第六話『サイン』(中)
カウンターの奥、ロッキングチェアの上でタータンチェックの膝掛けにくるまった美波は、真っ直ぐで透明な視線を、目の前の青年へと静かに向けていた。
その眼差しに射抜かれた冬馬は、瞬きすら忘れたかのように、古びた丸椅子の上で完全に硬直していた。水色の作業着に包まれた彼の広い肩は微かにこわばり、首元に巻かれたチェック柄のマフラーの奥で、喉仏が大きく上下に動く。
ヒュッと、引き攣ったような乾いた音が漏れた。
微かに開いた口元が痙攣し、何かを言いかけようとしては、声帯が空気を逃すだけで、言葉にならずに喉の奥へと落ちていく。彼の目は焦点が定まらず、マホガニーのカウンターの木目と、美波の顔と、そして黒い万年筆の間を忙しなく、そしてひどく不安定に彷徨っていた。
「な、何か……抱え込んでるなんて……」
凍りついた空気を震わせて、数秒の長すぎる空白の後にようやく絞り出されたその声は、普段の彼からは想像もつかないほど、ひどく掠れ、ひび割れていた。
「俺はただ、神田先生に貰った万年筆を大事にしてきただけで……。俺が自分で自分の名前を削るなんて、そんな意味のわからないこと、するはずがないじゃないですか」
冬馬は、すがるような視線を美波に向けた。それは相手への怒りや反抗というよりも、自分自身が無意識のうちに犯していたかもしれない行為を、正面から直視することへの強烈な怯えと拒絶だった。彼が座る丸椅子の木製の脚が、体重の移動によってギシッと重く軋む。
恩師からの何よりの贈り物を、他ならぬ自分自身が破壊していると言われたのだ。彼の手は無意識のうちに、作業着の太もものあたりを強く握りしめ、生地に深いシワを刻んでいた。指の関節は血の気を失い、白く変色している。浅く、早い呼吸が繰り返され、彼の白い息がストーブの熱気の中に溶けていく。
しかし、美波は彼を言葉で追い詰めるような真似は一切しなかった。
ただ、大きな丸眼鏡の奥の瞳で、目の前の青年をじっと見つめ返している。そこに相手を非難するような色や、推理をひけらかすような傲慢さは微塵もない。冬馬の抱える見えない重圧ごと、その指先の震えごと、静かに受け止めようとする、底なしに穏やかで温かい眼差しだった。
「冬馬くん。落ち着いて、これを見てください」
美波は極めてゆっくりとした動作で、カウンターの上に置かれた万年筆のキャップ部分に触れた。冬馬にもよく見えるように、黒いエボナイトの軸を少しだけ手前に傾ける。
西側の高窓から差し込む冬の薄い陽射しと、ストーブのオレンジ色の明かりが、黒く艶やかなエボナイトの表面に複雑な陰影を作り出す。その光の反射の中で、本来なら金色のアルファベットが輝いているはずの『TOMA.S』の刻印部分だけが、鈍く沈んだ色をしていた。
「更衣室で誰かがヤスリや鋭利な刃物で削ったのだとしたら、傷跡には必ず、金属が金属を引っ掻いた直線的で鋭角な溝が残るはずです。でも、この刻印部分の摩耗は全く違う」
美波の白く細い指先が、その傷の縁をそっと示す。
「……まるで長年川底を転がって角が取れた小石みたいに、周囲の黒いエボナイトごと、非常になめらかな楕円形のくぼみを描いてすり減っているんです」
「楕円形の……くぼみ」
「そう。これは、硬い金属やヤスリで、数回のうちに無理やり削り取った痕じゃありません。もっとずっと柔らかくて、わずかな水分と油分を含んだもの……人間の『指の腹』が、何百回、何万回と執拗に同じ場所を摩擦し続けたことによって生じる、極めて自然で、ゆっくりとした摩耗の形です」
美波は万年筆の軸を両手で優しく包み込むように持ち上げ、冬馬の目の前へ、そっと置いた。
カウンターの上に置かれたままの、二つのテイクアウト用カップ。冬限定のホットチョコレートは、時間が経つにつれてすっかり熱を失い、表面には薄く硬い膜が張り始めていた。カップの縁にへばりついたマシュマロは半分溶けかかったまま形を崩し、その甘ったるいカカオの香りが、時洲堂の埃っぽい古紙の匂いと混ざり合い、ひどくアンバランスな空気を醸し出している。
「……信じられない、という顔をしていますね。では、いつものように、その万年筆を作業着の胸ポケットに入れてみてください」
「……」
冬馬は戸惑うように視線を泳がせながらも、巻いていたチェックのマフラーを少しだけ緩め、言われた通りにカウンターの上の万年筆を右手で受け取った。
エボナイトの独特のひんやりとした感触が指に触れる。彼はそれを、水色の作業着の左胸のポケットに深く差し込んだ。ジリッ、という微かな音を立てて、ジッパーを半分だけ上げる。毎日の配達中、彼が常にしているいつもの定位置だ。
「じゃあ今度は、配達のトラックを運転している合間に不安になった時や、一人で考え事をする時に、無意識にポケットの中のそれに触れる動作をやってみてください」
美波の静かな声に促され、冬馬はゴクリと唾を飲み込み、視線を自分の胸元へと落とした。
ゆっくりと、まるで自分の手ではない他人の腕を動かしているかのようなぎこちなさで、右手を胸元へと持ち上げる。
作業着のポケットのわずかな隙間に手を差し入れ、布地越しではなく、直接中にある万年筆の軸を外側から握り込む。
……その瞬間だった。
冬馬の肩が、目に見えない強い衝撃を受けたようにビクッと大きく跳ね上がった。
万年筆を握り込んだ右手。その親指の腹が、キャップの側面に刻まれた『TOMA.S』という金色の刻印の削れたくぼみに、吸い付くようにぴったりと収まっていたのだ。
わずかなズレも、違和感もない。
人間工学に基づいたグリップのように、彼自身の指の形に合わせて、他ならぬ彼自身が長い年月をかけて削り出した、完全な曲線。
「……あっ」
冬馬の口から、微かな声が漏れた。
ポケットに差し込んだままの彼の手首が、小刻みに震え始める。水色の作業着の胸元に、細かなシワが寄っていく。
美波が、静かに真実を告げる声で続ける。
「無意識の癖というのは、自分ではなかなか気づけないものなんです。……冬馬くんは、配達のトラックに乗っている時や、一人で不安に押しつぶされそうになった時。ポケットの中のその万年筆をギュッと握りしめて、親指でずっと、自分の名前の刻印を撫でるように強くこすり続けていたのではありませんか」
「俺が……自分で」
冬馬は震える手で万年筆をポケットから抜き出し、自分の右手と、艶やかな黒い万年筆を交互に見つめた。
彼の右手の親指の腹には、他の指にはない、わずかに硬くツルツルとした小さなタコのようなものができていた。日々の段ボールの開梱作業や、重い荷物を運ぶ時についた傷だと思い込んでいたそれは、長年、エボナイトという硬質ゴムと金属の刻印を、親指一つで摩擦し続けたことによる痕跡だった。
へたり込むように、冬馬は再び丸椅子に深く座り込んだ。
冷え切った外から吹きつける北風が、古い木造建築のガラス戸をガタガタとけたたましく鳴らす。その風の音すらも、今の彼には自分を責める声のように聞こえているのかもしれない。
「……どうして」
冬馬は深くうつむき、膝の上で万年筆を両手で強く握り締めながら、喉の奥から絞り出すような声で呟いた。
「どうして俺は、こんな……恩師からもらった大事な名前を、自分で消そうなんて」
「それは、冬馬くん自身が、その名前に『ふさわしくない』と、自分を責め続けているからです」
美波はロッキングチェアを小さく揺らした。ギシッ、という古い木の軋む音が鳴る。彼女は、冬馬の心の奥底に何重にも鍵をかけられていた扉を、静かに、優しくノックした。
「この万年筆のエボナイトの軸は、手の脂でとても綺麗に磨き込まれて、見事な艶が出ている。冬馬くんがこの万年筆そのものを、そして神田先生を深く尊敬し、大切にしていることは間違いない。……でも、名前の刻印だけが執拗に削り取られている。それはつまり、冬馬くんが『神田先生の誇りであるはずの自分自身』を、無意識に否定して、削り落とそうとしているということです」
「……」
「冬馬くん。……神田先生に、何か嘘をついているんじゃないですか」
その言葉が、最後の結び目をほどく引き金となった。
冬馬の丸めた背中が激しく震え、うつむいた顔から、透明な雫がぽたりと落ちた。
マホガニーのカウンターの乾いた木目に、大粒の涙が音を立ててこぼれ落ちる。ポタ、ポタと、色の濃い円形の染みが、硬い木肌の上にいくつも広がっていく。
いつも底抜けに明るく、大きな声で挨拶をし、時洲堂の埃っぽい空気をひまわりのようにパッと明るくしてくれていた青年の、初めて見せる弱々しく、限りなく脆い姿だった。
「……時洲さんの言う通りです。俺……ずっと、先生に嘘をついてたんです」
冬馬は手の甲で雑に涙を拭い、赤くなった目元を隠すようにしながら、ぽつりぽつりと重い口を開いた。
「俺、高校を卒業して配送の仕事に就いた時、先生と約束したんです。『いつか絶対に独立して、自分の運送会社を立ち上げてみせます。立派な社長になって、先生に恩返しに行きます』って」
「はい」
「最初の数年は、本当に必死に働きました。遊びにも行かず、給料を切り詰めて貯金もして、大型トラックの免許も取って。……でも、現実はそんなに甘くなかった。個人で独立するための資金なんて到底貯まらないし、毎日の過酷な配達ノルマに追われて、ただ食べて寝るためだけに生きることで精一杯になっていって。……気づけば俺は、下請けのしがない配達員として、毎日同じルートを回るだけの生活に落ち着いてしまっていました。いや、落ち着いてしまったんじゃない……俺が、夢を追う苦しさから逃げたんです」
冬馬の言葉には、夢を諦め、現実に摩耗していく若者の挫折が滲んでいた。
決して今の配達の仕事が悪いわけではない。冬馬は毎日真面目に働き、重い荷物を運び、冷たい雨の日も雪の日もハンドルを握り、洋子たち街の人々にも愛され、間違いなく社会に必要とされている。しかし、彼の中にある神田先生と約束した夢という理想が高すぎたがゆえに、彼は現在の等身大の自分を、どうしても許すことができなかったのだ。
「先生は、毎年欠かさず俺に年賀状や手紙を送ってくれました。『元気にしているか』『仕事は順調か』って。……俺、本当のことが言えなくて。『順調です。もうすぐ自分の会社を持てそうです』なんて見栄を張って、何年も何年も、嘘の返事を書き続けてしまったんです。そのうち嘘に嘘を重ねて、『ついに独立しました。今は従業員も雇って、社長として頑張っています』なんて、最低な嘘までついて……」
薄暗いアパートの部屋で、決してこの万年筆を使うことはなく、安いボールペンを握りしめて見栄を張った嘘の言葉をハガキに書き込む冬馬の姿が、美波の脳裏にありありと浮かんだ。
「俺は最低です。立派な大人になんてなれなかった。……先生がくれたこの『TOMA.S』っていう刻印を見るたびに、俺を立派な教え子だと思い込んでいる先生の優しい顔が浮かんで……苦しくて、情けなくて。だから俺、無意識に……自分の名前を、消したかったんだと思います。俺は、この万年筆を持つ資格なんてないから」
冬馬は両手で万年筆を強く握りしめ、そのままうつむいて顔を伏せた。
更衣室の誰かが削ったのではない。
彼自身の罪悪感と、恩師への果てしない申し訳なさが、何万回という親指の摩擦となって、無意識のうちに己の名前を削り落としていたのだ。
美波は黙って、冬馬が言葉を絞り出すのを聞いていた。
カウンターに置かれたまま、すっかり冷めて表面に薄い膜が張ってしまったホットチョコレートの甘い香りが、冬馬の流す涙の匂いと混ざり合う。
モノは決して嘘をつかない。
削り取られた金色の刻印は、冬馬の弱さの証明であると同時に、彼がどれほど恩師を大切に思い、その期待に応えられなかった自分を罰し続けてきたかという、不器用で痛切な『誠実さ』の証明でもあった。
「でも、なぜ今になって、急にその傷に気づいて、恐れるようになったんですか」
美波の静かな問いかけに、冬馬は顔を上げた。
何年も前から少しずつ削っていたはずの傷だ。それなのに、昨日今日になって突然恐怖を抱いたのには、何か引き金があるはずだった。
冬馬は赤く腫れた目を伏せ、震える手で作業着の内ポケットから、一枚のハガキを取り出した。
分厚い和紙で作られたそのハガキは、届いてからわずか数日の間に何度も何度も、それこそ擦り切れるほど読み返されたのだろう。四隅の端は少し毛羽立ち、全体が冬馬の手の形に合わせて微かに湾曲してしまっていた。
「……三日前に、先生からこれが届いたんです」
美波が受け取ったそのハガキは、丁寧な達筆で書かれた冬の寒中見舞いだった。
しかし、その文面には、冬馬を深い底へと突き落とす事実が記されていた。
『冬馬へ。
突然の知らせで驚かせてすまないが、実は先日、
私が末期の癌であることが分かった。
もう、あまり長くは生きられないそうだ。
だから、動けるうちに一度そっちへ行って、お前が立ち上げたという会社を、
お前が立派に社長として働く姿を、最後に見に行きたいと思っている。
来週のクリスマスに、東京へ行くよ。楽しみにしている。』
「末期の……癌」
美波はハガキの文面を見つめ、静かに息を吐いた。
「俺……どうしたらいいのか、分からなくて」
冬馬の声は震えていた。
彼は前髪をくしゃりと掴み、呼吸を荒くした。
「来週、先生が来る。俺の『嘘の会社』を見に。……でも、そんなものどこにもない。俺はただの下請けの配達員で、社長どころか、貯金だってまともにない。……先生は、俺が立派になったと信じたまま、死のうとしている。俺の最低な嘘のせいで……先生の最期の願いを、めちゃくちゃにしてしまうんです」
冬馬は両手で頭を抱えるようにして、カウンターに突っ伏した。
「本当のことを言えばいいのか……でも、死を前にした先生にどうして言えるんですか。いっそ、俺が事故にでも遭って消えてしまえばいい。この名前ごと、最初から存在しなかったことになればいいのにって……そう思ったら、急にこの万年筆の削れた名前が、恐ろしくなったんです。俺自身が、消えかけてるみたいで」
恩師の死の宣告と、自分のついた嘘が暴かれるタイムリミット。
それが、冬馬の無意識の罪悪感を限界まで増幅させ、『名前が削り取られている』という恐怖へと彼を駆り立てた真実だったのだ。
時洲堂の店内は、ストーブの音すら遠く感じるほどの、重く苦しい沈黙に包まれた。
窓の外では、冷たい北風が吹き荒れ、古いすりガラスをガタガタと鳴らしている。
美波はカウンターの上に置かれた冬馬の万年筆を、静かに見つめた。
黒く艶やかなエボナイト。削り取られた金色の『TOMA.S』の文字。
恩師が道しるべにしろと贈ったその万年筆は、今、皮肉にも冬馬を最も深い暗闇へと迷い込ませている。
美波は小さく息を吸い込むと、万年筆を両手で丁寧に持ち上げ、ゆっくりと、そのキャップを回して外した。
キュル、キュルという、エボナイトのネジ山が擦れる静かで硬質な音が響く。
冬馬が『もったいなくて一度も使っていない』と言っていた通り、キャップの中からは、インクの汚れ一つない、眩いほどに美しい金色のペン先が姿を現した。長年暗闇に閉じ込められていたその金属が、外の空気に触れ、ストーブのオレンジ色の光を反射してチカチカと輝く。
美波の琥珀色の瞳が、その真新しいペン先を捉えた。
「冬馬くん」
美波の声は、真っ直ぐで透明な響きを持っていた。
「冬馬くんはさっき、『自分は立派な大人になれなかった最低の嘘つきだ』と言いました」
「……はい」
「でも、この万年筆は……そんなこと、一言も言ってないですよ」
冬馬が顔を上げた。
美波は外した万年筆のキャップを傍らに置き、インクの汚れ一つない美しいペン先を、冬馬へと静かに示してみせた。
「冬馬くん。神田先生がこの万年筆を贈ってくれた時、なんと言って渡したか、もう一度思い出してみてください」
「えっと……。『自分の人生の伝票には、誰のせいにもせず、自分で責任を持ってサインしろ。これが道しるべだ』って……」
「そう。先生は『立派な社長になれ』なんて、一言も言っていない。……自分の人生の選択に、自分自身で責任を持てと言ったんです」
美波は万年筆を握る手に、きゅっと力を込めた。
「冬馬くん。痕跡は、決して嘘をつかない。この万年筆が語っているのは、冬馬くんが『嘘つき』だということじゃない。……冬馬くんがまだ、たったの一度も『自分の人生にサインをしていない』という事実です」
初冬の冷え切った時洲堂に、美波の言葉が静かに響き渡った。




