第七話『宝物』(後)
冷え切った時洲堂の店内に、大柄な職人の背中が発する、くぐもった、ひどく不規則な呼吸音だけが、重く、そして痛切に響き渡っていた。
分厚いカーキ色のドカジャンに身を包んだ三枝幸一は、丸椅子の上で背中を丸め、まるで迷子になった幼い子供のように広い肩を小刻みに震わせている。油と金属の匂いが染み付いた、節くれ立った無骨な両手が、カウンターの上に置かれた真っ黒に炭化したレシピボックスを、壊れ物を扱うかのようにそっと、しかし逃がさないようにしっかりと包み込んでいた。
彼の白髪交じりの頭が深く垂れ下がり、目元からとめどなく溢れ落ちる大粒の雫が、炭化した木材の、ワニの鱗のようにひび割れた焦げ跡へと次々に吸い込まれていく。ポタ、ポタと、水滴が乾ききった炭の奥深くまで浸透していく微かな音だけが、重苦しい沈黙の中で刻まれていた。
店の中央に置かれた古い対流式石油ストーブが、チリチリと空気を焦がす微かな音を立てて、オレンジ色の炎を不規則に揺らしている。天板に乗せられた古いホーローのやかんからは、絶え間なく白い湯気が立ち昇り、天井の低い木造建築の冷え切った空気をほんの少しだけ和らげていた。
美波は何も言わず、ロッキングチェアから音を立てずにそっと立ち上がった。
割烹着の袖を少しだけ捲り上げ、ストーブの上のやかんの持ち手を布巾で包んで持ち上げる。急須の蓋を開け、新しい熱湯を静かに注ぎ込んだ。茶葉が開く微かな音とともに、ほうじ茶の香ばしく、どこか土の匂いを感じさせる深い香りが、湯気とともにふわりと立ち昇る。
少し濃いめに淹れた琥珀色の液体を二つの分厚い陶器の湯呑みに満たし、その一つを、幸一のすぐそばのマホガニーのカウンターに、音を立てずに静かに置いた。
立ち昇る熱い茶の香りが、幸一の乱れた呼吸のペースを落ち着かせるように、彼の鼻先を優しく撫でていく。
「……情けねえ」
やがて、長い時間をかけて激しい波を静めた幸一が、ドカジャンの分厚い袖口で乱暴に目元を拭いながら、ひどく掠れた、地の底から響くような声で呟いた。
「俺は、ずっと洋子の尻に敷かれているフリをして……本当は俺があいつを守ってやってるんだって、どこかでそう思い上がっていたんだ。俺が毎日汗水垂らして、油にまみれて必死に働いて、金物屋の仕事を軌道に乗せて。あいつに金の苦労を掛けないようにしてやってるんだってな。……だが、違った。最初から最後まで、俺はあいつの手のひらの上で、あいつのついた優しくて不器用な嘘に、ずっと守られていただけだったんだ」
幸一の赤く充血した目は、カウンターの上に置かれたレシピボックスの無惨な焦げ跡を、もう『職人として修復すべきただの汚れ』としては見ていなかった。
それは、彼が気づかないところで妻が流した冷や汗であり、彼の夢を繋ぎ止めるために彼女が負った、身を切るような自己犠牲の証だった。
「この箱を作ってやった頃……」
幸一は、ほうじ茶の入った湯呑みを、機械油の染み付いたごつごつとした両手で包み込んだ。湯呑みから伝わる熱を確かめるように指先を微かに動かしながら、ストーブの炎を見つめ、遠い過去の記憶の糸を、手繰り寄せるように紡ぎ始めた。
「洋子はまだ、料理教室で一番人気の、若くて綺麗な先生だったんだ。生徒たちから慕われて、いつも糊の効いた真っ白なエプロンをつけて。あいつ自身も、自分の料理の道を究めるんだって、目をキラキラと輝かせていた」
幸一の視線の先には、何十年も前の、輝いていた妻の姿が明確な輪郭を持って浮かび上がっているのだろう。彼の声のトーンが、ほんの少しだけ柔らかく、そして果てしなく遠いものへと変わった。
「俺みたいな、毎日油まみれで、学歴も金もない不器用な職人のところに嫁いでくるなんて、洋子の親も周りの人間も、みんな大反対したさ。だが洋子は、『あなたの作るものは、不器用だけど真っ直ぐで、とても温かいから』って言って、俺の油だらけの手を、両手でしっかりと握って、俺についてきてくれた。……このレシピボックスはな、結納金もまともに用意できず、気の利いた指輪一つ買ってやれなかった俺が、せめてあいつの料理の役に立つようにって、何日も何日も、夜中まで作業場で鉋をかけて作った、プロポーズの代わりの贈り物だったんだよ」
美波は静かに丸椅子を引き寄せ、幸一の隣に腰を下ろして、その言葉にじっと耳を傾けた。
無骨な職人が紡ぐ言葉の端々、そして湯呑みを握る指先の微細な力の込め方から、妻への途方もなく深い愛情がひしひしと伝わってくる。
「あいつは、その不格好な木の箱を、高価な指輪以上に喜んでくれた。毎日毎日、綺麗な布で木目を磨いて、自分で書いた大切な手書きのレシピカードを、本当に嬉しそうにしまっていた。……なのに。俺の致命的な管理不足で火事になりかけたあの夜。洋子は自分の命よりも大事なこの箱を、迷うことなく火の海の中に投げ込んだんだ。自分の『料理の夢』が詰まったこの箱を犠牲にして……俺の『金物屋の夢』を守るためにな」
幸一の声が、再び微かに震え、途切れた。
何十年も前の、あの夜の出来事が、彼の脳裏でようやく完璧な形を持って再生されていた。
深夜の冷え切った作業場。修理を頼まれていた古いモーターの配線がショートし、バチバチという鋭い音とともに青白い火花が散った。機械の底に溜まっていた油から赤い炎が上がり、それが無造作に積まれていた油まみれのウエスの山に引火しかけていたあの瞬間。
夜食の冷めたおにぎりをお盆に乗せて入ってきた洋子が、その燃え上がる炎を見た瞬間。彼女は悲鳴を上げることもなく、お盆を放り出し、手に持っていたこの分厚い桜の木の箱を、燃え盛る火元に力いっぱい叩きつけ、上から体重をかけて押さえ込んだのだ。
「そして次の日から、あいつは料理教室をあっさりと辞めた。俺が止めるのも聞かずに、『これからは金物屋の女将さんとして、あなたを一番近くで支えるわ』って笑って……それから何十年も、文句一つ言わずに、毎日俺の油まみれの作業着を冷たい水で洗濯して、美味い飯を作って、ずっと俺のそばにいてくれた。俺は……俺はなんて馬鹿だったんだ。あいつがどんな思いでこの焦げた箱を台所の片隅に置き、どんな思いで俺を支え続けてくれていたか。俺は、あいつの人生を丸ごと奪っておいて……」
「幸一さんは、馬鹿なんかじゃありませんよ」
美波の静かで、どこまでも澄み切った優しい声が、幸一の深い自責の念をすっと包み込んだ。
美波は丸眼鏡のブリッジを人差し指でそっと押し上げ、ストーブの光を反射する琥珀色の瞳で幸一を真っ直ぐに見つめた。
「洋子さんは、ご自分の夢を犠牲にして奪われたんじゃないと思います。……洋子さんにとって、幸一さんが無事に夢を叶えて、毎日元気に、誇りを持って金物屋の仕事をしている姿を見ることが、何よりの『新しい夢』になったんですよ」
美波は、レシピボックスの飴色に輝く美しい木肌を、自分の指先でそっと撫でた。
「だから、料理教室を辞めることも、この一番大切な箱を焦がしてしまったことも、洋子さんの中では後悔なんかじゃありません。幸一さんを深く愛しているからこそ選んだ、誰にも恥じることのない、誇り高い決断だったはずです」
幸一は、美波の言葉を噛み締めるように、深く、長く、肺の底から息を吐き出した。
彼のごつごつとした無骨な手が、レシピボックスの黒く炭化した表面を、今度は汚れとして忌み嫌うのではなく、慈しむように、優しく、優しく撫でた。ワニの鱗のようにひび割れた炭の感触が、彼の指先に妻の不器用な愛情の深さを伝えてくる。
「……美波。お前の言う通りだ」
幸一の顔から、先ほどまでの頑固な怒りと焦燥感は完全に消え去り、そこには一人の妻を心の底から愛する、穏やかで思慮深い夫の顔だけがあった。
「この焦げ跡は、汚れや失敗の痕なんかじゃない。俺たち夫婦が、一緒に支え合って生きてきた、何よりの証だ。これを鉋で綺麗に削り落として、なかったことにするなんて……そんな薄情な真似は、俺にはできねえ。洋子のついた優しい嘘を、俺は一生、この焦げ跡ごと抱きしめて生きていくよ」
「ええ。それがいいと思います」
美波は目尻を緩め、冬の陽だまりのような温かい笑みを浮かべた。
しかし、幸一はレシピボックスを見つめたまま、少しだけ困ったように太い眉を下げ、太い指で顎を擦った。
「だが……今年の正月のサプライズとして、こいつを綺麗にしてやりたいって気持ちに変わりはないんだ。ただ元の木目が出るまで削り直すのがダメなら、職人として、俺はどうやってこの箱を『修復』してやればいい? 炭化した木材の繊維はひどく脆い。このまま使い続ければ、いずれポロポロと崩れて、箱そのものが壊れちまうかもしれない」
幸一の切実な職人としての悩みに、美波は少しだけ視線を宙に泳がせ、やがてポンと軽く手を打った。
「それなら、古物の世界でよく使われる『拭き漆』の技法を応用してみてはどうでしょうか?」
「拭き漆、だと?」
「はい。焦げていない綺麗な飴色の部分は、木工用の専用オイルと蜜蝋で丁寧に磨き上げて、何十年分の艶をさらに引き立ててあげるんです。そして、問題の『焦げ跡』の部分には……削り落とすんじゃなくて、上質な生漆を、何度も何度も塗り重ねて、炭化した繊維の奥深くまで完全に浸透させるんですよ」
美波は細い指先で、ひび割れた焦げ跡の複雑な輪郭をそっとなぞった。
「漆というのは、ただ表面を覆うだけの塗料じゃありません。空気中の水分と反応して重合し、木材の繊維と結びついて、信じられないくらい強固に硬化する自然の接着剤なんです。炭化した脆い部分に漆をたっぷりと吸わせて硬化させれば、これ以上繊維が崩れることは絶対になくなります。そして、生漆を塗っては拭き取り、乾かしてはまた塗る……という工程を何度も繰り返して表面を磨き上げれば、焦げ跡はただの炭じゃなく、まるで黒曜石や大理石みたいな、深くて美しい艶を持った模様に生まれ変わるはずですよ」
美波は幸一の目を見つめ、一つ、小さく頷いた。
「傷をなかったことに隠すんじゃなくて、傷の歴史そのものを愛して、芸術品みたいに昇華させるんです。……それが、この箱が歩んできた時間を肯定する、一番の修復方法じゃないでしょうか。幸一さんの技術と根気があれば、絶対にできますよ」
その提案を聞いた瞬間、幸一の目に、職人としての鋭い光と、夫としての深い情熱の炎がパッと燃え上がった。
彼は息を吸い込み、太い首を縦に強く振った。
「……なるほど。傷をなかったことにするんじゃなく、傷ごと強く、美しく守り抜く、か。……できる。俺の腕なら、絶対にやってみせる」
幸一は勢いよく立ち上がり、丸椅子がガタッと音を立てて後ろに下がった。彼はレシピボックスを再び深い藍色の布で、今度は自分の赤ん坊を抱きかかえるように大切に包み込んだ。
そして、カウンターの向こう側にいる美波に向かって深く、直角に頭を下げた。
「美波。俺は今日、お前の店に来て本当に良かった。……もしお前の目利きがなければ、俺は洋子の想いを、ただの木屑と一緒に削り捨てちまう、取り返しのつかない大馬鹿野郎になるところだった。本当に、ありがとう」
「いいえ。私は、モノが残していた事実をほんの少し翻訳しただけです。それをどう受け止めて、どう直すかは、幸一さんの洋子さんへの愛情の力ですからね」
美波は立ち上がり、ストーブの熱気越しに幸一を見送った。
引き戸を開けると、外はすっかり日が落ち、細かな粉雪がオレンジ色の街灯の光に照らされて、静かに舞い散っていた。幸一は布包みをドカジャンの懐にしっかりと抱え込み、「大晦日を楽しみにしててくれ」と低い声で言い残して、雪の降る路地裏へと力強い足取りで帰っていった。
引き戸が閉まり、時洲堂には再び、ストーブのチリチリという音と、ほうじ茶の静かな香りだけが残された。
***
そして、数日後の大晦日。
一年で最後の日を迎えた街は、底冷えする厳しい寒さの中にも、どこか穏やかで清々しい空気に満ちていた。
大通りでは年越しの買い出し客が白い息を吐きながら足早に行き交い、夜の帳が完全に下りる頃には、遠くの寺から、一年を締めくくる除夜の鐘の音が、ゴーン……ゴーン……と、冷たい風に乗って微かに聞こえ始めていた。
時洲堂の店内は、年代物の石油ストーブがフル稼働し、ポカポカと暖かな空気に満たされていた。
カウンターの奥では、美波が分厚い羊毛のショールを羽織りながら、古い手回しのアンティークラジオから流れる年末特番のオーケストラの調べに、静かに耳を傾けている。
一年が終わる。迷子になった様々なモノたちと向き合い続けた、静かで、途方もなく優しい一年が。
――ガラッ!
「美波ちゃん! 起きてる!? 年越しそば、持ってきたわよー!」
引き戸が勢いよく開き、冷たい夜気と共に、底抜けに明るい洋子の声が店内に響き渡った。
彼女は厚手のネイビーのダウンコートを着込み、両手に大きなお盆を大事そうに抱えている。お盆の上には、立派な本漆塗りのどんぶりが三つ乗っており、蓋の隙間からは、極上の鰹出汁の香りと、ほんのりとした柚子の香り、そして揚げたての大きな海老天の香ばしい油の匂いが一気に立ち昇り、美波の胃袋を強烈に刺激した。
「洋子さん! わあ、すっごくいい匂い! 毎年毎年、本当にありがとうございます!」
「いいのいいの。お父さんったら、年末だってのに作業場にこもりっきりで、さっきやっと帰ってきたのよ。美波ちゃん一人で味気ないカップ麺なんかですすってたら可哀想だと思ってね。ほら、どんぶりが熱いうちに食べましょ」
洋子がお盆からどんぶりをカウンターに並べ、美波が急いで三個の割り箸と取り皿を用意した、まさにその時だった。
――ガララッ。
今度は少し控えめな音を立てて、幸一が引き戸を開けて入ってきた。
彼はいつもの油まみれの作業着やドカジャンではなく、珍しく小綺麗なチャコールグレーのセーターを着込み、肩に積まった雪を払いながら、少しだけ照れくさそうに、けれどどこか誇らしげな顔をして店の中央へと進み出た。
その手には、綺麗な越前和紙で丁寧に包まれた四角い箱が、両手でしっかりと抱えられている。
「あら、お父さん。どうしたの、そんな大事そうに箱なんか抱えて。早くしないとお蕎麦伸びちゃうわよ」
洋子がどんぶりの蓋を開けながら振り返ると、幸一は無言でカウンターに歩み寄った。
「……洋子。これ、お前にだ」
幸一は無骨な手を伸ばし、和紙の包みを洋子の目の前のカウンターに、すっと差し出した。
「え? 私に? なあにこれ、お歳暮の余り?」
「馬鹿野郎、違う。……開けてみろ」
幸一のひどく真面目で、低く落ち着いた声のトーンに、洋子は不思議そうに何度か瞬きをした。彼女は手を拭き、和紙の包みの結び目を丁寧に解いていった。
カサカサという和紙の擦れる音が響く。
そして、中から現れた『それ』を見た瞬間。
洋子の息が、ピタリと止まった。
「これ……嘘でしょ。私の……レシピボックス?」
それは間違いなく、洋子が何十年も台所の片隅で使い続けてきた、あの桜の木の箱だった。
しかし、その姿は以前の無惨に炭化したものとは全く違っていた。
焦げていなかった飴色の部分は、幸一の職人技によって極限まで磨き上げられ、蜜蝋の力でまるで高級なアンティーク家具のような、滑らかで奥深い光沢を放っている。
そして何より目を引くのは、あの黒くひび割れていた『焦げ跡』の部分だった。
ひび割れていた炭化した繊維の奥まで、生漆がたっぷりと染み込み、完全に硬化されていた。そして表面は幾度となく途方もない時間をかけて研磨され、まるで黒曜石や、あるいは星の瞬かない深い夜空のような、漆黒の美しい輝きを帯びていたのだ。
削り落として隠すのではなく。焦げた木材のひび割れ一つ一つが、漆の力によって見事にコーティングされ、箱全体に『力強く、美しい歴史の模様』としての新たな命を吹き込まれていた。光の当たる角度によって、炭のひび割れがまるで金継ぎの跡のように、独特の芸術的な陰影を作り出している。
「お父さん……これ、どうして……。焦げたところ、こんなに綺麗に……」
洋子は震える指先を伸ばし、漆黒に輝く焦げ跡をそっとなぞった。ツルツルとした、信じられないほど滑らかで、冷ややかな感触が指先に伝わる。
幸一は、照れ隠しに白髪交じりの頭を掻きながら、けれど真っ直ぐに洋子の目を見つめて言った。
「俺は……ずっと、お前が台所のコンロでうっかり焦がしたんだと思っていた。……だが、美波に見てもらって、本当の原因がわかったんだ」
「えっ……?」
洋子の肩が、ビクッと跳ねた。
「洋子。お前、何十年も前のあの夜。俺の作業場で火事になりかけた時、俺の夢を守るために、こいつを火の上に被せたんだな」
幸一のその言葉が落ちた瞬間。
洋子の大きく見開かれた目から、ぽろりと、真珠のような大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お前は、いつも俺の前で笑って、台所で嘘をついて……この箱についた傷を、自分一人で抱え込もうとしていた。……俺は、本当に鈍感で、甲斐性のない最低な亭主だ」
「そんなことない……! お父さんは、そんなことないわ……!」
洋子は首を横に振り、両手で顔を覆った。
「洋子、ありがとう。俺の金物屋を、俺の夢を守ってくれて。……俺は、お前がついたその優しい嘘を、なかったことになんか絶対にしない。この焦げ跡は、俺たち夫婦が一緒に生きてきた大事な勲章だ。だから、漆で固めて、世界で一番綺麗な箱に直してやったんだ」
幸一は、泣き崩れる洋子の肩を、油まみれの大きな温かい手でそっと、けれど力強く抱き寄せた。
「俺は、今までお前に何もしてやれなかったが……これからは、この箱に負けないくらい、俺がお前のことをピカピカに守ってやるからな」
「お父さん……っ、お父さん……っ!」
洋子は幸一の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。幸一のチャコールグレーのセーターに、彼女の涙が次々と染み込んでいく。
何十年も前に彼女がついた、夫を守るためのたった一つの愛らしい嘘。それが長い長い時を経て、夫の最高の職人技と深い愛情によって、こんなにも美しく、誇り高い宝物へと生まれ変わったのだ。
遠くの寺から、除夜の鐘の音が、ゴーン……と、静かに、そして厳かに響いている。
美波はカウンターの奥で、湯気の立つ年越しそばを見つめながら、目尻を緩ませ、穏やかで温かい笑顔を浮かべていた。
二人だけの世界に浸る三枝夫婦の邪魔をしないよう、美波は音を立てないようにロッキングチェアに深く身を沈め、ポシェットの中から古い革の手帳と、ミッドナイト・ブルーのインクが入った万年筆を取り出した。
手帳の分厚いページを、指先で静かにめくる。
そこには、今年一年、時洲堂を訪れた様々な『迷子になったモノ』たちの記録が、美波の几帳面な字で綴られている。
友達の笑顔を取り戻すために、健太が泥だらけになって探した、折れ曲がったゲームカード。
小百合が十五年間後悔し続け、ついにお迎えにいった、水濡れの跡が残る父親の詩集。
結月がパニックになりながら失くした、誰にも言えない秘密の恋の終わりを告げる手紙。
寡黙な職人・柴田が遺した、カフェの時間を動かす小さな黄金色の歯車。
十年間の犯罪者の冷たい嘘が詰まった、底なしに空っぽで、誰も愛していなかった革のトランク。
半世紀もの間、家族を想う母の哀しい嘘を蔵の中で守り続けていた、真っ黒に変色した銀のオルゴール。
そして、冬馬が自分の人生に覚悟のサインをした、親指の跡が深く削り取られた恩師の万年筆。
どのモノたちにも、決して言葉では語り尽くせない、不器用で、痛切で、そしてどこまでも温かい人間の想いが宿っていた。
美波は新しい真っ白なページを開き、万年筆のキャップを外した。微かに漂う酸化したインクの匂いを感じながら、静かに、一行ずつ文字を書き連ねていく。
『焦げ跡のレシピボックス。
モノは決して嘘をつかない。
物理的な痕跡は、時に隠されていた真実を暴き出すこともあるけれど、
その奥底に眠る、人が人を想う無償の愛の深さを、
誰よりも雄弁に証明してくれる。
傷を削り落として隠すのではなく、傷ごと愛して、共に生きていくこと。
遠い日の約束は、何十年という時を経て、
琥珀色の記憶の中で、最も美しい輝きを放ち始めた。』
万年筆の金色のペン先が紙を擦るカリカリという心地よい音が、遠くの除夜の鐘の音に重なっていく。
美波はペンを置き、インクが完全に乾くのを待ってから手帳を閉じた。
そして、まだ泣きながら笑い合っている三枝夫婦の方へ向き直り、わざと明るく、お茶目な声で呼びかけた。
「幸一さーん、洋子さーん! お蕎麦、伸びちゃいますよー! せっかくの立派な海老天がもったいないから、早く一緒に食べましょう!」
「ああっ、そうだった! ごめんね美波ちゃん、今食べるわ! ほらお父さん、泣いてないで!」
「誰が泣いてるってんだ。お前こそ顔がぐしゃぐしゃだぞ」
涙を拭いながらどんぶりに向かい、不器用に笑い合う二人を見て、美波は心からの明るい笑い声を上げた。
窓の外では、新しい年を迎える静かな雪が、街を白く染め上げている。
時洲堂にうず高く積まれた無数の古物たちも、まるでこの温かい奇跡を祝福するかのように、ストーブのオレンジ色の光を受けて静かに呼吸をしているようだった。
琥珀色の光に包まれた、路地裏の古物商。
時洲美波の静かで、どこまでも優しい『失せ物探し』の日常は、新しい年もまた、迷子になった誰かの記憶を解き明かすために続いていく。




