第二話『後悔』(後)
冷たい春の雨がアスファルトを打つ音と、結月の濡れたトレンチコートの布地から立ち昇る微かなエスプレッソの香りが、時洲堂の重たく古い空気の中で静かに交じり合っていた。
引き戸の前に立ち尽くす結月は、雨水を吸って重くなったコートの裾から雫を滴らせながら、浅く早い呼吸を繰り返し、肩を激しく上下させている。そのアーモンド型の目は行き場を失って左右に泳ぎ、濡れた前髪が額に痛ましく張り付いていた。
彼女の極限のパニックを前にしても、美波の纏う空気は一切の波紋を立てない湖面のように凪いでいた。
「結月さん。まずは、中へ入りましょう」
美波は決して声を張ることなく、少しトーンを落とした透き通るような声で告げた。そして、玄関先に立ち尽くす結月の冷え切った両手を、自分の両手でゆっくりと包み込む。
その手のひらから伝わる静かな体温に促されるように、結月はわずかに頷き、美波に引かれるまま店内の奥にある応接スペースのソファへと腰を下ろした。
美波は店の奥にある棚から厚手なバスタオルを取り出すと、震えの止まらない結月の肩をすっぽりと包み込んだ。そして、先ほど小百合に出したものと同じアールグレイの茶葉で新しい紅茶を淹れ直す。
湯気の立つアンティークのティーカップを、結月の小さな両手の中にそっと握らせた。
カップから立ち昇る温かな熱と、ベルガモットの深い香りが、結月の浅く乱れた呼吸のペースをほんの少しずつ整えていく。
美波は結月が紅茶に口をつけ、肩の震えがわずかに治まるのを待ってから、彼女の目線に完全に合わせるようにしてローテーブルの前にしゃがみ込んだ。丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、雨に打たれた小動物を覗き込むように、柔らかく細められる。
「少し、落ち着きましたか。……何を、失くしてしまったんですか」
結月はカップを握る指先に白くなるほど力を込め、俯いたまま、喉の奥から絞り出すような震える声で話し始めた。
「……淡い水色の、洋封筒です。中に、便箋が……手紙が、入っていて……」
「誰かに、渡すはずだった手紙ですか」
「……違います。誰にも……絶対に、誰の目にも触れさせちゃいけない手紙なんです」
結月の瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。彼女は顔を歪め、ぽつりぽつりとその封筒の中身について語り始めた。
「私……アルバイト先のカフェの店長のこと、好きになっちゃったんです。店長には、優しそうな奥さんも、まだ幼稚園に通う小さな娘さんもいるのに。……諦めなきゃいけない、こんな気持ちを持っちゃいけないって分かってるのに、どうしても、苦しくて。だから……」
結月の顎から滴り落ちた涙が、トレンチコートの膝のあたりにぽたぽたと濃い色の染みを作っていく。
「だから、この気持ちを全部、ノートの切れ端に書き出して……今日、大学のシュレッダーで粉々に捨ててしまおうと思ったんです。誰にも見られないように、水色の封筒に入れて、しっかりと糊付けして」
「……」
「でも……駅に向かう途中でポケットを探ったら、なくなっていて。もし誰かに拾われて、中身を読まれたら……宛名も差出人も書いていないけど、カフェの制服のポケットに入れていたから、お店のコーヒーの匂いが移っているかもしれない。もしそれが店長や、奥さんの目に触れたら……私、店長のご家族も、自分自身の居場所も、全部壊してしまう……」
結月はティーカップをテーブルに置くと、両手で顔を覆い、しゃくりあげた。
自分が抱えてしまった感情と、それが白日の下に晒されることへの恐怖。二十歳の女子大生がたった一人で背負い込むには、その重圧はあまりにも大きすぎたのだ。
美波は何も言わず、バスタオル越しに結月の背中を、一定のゆっくりとしたリズムで撫で続けた。
小百合が抱えていた過去への後悔と、結月が現在進行形で抱えている秘密への恐怖。形は違えど、どちらも根底にあるのは『誰かを傷つけてしまうかもしれない』という優しい痛みだ。時洲堂に引き寄せられるモノたちは、いつだってこうした人間のひたむきな情動と深く結びついている。
「結月さん。人を好きになる気持ち自体は、決して罪じゃありませんよ」
美波の静かな声が、雨音だけが響く店内に落ちた。結月が、顔を上げる。
「その手紙はね、結月さんの行き場のない痛みを、代わりに吸い取ってくれたただの器です。誰も傷つけないために、ちゃんと自分で終わらせようとしていた。だから、自分のことを最低だなんて責めないでください」
美波の琥珀色の瞳が、結月の濡れた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。そこに軽蔑や非難の色は微塵もない。ただ、目の前の人間の存在を丸ごと肯定するような、透明な光だけがあった。
「絶対に、誰の目にも触れさせません。一緒に見つけましょう」
「美波、さん……」
美波は音もなく立ち上がると、先ほど着替えたクラシカルなトレンチコートの襟をゆっくりと正した。
そして、少しずれ落ちていた丸メガネのブリッジを、細い人差し指でくいっと押し上げる。それは彼女が、モノのルーツと人の心に寄り添うスイッチだった。
「水色の封筒ですね。最後にその封筒がコートのポケットにあると確認したのは、いつですか」
「ええと……カフェの更衣室で、コートの右ポケットに入れた時は、確かにありました。その後、小百合さんと一緒にこのお店に来て……」
「その時、結月さんはご自分の左腕のブレスレットを、何度も気にするように触っていましたね」
美波の指摘に、結月は涙で濡れた目を瞬かせた。
「あ……はい。私、昨日腕時計を壊してしまって、今日は代わりにこのブレスレットをつけていたんです。でも、時計を見る癖が抜けなくて、何度も手首を見てしまって。……ゼミの時間に遅れないか不安で、その度に、右手はコートのポケットの外側から、封筒があるのをギュッと確かめていました。絶対に落とさないようにって」
美波の中で、結月の歩んできた道のりと、彼女が取ったすべての動作が、音もなく組み上げられていく。
(カフェを出てからこの店に来るまで、結月さんはずっと『外側』からポケットを押さえていた。直接ポケットの中に手を入れて確認していたなら、手を引き抜く時の摩擦で封筒が落ちる可能性がある。でも、外から布越しに押さえていたなら、歩いている途中の道端で不意にこぼれ落ちるはずがない)
「結月さん。右手をポケットから離した瞬間は、何度ありましたか」
「えっと……カフェを出て傘を開く時。それから、このお店に着いて傘を閉じた時。あとは、駅に着いて、券売機でお財布を出そうとした時……その時に、右手をポケットに入れたら空っぽなことに気づいて、慌てて引き返してきたんです」
傘の開閉時、あるいはお財布を取り出す時。人間の意識が『他の複雑な動作』に強く向いた一瞬の隙にこそ、無意識の死角は生まれる。
「駅までの道には、落ちていませんでしたか」
「はい。下を向いて走ってきたので……。でも、どこにも……」
そこまで聞いて、美波の眼に、一つの明確な答えの輪郭が完全に浮かび上がった。
「結月さん。あなたが探しているのは『淡い水色の洋封筒』ですよね。雨に濡れた黒いアスファルトの上なら、どれだけ空が暗くても、その色はハッキリと目立つはずです。結月さんが地面を探しながら戻ってきたのに見つからなかったということは、道端には落ちていない可能性が極めて高いんです」
「じゃあ、どこに……」
「モノには、人間の動作の癖によって引き寄せられる、一番落ち着く場所があるんです。……結月さんが落とした封筒は、きっとまだ、雨に濡れずに誰の目にも触れない場所で、息を潜めていますよ」
美波は玄関先に立てかけてあった自分のくすんだ赤色の傘を手に取ると、結月に向かって小さく微笑んだ。
「行きましょう、結月さん。まずはあなたの秘密をお迎えに行きます」
「えっ……分かるんですか。どこにあるか」
「はい。……ところで結月さん、駅の改札前でパニックになった時、持っていた傘はどうしました」
「あっ……券売機の横にある、忘れ物用の傘立てに、突っ込んだまま走ってきちゃいました……」
美波の唇の端が、確信に満ちた弧を描く。
二人は雨の降る薄暗い路地へと、足早に踏み出した。向かう先は駅の券売機前。そこに、結月の秘密を解き明かす答えが待っているはずだった。
***
駅の構内は、雨宿りをする人々や家路を急ぐ学生たちの湿った熱気でごった返していた。
床のタイルは無数の靴底が持ち込んだ雨水で滑りやすくなっており、構内アナウンスの声が人々の喧騒に吸い込まれていく。
改札口のすぐ横にある券売機の脇には、金属製の大きな忘れ物用の傘立てが設置されていた。持ち主に見捨てられたビニール傘や、骨の折れた傘が無造作に何本も突っ込まれているその中に、結月がカフェの制服のまま飛び出してきた時に持っていたという、紺色の折りたたみ傘がポツンと立てかけられていた。
「あ……私の傘、ありました」
「結月さん。その傘を、そっと手に取ってみてください」
美波に促され、結月は恐る恐る自分の紺色の傘の柄を握り、引き抜いた。
雨水を含んでずっしりと重くなったその傘は、綺麗に畳まれているわけではなかった。慌てて太い留め具のベルトでぐるりと無造作に巻かれ、スナップボタンが留められただけの、ひどく歪な状態だった。
「結月さん。カフェを出てからこの駅に着くまで、あなたは大切な手紙を落とさないようにと、ずっとコートの右ポケットの外側から、封筒の感触を右手で押さえて確認していましたね。でもそれは、封筒をポケットの奥へ押し込む動作ではなく、歩く振動とともに、むしろ下から上へと、ポケットの口へ向かって封筒を押し上げてしまう動作なんです」
「……えっ」
「そして駅に着いた時、ゼミの時間が迫っていて焦っていたあなたは、左腕のブレスレットのせいもあって、普段より手元が狂いやすくなっていた。改札前でこの折りたたみ傘を閉じる時、どうやって畳みましたか」
結月はハッとして、自分の手元を見つめた。
「私、右手で持っていた傘の柄を、右脇に強く挟み込むようにして……左手で濡れた布をまとめて、スナップボタンを留めました」
「そうです。その時、濡れた傘の布地が、あなたの右ポケットの口にぴったりと押し付けられたはずです。ポケットの口のギリギリまで押し上げられていた滑りの良い洋封筒は、あなたが傘を閉じて布をぐるりと巻いたその一瞬の隙に、ポケットから滑り出し——」
美波は、結月の手にある傘の不自然な膨らみを指差した。
「傘のひだの中に、一緒に巻き込まれたんです」
結月の呼吸が止まる。
彼女は震える指先で、傘のスナップボタンに爪を引っかけ、弾くように外した。
濡れた布地がバサリと重い音を立てて解け、幾重にも重なったひだの内側から、何かがぽろりと顔を出した。
それは、水滴を弾くツルツルとした素材の、淡い水色の洋封筒だった。
ほんの少しだけ端が湿って波打っていたが、外側の布に守られていたおかげで泥水に汚れることもなく、誰の目にも触れないまま、完全な形でそこに息を潜めていたのだ。
「あっ……ああっ……」
結月は封筒を両手で強く抱きしめ、その場にへたり込みそうになった。美波がすかさず彼女の腕を下から支え、優しく背中をさする。
「美波さん……っ、美波さん、ありがとうございます……。よかった、誰にも見られてない……っ」
「誰にも知られることなく、無事に見つかりましたね。これで、もう大丈夫です」
改札前の喧騒の中で、結月は声を殺して静かに泣き続けた。
それは、誰にも言えない秘密を一人で抱え込んでいた孤独からの解放であり、安堵の涙だった。
「この手紙は、お家に帰ったら、自分でちゃんと破って捨てます。……この気持ちも、全部一緒に」
「ええ。結月さんなら、きっとまた新しい素敵な出会いを見つけられますよ」
涙を拭い、何度も何度もお辞儀をして去っていく結月の背中を見送った後、美波はふうっと小さく息を吐き出した。
ずり落ちていた丸眼鏡を定位置に戻すと、彼女の瞳は再び、次なる迷いモノの気配を探るように、静かに澄み切った光を帯びた。
「さて。もう一つのお迎えに、行きましょうか」
美波は赤い傘を開き、駅前の商店街の端にある古い雑居ビルへと向かって歩き出した。
目指す『三日月堂』は、ひどく急で薄暗い階段を上った二階にある、知る人ぞ知る老舗の古書店だ。
擦りガラスの入った引き戸を開けると、時洲堂の甘い匂いとはまた違う、ひんやりとしたインクの匂いと古紙の酸化した香りが鼻を突いた。壁一面に天井まで届く本棚が並び、足の踏み場もないほどに高く積まれた本の山の中央で、分厚い老眼鏡をかけた白髪の店主が、虫眼鏡を片手に古書の目録を睨みつけていた。
「いらっしゃい……おや、時洲堂の若いお嬢さんじゃないか。今日はどうしたんだい。うちには君が喜ぶような、得体の知れないガラクタは置いてないよ」
「こんにちは、店主さん。今日はちゃんとした『本』を探しに来たんです」
美波は小さく笑いながら、本棚の隙間を縫ってカウンターへと近づいた。
「十五年前に、このお店で買い取られた本について、お聞きしたいんです。……『銀色の月の舟』というタイトルの古い翻訳詩集で、紺色の布張りの表紙。見開きの最初のページに、青いインクで三日月のような形の染みがある本。心当たりは、ありませんか」
その特徴を聞いた瞬間、老店主の虫眼鏡を持つ手がピタリと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、分厚いレンズ越しに美波の顔をまじまじと見つめた。深い皺の刻まれた顔が、過去の記憶をたぐるように強張る。
「……三日月のような、青いインクの染み。十五年前、か」
「はい。持ち込んだのは、当時二十歳くらいだった女の子です」
老店主は深々と息を吐き、読みかけの目録をパタンと閉じた。
彼はゆっくりとした動作で椅子から立ち上がると、背後にある、鍵のかかったガラス張りの特別な戸棚の前に立った。
「忘れるわけがないさ。泣きはらしたような顔で、怒りに任せてその本を叩きつけるように売っていった娘のことも。……そして、その翌日に、血相を変えて店に飛び込んできた、あの頑固そうな父親のこともね」
「お父様が、翌日に」
「ああ。娘が大切な本を持ち出して売ってしまったと言ってな」
老店主は腰に提げた鍵の束から小さな鍵を選び出し、カチャリと冷たい音を立てて戸棚を開けた。
一番上の棚の奥から、丁寧にグラシン紙で包まれた、一冊の古い本を取り出す。くすんだ紺色の布張りに、銀色の箔押しで『銀色の月の舟』と刻まれたその本は、長い年月を経てもなお、極めて大切に保管されていたことが一目でわかる状態だった。
「なら、どうしてお父様はその本を買い戻して、家に持って帰らなかったんですか」
美波の問いに、老店主は少しだけ寂しそうに口元を歪めた。
「父親が言ったんだよ。『今、私がこれを買い戻して家に置いておけば、娘はさらに罪悪感を抱くか、あるいは意地を張って二度と帰ってこなくなるかもしれない。あいつが本当に自分のしたことの重さに気づき、自分の足でこの本を探しに来る日が来るまで、この店で預かっておいてはくれないか』とな」
老店主は、グラシン紙に包まれた詩集の表面についた微かな埃を払い、美波の前にそっと差し出した。
「あれから十五年だ。父親の方には、五年前に先立たれてしまったが……。時洲堂のお嬢さんが代わりに来たってことは、あの娘さんも、ようやく自分の後悔と向き合える母親になったってことだな」
「はい。……お預かりします」
美波は両手で大切に詩集を受け取った。
十五年間、古本屋の戸棚の奥で、ただ一人娘が迎えに来てくれる日を静かに待ち続けていた本。その手に伝わる重みは、単なる紙の束の重さではない。途方もなく深く、そして不器用な、父親の愛情の重さだった。
***
美波が三日月堂を出る頃には、空を厚く覆っていた雨雲が少しずつ切れ始め、西の空から薄オレンジ色の夕陽が、濡れたアスファルトに長い影を落とし始めていた。
時洲堂に戻った美波は、コートを脱ぐのもそこそこに、すぐに小百合へ『お迎えが完了しました』とだけ短いメッセージを送った。
それから三十分後。カラン、と勢いよく真鍮のベルが鳴り、息を切らした小百合が店に飛び込んできた。
「美波ちゃん……」
「お待ちしていました、小百合さん」
美波はカウンターから歩み寄り、ポシェットの中からグラシン紙に包まれた詩集を取り出した。
それを見た瞬間、小百合は両手で口元を覆い、言葉にならない悲鳴を飲み込んだ。十五年前、自分が怒りに任せて手放してしまった、父親の一番の宝物。それが今、まったく変わらない姿で目の前にあるのだ。
小百合は震える手で本を受け取り、ゆっくりと表紙を開いた。
真っ白な見返しのページには、記憶の通り、万年筆の青いインクが三日月のような形で染み付いていた。そして裏表紙の裏側には、几帳面な字で『S.T』と記されている。
「どうして……どうして見つかったの。十五年前よ。とっくに誰かの手に渡って、どこかへ行ってしまったはずなのに……」
「小百合さんのお父様が、あなたを待っていたんです」
美波は、静かな、祈るような声で告げた。
「お父様は、あなたが本を売った翌日に古本屋へ行き、あえて買い戻さずに、その本をお店に『預けた』んです。いつかあなたが、自分の意志でこの本を探しに来てくれる日を信じて。……十五年間、この本はずっと、あなたのお迎えを待っていたんですよ」
その真実を知らされた瞬間、小百合の膝から完全に力が抜け、彼女はその場に泣き崩れた。
床に座り込み、詩集を胸に強く抱きしめる。
「お父さん……っ、お父さん、ごめんなさい……。あんなひどいことしたのに……私、ずっと、ずっと謝りたくて……っ」
「小百合さん、大丈夫ですよ。お父様は、少しも怒っていませんでしたから」
美波は小百合の隣にしゃがみ込み、彼女の震える背中を、ゆっくりと、優しいリズムで撫で続けた。
健太が友達のために泥だらけになってカードを探したように。小百合が、後悔に苛まれながら十五年前の本を探したように。
愛する誰かのために不器用に行動してしまうのは、親も子も、そして形を持たないモノたちでさえも同じなのだ。
暮れなずむ空から、わずかに残った夕陽の最後の光が、古いガラス戸を抜けて店内に琥珀色の影を落としている。
小百合の泣き声が静かな店内に響き、やがてそれは、深い安堵の吐息へと変わっていった。小百合は詩集を大事そうに撫で、美波を見上げて、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った。
「ありがとう、美波ちゃん。……私、この本、一生大事にする。健太が大きくなったら、おじいちゃんの話と一緒に、この詩集を読んであげるわ」
「はい。きっとお父様も、喜んでくれますよ」
小百合を笑顔で見送った後、美波は再びロッキングチェアに深く身を沈めた。
肩の力を抜き、大きな丸眼鏡を外してレンズをクロスで静かに拭く。冷たい春の雨はすっかり上がり、外からは路地の水たまりを車が跳ねていく音が微かに聞こえていた。
一日で二つの依頼。
決して見つかってはいけなかった秘密の封筒と、絶対に見つかるはずがなかった十五年前の詩集。
どちらも、誰かを想う痛みが形になったものだった。
美波は拭き終えた眼鏡を掛け直し、膝の上の洋書を再び開いた。
時洲堂に並ぶ、行き場を失った古物たちが、夕陽を浴びて静かに呼吸をしている。いつか彼らにも、帰るべき場所が見つかる日が来るのだろうか。
琥珀色の光に包まれた路地裏の古物商。
美波の静かで優しい日常は、明日もまた、迷子になった誰かの想いをほどくために続いていく。




