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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と遠い日の約束―』  作者: 長月有希


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第三話『答え』(前)

 長く降り続いた春の雨がようやく上がり、湿ったアスファルトの匂いが消え、街の輪郭に初夏の気配が混じり始めた頃。


 郊外の路地裏に佇む古物商『時洲堂ときすどう』の開け放たれた引き戸からは、沈丁花の香りに代わって、若葉の青々とした匂いをはらんだ風が静かに吹き込んでいた。


 薄暗い店内にうず高く積まれた古書の地層や、埃を被ったアンティークの真鍮ランプの隙間を縫うように、力強い初夏の陽射しが幾筋もの斜めの光の道を作っている。その光の道の一つが真っ直ぐに落ちる帳場のカウンターで、時洲ときす美波みなみは微かな鼻歌をこぼしながら、古い真鍮製の砂時計を柔らかなセーム革のクロスで丁寧に磨き上げていた。


 季節の移ろいに合わせ、彼女の服装も少しだけ軽やかになっている。ゆったりとした生成きなり色のカーディガンの下には淡いミントグリーンのリネンシャツを合わせ、肩のあたりで綺麗に切り揃えられていた艶やかな黒髪は、作業の邪魔にならないよう緩いハーフアップにまとめられていた。

 しかし、彼女の小さな顔の輪郭には少し不釣り合いなほど大きな丸眼鏡だけは、季節が変わってもいつも通り、彼女の鼻梁にちょこんと乗っている。


「……うん、いい艶。やっぱりこの時代の真鍮は、手を入れるほど深みが出る」


 美波が砂時計を太陽の光の道に透かし、落ちていく砂の粒の影を見つめた、その時だった。


 ——カラン、コロン。


 引き戸の上のベルが、控えめだが心地よい初夏のリズムで鳴った。

 美波はずり落ちかけた丸眼鏡を人差し指で押し上げながら視線を向ける。


「美波さん、こんにちは」


 明るく、澱みのない声で店に入ってきたのは、駅前のカフェ『Lumiereリュミエール』でアルバイトをしている女子大生、結月ゆづきだった。

 あの日、冷たい雨の中で濡れそぼり、浅い呼吸を繰り返しながら『見つかってはいけない秘密の手紙』を探しに来た彼女の面影は、もうどこにもない。初夏らしい淡いベージュのサマーニットに身を包んだ彼女の表情は、分厚い雲が晴れたように澄んでおり、アーモンド型の目には年齢相応の健やかな光が宿っていた。


「結月さん。いらっしゃいませ」


「お仕事中にすみません。美波さんに、どうしても紹介したい人がいて……。店長、入ってください。ここが、私と小百合さゆりさんが話していた時洲堂です」


 結月が背後を振り返って声をかけると、引き戸の隙間から、長身の男性が少し身を縮めるようにして入ってきた。


 年齢は三十代半ばだろうか。アイロンの当てられた清潔な白シャツに、細身のチノパン。目元には笑うと柔らかく垂れそうな浅いシワがあり、全体的に穏やかで、人を安心させるような樹木のような温もりを纏っている。

 彼が結月の想い人であり、彼女が自らその想いに『蓋』をして手紙を捨てた相手。カフェの店長だった。


「初めまして。駅前でカフェを営んでおります、木島きじまと申します。小百合さんや結月ちゃんから、時洲さんのお噂はかねがね」


 木島は丁寧に深くお辞儀をし、手土産らしき紙袋をカウンターの端に置いた。袋の隙間から、自家焙煎されたコーヒー豆の、深く香ばしい匂いがふわりと漂ってくる。


(なるほど。結月さんが惹かれてしまうのも、無理はない人だ)


 美波は木島の纏う静かな空気を感じ取り、結月の方をちらりと見た。

 結月の視線は、もう行き場のない揺らぎを抱えた目で彼を見てはいない。『尊敬する店長』として、クリアな距離感を保てていることが一目でわかり、美波は胸の奥でそっと息を落とした。


「時洲美波です。いつも小百合さんと結月さんがお世話になっています。どうぞ、奥のソファへ」


 美波は二人を応接スペースへ案内し、お茶の準備を始めた。今日は木島が持ってきてくれたコーヒー豆を、早速ハンドドリップで淹れることにする。お湯が注がれ粉が膨らむと、店内の古い紙や木材の匂いと、芳醇なコーヒーの香りが絶妙なバランスで混ざり合った。


「素晴らしいお店ですね。時が止まっているようだ」


 木島は出されたコーヒーを一口飲み、店内にひしめく古物たちを静かに見渡した。


「木島さん、今日はどうされたんですか。コーヒー豆の配達、というわけではないですよね」


「ええ……。実は、時洲さんの『探し物』のお力を頼りたくて、結月ちゃんに無理を言って連れてきてもらったんです」


 木島は膝の上で両手を組み、少しだけ眉を下げて視線を落とした。


「探し物、ですか」


「はい。正確に言えば、『失くなってしまったモノ』を探してほしいのではなく、『残されてしまったモノの意味』を探してほしいんです」


 そう言うと、木島は持参したもう一つの小さな布包みを、ローテーブルの上にそっと置いた。

 結月が丁寧に、その布の結び目を解く。

 中から現れたのは、アンティークの『手挽きコーヒーミル』だった。


 土台は黒ずんだ木製で、豆を入れる上部の受け皿とハンドル部分は真鍮で作られている。使い込まれたことで表面の塗装は剥げ、真鍮の縁は鈍く変色していた。どこにでもある古いミルのように見えるが、美波の眼には、それがただの道具の残骸ではないことがすぐにわかった。


「随分と、使い込まれたミルですね。でも、歯車が完全に噛み合っていません。これではハンドルが回らない」


「わかるんですか。おっしゃる通りです。これはもう、実用的な道具としては壊れてしまっているんです」


 木島は深く息を吐き、静かに語り始めた。


「うちのカフェに、柴田しばたさんという七十代の常連のお客様がいらっしゃったんです。オープン当初から五年近く、毎日必ず午後三時に来店されて、窓際の同じ席で、同じ中煎りのブレンドを一杯だけ飲んで帰られる。とても寡黙な方で、私たち店員とも『いつもの』『ありがとう』くらいしか言葉を交わさないような、静かな老紳士でした」


 美波は丸眼鏡の奥の瞳を静かに澄ませ、木島の言葉に耳を傾ける。


「その柴田さんが、一週間前に亡くなられたんです。心不全だったそうです。……そして、このミルは、柴田さんが亡くなる前日、うちの店に来店された時に、彼がいつも座っていた窓際の席のテーブルに『置き去り』にされていたものなんです」


「忘れ物、ではなかったんですか」


「ええ。最初は結月ちゃんが忘れ物だと思って追いかけようとしたんですが、ミルの下には、ご自身の飲食代と……このミルを包むための、綺麗なハンカチが敷かれていたんです。まるで、意図的に『置いていった』かのように」


 遺された、壊れたアンティークミル。

 美波の琥珀色の瞳が、その真鍮のハンドルを見つめる。


「ご遺族に連絡は」


「はい。柴田さんには遠方に住む息子さんがいらっしゃって、葬儀の後でお店にご挨拶に来てくださったんです。その時にこのミルの話をしたら、息子さんは『父がお店に置いたのなら、店長さんへの感謝の気持ちでしょう。どうか受け取ってやってください』とおっしゃって。だから、これは私たちの物になったんです」


 木島はそこで言葉を区切り、眉間を押さえた。


「でも、私にはどうしてもわからないんです。寡黙だった柴田さんが、亡くなる直前に、なぜわざわざ『壊れたミル』をカフェに置いていったのか。……実は、それに意味があるんじゃないかと気づかせてくれたのは、もう一人の常連のお客様だったんです」


「もう一人の」


「ええ。牧村まきむらさんという、いつもカウンター席で仕事をしているライターの男性です。彼が、柴田さんの席に残されたこのミルを見て、私にこう言ったんです。『木島さん、あの老人はただゴミを捨てていったわけじゃない。これは彼なりの、言葉にできない遺言ですよ。アンティークの事情に詳しい人間に見てもらった方がいい』って」


 牧村、という名前を聞いて、結月も横で「あの人、いつも難しい顔をしてパソコンを叩いてるんですけど、すごく周りをよく見てるんです」と付け加えた。


 美波の中で、いくつかの情報が音もなく連結していく。

 毎日同じ時間に、同じコーヒーを飲みに来ていた寡黙な老紳士。彼が死の直前に残した、歯車の噛み合わない古いコーヒーミル。そして、それに深い意味があると見抜いたもう一人の常連客。


 美波は無言のまま、ローテーブルに置かれたコーヒーミルに両手を伸ばした。

 少しずり落ちていた大きな銀縁の丸眼鏡を、細く白い人差し指でくいっとブリッジの中央へ押し上げる。それは彼女が、モノのルーツと人の心に寄り添うスイッチだった。


 窓から差し込む斜光が、彼女の黒髪に天使の輪を描き、濃い茶色の瞳が、眼鏡の奥で澄み切った琥珀色の光を放った。


「木島さん」


 美波の声は、先ほどまでの少し間延びしたトーンとは違う、波一つ立たない水面のような響きを持っていた。


「柴田さんが遺したこのミルは……ただ壊れているわけじゃありません。誰かの手によって、意図的に『開かないよう』に精巧な細工がされています」


「えっ……細工?」


 絶句する木島と結月をよそに、美波の指先がミルの木製土台の裏側をそっとなぞる。


「はい。このミルの中には、まだ『何か』が入っています。柴田さんは、木島さんに宛てて、解いてほしい謎を残したんですよ」


 初夏の風が引き戸を揺らし、時洲堂のベルがチリン、と高く鳴った。

 言葉を持たない古物が語りかけてくるメッセージを読み解く、時洲美波の静かな鑑定が始まった。


 ***


「謎……ですか。このコーヒーミルに」


 木島が少しだけ身を乗り出した。隣に座る結月も、じっとローテーブルの上の古いコーヒーミルを見つめている。


 美波はロッキングチェアから降り、コーヒーミルの正面に座り直した。

 白く細い指先が、鈍い光を放つ真鍮のハンドル部分をそっと撫でる。


「ええ。木島さん。手挽きのコーヒーミルというのは、上部にある調節ネジを回すことで、内部の歯車の隙間を変え、豆の挽き具合を調整する仕組みになっていますよね」


「はい。右に回せば細挽きに、左に回せば粗挽きになります。このミルも一般的な構造のはずです」


「通常は、そうです。でも……」


 美波は真鍮のハンドルを握り、ゆっくりと時計回りに力を込めた。

 ギギギ、と金属が軋むような不快な音が鳴るだけで、ハンドルは数ミリ動いたところで完全にロックされてしまう。


「このミルの調節ネジは、純正のパーツから『逆ネジ』にすり替えられているんです」


「逆ネジ」


「時計回りに回すと緩むのではなく、逆に締まっていく特殊なネジです。恐らく柴田さんは、内部の刃の隙間に何か硬い異物を挟み込んだ上で、この逆ネジを限界まで締め上げた。だから、ハンドルを回そうとすればするほど内部の刃が異物に食い込み、完全にロックされる仕組みになっているんです」


 美波の説明に、木島は小さく瞬きをした。


「どうして、そんな手の込んだことを……」


「ハンドルを回させないためではありません。上部の刃を完全に固定することで、この下にある『粉受けの引き出し』を開かなくするためです」


 美波の指先が、ミルの木製土台の下部にある、挽いたコーヒー粉が落ちる小さな引き出しを指し示した。

 美波が引き出しの木製取っ手を引っ張ってみるが、ピクリとも動かない。


「刃に挟み込まれた『異物』が、引き出しの天井部分につっかえ棒のように押し付けられているんです。力任せに引き出しを開けようとすれば、この古い木製の土台ごと砕け散ってしまうでしょう。……この細工をした人間は、金属の構造と木材の性質を熟知しています」


 美波はそこで言葉を区切り、木島を見つめた。


「時洲さん。それはつまり……」


「はい。柴田さんは、自分以外の誰かに無理矢理この引き出しを開けられることを拒絶したんです。……木島さん。柴田さんは、生前どのようなお仕事をされていたかご存知ですか。手の指先に、タコや火傷の跡はありませんでしたか」


 木島は少し視線を宙に浮かせ、目を細めた。


「職業は存じ上げません。ですが……おっしゃる通り、カップを受け取られる柴田さんの手は、節くれ立っていて、指先には細かな傷がたくさんありました。それに、雨の日なんかは特に、スーツの袖口から微かに……機械油のような、鉄を削ったような匂いがしていたのを覚えています」


「やっぱり」


 美波の隣で、結月がハッとしたように声を上げた。


「時洲さん。あのお客様…牧村さんが、同じようなことを言っていました。『あの老人の手は、何十年もミリ単位の狂いと戦ってきた職人の手だ』って……」


 美波は口角をわずかに上げ、眼鏡のブリッジを押し上げた。


「その牧村さんという方、とてもよく見ていますね。……柴田さんはおそらく、金属加工や機械整備の職人だったのでしょう。だからこそ、こんな精巧な物理ロックをコーヒーミルに仕掛けることができた」


 美波は音もなく立ち上がると、カウンターの奥の作業棚へと向かった。

 いくつかの引き出しを開け、小さな銀色のマイナスドライバーと、ピンセット、そしてルーペをローテーブルへと持ち帰る。


「時洲さん。開けられるんですか」


「ええ。構造がわかれば、紐解くのは難しくありません。ただ、少し時間はかかります」


 美波はルーペを目に当て、真鍮のネジの隙間にマイナスドライバーを慎重に差し込んだ。カチリ、カチリと、極めて繊細な金属音が静かな店内に響き始める。


 初夏の風が吹き込む時洲堂は、静寂な空気に包まれていた。

 木島と結月は、彼女の指先の動きに静かに見入っていた。


「……木島さん。作業の間、少しだけお話を聞かせてもらえませんか」


 美波は手元のネジから視線を外さぬまま、静かな声で問いかけた。


「柴田さんが初めてお店に来られた日のことを、覚えていますか」


「初めての日、ですか。……ええ、もちろん覚えています。忘れられるはずがありません」


 木島は膝の上で組んだ手に、ぎゅっと力を込めた。


「五年前。私が会社員を辞めて、念願だったカフェ『Lumiere』をオープンした最初の日です。……あの日は酷い土砂降りで、駅前なのに人通りも少なく、宣伝不足もあって、お昼を過ぎてもお客様は一人も来ませんでした。自分の甘さを呪って、もう店を畳むしかないのかと思っていた……午後三時」


 木島の声のトーンが少しだけ落ちる。


「柴田さんが、濡れた傘を畳みながら入ってこられたんです。それが、うちの店の『第一号』のお客様でした」


「……」


「柴田さんは窓際の席に座り、メニューも見ずに『ブレンドを』とだけ言いました。私は震える手で、時間をかけてコーヒーを淹れました。柴田さんはそれを一口飲み……何も言わず、ただ静かに窓の外の雨を見つめて、カップを空にして帰っていかれました」


 カチリ。

 美波のドライバーが、逆ネジの最初の引っ掛かりを外した。


「美味しかった、とか。そういう言葉は」


「一切ありませんでした。私は、自分のコーヒーが口に合わなかったんだと落ち込みました。……でも、次の日の午後三時。雨が上がった駅前に、また柴田さんが現れたんです。そしてまた、同じ窓際の席で、同じブレンドを頼んでくださった」


 木島の目元が、わずかに瞬きを繰り返した。


「それから五年間です。定休日以外、大雪の日も、猛暑の日も、柴田さんは毎日欠かさず午後三時にやってきて、同じコーヒーを飲んで帰っていった。……あの人が毎日来てくれるという事実だけが、オープン当初の客がいなかった時期の私を、そして今の私を、ずっと支え続けてくれていたんです」


 美波はルーペを外し、木島の方へと顔を向けた。

 琥珀色の瞳が、木島の言葉の裏にある重力を静かに受け止めている。


「木島さんにとって、柴田さんはただの常連客ではなく、お店の心臓の一部だったんですね。……では、柴田さんが亡くなる前日、最後にこのミルを置いていった日の様子はどうでしたか。何か、変わったことは」


 木島は少し考え込み、やがてゆっくりと首を振った。


「いえ、本当にいつも通りでした。ただ……帰り際にレジでお会計をする時、柴田さんが初めて、私に向かって長く言葉を発したんです」


「なんて、おっしゃったんですか」


「『君の淹れるコーヒーの香りは、錆びついた時間を動かしてくれる』……と。そして、ハンカチに包んだこのミルをテーブルに残して、そのまま店を出ていかれました。それが、最後です」


 錆びついた時間を、動かしてくれる。


 その言葉を聞いた瞬間、美波の中で、散らばっていた情報のピースが一つの絵として組み上がった。

 なぜ、金属加工の職人であった柴田が、わざわざ『コーヒーミル』という道具を選んで細工を施したのか。なぜ、亡くなる直前にそれを木島に託したのか。


「……なるほど。そういうことだったんですね」


 美波は静かに呟くと、再びマイナスドライバーを手に取り、迷いのない手つきで真鍮のネジを逆方向へと回し始めた。

 ギギギ、という抵抗音が次第に小さくなり、やがてカタン、と内部の重たいつっかえ棒が外れる音が響いた。


「ロックが、外れました」


 美波はドライバーを置き、木製土台の下部にある引き出しの取っ手に指をかけた。

 今度は何の抵抗もなく、スウッ、と引き出しが手前へと滑り出してくる。


 木島と結月が、身を乗り出した。

 長年封印されていたコーヒーミルの引き出しの中。コーヒーの粉など一粒も入っていないその暗い空洞の底に、二つの小さなモノが、並んで置かれていた。


 一つは、Lumiereのロゴが印刷された、五年前のオープン当初の古い紙コースター。

 そしてもう一つは——。


「これは……」


 木島が小さく息を呑んだ。

 引き出しの中に残されていたのは、言葉を持たない老職人からの、真っ直ぐな答えだった。

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