さん、作業に入りますね」
美波は肩から下げていた大きな革のポシェットを下ろした。
中から取り出したのは、愛用の銀色のルーペと、革のケースに収められた数種類の細い金属製のピック、そして小型のテンションレンチだった。
ルーペを右目に装着し、美波は真鍮の鍵穴へと顔を近づけた。
十年分の埃と乾燥で、鍵穴の奥には微かな緑青が浮いている。美波は専用のオイルを極細のノズルで一滴だけ鍵穴に注ぎ込み、金属の摩擦を滑らかにした。
「ブラマー錠の弱点は、ピンの深さを感知するテンションの掛け方にあります。六つのピンを、同時に正しい深さまで押し込まなければならない……」
美波は左手でテンションレンチを鍵穴に噛ませ、右手で極細のピックを滑り込ませた。
保管室の中に、美波の静かな呼吸音と、カチリ、カチリ、という微小な金属音が響き渡る。
桐生は腕を組み、壁にもたれかかりながらその様子を見下ろしていた。
美波の指先には一切の迷いがなかった。
彼女の琥珀色の瞳は、鍵穴の奥を見ているのではない。ピックを通して伝わってくる微細な振動と、金属が擦れる音の反響から、内部のシリンダーの構造を脳内で正確に思い描いているのだ。無理やりこじ開けるのではなく、鍵の構造を理解し、その絡まりを優しく解きほぐしていく作業だった。
カチッ。
一つ目のピンが沈み込む。
カチ、カチッ。
二つ目、三つ目のピンが定位置に収まる。
十年という長い年月、誰の侵入も許さなかった真鍮の要塞が、美波の指先の前で、一枚ずつ薄皮を剥がれるように攻略されていく。
「……あと、少し」
美波の額に、うっすらと汗が滲む。
最後の六つ目のピン。美波はピックの先端をコントロールし、静かに押し込んだ。
——カチャリ。
部屋に響くような、重く、クリアな金属音が鳴った。
ロック機構の内部で、分厚い真鍮のカンヌキがスライドし、完全に拘束が解き放たれた音だった。
「……」
壁にもたれていた桐生が、無言のまま姿勢を正した。
時計を見れば、わずか四分半しか経過していない。美波はトランクに傷一つ付けることなく、開け放ってしまったのだ。
「開きました」
美波はピックとルーペをしまい、トランクの左右を締めていた太い革ベルトのバックルを外した。
そして、桂木と桐生が見守る中、重たい革の蓋に両手をかけ、ゆっくりと持ち上げた。
ギギギ……という古い革の軋む音とともに、トランクが開かれる。
その瞬間、中に閉じ込められていた十年前の空気が、埃っぽく乾燥した匂いとなって周囲に広がった。
桐生が作業台へと歩み寄り、トランクの中を覗き込む。
三億円のダイヤモンド。それを期待していた桐生の視線が、中身を捉えた瞬間、固まった。
「なんだ、これは。ダイヤはどこだ」
桐生の喉の奥から、くぐもった声が漏れる。
美波もまた、トランクの中身を静かに見下ろしていた。
トランクの中に収められていたのは、宝石でも、札束でもなかった。
そこにあったのは、ひどく几帳面に折り畳まれた一着の古いトレンチコート。そして、そのコートの上に、いくつかの細々としたアイテムが整然と並べられていたのだ。
「証拠品に触れないでくださいね、桐生さん」
美波が静かに言う中、桐生は奥歯を噛み締めながら、作業台の縁を指の関節が白くなるほど強く握りしめ、トランクの中に並べられたアイテムを見た。
一つ目は、古い劇場の半券。
二つ目は、レストランのレシート。
三つ目は、銀色の懐中時計。
そして四つ目は、安ホテルのマッチ箱だった。
「これは……どういうことだ」
桐生が、半券の印字を読み上げて言葉を失う。
「『博多座・特別公演』……日付は、十年前の十一月十五日、午後六時開演。……十一月十五日の午後八時は、都内でダイヤの強奪事件が起きたまさにその時間だぞ」
桐生は次に、レストランのレシートに目を向けた。
そこには『博多駅前・洋食軒』という店名と、同じく十年前の十一月十五日、午後五時三十分という時刻が、薄れかけたインクで明確に印字されていた。
もし、曾根原が事件当日の夕方から夜にかけて、東京から遠く離れた福岡県博多市で食事をし、劇場で芝居を見ていたのだとすれば。
彼は、都内で起きた三億円の強奪事件の実行犯であることは、物理的に不可能ということになる。
「アリバイ……だと」
桐生の声が、かすかに震えていた。
彼は、銀色の懐中時計を見つめる。その時計の針は、午後九時十五分でピタリと止まっていた。劇場の公演が終わり、博多の街を歩いていたであろう時間だ。
「奴は……曾根原は、このトランクの中に三億円のダイヤを隠していたわけじゃない。……自分が無実であることを証明するための完璧なアリバイを、十年後の警察に見せるために、このホテルにタイムカプセルのように隠していたっていうのか……」
桐生の顔が歪んだ。作業台の縁を握る手にさらに力がこもる。
警察が十年間追い続けてきた大事件の主犯格。その男が隠し持っていた切り札は、犯罪の証拠ではなく、自身の潔白を証明するためのアリバイだったのだ。
「……じゃあ曾根原はシロだったのか。俺たちは十年間、見当違いの無実の男を追いかけ回して、孤独死するまで追い詰めてしまったってことかよ……」
桐生の肩が落ちた。
桂木もまた、複雑な表情でトランクの中身を見つめていた。お客様が命より大切だと言って預けたのは、いつか警察に疑われた時に自分を守るための、たった一つの盾だったのだと。
しかし。
その場にいる誰よりも冷静に、トランクの中身を見つめていた人物がいた。
「……いいえ」
美波の静かな声が落ちた。
桐生と桂木が、同時に美波の方を振り向く。
美波はトランクの中にあるアイテムには一切指を触れず、ただ、少し大きめの丸眼鏡の奥にある琥珀色の瞳を伏せていた。
美波が見ていたのは、ただ一つ。
それらのモノが、十年間という長い年月の中で刻んできた、微細な物理的な矛盾だった。
「時洲様……」
「桐生さん。警察がご自身たちの捜査を恥じる必要はありません。曾根原さんという方は、間違いなく罪を犯しています」
美波はずり落ちた丸眼鏡のブリッジを人差し指でくいっと押し上げ、トランクの中に並べられた完璧なアリバイたちを見下ろした。
「このトランクの中身は、すべて曾根原さんがご自身を守るために作り上げた『嘘』です。……モノたちが本来持っている記憶を無視して、無理やり物理的な矛盾を押し付けられた、悲しい嘘です」
犯罪者の意図が仕組んだ、十年前のタイムカプセル。
しかし、言葉を持たないモノたちの本当のルーツは、決して時洲美波の眼をごまかすことはできなかった。
冷たい謎の蓋が開かれた今、時洲堂の若き店主による嘘の糸ほどきが、静かに始まろうとしていた。




