第七話『宝物』(前)
クリスマスの喧騒が過ぎ去った途端、街は一夜にしてその装いを変えてしまう。
大通りを彩っていたイルミネーションは瞬く間に取り外され、商店街の軒先には真新しい門松やしめ縄が飾られ始めていた。どこからともなく漂ってくるのは、おせち料理の仕込みだろうか、醤油と出汁の甘辛い匂いだ。一年を締めくくる慌ただしくもどこか厳かな空気が、下町の路地裏にまで満ちていた。
古物商『時洲堂』の店内では、店主の時洲美波が、頭に豆絞りの手ぬぐいを巻き、赤いカーディガンの上から真っ白な割烹着を着込むという大掃除スタイルでハタキを握りしめていた。
「よし。今日こそは、棚の奥の奥まで綺麗にするんだから」
美波はずり落ちる丸眼鏡を押し上げ、気合を入れて古い蓄音機の埃を払い始めた。しかし、その立派な決意は、ものの十分で脆くも崩れ去ることになる。
棚の奥を拭くために、何気なく手に取った大正時代のガラス製ランプシェード。その微細な気泡の入り方と、職人の手吹きガラス特有の歪みが光を乱反射する美しさに、古物商としての美波の目はすっかり釘付けになってしまったのだ。
「この気泡の入り方と、底面のカット……もしかして、あの有名な工房の初期の作品かな?」
気がつけば美波はハタキを放り出し、カウンターの奥のロッキングチェアに深く座り込んで、膝の上に広げた分厚い古物の図録のページを夢中でめくり始めていた。
「……うん。古物だらけの時洲堂で大掃除なんて、最初から無理な相談だったんだよ」
美波はあっさりと大掃除を諦め、ストーブの上でシューシューと音を立てるやかんに言い訳をするように呟いた。熱いほうじ茶の入ったマグカップを両手で包み込み、冷え切った指先を温めながら図録の続きを読み始めた、午後三時過ぎのことだった。
――カランコロンッ!
引き戸が、普段よりも乱暴で重たい音を立てて開かれ、ベルが勢いよく鳴った。
吹き込んだ冷たい雪まじりの風に身を縮ませながら顔を上げると、そこに立っていたのは、近所で金物屋を営んでおり、美波の親代わりとも言える、三枝幸一だった。
いつもなら、底抜けに明るく快活な妻の洋子に手を引かれ、「ほらお父さん、突っ立ってないで」と小言を言われながら半ば無理やり店に連れ込まれるのがお決まりのパターンだ。しかし今日、幸一の隣に洋子の姿はなかった。
彼は分厚いカーキ色のドカジャンを羽織り、白髪交じりの短髪に雪の欠片を乗せたまま、ひどく神妙な面持ちで一人、時洲堂の敷居を跨いだ。
「幸一さん。いらっしゃいませ。……今日は洋子さんと一緒じゃないんですね。外、すごく雪が降ってきたんじゃないですか?」
美波が不思議そうに首をかしげると、幸一は「……おう」とだけ短く唸り、引き戸をピシャリと閉めた。
彼はそのままカウンターへと歩み寄り、ドカジャンの懐から、大切に抱えるようにして持っていた深い藍色の布包みを取り出した。そして、まるで壊れ物を扱うかのような慎重な手つきで、それを美波の目の前にそっと置いた。
「美波。……少し、お前の知恵を貸してくれないか」
幸一の声は、いつものぶっきらぼうな響きの中に、職人としての重い緊張感を帯びていた。
美波はマグカップを置き、割烹着の袖をまくってカウンターに身を乗り出した。幸一は節くれ立った太い、荒れた指先で、ゆっくりと布の結び目を解いていった。
布が四方に広がり、中から姿を現したのは、木製の古い『レシピボックス』だった。
横幅は二十センチ、高さは十五センチほど。蓋を開けると、料理のレシピを書き込んだ情報カードが五十音順に綺麗に整理して収納できるようになっている、昔ながらの小箱だ。
使われている木材は上質な桜の木で、長年の使用によって手の油が染み込み、深みのある美しい飴色に変化している。四隅の接合部は釘を一切使わない『アリ組み』と呼ばれる伝統的な技法で隙間なく噛み合わされており、表面の滑らかな研磨具合といい、市販の大量生産品ではなく、極めて腕の良い職人の手作りであることが一目でわかる代物だった。
しかし、その美しい木箱の姿を台無しにするように、蓋の右半分から側面に掛けて、無惨なほどに真っ黒な焦げ跡がべったりと広がっていたのだ。
ただ表面が煤けているだけではない。木材の繊維が完全に炭化し、ひび割れて、深い溝を刻んでいる。
「立派な木箱ですね。細工もすごく丁寧で綺麗です。……でも、すごい焦げ跡ですね。これ、洋子さんのですよね?」
「ああ。俺たちが結婚したばかりの頃、まだ洋子が料理教室の先生をやっていた時代にな。俺が見よう見まねで初めて作ってやった、プレゼントだ」
幸一は、黒く炭化した木肌を太い指でなぞった。
「洋子のやつ、こんな焦げた箱を、何十年もずっと台所の片隅に置いて使ってやがる。俺は金物屋だが、木工の技術だってそれなりにある。だから、新しいもっと立派な箱を作ってやると何度も言ったんだ。だが、あいつは『これが一番手に馴染んで使いやすいのよ』って言って聞かなくてな。……だから俺は、今年の正月のサプライズとして、こいつを完全に修復して、昔の綺麗な姿に戻してやろうと思ったんだよ」
幸一は職人である。手先の器用さは美波もよく知っていた。時洲堂の立て付けの悪い引き戸を直してくれたり、錆びついたアンティークの金具を一瞬で磨き上げたりと、モノの構造と素材を知り尽くした彼にとって、木材の削り出しや表面の再塗装など、造作もないことのはずだった。
「でも、直せなかったんですか?」
「俺の腕が鈍ったわけじゃねえ」
幸一は不満げに眉根を寄せ、レシピボックスの激しく焦げた部分を美波の方へ押しやった。
「ただ、どうにも焦げ方がおかしいんだ。炭化した部分を鉋とヤスリで木目に沿って削り落とそうとしても、刃が異常に深く食い込む箇所がある。洋子は昔『台所のコンロの火が燃え移った』と言っていたが、コンロの火でこんな奇妙な焼け方になるはずがないんだ。……美波。お前の目で、この箱がどんな火の気で、どうやって燃えたのか、原因を特定してくれ」
幸一の目は、モノと向き合ってきた職人としての絶対に譲れない矜持に満ちていた。
「原因さえ分かれば、元の木目の状態を完全に逆算して、焦げ跡を一切残さずに、新品同様に削り直せる。俺は洋子に、一番綺麗な状態のこいつをもう一度渡してやりたいんだ」
その純粋な依頼を受け、美波は静かに頷いた。
彼女はカウンターの奥から愛用の銀のルーペを取り出し、細いピンセットと小さな白い紙を手元に用意した。
そして、ずり落ちていた大きな丸眼鏡のブリッジを指先でくいっと押し上げる。それが、美波がモノの軌跡と人の心に寄り添うスイッチだった。
「わかりました、幸一さん。この箱がどんな火に焼かれたのか、傷跡に教えてもらいましょう」
美波はルーペを右目に当て、黒く炭化したレシピボックスの表面へと焦点を合わせた。
琥珀色の瞳が、焦げの深さ、木材のひび割れの方向、熱によって変性した塗料の縮み具合、そして表面に残された微細な付着物を観察していく。
(……確かに、おかしい。幸一さんが違和感を覚えるのも無理はない)
美波の脳内で、物理的な事実と洋子の証言との間に生じているズレが、静かに形を成していく。
もし、洋子が言っていた通り台所のコンロの火が燃え移ったのだとすれば、炎は空気の対流に従って、必ず下から上へと向かって燃え広がる。つまり、箱の底面や側面の下部が火元に最も近くなり、深く炭化するはずだ。そして上に行くにつれて、焦げ跡は薄く、あるいは煤がつく程度に留まるのが自然な物理法則である。
しかし、目の前にあるレシピボックスの焦げ跡は、その法則の真逆を示していた。
火から最も遠いはずの蓋の上面が最も激しく深く焼け焦げており、そこから側面の下部に向かって、まるで熱い鉄板か何かを上から強い力で押し付けたかのような、不自然に平らで押し潰されたような炭化の層ができているのだ。
さらに美波は、ピンセットの先端で、炭化した部分の最も深いひび割れの奥から、極小の黒い粉を慎重に掬い上げた。
それを白い紙の上に乗せ、顔を近づけて静かに匂いを嗅ぐ。
「幸一さん」
美波はルーペから目を離し、静かに息を吐き出した。
「洋子さんは、台所のコンロの火が燃え移ったと言っていたんですよね」
「ああ。夕飯の支度中に、うっかり火を大きくしすぎて、コンロの脇に置いてあったこいつに引火しちまったって言ってた。だから俺はずっと、台所の油汚れと一緒に焦げ付いたもんだと思っていたんだが……違うのか?」
「違います。この箱は、台所で燃えたんじゃありません」
美波の静かな声が、時洲堂の空気に、張り詰めた緊張感をもたらした。
「焦げた木材のひび割れの奥深くから、微かに機械油の酸化した匂いがするんです。それに、この紙に乗せた黒い粉には、コンロの煤や料理の油汚れじゃなく……極小の鉄粉が混ざっています」
「機械油と……鉄粉だと?」
幸一の顔から、血の気が引いた。
長年、金属と油にまみれて生きてきた金物屋である彼にとって、それが何を意味する物質なのか、痛いほどよくわかっていたからだ。
「幸一さん。このレシピボックスは、コンロの火を浴びたんじゃありません。……洋子さんがご自身の意志で、幸一さんの作業場にあった何か火のついた機械に、上から強く覆い被せるようにして押し付けたんです。だから、上面が最も深く焦げて、鉄粉と機械油が繊維の奥まで染み込んでいるんですよ」
ストーブの火が、チリッと小さく爆ぜた。
幸一が信じて疑わなかった洋子の失敗談の裏に隠された事実が、姿を現した瞬間だった。
「……そんなはずがない。洋子が、俺の作業場でわざと箱を焦がすなんて」
幸一はカウンターの天板を強く叩きつけた。
彼にとって、作業場は己の神聖な場所だ。そこで火の気があったなどと、職人としての管理不足を指摘されることは絶対に許されない。何より、いつも底抜けに明るく、自分を支え続けてくれている妻の洋子が、そんな嘘をつく理由など、どこにもないはずだった。
「俺は、自分の手で直したいんだ。原因が分かれば、元の美しい木目通りに、完璧に修復してやれるんだ。お前の見立てが間違っているんじゃないのか、美波」
幸一の語気には、強い苛立ちと、妻の言葉を否定されたことへの拒絶が入り混じっていた。
「見立ては間違っていません。……幸一さんこそ、どうしてそんなに焦げ跡を削り落とすことにこだわるんですか」
美波はロッキングチェアを小さく揺らしながら、少しだけ目を細めた。彼女の琥珀色の瞳は、幸一の怒りを恐れることなく、真っ直ぐに彼を見つめていた。
「箱が綺麗になることは、洋子さんにとって、本当に幸せなことだと思いますか? この焦げ跡は、ただの汚れや失敗の痕じゃありません。洋子さんが、どうしても隠したかった何かを必死に守り抜いた証拠なんです。それを削り落とすことには、私は絶対に賛成できません」
「だから、それが何だっていうんだ! 何を守るために、俺に黙って大事な箱を燃やす必要がある? 理由を説明してくれ。納得できなきゃ、俺はこの箱を持ち帰って削り直す。それが職人としての俺の矜持だ!」
幸一の声が、古い木造建築の天井を震わせる。
いつもは寡黙で優しい幸一と、古物商としての信念を曲げない美波。美波は少しだけ唇を噛んだ後、真っ直ぐに幸一の目を見つめ返した。
「……以前、洋子さんから昔の話を聞いたことがあります。幸一さんが独立して、金物屋を始めたばかりの頃のことです。毎日、日付が変わるまで作業場にこもって、油まみれになって死にそうな顔で帰ってきたって」
美波の言葉に、幸一は毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
「あの頃、幸一さんはご自分の夢を追うのに必死で、生活を軌道に乗せることで頭がいっぱいで……洋子さんのこと、全然見えていなかったんじゃないでしょうか」
「それは……」
「洋子さん、毎晩、幸一さんが倒れないようにって、冷めた夜食を作業場まで届けていたそうですね。……この箱に残った傷跡が、洋子さんのその思い出話の、隠された続きを教えてくれたんです」
美波は記憶のピースを繋ぎ合わせるように、静かに言葉を紡いだ。
「その夜も、幸一さんは作業場で、新しく引き受けた機械の修理に没頭していました。……幸一さんは疲れ切って気づいていなかったかもしれませんが、その機械は古くて、配線もショートしかけていたんだと思います。深夜、幸一さんが限界を迎えて作業台の前でうたた寝をしてしまった時、ついに配線から火花が散った。機械の油に引火して火が上がり、それが隣にあった布の山に燃え移りそうになった」
幸一が目を見開く。何十年も前の、微かな焦げ臭い記憶が、彼の脳裏でフラッシュバックしようとしていた。
「火は、幸一さんの夢が詰まった大事な作業場全体に回ろうとしていました。……そこに、夜食を持ってきた洋子さんが駆けつけた。ちょうどその日、レシピボックスに入れた新しい料理のレシピを見ながら夜食を作って、そのままお盆に乗せて持ってきたんだと思います。彼女はとっさに手元にあった一番分厚くて燃えにくいこの箱を掴み取って、燃え広がる火種の上に思い切り覆い被せたんです」
美波はカウンターの上のレシピボックスを、愛おしそうになぞった。
「箱が真っ黒に焦げたのは、その時です。……あの箱は、洋子さんにとって、自分と幸一さんの人生を繋ぐ一番大切な宝物だった。それを、幸一さんの作業場と夢を守るために、身を挺して『盾』にしたんです。だから、上から押し付けたような不自然な焦げ跡が残り、機械油と鉄粉が繊維の奥まで染み込んだんですよ」
幸一の呼吸が、荒く乱れる。
「そんな……俺は、そんなこと、全く……」
「もしその時、洋子さんが『作業場で火事になりかけたわよ』なんて言ったら、職人気質の幸一さんはどうしますか? おそらく、ご自分の致命的な管理不足を激しく悔やんで、責任を感じて、独立したばかりの金物屋の仕事を辞めていたんじゃないでしょうか」
美波は真っ直ぐに幸一を見つめた。
「洋子さんは、幸一さんの夢を絶対に壊したくなかったんです。だから『私が台所でうっかり箱を焦がしちゃったの。ごめんなさい』なんて嘘をついて、箱を傷つけた。幸一さんに二度と作業場で無理をさせないように、ご自分が悪者になったんです。……この焦げ跡を削り落とすことは、洋子さんが幸一さんの夢を必死に守り抜いたあの夜の事実を、なかったことにするのと同じことですよ」
幸一は、大きくよろめいて後ろに下がった。
彼の手は震え、膝の上で固く握りしめられている。
自分をずっと影から支え続けてくれたはずの妻の、底知れないほど深くて、不器用な愛情。それを知ったとき、頑固な職人は、ただの一人の夫として、己の小ささに打ちのめされていた。
「……あいつは、あんなに不器用に、俺のために一番大事なもんを燃やして……」
幸一は、真っ黒に焦げたレシピボックスを両手で包み込むように抱き寄せ、涙をこぼし始めた。
いつもは洋子の尻に敷かれ、文句一つ言わずに黙々と働く無骨な男の、声にならない嗚咽が、年の瀬の静かな時洲堂に響き渡る。
美波は何も言わず、ストーブの火に手をかざしながら、ただ静かにその姿を見守っていた。
モノは決して嘘をつかない。
黒く炭化した無惨な傷跡は、洋子が夫の夢を守り抜いた、何よりも美しく誇り高い勲章だったのだ。




