第一話『親友』(前)
季節の移ろいから切り離されたかのように、その路地裏にはいつも、古い沈殿物のような静寂が澱んでいた。
近代的なガラス張りのビルが立ち並ぶ市街地から、古びた路線バスに揺られること十数分。アスファルトが太陽の熱を吸い込んで放つ埃っぽい匂いに、どこかの庭先からこぼれ落ちた沈丁花の甘い香りが微かに混ざり合う郊外の住宅街。かつてこの辺り一帯は『時洲』という一族が治める広大な土地だったという。時代と共に少しずつ切り売りされ、今では画一的なデザインの戸建てや、外壁の塗装が剥げかけた小さなアパートが建ち並ぶ、ありふれた街並みへと姿を変えている。
だが、その入り組んだ路地を奥へ奥へと進んだどん詰まりの一角にだけ、まるでそこだけ時間の流れが堰き止められたかのような、黒塗りの古い木造建築がひっそりと息づいていた。
長い年月を経て黒ずみ、風雨に磨かれた板壁。手延べガラス特有の僅かな歪みを持った引き戸は、差し込む西日を乱反射して飴色に濁っている。深くせり出した軒先には、創業当時の当主が筆を取ったという『時洲堂』の分厚い木製看板が掲げられ、彫り込まれた文字の溝に積もった埃ごと、鈍く重たい光沢を放っていた。
真鍮の取っ手に手を掛け、引き戸を横へ滑らせる。
カラン、と。入り口の上部に吊るされた古い真鍮のベルが、空気を震わせるように掠れた音を立てた。
敷居を跨いで一歩足を踏み入れた瞬間、外の世界とは明らかに異なる、重く、密度の高い空気が肌にまとわりついてくる。それは、何千枚もの古い紙が呼吸しながら発する微かなバニラに似た匂いと、幾星霜を経た木材が放つ湿った香り。そして、遠い異国の地からやってきた真鍮や銅の装飾品が纏う、冷たくもどこか懐かしい錆の匂いの混ざり合いだった。
薄暗い店内には、無秩序な森のように無数の古物がひしめき合っている。
高い天井の梁まで届きそうな紫檀の本棚には、とうの昔に持ち主を失った古書や洋書が、地層のようにぎっしりと積み重なっている。その足元の木箱には、江戸時代の名工が焼いたという、市場に出せば何百万という値がつくであろう白磁の茶器が無造作に置かれ、あろうことか色褪せた輪ゴムや錆びたクリップの小物入れとして使われていた。剥き出しの土壁には、美術史に名を残す画家の初期のデッサン画が、呪術に使われたという不気味な造形の木彫りの仮面と並んで、少しだけ右に傾いたまま掛けられている。
この店の主は、世間一般が重んじる『市場価値』や『値段』という概念に対して、恐ろしいほどに無頓着だった。
「……やはり、この時代の和紙は温かい」
雑多な、けれど不思議と計算されたような調和を保つ空間の奥。帳場として使われている分厚い一枚板のカウンターの裏で、布地が微かな衣擦れの音を立てた。年季の入ったオーク材のロッキングチェアに、時洲美波はすっぽりと身体を沈めていた。
肩のあたりで綺麗に切り揃えられた黒髪が、高窓から差し込む午後の斜光を吸い込んで、絹糸のように滑らかな光の輪を反射している。眉のラインで精緻に揃えられた前髪の下には、彼女の小さな顔の輪郭には少し不釣り合いなほど大きな、丸い銀縁の眼鏡。
ゆったりとした、袖の長い生成り色のカーディガンに身を包み、膝の上で古い書物のページをそっと撫でるその姿は、二十歳という実年齢を忘れさせるほどにあどけない。指先の動きに合わせて僅かに揺れる濃い茶色の瞳は、陽の光に透け、濁りのない琥珀色を宿していた。
彼女はこの『時洲堂』の若き店主であり、同時に、この街で起こる小さな『迷いモノ』の行方を探し出し、あるべき場所へ帰す、風変わりな古物商でもあった。
美波が十歳の時のことだ。古物の買い付けに出かけていた両親が、不慮の交通事故によって二度と帰らぬ人となったのは。
元々この辺りの地主の家系であった時洲家の突然の悲劇に、街の人々はこぞって同情の声を寄せ、親戚たちも彼女の将来を案じて我先にと養子に迎えようとした。しかし、両親の葬儀の席で、黒いワンピースを着た幼い美波は「ここを離れない」とだけ言い、誰の手も取ろうとはしなかった。
骨董の価値など分からない子供だったが、両親が愛したこの薄暗い店には、彼らが触れたモノたちの記憶が、確かな手触りと匂いとして残っていたからだ。彼女にとって、この埃っぽく静かな古物商の空間こそが、世界で唯一の揺るぎない聖域であり、喪われた両親と繋がっていられる最後の場所だった。
——カラン。
不意に、店のベルが短く鳴った。
美波はページを捲る手を止め、ずり落ちかけた丸眼鏡のブリッジを、細く白い人差し指で静かに押し上げる。入り口の方へとゆっくり視線を向けると、そこには見慣れた二つの影が立っていた。
「美波ちゃん。もう、またこんな薄暗いところで本ばっかり読んで。お昼、ちゃんと食べたの」
快活でありながら、決して耳障りにならない品の良い落ち着きを持った声。店に入ってきたのは、近所に住む三枝洋子だ。顔まわりを明るく見せる春色のブラウスに身を包んだ彼女は、還暦を過ぎているとは到底思えないほど背筋がすっと伸びており、その足取りはヨガで鍛えられたしなやかさを持っている。かつて料理教室の先生をしていたという彼女の手には、今日も丁寧に結ばれた立派な風呂敷包みが提げられていた。
「あ……洋子さん。いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませじゃないわよ、本当に。……ほら、お父さんも突っ立ってないで入りなさいな」
洋子の背後から、無言でのっそりと姿を現したのは、夫の幸一だった。
白髪交じりの短髪に、太く険しい眉。寡黙で職人気質な幸一は、「おう」とだけ短く低い声で唸り、持参した使い込まれた木製の工具箱を床に置いた。そして、カウンターの奥にいる美波に視線を向けることもなく、入り口の建て付けが悪くなっていた引き戸のレールにしゃがみ込み、黙々と中から道具を取り出し始める。
「幸一さん、すみません。昨日から急に、戸が重たくなっちゃって」
「木が湿気を吸ったんだ。少し削れば直る」
幸一の節くれだった手から、小ぶりな鉋が取り出される。木枠に刃を当て、一定の力で引き抜く。シュッ、という小気味よい音が静かな店内に響き、薄く透き通った木屑が床にふわりと落ちた。
近所では『幸一さんは完全に洋子さんの尻に敷かれている』と専らの噂だったが、美波はこの夫婦の間に流れる絶妙な温度感を知っている。洋子の底抜けの明るさと包容力が幸一の不器用さを丸く包み込み、幸一の背中で語るような無言の優しさが、洋子の土台をしっかりと支えているのだ。
両親を亡くしたあの日から、三枝夫婦はまるで本当の娘を案じるように、幾度となくこの時洲堂に通い続けてくれている。美波もなかなかに頑固なところがあるため、時に『もっとまともな生活をしなさい』という洋子の小言とぶつかることもあるが、この二人の存在が、彼女を一人きりの時間から繋ぎ止めている確かな錨だった。
「さあ、今日は筍ご飯と、美波ちゃんの好きなカレイの煮付け。卵焼きも甘めにしておいたからね」
洋子がカウンターの上に風呂敷を広げ、タッパーの蓋を開ける。
その瞬間、出汁の効いた優しい匂いが、古物の匂いを押し退けるようにふわりと立ち昇った。
匂いを嗅いだ美波は、大きな丸眼鏡の奥でぱちりと瞬きをし、途端にふにゃりと頬を緩ませた。先ほどまでの、古書に囲まれた静かな店主の顔から、あどけなく無防備な等身大の女性の顔へと、何の抵抗もなく切り替わる。
「わあ……筍ご飯。今年初めてです」
美波はロッキングチェアから降りると、背筋を綺麗に伸ばして「いただきます」と両手を合わせた。さっそく箸を取り、艶やかな米粒を一口頬張る。本当に美味しいものを食べた時の彼女特有の、目を細めてゆっくりと咀嚼する仕草。その満ち足りた横顔を、洋子は深い愛情を含んだ眼差しで見守りながら、奥から急須を取り出して手際よくほうじ茶を淹れた。
美波には、世間一般でいう生活能力というものが絶望的に欠如している。放っておけば本を読みながら三食をクッキーや乾パンで済ませることも珍しくない。それに加え、たまに舞い込んでくる『探し物』や『迷い人の特定』といった依頼も、彼女は決してお金のために引き受けようとはしなかった。
『困っている人がいるから』。
『そのモノがなぜそこにあるのか、知りたいから』。
そんな純粋な動機だけで動くため、モノのルーツを辿る確かな目利きがありながら、時洲堂の経営は常に火の車だった。
「美味しい……。幸一さんも、お茶飲みますか」
「……俺はいい」
幸一は鉋を動かしてレールを微調整しながら、ちらりと美波の方を一瞥した。
「美波。昨日も夜更かししただろう。目の下に隈ができてるぞ」
「……あ」
美波は少しバツが悪そうに、白い指先でそっと自分の目元に触れた。
「実は昨日、少し面白い依頼があって……。でも、タダ働きじゃないですよ。ちゃんと報酬として、この古い真鍮のライターをもらいましたから」
美波の指先が、カウンターの端に置かれた古い真鍮製のライターの表面を静かになぞる。
着火石を回すヤスリの角の、少し斜めにすり減った部分。そこを親指の腹で確かめるように触れる時の彼女の視線はひどく柔らかく、どこか迷子を慈しむようだった。
彼女は、世間でいう天才の類かもしれない。しかしそれは、数式や論理で物事を暴くような性質のものではない。彼女の眼は、モノに刻まれた『小さな傷』や『日焼けの跡』『すり減った角』から、持ち主がどのような仕草でそれを扱い、どんな想いをそこに乗せていたのかを、静かに読み取ってしまうのだ。
それは彼女が、自分を残して逝ってしまった両親の姿を、遺された古物の中から必死に探そうとし続けた年月が育んだ、哀しくも優しい才能だった。
「あのね、洋子さん、幸一さん。モノには全部、一番落ち着く場所があるんです。迷子になったモノを元の場所に戻すのが、私の仕事ですから」
カレイの煮付けを口に運びながら、美波は小さく口角を上げる。
平和な午後。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思える、琥珀色に輝く時洲堂の日常の風景。
しかし、その温かな静寂は、ふたたび鳴り響いたベルの音によって唐突に破られることとなる。
——カラン、コロン。
今度の音は、先ほど洋子が開けた時の快活な響きとは全く違った。戸惑うように、あるいは中に入ることをためらっているかのように、細く、弱々しく、どこか震えるような音が店内に落ちた。
時洲堂の店内に流れていた時間がふっと止まる。洋子が不思議そうに振り返り、幸一は鉋を持つ手を止め、視線を入り口に向けた。
ゆっくりと引き戸が開く。
敷居を跨いで入ってきたのは、大人ではなく、近所の小学校に通う三年生の男の子、健太だった。
「……健太くん」
洋子が驚きを含んだ声を上げる。健太といえば、この近所でも一、二を争うわんぱく坊主だ。学校が終われば泥だらけのスニーカーで時洲堂に飛び込んでくるのがいつもの姿だった。しかし今日、薄暗い入り口に立ち尽くす彼の姿は、まるで別人のようだった。
うつむいた顔には涙の跡がこびりつき、目元は赤く腫れ上がっている。息は浅く、しゃくりあげるような音が彼の小さな胸の奥から漏れていた。そして何より、彼が両手で胸の前に強く握りしめている『透明なカードスリーブ』が、小刻みに震えている。
「どうしたの、健太くん。そんなに泥だらけになって……転んだの」
洋子が駆け寄ろうとするが、健太はそれに答えることなく、ただ小さな肩を震わせている。
その光景を見た瞬間だった。
美波の動かしていた箸が、空中でピタリと止まった。
ふんわりと緩んでいた口元から、あどけなさがスッと抜け落ちる。瞬きの回数が減り、どこまでも透き通ったガラス玉のような静けさが、その瞳の奥に宿った。
彼女は音もなく椅子から立ち上がった。生成り色のカーディガンがかすかに揺れ、真っ直ぐな姿勢のまま、入り口で立ち尽くす健太の正面へと歩み寄る。
そのまま冷たい木の床に膝をつき、健太と完全に目線を同じ高さに合わせた。
少しずり落ちていた銀縁の丸眼鏡を、細く白い人差し指で静かに押し上げる。その何気ない仕草は、彼女がモノと人の痛みに寄り添い、迷子を探すスイッチだった。
高窓からの斜光が、彼女の黒髪に艶やかな輪を描く。濃い茶色の瞳が、眼鏡の奥で澄み切った琥珀色の光を放っていた。
「健太くん」
美波の声は、普段の間延びした愛らしいトーンとは全く違っていた。
水を打ったように静かで、傷ついた相手の心の一番深いところへ、一切の抵抗なくスッと入り込むような透明な響きを持っていた。
「泣くくらい、大事なものを失くしたんですね」
自分の状態を何の説明もしていないのに正確に言い当てられ、しかもそれを優しく肯定されたことで、健太の中で張り詰めていた呼吸がぷつりと切れた。
「……っ、うわぁぁぁん」
健太は堪えきれなくなったように大声を上げて泣き出し、すがるように美波のカーディガンの袖を強く掴んだ。美波は嫌がる素振りも見せず、泥だらけの小さな手を受け入れ、もう片方の手で健太の背中を一定のリズムで静かにポン、ポン、と叩き始めた。
洋子と幸一は、息を呑んでその光景を見守っていた。
彼らは知っている。美波がこの眼をしている時、彼女はすでに目の前の人間の奥深くまで入り込み、言葉にならないSOSを受信しているのだということを。
数分後。洋子が手早く淹れてくれた温かい甘酒を一口飲み、少しだけ落ち着きを取り戻した健太が、しゃくりあげながらぽつりぽつりと話し始めた。
「あのね、時洲さん……。僕の、カードが……なくなったんだ」
「カードですか」
「うん。学校の机の中に、ちゃんとしまってたのに……。放課後、掃除の時間が終わってから見たら、どこにも、なくて……っ」
健太が固く握りしめていた両手をゆっくりと開く。
手の中にあったのは、カードゲーム用の透明な保護スリーブだった。しかし、肝心の中身は入っていない。ただの空っぽのビニール袋だ。
健太はそれを、まるで自分の命の半分を失ったかのような絶望的な眼差しで見つめていた。
美波の瞳が、その空のスリーブと、健太の全身に残された『痕跡』をなぞっていく。
スリーブの端は強く握りしめられたことで歪に曲がり、健太の手のひらの汗で少し曇っている。健太のズボンの両膝には、べっとりと黒い土の汚れがこびりついていた。転んだような擦り傷や破れはない。つまりこれは、グラウンドや校庭で、這いつくばって何かを探し回った跡だ。
さらに、彼の指先にはチョークの白い粉が微かに残り、額には冷や汗がにじんでいる。
(机からなくなって、教室中を探して、それでも見つからなくて、外のゴミ箱や校庭まで泥だらけになって探し回った。……そして誰も助けてくれなくて、一人でここまで走ってきたんだ)
美波の中で、健太が辿ってきた数時間の孤独な道のりが、鮮明に再生されていく。
もし相手が大人であれば、『誰かに盗まれたんじゃないか』と疑うのが自然かもしれない。しかし美波は、決して『盗まれた』という言葉を使わなかった。モノの行方を探る時、最初から他者の悪意を前提にしてしまうと、本当に救うべき感情の根本的なつながりを見失ってしまうからだ。
「ただのカードじゃないんだ……」
健太が、空っぽのスリーブを胸に押し当てながら、絞り出すように言った。
「僕が、ずっと……ずっと探してて、やっと見つけた、大事なカードなんだ。あれがないと……僕は約束が、守れないんだよ……っ」
再び溢れ出した涙が、健太の膝にぽたぽたと落ちる。
約束。
その言葉が出た瞬間、美波の琥珀色の瞳がわずかに揺らいだ。
モノにはそれぞれ、作られた理由と、持ち主の手元にやってきた理由がある。そして、そのルーツに『誰かへの強い想い』が紐づいているモノは、往々にしてひどく重く、時に人の心を強く縛り付ける。美波は、遺された古物たちと長年向き合ってきた経験から、そのことを誰よりもよく知っていた。
「わかりました」
美波は静かに頷くと、健太の小さな両手を自分の両手でふわりと包み込んだ。彼女の手は少しひんやりとしていたが、健太にはそれが不思議と心地よかった。
「健太くんがそれだけ大事にしていたものですから。絶対に、どこかに隠れんぼしているだけですよ。……一緒に探しに行きましょうか」
「ほんと……。見つかる……?」
「ええ。私、探し物は得意ですから」
美波が眼鏡の奥で、小さく微笑む。先ほどまでのガラス玉のような静けさから、近所の優しいお姉さんの顔に戻っていた。
立ち上がり、カウンターに置かれていた小ぶりな革のポシェットを肩から斜めに掛ける。洋子がすかさずハンカチを取り出し、美波の口元をそっと拭ってやった。
「美波ちゃん、口の端に卵焼きついてたわよ。……気をつけて行ってきなさいね」
「はい。洋子さん、幸一さん、お留守番よろしくお願いします」
美波は健太と手を繋ぎ、時洲堂の重い引き戸を開けた。
カラン、とベルが鳴り、二人は午後の少し傾きかけた陽射しの中へ歩き出した。幸一はその後ろ姿を黙って見送り、再び鉋を手に取って、不器用な優しさで戸の立て付けを直し始めた。
***
時洲堂から健太の通う小学校までは、歩いて十分ほどの距離だ。
二人は、ランドセルを背負った子供たちが駆け抜けていく通学路を、ゆっくりとしたペースで歩いていた。美波は手を繋いだ健太の歩幅に合わせながら、彼を問い詰めるようなことはせず、ただポツリポツリとこぼれ落ちる言葉に耳を傾けた。
「あのカードね、大親友の寛太くんに、渡すはずだったんだ」
「寛太くん。同じクラスのお友達ですか」
「うん。でも、もう引っ越しちゃって、遠くにいる」
健太はうつむいたまま、自分のスニーカーのつま先を見つめて歩く。
アスファルトに伸びる二人の影が、夕暮れ時特有の頼りなさを帯びて長く伸びていた。
「寛太くんね、すごく優しくて。僕が欲しかったカードを、引っ越す前にわざわざ探してプレゼントしてくれたんだ。だから僕、どうしてもそのお返しがしたくて……。寛太くんがずっと欲しがってた『幻のカード』を、お小遣い貯めて、いろんな友達にお願いして、やっと手に入れたんだよ」
「……」
「いつかまた会えたら、絶対に渡すって……約束したんだ」
健太の鼻をすする音が、路地に響く。
美波は黙って、繋いでいる健太の小さな手を少しだけ強く握り返した。
誰かのために必死になって探したモノ。それを失ってしまった喪失感は、いかばかりだろうか。健太が泥だらけになって探し回ったのは、単なる厚紙のカードではなく、大親友との『繋がり』そのものだったのだ。
やがて二人は、小学校のすぐ裏手にある『ふれあい公園』に到着した。
放課後の公園は、ランドセルをベンチに放り投げた子供たちの熱気で溢れかえっている。ブランコを漕ぐチェーンの軋む音、ジャングルジムをよじ登る声、砂場で城を作る子供たちの喧騒。健太によれば、カードがなくなったことに気づいた後、教室中を探し回り、最後に心当たりがあってこの公園にも探しに来たのだという。
「教室になかったから、もしかしたらポケットから落ちたのかもって思って……」
「なるほど。じゃあ、まずはこの辺りから探してみましょうか」
美波は公園の入り口で立ち止まると、眼鏡のブリッジを再びくいっと押し上げる。
彼女の琥珀色の瞳が、茜色に染まり始めた公園全体を、ただ静かに見渡した。




