第六話『サイン』(後)
初冬の冷え切った時洲堂に、美波の言葉が静かに響き渡った。
「自分の人生に、サインを……していない」
冬馬は美波の言葉をかすれた声でなぞった。彼の喉仏が上下に動き、丸椅子の上の身体は硬直している。
美波はカウンターの上に置かれた万年筆のペン先を、白く細い指先でそっと弾いた。チッ、と硬く冷たい金属音が、ストーブの燃える音に混じって鳴る。
「万年筆のペン先というのは、使う人の筆圧やペンの角度に合わせて、先端の金属がほんの少しずつ摩耗していくようにできているんです。使い込めば使い込むほど、その人だけの書き味に育っていく」
「……」
「神田先生は、何年もこの万年筆を使っていたんですよね。ルーペで見ると、ペン先のイリジウム合金が、神田先生の書き癖に合わせてわずかに斜めに削れているのがわかります。……でも、それだけじゃありません」
美波は万年筆の黒いエボナイトの軸をくるくると回して外し、インクを吸入するための内部のコンバーターを露出させた。
金属とプラスチックの無機質な構造が、冬の薄い陽射しに晒される。
「ペン芯の細い溝にも、コンバーターの筒の内部にも、微小なインクの滓一つ、水分の染み一つ残っていません。……冬馬くん。神田先生がこの万年筆を譲ってくれてから今日のこの日まで、ただの一度も、これにインクを入れなかったんですよね」
冬馬は身をすくめ、小さく、ゆっくりと首を縦に振った。
「……はい。俺みたいな人間が、こんな立派なペンを使うなんて、おこがましい気がして。汚してしまうのが怖かったんです。だからずっと、ただのお守りとしてポケットの奥底に入れていただけでした」
「ええ、そうでしょうね」
美波は万年筆を元通りに組み立て直し、静かに冬馬を見つめた。
「インクを入れず、文字を書かない万年筆は、ただの金属とゴムの塊です。……本当は違ったんじゃないですか」
「違う……」
「この万年筆にインクを入れて、自分の字を書いてしまったら。ペン先が『神田先生の形』から、完全に『自分の形』に変わってしまう。……それが、怖かったんですよね」
冬馬の息が、ピタリと止まった。
瞬きすら忘れ、美波の顔を茫然と見つめ返している。
「先生の期待に応えられなかった自分。夢を諦めて、現実から逃げてしまった自分。……そんな自分が、この万年筆にインクを入れて『自分の人生』を書き始めたら、神田先生との約束が終わってしまう気がした。だから冬馬くんは、この万年筆の時間を、卒業式の日のままで凍結させたんだと思います」
「俺は……」
冬馬は両手を膝の上で固く握りしめた。水色の作業着のズボンに、強いシワが寄る。
顔を上げることもできず、床の古びた木目を見つめながら吐き出す。
「どうすればよかったんですか。……先生はあんなに期待してくれたのに。俺、頭も良くないし、要領も悪いから、起業の勉強なんて全然頭に入らなくて……ただ毎日、重い荷物を運ぶことしかできなかった。先生が癌だって知ってたら、もっと必死に無理して頑張ったのに。俺の人生は、全部、無駄な時間だったんです」
「本当に、そうでしょうか」
美波はロッキングチェアの微かなきしむ音を立てて、ゆっくりと立ち上がった。
そしてマホガニーのカウンターを回り込み、冬馬の正面に立つと、彼が膝の上で固く握りしめているその手を、両手で上からそっと包み込んだ。
美波の手は、冬の外気でひどく冷たかったが、そこには確かな人間の温もりがあった。
「えっ……時洲、さん……」
「冬馬くん。手を開いて、見せてください」
顔を上げた冬馬に、美波は穏やかな瞳で促した。
冬馬が戸惑いながらも手のひらを上に向けると、美波はその無骨な手を、指の腹でそっとなぞった。
「冬馬くんの手のひらには、硬いマメがいくつもできていますね。指先には、段ボールの端で切った細かな傷が無数にあるし、冬の乾燥と冷たい風で、ひび割れてガサガサに荒れています」
毎日重い荷物を抱え、雨の日も雪の日もトラックのハンドルを握り、団地の階段を駆け上がり、走り回ってきた『労働者の手』だった。
「この手は、人生を無駄にしてきた人間の手じゃありません。……立派に働いてきた大人の手です」
「でも……俺は社長になんてなれなかった。先生との約束を破った、ただの配達員です」
「配達員が、立派な大人じゃないなんて、誰が決めたんですか」
美波の声が、少しだけ熱を帯びた。
「さっき、洋子さんが来てくれましたよね。冬馬くんが配達の途中で、わざわざ私に温かいホットチョコレートを買ってきてくれた時。洋子さん、すごく嬉しそうに笑っていました。……この街の人たちはみんな、冬馬くんのことが大好きなんですよ」
「……」
「重いお米や水を、嫌な顔一つせず笑顔で運んでくれる冬馬くんを。お年寄りの荷物を、わざわざ玄関の奥まで運んでくれる冬馬くんを。……この街のみんなが頼りにして、『ありがとう』って思っています。それは、冬馬くんがこの五年間、決して逃げずに、泥臭く働き続けてきたから得られた、冬馬くんだけの『財産』じゃないですか」
ストーブの火が、オレンジ色の優しい光で二人の顔を照らしていた。
「神田先生は、『自分の人生の伝票には、自分で責任を持ってサインしろ』って言ったんですよね。自分が選んだ道で、自分の足で立ち、汗を流して生きていく。その覚悟を持てと、そう言いたかったんじゃないでしょうか」
美波の言葉が、冬馬の心に、温かいお湯のように染み込んでいく。
「冬馬くんが嘘をついてしまったのは、先生のことが大好きで、悲しませたくなかったからですよね。でも……死を前にした先生が見たいのは、見栄で塗り固められた嘘の社長の姿なんかじゃないはずです。不器用でも、泥臭くても、この街で人々に愛されながら、自分の足でしっかりと生きている本当の冬馬くんの姿なんじゃないでしょうか」
「本当の……俺」
冬馬の目から、再び涙が溢れ出した。
冬馬は自分のガサガサに荒れた両手を見つめた。
神田先生にもらった万年筆の刻印は、自分の罪悪感で削り落としてしまった。でも、この両手に刻まれたタコと傷跡は、自分が決して逃げずに働き続けてきたという、誰にも奪えない確かな生きた証なのだ。
「……時洲さん」
冬馬は腕で乱暴に涙を拭うと、赤く腫れた目で美波を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺……来週、先生が東京に来たら。本当のことを言います。嘘をついてごめんなさいって、土下座して謝ります。立派な社長にはなれなかったけど……でも、俺は今、この街で配達の仕事を誇りを持ってやってるんだって、ちゃんと伝えます」
「ええ。それがいいと思います」
美波はふわりと、冬の陽だまりのような優しい笑顔を浮かべた。
「でも、その前に……やらなきゃいけないことが、一つだけありますよね」
美波はカウンターの内側に戻ると、万年筆を手に取り、引き出しの奥から小さなガラス瓶を取り出した。
それは、深い海の色をしたミッドナイト・ブルーの万年筆用インクだった。
「冬馬くん。この万年筆の時間は、五年前の卒業式の日からずっと止まったままです。……今こそ、このペンにインクを通して、神田先生の時間を『冬馬くんの時間』で上書きしてあげる時なんじゃないでしょうか」
美波がインク瓶の蓋を開けると、つんと鼻を突くインク特有の酸化したような匂いが漂った。
「先生に会う前に、一本の手紙を書きましょう。これからの自分の覚悟を書いた、本当のサインを」
冬馬はカウンターの上の万年筆と、インク瓶をじっと見つめた。
この万年筆は、綺麗に飾っておくためのお守りではなく、自分の人生を切り拓くための、泥臭い道具なのだ。
「……はい。お願いします、時洲さん」
冬馬が深く頷くのを見て、美波は細い指先で万年筆のペン先を静かにインク瓶の底へと沈めた。
そして、吸入器をゆっくりと回す。
五年もの間、ただの一度も使われることのなかった乾いたペン芯が、ゴクリと微かな気泡の音を立ててインクを飲み込んでいく。
美波はインク瓶からペン先を引き上げ、柔らかい布で余分なインクを丁寧に拭き取った。そして、万年筆の軸をしっかりと締め直し、ペン先を上にして冬馬へと手渡した。
「さあ、冬馬くん」
冬馬は両手で、そのずっしりとしたエボナイトの軸を受け取った。
今までお守りとしてポケットの中で握りしめていた時とは違う、中に液体が満たされた筆記具としての確かな重みが、彼の手のひらに伝わってくる。
美波はカウンターの下から、上質なクリーム色の便箋と封筒を取り出し、冬馬の前に置いた。
「ここに座って書いてください。ゆっくりでいいですから」
冬馬は丸椅子に向き直り、右手に万年筆を構えた。
自然と、親指の腹が、キャップの側面の削り取られた『TOMA.S』のくぼみにピタリと収まる。
冬馬は深く息を吸い込み、少し震える手で、ペン先を便箋へと下ろした。
五年間の長い沈黙を破り、金色のニブが紙の表面に触れる。
――カリッ。
静かな店内に、硬質な金属が紙を擦る音が響いた。
最初は少し硬かった。神田先生の書き癖に合わせて削られていたイリジウムの先端が、わずかな抵抗と引っ掛かりを見せる。
しかし、一文字、また一文字と綴っていくうちに、ミッドナイト・ブルーのインクが潤沢にペン芯を伝い、摩擦を滑らかに中和していく。ペン先が、冬馬の手の動きを学習し、少しずつ、確実に『冬馬の形』へと馴染み始めていくのがわかった。
冬馬は、不格好な字で便箋に書き連ねていった。
社長にはなれなかったこと。夢から逃げてしまったこと。先生に失望されるのが怖くて、立派な大人になったふりをしてしまったこと。
そして――今の自分が、この街で人々に支えられながら、配達員としての仕事に誇りを持っていること。
彼の目から涙が滲んで、クリーム色の便箋に落ちた。ミッドナイト・ブルーのインクがわずかに滲み、文字の輪郭がぼやけたが、冬馬は書き直そうとはしなかった。
ストーブのチリチリという音と、万年筆が紙を走るカリカリという音だけが、小一時間ほど時洲堂の空気を満たし続けた。
やがて、最後の一行。
冬馬はひときわ強い筆圧でペンを走らせ、最後に自分の名前をしっかりとサインした。
書き終えた便箋を丁寧に折り畳み、封筒に入れる。
彼は深く、長い息を吐き出し、美波を振り返った。
「時洲さん。……書けました。俺の、人生の伝票です」
「お疲れ様でした。すごくいい顔になりましたね」
美波は丸眼鏡を押し上げ、微笑んで冬馬の顔を見つめた。
「ペン先、少しだけ冬馬くんの角度に馴染んできたみたいですね。これからは毎日、配達の記録でも日記でもいいから、少しずつインクを通してあげてください。そうすれば、この万年筆は完全に冬馬くんの相棒になりますから」
「はい。これからは毎日使います。……俺、今から郵便局の夜間窓口に行って、速達でこれを出してきます。先生が東京に来る前に、絶対に読んでもらいたいから」
冬馬は勢いよく立ち上がり、美波に向かって深くお辞儀をした。
「時洲さん、本当にありがとうございました。時洲さんがいなかったら、俺、一生嘘をついたまま、後悔して生きていくところでした」
「いいえ。冬馬くんが、自分の手でサインする覚悟を決めただけですよ。気をつけてくださいね、外は凍って滑りますから」
冬馬は「はいっ」と元気よく返事をすると、マフラーを巻き直し、時洲堂を飛び出していった。
引き戸が閉まり、再び静寂が戻った店内で、美波は空になったホットチョコレートのカップを見つめ、ふうっと温かい息を吐いた。
***
それから一週間後。
街が一年で最も華やぐ、クリスマスの日の夕暮れ。
時洲堂の引き戸が、カラン、コロンと涼やかな音を立てて開いた。
「ちわーっす。時洲さん、メリークリスマス」
外の冷気と共に入ってきたのは、水色の作業着姿の冬馬だった。一週間前の思い詰めたような顔は微塵もなく、冬の冷気で少し赤くなった鼻先が彼の健やかさを物語っていた。
「いらっしゃいませ、冬馬くん。……神田先生、東京にいらっしゃったんですか」
「はい。今日の昼間、駅まで迎えに行ってきました」
冬馬はカウンターの前に立つと、少し息を弾ませながら語り始めた。
「手紙、ちゃんと届いてました。先生、新幹線から降りてきて、作業着姿の俺を見るなり……何も言わずに、思い切り俺の頭を引っぱたいたんです。『バカ野郎、手紙で泣かせるな』って」
「ふふ。厳しい先生ですね」
「ええ。でも、そのあと先生、すごく優しく笑ってくれて。俺、昼休みの時間を使って、俺がいつも回ってる配達エリアを、先生と一緒にゆっくり歩いて案内したんです」
冬馬の声が、店内に温かく響く。
「配達先のおばあちゃんが『いつも重いものをありがとうね』ってミカンをくれたり、洋子さんが先生に『冬馬くんにはいつも助けられてるんですよ』って言ってくれたりして……。先生、それを見てずっと頷いてました。そして別れ際に、俺のこの手を取って、こう言ってくれたんです」
冬馬は、自分の無骨で荒れた両手を、ストーブの光に透かすように胸の前に掲げた。
「『社長にはなれなかったが、立派な手になったな。……いいサインだったぞ、冬馬。これで安心して逝ける』って」
冬馬の目が再びうっすらと赤く滲んだ。
彼は鼻をすすり、マフラーに顔を少し埋めるようにして照れ隠しをした。
「俺、あの万年筆で手紙を書いて、本当によかったです。先生の最期に、かっこ悪いけど、嘘のない自分の姿を見せることができたから。……全部、時洲さんのおかげです」
「私は、少しきっかけを作っただけですよ。それをどう受け止めて、どう行動するかは、冬馬くん自身が決めたことです」
美波は丸眼鏡のブリッジを押し上げ、冬馬に向かってふわりと微笑んだ。
冬馬は慌てて作業着のポケットを探り、小さな可愛らしいリボンのかかった紙袋を取り出した。
「あ、あの。これ、ほんの気持ちっていうか……クリスマスプレゼントです。駅前のケーキ屋で買った、焼き菓子の詰め合わせなんですけど。鑑定のお礼にって思って」
「えっ、私にですか。わあ、ありがとうございます、冬馬くん」
美波は紙袋を受け取り、中を覗き込んだ。
「すごく美味しそう。これ、後で幸一さんと洋子さんを呼んで、みんなで温かいお茶と一緒にいただきますね」
「えっ」
冬馬の動きが固まった。
「み、みんなで……ですか」
「はい。せっかくのクリスマスですもの。冬馬くんも仕事が終わったら一緒にどうですか。洋子さんがまた美味しいお惣菜を持ってきてくれるって言っていましたし」
微塵の邪心もない笑顔。
冬馬は心の中で血の涙を流しながらも、半ば諦めと共に口角を引き上げた。
「俺は夜の配達がまだ残ってるんで、遠慮しときます。皆で楽しんでください」
「そうですか。お仕事頑張ってくださいね。外、すごく冷えるから気をつけて」
「はい。じゃあ、また荷物届けに来ます」
冬馬は勢いよく引き戸を開け、冷たい冬の街へと駆けていった。
彼の胸ポケットの奥底では、ミッドナイト・ブルーの血液で満たされた一本の万年筆が、彼の新たな人生の道しるべとして、確かな重みを持って寄り添っていた。
引き戸が閉まり、時洲堂に再び穏やかな静寂が訪れる。
美波はストーブの火を少しだけ強くし、ロッキングチェアに深く腰掛けた。
そして、ポシェットから古い革の手帳と、愛用の万年筆を取り出す。
ページをめくり、新しい真っ白な空間にペン先を落とす。
美波は滑らかな手つきで、たった一行の短い言葉だけをそのページに書き記した。
『嘘をとかす、真夜中のインク』
万年筆のペン先が紙を擦る心地よい音が、冷え切った空気に小さく響く。
インクが乾くのを待ってから手帳を閉じ、美波はストーブの天板からやかんを下ろし、自分用のほうじ茶を淹れた。
窓の外では、細かな雪が風に舞い始めている。
冬の寒さはまだまだ厳しいが、この路地裏の小さな古物商には、凍りついた時間を溶かすのに十分な、確かな温もりが満ちていた。




