第二話『後悔』(前)
その日、街は朝から音もなく降り続く柔らかな春の雨に包まれていた。
近代的な市街地の喧騒から遠く離れた郊外の路地裏。アスファルトを打つ雨粒の音はどこか遠慮がちで、等間隔の静かなリズムを刻み続けている。細い雨糸は、路地のどん詰まりにひっそりと佇む『時洲堂』の黒ずんだ板壁を濡らし、しっとりとした深い飴色の艶を引き出していた。
手延べガラスがはめ込まれた古い引き戸の隙間から、湿った外気が忍び込む。店内にひしめく無数の古書が呼吸するたびに発する甘いバニラのような匂いと、雨水を吸い込んだ古い木材の香りが混ざり合う。今日の時洲堂は、いつも以上に外の世界の時間の流れから完全に切り離されたような、底なしに濃密な静寂が澱んでいた。
「やっぱり、この時代の活版印刷は、インクの沈み込み方が違うなぁ」
天井まで届く紫檀の本棚の奥。帳場として使われている分厚いマホガニーのカウンターの裏側で、ロッキングチェアがギシッと微かにきしむ音を立てた。
時洲美波は、生成り色のカーディガンの上からさらにタータンチェックのウールの毛布にくるまり、膝の上にひどく年季の入った分厚い洋書を広げていた。
肩のラインで切り揃えられた艶やかな黒髪が、真鍮の読書灯から放たれるオレンジ色の光を吸い込み、滑らかな輪郭を描いている。少し大きめの丸眼鏡の奥で、活字の凹凸を指の腹でそっとなぞる彼女の琥珀色の瞳が、陽の当たらない静かな水面のように澄んだ光を宿していた。
雨の日の時洲堂は、基本的に客の足が遠のく。
美波にとっては、誰のノイズにも邪魔されることなく、愛する古物たちが内包する沈黙の声と対話に没頭できる至福の時間だった。洋子からの差し入れであるタッパー入りのバタークッキーを一口かじり、古書のザラついたページをゆっくりとめくろうとした、その時だった。
——カランカランカランッ。
入り口の上部に吊るされた真鍮のベルが、重たい空気を叩き割るように無作法に弾けた。
美波はページにかけていた指を止め、丸眼鏡のブリッジを人差し指で静かに押し上げながらゆっくりと顔を上げる。
重い木製の引き戸が勢いよくスライドし、外の冷たい雨の匂いと、若々しい体温の熱気が一気に店内に流れ込んできた。
「ちわっす。時洲さん、お届け物です」
声の主は、このエリアの配達を担当している宅配業者の青年、冬馬だ。
美波とそう歳の変わらない、二十二、三歳。深く被ったキャップのツバから雨の雫を床の板張りにポタポタと落とし、水色のユニフォームの肩口を濃い色に濡らした彼は、小脇に抱えていた少し重たそうなダンボール箱を「よいしょ」とカウンターの上に置いた。
彼の持つ、真っ直ぐでどこか人懐っこい雰囲気は、この薄暗い古物商の空気さえも一瞬で明るくするような熱量を持っている。しかし、彼は自分の持ち物に対してはひどく無頓着だった。今日もユニフォームの胸ポケットからは、複数のボールペンや丸まった伝票の切れ端が無秩序にはみ出している。
「冬馬くん。雨の中、お疲れ様です。……今回は、どこから来た子でしょうか」
美波はロッキングチェアから降り、毛布を畳んでカウンターへと歩み寄った。
「ええと、差出人は京都の骨董市からみたいすよ。また時洲さん、変なガラクタ……ゲフン、お宝を受け入れたんすね。はい、ここにサインお願いします」
冬馬が胸ポケットから黒いボールペンを一本引き抜き、濡れた手で伝票と共に美波へ差し出す。しかし、美波が受け取ろうとする前に、彼は「あ、ちょっと待って」とペン先を自分の手の甲にこすりつけた。
何度ペン先を肌に強く押し付けても、薄くかすれた跡が残るだけで、インクは一向に出てこない。
「あれ。おかしいな。今朝おろしたばっかりのペンなのに。……すんません、俺、ほんとによくモノ失くしたり壊したりするんすよね」
冬馬は少しだけ眉を下げ、濡れた髪ごと頭を掻いた。
美波は小さく目尻を下げると、自分のカーディガンの胸ポケットから、黒光りする一本の古い万年筆を取り出した。
「いいですよ。私ので書きますね」
「うわっ、なんかそれ、すげえ高そうなペン。すんません、わざわざ」
「いえ。この万年筆、ペン先の削れ方が少し独特なんですけど……筆圧をかけずに、紙の表面をただ撫でるように書くと、すごく素直な線を引いてくれるんです」
美波がキャップを外し、伝票のサイン欄にペン先を滑らせる。
カリカリという硬い音は一切しない。万年筆はまるで氷の上を滑るように紙の上を走り、澱みのない美しいミッドナイトブルーのインクの跡を残した。紙とインクの微かな酸化した匂いがふわりと立ち上る。
冬馬はカウンターから身を乗り出し、真っ直ぐな瞳でその文字の羅列を見つめていた。
「すげえ……。綺麗な字」
冬馬の口から、感嘆の息が漏れる。彼は伝票を受け取りながら、美波の手元にある万年筆をまじまじと見つめた。
「……実は俺も、人から貰った万年筆を持ってるんすよ。でも、もったいなくて、一度もインクを入れられなくて。ずっと引き出しの奥にしまってある」
冬馬の視線が、万年筆から少しだけ外れ、虚空を彷徨う。
「いつか、失くしたり壊したりする心配をせずに、日常でガシガシ使える『相棒』みたいなペンに出会えたらいいなって、いつも思うんすけどね」
「モノには、人と合わせる相性と、呼吸がありますからね」
美波は万年筆のキャップを静かに閉め、カチリという小さな音を立てた。
「きっといつか、その引き出しの中の万年筆が、冬馬くんの本当の相棒になる日が来るんじゃないでしょうか」
「相棒、すか」
冬馬は自分の大きな両手を見下ろし、それから照れ隠しのように短く鼻で笑った。
「そうなるといいんっすけどね。……やべ、こんな時間だ。もう行きますね。いつか俺にも探してほしいモンができたら、時洲さんに依頼しますね」
冬馬は白い歯を見せて笑うと、ダンボールの控えを美波の前に置き、「じゃあ、次の配達あるんで」と踵を返した。
入り口の引き戸が開かれ、再びカラン、とベルが鳴る。彼が去った後の店内には、元の重たい静寂と、微かな雨の冷気だけが残された。
「探してほしいモノ……か」
美波は手元の万年筆を胸元に戻し、小さく息を吐いた。
健太のカード探しの一件から、もう数週間が経っていた。健太はあの後も、時折泥だらけのスニーカーで時洲堂に顔を出しては、三枝夫婦と一緒にお茶を飲んで帰っていく。牧穂のこともすっかり打ち解けたようで、時折名前が彼の口から出ることもあった。
美波が再びロッキングチェアに戻り、冷えかけた毛布を膝に掛け直そうとした時。
今度はひどく控えめな、カラン、というベルの音が響いた。
「いらっしゃいま……」
美波の言葉が途切れる。丸眼鏡の奥の瞳が、入り口に立つ人物の姿を捉えた。
そこに立っていたのは、健太の母親である小百合だった。そして彼女の半歩後ろには、濡れた傘を丁寧に畳みながら、遠慮がちに店内を見回しているもう一人の若い女性の姿があった。
「美波ちゃん、こんにちは。雨の日に、ごめんなさいね」
「小百合さん。……いいえ、どうぞ、中に入ってください」
小百合は手にした紙袋を雨粒から守るように大事に抱え、美波に静かに微笑みかけた。
隣に立つ女性は、二十歳前後だろうか。美波と同年代に見える。淡いベージュのトレンチコートを着ており、首元から覗くブラウスには『Lumiere』という流れるようなロゴが刺繍されていた。駅前にあるカフェの制服だ。
「紹介するわね。同じカフェでアルバイトをしてくれている、大学生の結月ちゃん。今日は、健太の件の改めてのお礼をしたくて、彼女に美味しい焼き菓子を見繕ってもらったのよ」
「初めまして、結月です。小百合さんから、美波さんのことはよく伺ってます。……すごい。本当に映画のセットみたいなお店ですね」
結月は、明るく華やかなアーモンド型の目をさらに大きくして、店内にひしめく古物たちを見渡した。
しかし、その声のトーンの高さと裏腹に、彼女の所作にはどこか落ち着きのなさが張り付いている。ふとした瞬間、結月の視線が自分の左腕にはめられた細いシルバーのブレスレットへと向けられ、右手の親指の腹でその金属を何度も無意識になぞっているのを、美波の眼は見逃さなかった。
「ごめんなさいね、美波ちゃん。結月ちゃん、この後すぐに大学のゼミの集まりがあるのに、わざわざここまで付き合ってくれて」
「とんでもないです。私、古いものが大好きなので、一度来てみたかったんです。……でも、本当に今日は時間がなくて。美波さん、またゆっくりお店を見に来てもいいですか」
「もちろんです。いつでもお待ちしてますね、結月さん」
結月は小百合に「じゃあ、明日またシフトで」と少しだけ早口で言い残し、急ぎ足で引き戸を開けた。再び雨の降る薄暗い路地へと、彼女のトレンチコートの裾が吸い込まれていく。
結月の足音が雨音に掻き消されるのを見送った後、美波は小百合をカウンターの奥にある小さな応接スペースへと案内した。
洋子が常備してくれている高級なアールグレイの茶葉をポットに入れ、熱湯を注ぐ。ベルガモットの深い香りが、古書の匂いを押し退けるように漂い始めた。結月が見繕ってくれたという紙袋から、オレンジピールの焼き菓子を小皿に並べる。
「健太くん、その後どうですか」
「ええ、もうすっかり元気よ。あのカード、百円ショップで買ってきた写真立てに入れて、学習机の一番目立つところに飾ってるわ。時洲さんのおかげよ、本当にありがとう」
小百合は湯呑みではなく、繊細な絵付けが施されたアンティークのティーカップを、両手で包み込むように持った。そして、紅茶の水面を見つめながら、ふう、と長く細い息を吐き出した。
美波は向かいの席で、焼き菓子を小さくかじりながら小百合の表情を静かに観察していた。
健太のことへのお礼は、すでに数日前に電話で十分に受けている。雨の降る中、わざわざ若い同僚を連れてまで焼き菓子を持ってきた理由は、ただのお礼だけではないはずだ。
小百合の視線が、店内の古物が並ぶ棚をゆっくりと泳ぎ、やがてカウンターの隅に置かれた、古いマホガニー材のレターボックスでぴたりと止まった。
その瞬間だった。小百合の目元から柔らかな表情が抜け落ち、紅茶を持つ指先が白くなるほど強く力を込めた。
「小百合さん」
美波の声が、少しだけトーンを落とした。
丸眼鏡の奥の瞳から、無防備なあどけなさが消え去る。瞬きの回数が減り、透き通った静けさが瞳の奥に宿る。それが、彼女がモノのルーツと人の心に寄り添うスイッチだった。
「何か、探し物ですか」
その直球の問いかけに、小百合はびくっと肩を揺らした。
しばらくの間、雨音だけが応接スペースの沈黙を埋めていく。小百合は伏し目がちに紅茶の水面の揺れを見つめ、やがて、口を開いた。
「……健太がね、泥だらけになって、あんなに必死にカードを探していた姿を見て……私、ずっと胸の奥に分厚い蓋をしていたことを、思い出してしまったの」
「蓋をしていたこと」
「ええ。子供の探し物とは違う。もっと……どうしようもない、大人の後悔よ」
小百合はティーカップをことりと音を立ててソーサーに置くと、すがるような視線を美波に向けた。
「美波ちゃん。十五年前に、私が手放してしまった『一冊の古本』を……探し出していただくことは、できるかしら」
「十五年前に、手放してしまった古本」
美波は静かにその言葉を反芻した。
外で降り続く春の雨が、時洲堂の古いガラス戸を一定のリズムで叩いている。薄暗い店内に、アールグレイの柑橘系の香りが、小百合の抱える後悔の澱を少しだけ中和するように漂っていた。
「そう。ただの古い本よ。でも、どうしても……もう一度だけ、手元に戻したいの。虫のいい話だってことは分かってるわ。十五年も前に、自分から売り払ってしまったものを探してほしいだなんて」
小百合はティーカップの縁を指先でなぞった。その視線は美波の顔ではなく、カウンターの古びた木目へと落とされている。
「どんな本だったのか、聞かせてもらえますか」
美波の声は、あくまで穏やかだった。そこに好奇心や、相手を咎める色は一切ない。彼女はただ、迷子になったモノの形を正確に捉えるために、大きな丸眼鏡の奥の瞳を静かに澄ませているだけだ。
「……外国の詩集なの。『銀色の月の舟』っていうタイトルの、古い翻訳本。表紙はくすんだ紺色の布張りで、タイトルだけが銀色の箔押しになっているの」
「『銀色の月の舟』。出版社や、翻訳者の名前は覚えていますか」
「ごめんなさい、そこまでは……。ただ、普通の本屋さんに並んでいるようなものではなくて、装丁のしっかりした本だったわ」
美波は黙って頷き、記憶の引き出しを探るように少しだけ視線を宙に浮かせた。
古書市場において、絶版になった翻訳詩集はそれほど珍しいものではない。タイトルと装丁の特徴さえ分かれば、同じタイトルの本を見つけ出すことは不可能ではないはずだ。
しかし、小百合が探しているのは、ただ同じタイトルの本ではない。
「小百合さんが探しているのは、その『銀色の月の舟』という詩集の、十五年前に手放した『そのもの』なんですね」
「……ええ」
「何か、その本が小百合さんの本だと証明できるような特徴はありましたか。例えば、書き込みがあるとか、ページが破れているとか」
美波の問いに、小百合は躊躇うように息を呑み、やがてぽつりと答えた。
「見開きの、一番最初の真っ白なページにね……万年筆の青いインクで、三日月みたいな形の染みがついているの。それと、裏表紙の裏側に、小さく『S.T』っていうイニシャルが書かれていたわ」
「S.T」
「私の、亡くなった父親のイニシャルよ」
小百合の目から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
彼女は慌てて指先でそれを拭い、深く息を吐き出して、十五年間ずっと胸の奥に閉じ込めていた記憶の蓋を、ゆっくりと開け始めた。
「私、健太が生まれるずっと前……二十歳の頃に、実家の父と大喧嘩をして家を飛び出したの。母が早くに亡くなって、父はずっと男手一つで私を育ててくれたんだけど……不器用で、口数が少なくて、何を考えているのか全然分からない人だった」
雨音が、小百合の静かな語り口を優しく包み込んでいる。
「門限には厳しいし、私の交友関係にも口を出してくる。私はそんな父が鬱陶しくて仕方なかった。……それで、家を出る前日、どうしても父に一番ダメージを与えたくて。父がいつも大事そうに書斎の机に置いていたあの詩集を、勝手に持ち出して……駅前の古本屋に売り払ってしまったの」
「お父様の、一番大事なものを」
「ええ。最低でしょう。ほんの数千円にしかならなかったわ。でも、父が悲しむ顔を見たかったのよ、あの頃の私は。……そのまま家を出て、父とはろくに口も利かないまま……父は五年前に、心筋梗塞であっけなく逝ってしまったわ」
小百合の華奢な肩が、小刻みに波打つ。
「父の遺品を整理していた時よ。……父の日記を見つけたの。そこには、あの日、私が詩集を売り払ったことへの怒りなんて、一言も書かれていなかった。『あいつが家を出ていく準備の足しになったのなら、それでいい』って。……あの詩集はね、亡くなった母が、父に初めて贈ったプレゼントだったのよ」
健太が泥だらけになって友達のためのカードを探している姿を見た時、小百合は気付いてしまったのだ。自分が十五年前にどれほど残酷な真似をしてしまったのか。そして、親というものが、どれほど底知れぬ愛情で子供を見守っているものなのかを。
「私、今更になって、あちこちの古本屋を回って探したわ。でも、見つかるわけないのよ。十五年も前の話だもの……。でも、健太のあの一件で、時洲さんが探してくれたカードを見て……もしかしたらって、すがるような気持ちで、ここに来てしまったの」
小百合の告白が終わると、時洲堂には再び静かな雨の音だけが満ちた。
美波は何も言わず、ただ静かに、小皿の上に置かれたオレンジピールの焼き菓子を見つめていた。
十五年前の古本。
それが現在どこにあるかを突き止めるのは、砂漠に落とした一粒のビーズを探すようなものだ。すでに処分されている可能性も高い。誰かの本棚でひっそりと眠っているかもしれないし、遠く離れた別の街の図書館に寄贈されているかもしれない。
追跡は、困難だ。
けれど、美波の眼には、ただの確率論とは違う、もっと別の『モノの引力』が見えていた。
強い想いが込められたモノは、誰の目にも留まらないゴミ溜めのような場所には行かない。古物には古物なりの川があり、価値を見出す者の手から手へと渡っていく独自の海流がある。
「小百合さん」
美波が静かに顔を上げると、丸眼鏡の奥の瞳が、ひどく透き通った光を放っていた。それは両親を亡くし、残された古物たちの中に彼らの記憶を探し続けてきた美波だからこそ持つ、深い共鳴と理解の色だった。
「十五年前、その詩集を売った駅前の古本屋さんというのは、『三日月堂』ですか」
「えっ……。ええ、そうです。古い雑居ビルの二階にあった……どうして分かったの」
「ここから一番近くで、文学系の洋書を専門的に買い取ってくれるお店は、あそこしかないですから」
美波は音もなく立ち上がり、背伸びをして凝り固まった肩をほぐした。
ゆったりとしたカーディガンがふわりと揺れる。
「お父様のイニシャル『S.T』と、三日月のような青いインクの染み。特徴は十分です。十五年分の川下り、少しだけ時間はかかるかもしれませんが……お探しします」
「美波ちゃん……」
「モノには、ちゃんと戻るべき場所があるんです。小百合さんの後悔をほどくために、一緒にその詩集を迎えに行きましょう」
美波が柔らかく微笑むと、小百合の目から再び、静かな涙が溢れ出した。
***
小百合を見送った後、美波は店の奥にある自分専用の小さなクローゼットを開けた。
いつもの生成り色のカーディガンから、少し厚手でクラシカルなトレンチコートに着替え、首元にはチェック柄のストールを巻く。足元は雨の日用の革のローファーだ。相棒である少し大きめの革のポシェットに、長財布とメモ帳、そして先ほどの古い万年筆を丁寧に仕舞い込む。
「さて、と」
美波は大きな丸眼鏡を外し、クロスでゆっくりとレンズを拭き直し、両手で自分の頬を軽く叩いた。
目指すは駅前の古本屋『三日月堂』。十五年前の買取記録が残っている可能性はゼロに等しいが、古本屋の主人の記憶にアプローチすることはできる。特に、青いインクの染みがあるような本は、古書店主にとって瑕疵として強く印象に残るはずだ。
美波が傘立てからくすんだ赤色の傘を取り出し、引き戸の真鍮の取っ手に手をかけた、その時だった。
——カラン。
不意にベルが鳴り、外の冷気と共に一人の人物が時洲堂に入ってきた。
美波は視線を向け、わずかに目を細めた。
そこに立っていたのは、先ほど小百合と一緒に時洲堂を訪れ、「大学のゼミの集まりがあるから」と足早に帰っていったはずの女子大生、結月だったからだ。
結月の淡いベージュのトレンチコートは、先ほどよりもずっと雨に濡れて色が濃く変色している。肩は荒い呼吸に合わせて上下に揺れ、傘も差さずに駅の方からずっと走ってきたことが一目でわかった。雨水に濡れた前髪が、額に張り付いている。
「結月さん。どうしたんですか、ずぶ濡れじゃないですか」
美波が慌ててタオルを取り出そうとカウンターの中に戻ろうとするが、結月はそれを制止するように一歩踏み出し、美波のコートの袖口を両手で強く握りしめた。
「美波、さん……」
結月が、震える声で絞り出すように言った。
彼女の視線は、再び自分の左腕にはめられた細いシルバーのブレスレットに向けられている。結月の震えに合わせて、その金属の飾りがかちゃかちゃと冷たい音を立てていた。
「私、小百合さんから聞いたんです……美波さんが、探し物をしてくれるって」
「……」
「お願い、助けてください。私……私、絶対に『見つかっちゃいけないモノ』を、失くしてしまったんです……」
結月の目から、頬を伝う雨水と全く同じ温度の雫がこぼれ落ちた。
静かな春の雨が降り続く、路地裏の古物商。
十五年前の探してほしいモノの依頼を受けた直後に飛び込んできた、もう一つの見つかってはいけないモノの依頼。
美波の瞳が、結月の袖口から覗く震える手首を静かに見つめ、絡まり合った二つの糸を解きほぐすための思考を、音もなく紡ぎ始めていた。




