第六話『サイン』(前)
カレンダーが最後の一枚に変わり、十二月も下旬に差し掛かると、北国から流れ込んできた寒波が、街全体を冷凍庫の中に閉じ込めたかのように冷やし切っていた。
大通りに出れば、クリスマスを目前に控えたイルミネーションが人工的な光を瞬かせ、人々が足早に行き交っている。しかし、そこから一本外れた下町の路地裏に佇む古物商『時洲堂』の周辺には、そうした世間の空気は一切届かず、ただ身を切るような北風だけが低い音を立てて吹き抜けていた。
戦前から残る古い木造建築である時洲堂は、気密性が皆無である。
引き戸のわずかな隙間から容赦なく入り込む冷気は、板張りの床を這うように広がり、足の芯から体温を奪っていく。
店主である時洲美波は、赤い厚手のウールのカーディガンを着込み、さらにその上から羊毛のショールをすっぽりと被って、カウンターの奥にあるロッキングチェアの上でだるまのように丸くなっていた。
「……さむい」
美波は大きな丸眼鏡をわずかにずり落ちさせながら、小さな白い息を吐き出した。
店の中心には年代物の対流式石油ストーブが置かれ、チリチリとオレンジ色の炎を上げている。天板に乗せられたホーローのやかんからは白い湯気が勢いよく噴き出しているが、それでもこの古い建物の底冷えを完全に払うには至っていない。
美波が両手で温かいほうじ茶の入ったマグカップを包み込み、かじかんだ指先を温めていた、その時だった。
――カランコロン、カランコロン。
引き戸が勢いよく開き、真鍮のベルがけたたましく鳴った。
「美波ちゃん、生きてる。まったく、相変わらずこの店は外より寒いんじゃないの」
外の冷たい空気と一緒に、ひときわ明るく快活な声が店内に飛び込んできた。
近所で金物屋を営んでいる、三枝洋子だ。さばさばとした性格の彼女は、寒さなど気にも留めない様子で店の中央までズカズカと入ってくる。
「洋子さん、いらっしゃいませ。ほんと、今日は特別冷えますね」
「冷えるなんてもんじゃないわよ。ほら、お父さん、早く戸を閉めて。美波ちゃんが凍えちゃうでしょ」
洋子が後ろを振り返って声をかけると、引き戸の隙間から無言で大きな影が入り込んできた。
洋子の夫である、三枝幸一だ。
彼は洋子とは対照的に寡黙で、頑固な職人気質を絵に描いたような男だった。幸一は「……おう」とだけ短く唸ると、引き戸をピシャリと閉めた。そして、戸が閉まる時の微かな引っ掛かりが気になったのか、無駄に器用な手つきで蝶番のネジを指の腹で数回擦り、調整し始めた。
「ほら美波ちゃん、これ。夕飯の足しにしなさい」
洋子がカウンターにドンと置いたのは、大きな保温タッパーだった。
蓋を開けると、醤油と出汁、微かに生姜の効いた甘辛い香りが店内にふわりと広がり、美波のお腹がぐぅと小さく鳴った。中には、艶々に照り輝く豚の角煮と、飴色に染まった大根が詰まっている。
「わあ……。すごく美味しそう。洋子さんのご飯、いつも本当に楽しみで。ありがとうございます」
「いいのよ。美波ちゃん、いつもお昼ご飯を適当に済ませちゃってるでしょ。しっかり栄養を摂らないと、冬を乗り切れないわよ」
美波が頬を緩ませていると、戸の調整を終えた幸一がのっそりと近づいてきた。
彼はタッパーの中身と、ショールにくるまっている美波を交互に見比べると、ぶっきらぼうに一言だけ放った。
「ちゃんと食え。痩せすぎだ」
「もう、幸一さんったら。私、これでも結構食べる方なんですよ」
「食が細い。肉を食え」
美波もなかなかに頑固なところがあるため、時折この不器用な職人親父とは意地を張ってぶつかることもある。しかし、幸一の言葉の裏にある深い愛情は、美波にも痛いほど伝わっていた。
和やかな空気に包まれていた時のことだった。
――ガララッ。
今度は、先ほどの洋子以上の勢いで、引き戸が開け放たれた。
「ちわーっす。時洲さん、こんにちはっす」
嵐のように飛び込んできたのは、この界隈を担当している宅配便の配達員、冬馬だった。
いつもの見慣れた水色の作業着姿だが、今日はなぜか首元に少しだけお洒落なチェック柄のマフラーを巻き、前髪も心なしかいつもより念入りにセットされている。そして彼の手には、荷物ではなく、駅前にあるカフェチェーンのテイクアウト用カップが、大事そうに二つ握られていた。
「冬馬くん。お疲れ様です。今日は何のお荷物の配達ですか」
「あ、いえ。今日はちょうど休憩時間で……これ、駅前のカフェで冬限定の『濃厚ホットチョコレート・マシュマロ乗せ』が売ってたんで、時洲さんに差し入れっす。ほら、外寒いし、甘くて温かいもの飲んだら温まるかなって思って」
冬馬はマフラーに顔を少し埋めるようにしながら、勢いよくカップを一つ、美波の前に差し出した。
実のところ、冬馬は出会った頃からずっと美波に対して密かに惹かれている。古物に対する真摯な姿勢、普段の少し抜けたところのあるあどけなさ、そして時折見せる静かな横顔。そのすべてに惹かれていたのだ。
今日のこの差し入れも、あわよくば二人きりで甘いものを飲みながら……という、彼なりの不器用なアピールのつもりだった。
しかし、当の美波は、冬馬のその熱量には気づいていない。
「わあ、ありがとうございます。ちょうど甘いものが欲しかったんです」
美波が無防備に喜んでいる姿を見て、長年の勘で冬馬の不器用な心境にとうの昔から気づいていた洋子は、口元を隠して笑い、幸一の腕をガシッと掴んだ。
「あらあら。じゃあ私たちはもう帰るわね。お父さん、お邪魔虫は退散よ。若者の邪魔しちゃ野暮でしょ」
「……ん? おう、そうだな」
何が何やらわかっていない様子の幸一だったが、洋子に引っ張られ、そのまま時洲堂を後にしていった。
パタン、と引き戸が閉まり、店内には美波と冬馬の二人きりになる。
冬馬は内心で深く安堵の息を吐いた。
「ふふ。三枝さん夫婦、本当に仲がいいですよね。幸一さん、なんだかんだで洋子さんに逆らえないみたいですし」
美波は丸眼鏡を押し上げながら、ストーブの上のやかんを少しずらし、冬馬から受け取ったホットチョコレートのカップに両手を添えた。
ふわっと、カカオの濃厚な香りとマシュマロの甘さが広がり、美波の目元がゆっくりと緩む。
「これ、すごく美味しいし体温まります。冬馬くん、わざわざありがとうございます。はい、これお代です」
「えっ。い、いや、お代なんていいっすよ。俺からの差し入れですから」
「だめですよ。配達の合間にわざわざ並んで買ってきてくれたんですよね。ちゃんと受け取ってください」
美波がカウンターの上にきっちりと小銭を置くのを見て、冬馬の肩が少しだけ落ちた。
こういう律儀で真面目なところも美波の魅力なのだが、どうにも彼女との距離を、これ以上縮めるきっかけが掴めないのだ。
冬馬は自分の分のカップを持ち、カウンターの端にある古い丸椅子に、腰を下ろした。
「……時洲さん。今日は、荷物のお届けじゃないんです」
ふと、冬馬の声からいつもの元気な張りが消え、ひどく静かなトーンに変わった。
その声の響きに、美波もマグカップを置き、彼の方へと向き直った。
「どうしたんですか」
「実は……時洲さんに、調べてほしいものがあって来たんです。俺個人の、依頼として」
冬馬はそう言うと、作業着の胸ポケットのジッパーを慎重に下ろし、中から一本の『万年筆』を取り出して、カウンターの上に静かに置いた。
それは、一見して相当な年代物であることがわかる、黒い万年筆だった。
軸の素材はプラスチックではなく、独特の艶と温かみを持つエボナイトで作られている。キャップの天冠やクリップにはくすんだ金色の細工が施されており、その重厚な佇まいは、確かな持ち主の歴史を感じさせるものだった。
「前に言っていた万年筆ですね。……冬馬くん、あれから結局、インクは入れていないんですか」
「はい。やっぱり、もったいなくて使えなくて……。でも、これは……俺の人生の、お守りみたいなものなんです」
冬馬は万年筆のクリップの端を親指の腹でなぞりながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「俺、高校時代は少し荒れてたっていうか……別に不良だったわけじゃないんですけど、将来の夢もなくて、ただ無気力に毎日をやり過ごしてたんです。学校もサボりがちで、親とも喧嘩ばかりして。……そんな時、俺を見捨てずに、ずっと正面から向き合ってくれたのが、当時の担任だった神田先生でした」
冬馬の視線は、ストーブの炎を見つめながら遠い過去へと向かっていた。
「神田先生は、俺がバイクや自転車で当てもなく遠くまで走るのが好きだって知って、『お前には、目的地に向かって真っ直ぐに進む根気がある。誰かに何かを届ける仕事が向いているんじゃないか』って、今の配送業の道を勧めてくれたんです。……そして、卒業式の日に。俺みたいな出来の悪い生徒に、先生がご自身で長年使っていたこの万年筆を譲ってくれました」
『自分の人生の伝票には、誰のせいにもせず、自分で責任を持ってサインしろ。この万年筆が、お前のこれからの道しるべだ』
恩師から贈られたその言葉は、無気力だった冬馬の心に深く刺さった。
それ以来、冬馬はこの万年筆を、決して手放すことなく作業着の胸ポケットの奥底にしまい込み、毎日の配達の原動力として大切に持ち歩き続けていたのだ。
「すごく素敵な先生に出会えたんですね。この万年筆の艶も、冬馬くんがどれだけこれを大切にしてきたかを物語っていますよ」
「……でも、違うんです。俺が時洲さんに調べてほしいのは、そのことじゃなくて」
冬馬は下唇を噛み締め、万年筆のキャップの中央部分を、微かに震える指先で指し示した。
「ここです。ここを、見てください」
美波は万年筆を手に取り、冬馬が指差したキャップの側面へ目を落とした。
そこには本来、持ち主の名前を刻むためのわずかなスペースが設けられている。目を凝らすと、微かに『TOMA. S』という金色のアルファベットの刻印が残っているのが見えた。
しかし、その刻印は――異様なほどに、削り取られていたのだ。
「名前の刻印が、消えかかってますね」
「そうなんです。最初は、ただの擦り傷か、経年劣化だと思ってました。でも、日が経つにつれて、その傷はどんどん深くなって、金色の文字が確実に『削り取られて』いってるんです。……まるで、誰かが俺の名前を、執拗に消し去ろうとしてるみたいに」
冬馬の呼吸が浅くなった。
「時洲さん。俺、誰かに恨まれてるんでしょうか。営業所の更衣室で着替える時や、少し作業着から目を離した隙に、誰かがわざとヤスリか何かで削ってるんじゃないかって……そう考えると、気味が悪くて。神田先生がくれた大事なお守りを、これ以上傷つけられたくないんです。どうか、誰がこんな陰湿な真似をしたのか、調べてくれませんか」
冬馬の願いを聞き届けた美波は、静かに頷き、ポシェットの中から愛用の銀のルーペを取り出した。
そして、大きな丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げる。それは彼女が、モノのルーツと人の心に寄り添うスイッチだった。
「冬馬くん。モノは、ご自身の過去を偽らないんです。この万年筆に刻まれた傷が、どんな理由でつけられたのか。……万年筆自身に、直接語ってもらいましょう」
美波はルーペを右目に当て、ストーブの明かりを頼りに、万年筆の摩耗した刻印部分へと焦点を合わせた。
琥珀色の瞳が、削り取られたエボナイトの表面と、金色の塗料の剥がれ具合を精密に見極めていく。
(……おかしい)
美波の中で、静かな違和感が波紋を広げた。
冬馬は『更衣室で誰かがヤスリで削っている』と疑っていた。もし他人がヤスリや刃物で削ろうとしたのなら、そこには必ず『直線的で鋭利な引っ掻き傷』が残るはずだ。
しかし、ルーペ越しに見えるその摩耗は、ヤスリの傷とは全く異なっていた。
傷口は滑らかで、曲線を描くようにすり減っている。
それはまるで、硬い道具で乱暴に削られたのではなく、何か『極めて柔らかいもの』によって、何千回、何万回と摩擦され続けた結果生じた、自然な摩耗の形だったのだ。
極めて柔らかいもの。そして、これほどまでに滑らかに万年筆の軸を削り取ることができるもの。
美波はルーペから目を離し、冬馬の顔を、そしてカウンターの上で固く握りしめられている彼の『両手』をじっと見つめた。
(まさか……。でも、痕跡は、その一つの答えしか示していない)
「……冬馬くん」
美波は万年筆を静かにマホガニーのカウンターに置き、冬馬に向かって、寄り添うような声で問いかけた。
「この万年筆の名前を削り取っているのは、営業所の人間でもなければ、冬馬くんを恨んでいる誰かでもないみたいですよ」
「えっ……。じゃあ、一体誰がこんなことを」
「冬馬くん自身です」
ストーブの火が、チリッと小さく爆ぜた。
冬馬は言葉を失い、喉をヒュッと鳴らした。
「……は? 俺が? な、何言ってるんですか時洲さん。俺が、神田先生からもらった大事な万年筆を、自分で傷つけるわけないじゃないですか」
「痕跡は嘘をつきません。この滑らかな摩耗は、冬馬くんの『親指の腹』が、長い時間をかけて無意識に金属とエボナイトの表面を磨き続けた結果です」
美波の琥珀色の瞳が、冬馬を真っ直ぐに見つめ返した。
「冬馬くんは、恩師の神田先生に対して……何か、抱え込んでいるものがあるのではないですか」
その瞬間、冬馬の肩がビクッと大きく跳ねた。
削り取られた名前。無意識の摩耗。
冬馬が神田先生に対して隠し続けているものとは何なのか。美波の静かな言葉が、青年が一人で抱え込んできた心の結び目を、今まさに優しく解きほぐそうとしていた。




