第一話『親友』(後)
彼女の眼は、公園という空間に広がる楽しげな日常の風景を、ただ漫然と受け取っているわけではなかった。
ブランコを立ち漕ぎする子供たちの歓声、ベンチで井戸端会議に花を咲かせる母親たちの笑い声、遠くの幹線道路を走る大型トラックの重低音。そうした雑音や動的なノイズの全てを意識の底へ沈め、美波の視覚はひたすらに静かな『痕跡』だけを拾い集めていた。
そこに存在するはずのない『不自然な空白』や、逆に人が激しく動いたあとに残る『微かな摩擦の痕』。
それは、一枚の巨大で精密な風景画の中から、たった一つの筆の乱れを見つけ出すような繊細な作業だった。
視線が地を這う。
砂場の端、赤や青のプラスチック製バケツが散乱する傍らに、ぽっかりと不自然な窪みが空いている。指先で深く掘り返された湿った土の跡。
ツツジの植え込みの影。密集した緑の中に、一部の枝だけが無理やり押し退けられたように不自然な角度で折れ曲がり、葉の裏側が白く反り返っている。
そして、錆びかけた滑り台の裏側や、ベンチの下の暗がり。そこには、真新しいスニーカーのソールが幾重にも重なり合い、泥を引きずったまま乱れた足跡が残されていた。一部の土は、誰かが這いつくばり、両手で必死に表面を払いのけたように平らにならされている。
すべてが、健太が辿ってきた道のりだった。
カードを失ったことに気づき、泥だらけになって公園中を這い回ったであろう痕跡が、美波の網膜にははっきりと、まるでその場に彼が半透明の残像として存在しているかのように見えていた。
(うん。この公園には、落ちていない)
ほんの数分、茜色に染まり始めた公園の敷地を視線でなぞり終えただけで、美波は静かにそう結論づけた。
風で飛んだわけでも、健太がポケットからうっかり落としたわけでもない。
もし仮に、健太がこの公園で偶然カードを落としたのだとすれば、これだけ多くの子供たちがひしめき合う放課後の公園だ。キラキラと光るカードが地面に落ちていれば、誰かが見つけて大騒ぎになっているか、あるいは無数の靴底に踏みつけられて、泥にまみれた残骸となって美波の眼に留まるはずだった。
何よりも、現場に残された健太の足跡の不自然さがすべてを物語っていた。
土に残されたスニーカーの痕跡は、どれもこれも何かを探し回った形跡ばかりであり、歩いている途中で何かを落としてしまった瞬間の、立ち止まりや戸惑いの歩幅をどこにも示していなかった。
だとすれば、導き出される答えは一つしかない。
あのカードは、誰かの明確な意志によって、健太の教室の机の中から『移動』させられたのだ。
「健太くん」
美波が波一つ立たない水面のような声で呼びかけると、砂利を見つめていた健太が顔を上げた。
泥と汗にまみれた頬には、まだ涙の跡が白く乾ききらずに生々しく残っている。美波はしゃがみ込むことはせず、立ったまま、少しだけ視線を落として彼を見た。
「カードはね、風に飛ばされたり、どこかに落っこちたりしたんじゃないみたいです。……ねえ、健太くんが今日、そのカードを学校に持ってきていたこと、誰か知っていましたか」
「えっ……うん。休み時間に、クラスの男子何人かに見せたから。すっごくレアなカードなんだぞって」
健太は鼻をすすりながら、ポケットの端をギュッと握りしめた。
「そうなんですね。みんな、羨ましがっていましたか」
「うん。すごいね、どこで手に入れたんだよって言ってくれた。でも……僕、誰にも触らせなかった。寛太くんとの大事なカードだから、見るだけだよって」
美波は無言のまま、ゆっくりと頷いた。
西に傾きかけた太陽が、美波の銀縁眼鏡のレンズに細い光の線を走らせる。彼女はその光を遮るように、再び公園全体へと視線を滑らせた。
その時だった。
公園のずっと奥。子供たちの喧騒から一番遠く離れた、大きな桜の木の陰。
その根元に設置された古い二人掛けの木製ベンチに、ぽつんと一人で座っている女の子の姿が、美波の視界の端に静かに引っかかった。
肩のラインで切り揃えられたおかっぱ頭。少しサイズの大きなピンク色のカーディガンを着たその子は、さっきから遊具の方へ走り出すわけでもなく、絵本を読むわけでもない。ただじっと、少し内股になった自分の両膝の上を、身動き一つせずに見つめている。
そして何より美波の目を惹いたのは、その子の視線が、時折ごく僅かに動くことだった。
膝を見つめているはずの彼女の顔が、数分に一度、ちらちらと健太の背中の方へ向けられている。
美波の中で、散らばっていた情報のピースが音もなく噛み合った。
桜の木の下に座る女の子は、遠くから健太の泥だらけの姿を見つめたかと思うと、健太の傍らに美波という見知らぬ大人が立っていることに気づき、びくっと小さく肩を揺らした。そして慌てて視線を落とし、自分の着ているピンク色のカーディガンの右ポケットのあたりを、両手で何度も強く押さえつけたのだ。
(……あの子、もしかして健太くんのクラスメイトかな)
美波は表情を一切変えず、ただ静かに、その子の不自然な所作が発する言葉にならないSOSを読み取っていく。
泥だらけになった同級生を見て、激しく揺れる瞳の動き。自分のしたことが、想像もしていなかった取り返しのつかない事態に発展しているのではないかという恐怖。そして、右のポケットの中に押し込まれた重たいものを必死に隠し、同時に確かめようとする無意識の防衛本能。
美波はすべてを悟ったように、眼鏡の奥の瞳をわずかに伏せた。
そこに、大人びた計算や悪意は存在しない。カードを売り払ってお金にしようなどという打算的な思考がないことは、彼女の丸まった肩を見れば一目でわかる。
そこにあるのはただ、ほんの小さな出来心と、もう引き返すことができなくなってしまった子供の、不器用な震えだけだった。
「見つかったかもしれません」
「えっ。ほんと」
美波の微かな声に、健太が弾かれたように顔を上げる。
「ええ。でも、慌てないでくださいね。ここから先は、ちょっとだけ、お姉さんにお任せしてくれますか」
美波は健太の前に静かにしゃがみ込み、完全に目線を合わせた。透明で静謐な表情のまま、彼女はそっと自分の人差し指を、唇の中央に当てた。
琥珀色の光が差し込む放課後の公園で、美波は真犯人を暴き出すのではなく、絡まり合ってしまった糸を、誰も痛まないようにほどくための、極めて繊細な準備を始めていた。
「健太くんは、あそこの空いているブランコに座って、ゆっくり百まで数を数えて待っていてください。お姉さんが、カードの神様に少しだけお願いしてきてあげますから」
健太が深く息を吐いて頷き、素直にブランコの方へと歩いていく。
その小さな背中を見届けてから、美波は立ち上がり、桜の木の陰へとゆっくりとした足取りで歩み寄った。
美波の足音が近づくにつれ、ベンチに座る女の子の肩がさらに小さく身を縮めるのがわかる。
美波は彼女の座るベンチから数歩手前の、絶妙な距離感を保った場所でピタリと立ち止まった。そして、まるで道端にひっそりと咲く名もなき花に話しかけるような、低く、穏やかな声で切り出した。
「……ここ、特等席ですね。公園の全部が、よく見渡せます」
女の子は、息を呑んで顔を上げた。
ピンク色のカーディガンの胸元には、『まきほ』とひらがなで書かれた白い名札が、僅かな風に揺れている。
牧穂は、大きな丸眼鏡をかけた見知らぬ大人の女性をまじまじと見つめ、それから視線を逸らし、遠くのブランコに座って目を閉じている健太の方をちらりと見た。
彼女の潤んだ瞳の奥には、罪悪感と、誰でもいいからこの重荷を降ろしてほしいという悲鳴が混在していた。
「私、時洲美波といいます。あっちにいる健太くんと、少しお話していましてね」
美波はベンチに座ることはせず、あえて立ったまま、牧穂に物理的なプレッシャーを与えないよう視線の高さを保った。
「健太くん、とっても大事なカードを探しているんです。遠くに引っ越してしまった『寛太くん』というお友達との、大事な約束のカードなんだそうですよ。……知っていましたか」
牧穂の肩が、大きく跳ねた。
彼女は言葉を全く発しなかったが、膝の上に置かれていた小さな両手が震えながら持ち上がり、ピンク色のポケットをぎゅっと外側から掴んだ。
美波は彼女を問い詰めたり、語気を強めたりはしなかった。ただ、彼女がどうして今、そんなにも浅い呼吸をしているのかを、丁寧に、一本ずつ糸を解きほぐすように言葉にして紡いでいく。
「ねえ、牧穂ちゃん。健太くん、すごく元気で優しい男の子ですよね。……健太くんと、もっとお話してみたいな、もっと仲良くなれたらいいな、って。そう思ったことはありませんか」
牧穂の瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちる。
美波の言う通りだった。牧穂の行動のルーツは、ただ健太の気を惹きたかったという純粋な願望に過ぎなかったのだ。
いつも活発な男子たちとばかり笑い合って、自分には見向きもしない健太。その健太が、今日は休み時間に見たこともないほど自慢げな顔でカードを見せていた。
ほんの少しだけ、いたずらをしてやろうと思った。カードを隠してしまえば、健太は困って、一緒に探してほしいと自分にも声をかけてくれるかもしれない。自分を見つけてほしくて、自分という存在を認識してほしくて実行した、ただそれだけの、あまりにも不器用な作戦だったのだ。
「……違うの。盗りたかったんじゃないの。ただ……ただ、健太くんが私のことを見てくれるかと思って……」
牧穂が、震える声でようやく言葉を紡いだ。両手で顔を覆い、小さな背中を丸めてしゃくりあげる。
「でも、隠しちゃったら、健太くんがすごく悲しそうな顔をしてて……。怖くて、返せなくなっちゃった。みんなに『牧穂が泥棒した』って言われるのが怖くて……ごめんなさい、ごめんなさい……」
美波は静かに歩み寄り、彼女の隣に、音を立てずに腰を下ろした。
傾きかけた夕陽が、二人の影を長く地面に伸ばしている。美波は自分の生成り色のカーディガンの袖を少しだけ指先で引き伸ばし、牧穂の濡れた頬をそっと拭ってやった。
「牧穂ちゃんは、泥棒なんかじゃありませんよ。ただ、健太くんと仲良くしたかっただけなんですよね。誰かと仲良くなりたいと思うのは、とっても素敵なことなんです。……でもね、その素敵な気持ちが健太くんに届く前に、『嘘』という重たいお洋服を一枚、着てしまったんです」
美波は優しく、牧穂のおかっぱ頭の柔らかな髪を撫でた。
「嘘というのはですね、早く脱がないとどんどん重たくなって、最後には自分自身を閉じ込めてしまうんです。息ができなくなって、ずっと一人ぼっちになってしまいます。……ねえ、一緒にお洋服のボタンをほどいてみませんか。健太くん、きっと待っていますよ」
牧穂は、美波の温かい手のひらの感触に、何度も何度も頷いた。
震える手がゆっくりと右のポケットに入り、一枚のカードがそっと外の空気に触れる。スリーブから抜き取られ、直接ポケットに隠されていたそれは、健太が泥だらけになって探し求めていたカードそのものだった。
ほんの少しだけ角が曲がってしまっていたが、決定的な傷や破れはなく、無事な姿を保っている。
美波はそれを受け取ると、眼鏡の奥でふわりと静かな笑みを浮かべた。
ここからが、美波にとっての本当の山場だった。隠された真実をそのまま白日の下に晒すのではなく、彼らの関係がこれから先も壊れることなく続いていくための優しい着地点を構築しなければならない。
美波は立ち上がり、牧穂の小さな手を引いて、健太の待つブランコへと歩き出した。
健太はちょうどブランコに座ったまま、目をギュッと閉じて「……九十八、九十九、百」と数を数え終えたところだった。
目を開けた健太は、美波の隣に見知った同級生の姿があることに驚き、首をかしげた。
「時洲さん。……牧穂ちゃんも、どうしたの」
「健太くん、お待たせしました。あのね、カード、見つかりましたよ」
美波は静かに微笑むと、空いている方の手で、少しだけ角が折れてしまったカードを健太の目の前に差し出した。
夕陽を反射してきらりと光るその表面を見た瞬間、健太は弾かれたようにブランコから飛び降り、スニーカーの底が砂を蹴り上げた。
「ああっ。僕のカードだ……。嘘、ほんとに見つかったの」
「ええ。……牧穂ちゃんがね、教室の隅に落ちていたのを拾って、大事に預かってくれていたんです」
美波のその静かな言葉に、牧穂の肩がびくっと大きく跳ねた。
俯いたまま、彼女はギュッと目を閉じる。健太から怒りの言葉が飛んでくるのを、身をすくめて覚悟しているのだ。美波は、繋いでいる牧穂の手を、大丈夫だと伝えるようにきゅっと少しだけ強く握り返した。
「牧穂ちゃん、健太くんに渡そうと思ってずっと探してくれていたんですよ。でも、健太くんがすごい勢いで走り回っているのを見て、声をかけるタイミングを逃して困っていたんです。……ね」
美波が透き通るような声で促すと、牧穂は恐る恐る目を開け、消え入りそうな声で口を開いた。
「……ごめんなさい。早く、返せなくて……」
張り詰めた数秒間。風がブランコの鎖を微かに揺らす音が、やけに大きく響いた。
しかし、健太の口から出たのは、牧穂が怯えていたような怒りの言葉ではなかった。
「牧穂ちゃん……拾ってくれてたの」
健太はカードを両手で丁寧に受け取ると、今日一番の、泥だらけの顔に不釣り合いなほど明るい笑顔を弾けさせた。
「ありがとう。僕、これがなくなったらどうしようかって、ずーっと探してたんだ。牧穂ちゃんが見つけてくれなかったら、ゴミ箱に捨てられてたかもしれない。ほんとに、ほんとにありがとう」
その言葉に、牧穂は小さく息を呑んだ。
彼女が犯してしまった小さな過ちは、美波が精巧に縫い合わせたベールに包まれ、健太の中では完全に『自分を救ってくれた恩人』へと変換されていた。
牧穂の瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。しかしそれは、先ほどまでの罪悪感と孤独の涙ではない。安堵の涙だった。
「う、うん……。よかった、見つかって、よかったぁ……」
「なんで牧穂ちゃんが泣くんだよぉ」
笑いながら言う健太につられて、牧穂も手の甲で涙を拭いながら、恥ずかしそうに小さく笑った。
美波はその光景を、一歩引いた場所から静かに見守っていた。彼女の琥珀色の瞳は、複雑に絡まっていた二人の関係が綺麗にほどけ、新しく結び直された瞬間を慈しむように見つめていた。
「さあ、二人とも。もう暗くなるから、お家に帰りましょうか」
美波の言葉に、二人は大きく頷いた。
夕暮れの住宅街には、あちこちの換気扇から夕食の支度をする温かい匂いが漂い始めていた。醤油の焦げる匂い、カレーのスパイスの香り。
美波は二人を連れて歩き、まずは近所に住む牧穂をマンションの前まで送り届けた。「また明日、学校でね」と元気に手を振る健太に、牧穂もはにかむように、けれど確かに嬉しそうな顔で手を振り返していた。
それからさらに数分歩き、健太の家の前に到着した。
表札灯がともる門柱の前では、健太の母親である小百合が、腕を組み、険しい顔つきで立っていた。
「健太。あんた、今までどこ行ってたのよ」
「あっ、お母さん。ごめんなさい、ちょっと時洲さんのところに……」
「美波ちゃん。……あら、やだ、美波ちゃん一緒だったの。ごめんなさいね、うちの子がご迷惑を……」
小百合はほっとしたように強張っていた肩の力を抜き、着ていたエプロンの裾を無意識に整えながら、美波に深く頭を下げた。
「いえ。健太くん、とっても大事な探し物をしていて。無事に見つかってよかったです。……健太くん、カード、ちゃんとお部屋にしまっておいてくださいね」
「うん。時洲さん、今日はほんとにありがとう。またお店に遊びに行くね」
健太は泥だらけのスニーカーのまま、満面の笑みで玄関のドアを開け、家の中へと駆け込んでいった。
その小さな背中が見えなくなり、奥の部屋の扉が閉まる音が聞こえたのを確認してから、美波は小百合に向き直り、静かに微笑んだ。
「健太くん、寛太くんというお友達に渡すプレゼントを、必死に探していたんですよ」
「……」
寛太、という名前を出した瞬間だった。
小百合の顔から、すっと血の気が引いていくのがわかった。彼女の視線が不自然に左右に泳ぎ、合わせた両手の指先が白くなるほど強く握りしめられる。小百合は眉を寄せ、周囲の暗がりに誰もいないことを確認してから、ひび割れたような声をひそめた。
「健太、美波ちゃんにも寛太くんのことを話していたのね……」
「はい。いつか再会したときに渡すと、約束したんだそうです。とっても大切そうに抱えていました」
小百合は、ギュッと自らの下唇を噛み締めた。その瞳の奥に、深く重たい色がじわじわと広がるのを、美波は黙って見つめていた。
「……美波ちゃん。あのね、寛太くん、亡くなったのよ」
その重い事実に、美波はわずかに呼吸を止めた。
ずり落ちていた眼鏡の奥で、静かな瞳が瞬きを忘れる。
「……亡くなったんですか」
「ええ。先月、引っ越し先で……交通事故だったって。あちらのお母様からお電話をいただいて……。でも、私、どうしても健太に言えなくて……」
小百合の喉の奥から、くぐもったような震える音が漏れた。
「あの子、寛太くんに渡すんだって、毎日毎日、色んなお友達に頭を下げて、ずっとあのカードを探していたの。あんなに一生懸命な子に、寛太くんはもういないなんて……そんな残酷なこと、どうしても言えなかった……」
「…………」
美波は何も言わず、ただ冷たくなっていく夜気の中で、小百合の言葉の余韻を受け止めた。
時洲家の両親が事故で亡くなった日の記憶が、ふと美波の脳裏を音もなく掠める。黒い服を着た大人たちの視線。線香の匂い。愛する人が突然この世界から消えてしまうという喪失感がどれほど冷たく、鋭利な刃物となって心を抉るか、美波は誰よりもよく知っていた。
「小百合さん」
美波は、小百合の震える手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「大丈夫です。健太くんは、強い子ですから。……いつか、本当のことを知る日が来ても。健太くんの中にある寛太くんへの優しい気持ちは、絶対に消えたりしません」
それは、半ば美波自身の、過去の自分に向けた祈りのような言葉だった。
健太が命懸けで守り抜いたあのカードは、もう二度と、本来の持ち主の手に渡ることはない。永遠に果たされることのない約束の証となってしまった。
けれど、友を想い、泥だらけになって奔走した健太の心の動きは、決して無駄なものでも、嘘でもないのだ。
「……ありがとう、美波ちゃん。ごめんなさいね、こんな重たい話を……」
「いいえ。教えてくださって、ありがとうございました」
美波は小百合に静かにお辞儀をし、冷たい風が吹き始めた健太の家を後にした。
時洲堂への帰り道。
日は完全に落ち、街灯がポツリポツリとオレンジ色の人工的な光をアスファルトに落とし始めていた。
店に戻ると、洋子と幸一が帰り支度をしているところだった。
幸一はすでに工具箱を片付け終わり、腕を組んで入り口に立っている。
「あら、おかえりなさい。……なんだか、少し疲れた顔してるわね」
洋子が、美波の顔を覗き込むようにして言った。
「少しだけ、遠回りしてしまったので」
美波が静かに笑って誤魔化すと、幸一が「戸の修理、終わったぞ」とだけ短く唸り、洋子と共に店を出て行った。
「また明日ね。戸締まりちゃんとするのよ」という洋子の温かい声が、夜の路地に溶けて消えていく。
一人になった時洲堂は、ふたたび深い静寂に包まれた。
美波はカウンターの奥に戻り、いつものロッキングチェアに深く腰を下ろした。大きな丸眼鏡を外し、クロスでゆっくりとレンズを磨く。
店内にひしめく無数の古物たちが、外の街灯の光をかすかに受けて、ぼんやりと長い影を落としている。
ここにあるモノたちはすべて、かつての持ち主の手を離れ、行き場を失った記憶の残骸だ。
健太の机の引き出しにしまわれたあのカードもまた、宛先を失った手紙のように、永遠に時を止めたまま残り続けるのだろう。
それでも。
美波は磨き終えた眼鏡を掛け直し、ふう、と小さく息を吐いた。
誰かを想う記憶は、たとえ行き先を失っても、琥珀の中に閉じ込められた時間のように、その人の心の奥底で輝き続ける。
あの泥だらけのカードが、いつか健太自身の心を温めるお守りに変わる日が来ることを、美波はただ静かに、祈るように願った。
路地裏の古物商。
時洲堂の夜は、古い時計の秒針の音とともに、今日もゆっくりと更けていく。




