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廃管地下一階

 廃管を上にあがることはできなかった。上の階の床はおろか、天井にも手が届かない。ロープを投げても戻ってくるだけだ。人体模型の小腸がこんな形で折りたたまれてたね、とクロレラが笑った。仕方なく反対側に戻って下の階に向かう。


 いっそ廃管の下半分に下りてみるのはどうかとネオンは提案したが、「ふたが溶接されている」と、あっけなく却下された。仕方なく、下の階に向かってロープを下ろす。


「《廃管地下一階》だ。オレ一番乗りね」


 クロレラの言葉に、ゼロは肩をすくめてみせた。自分を基準に一階を決めるなんてガキだな。そんなつぶやきが、ゼロの胸の内にはしまわれている。


 下の階の住人はすぐそばにいたのか、怒りに満ちた主張をした。ロープを下りていったクロレラの「いてっ」という声と、下の階の住人の主張は管の中に何度もはね返り、結果的に何を言っているのかわからなくなった。


「痛い! 痛いって言ってるだろ。とんでもないクソジジイだ!」


 ネオンは上から身を乗り出して、下の階の様子を見た。クロレラの姿が見えない。どうやら下の階についたようだ。


「ねーさん、クロレラを助けなきゃ」


 マリモは即座にゼロを見たが、彼はロープの端をくくりつけるのに夢中だった。


「何やってんのさ!」


 何階も上からやってきたゼロは用意周到だ。そんなことしてる場合じゃないでしょう、とマリモが口を開きかけたときにはもう、ネオンが下へと向かっていた。


 ロープをつかんだ瞬間、ネオンは摩擦で手を切らないようにTシャツごしにロープをつかむと、一気に滑り降りた。


 クロレラの言うクソジジイは、高級そうな服に身を包んだ紳士だった。腹が前にぷっくりと出ており、白い髪は整髪量で固められていた。手にはステッキを持っていた。焦げ茶のスーツもごま塩ヒゲも、彼の上品さをアピールしている。


 それなのに、紳士はステッキでクロレラをぶちながら、「渡さんぞ」と吠えていた。


「待ってください!」


 弾みをつけて下の階に到着すると、ネオンの膝小僧が紳士の顔面に直撃した。紳士はあっという間に倒れてしまった。ぷっくりした腹の肉がぼよんと動くのに耐え切れず、サスペンダーが悲鳴をあげる。口の端からは泡があふれていた。


「ぎゃっ、ごめんなさい」


 とっさに抱き起こして謝ってみたものの、紳士は目覚めない。おろおろしているうち、マリモが下りてきた。


「あんたたち、何やったの」

「何も」

「何もしてなけりゃ、こんなことにゃならないでしょうよ」


 マリモがすっかり呆れていると、奥から不気味な笑い声が響いた。頬を紅潮させたステテコ姿のじいさんが、いそいそとやってきた。


「若いオネエチャンじゃあ」


 ステテコに腹巻姿のじいさんは、細い手足をぷるぷると震わせながら笑った。そのすだれ頭の放つ臭いが、紳士の整髪量の匂いとあいまって大変なことになった。


「オネエチャンがた、どこから来たんかの」


 顔中のしわがゆっくり伸び縮みしている。その癖、動きは軽やかだ。マリモはすでに、じいさんに両手をにぎられている。ネオンは油断も隙もないと唸ったが、マリモは手馴れたものだった。マリモは一瞬じいさんの手を大切そうに包み、やんわりと押し戻した。水商売をしていた頃に覚えたテクニックがこんなところで役に立つとは、と、豊満な胸の内でマリモは苦笑した。じいさんは喜んで「うほっ」とむせた。


 用心深いゼロが上から下りてくる頃には、じいさんはすっかりマリモの術中に落ちていた。マリモはしきりに「今のうちに次の階へ」と視線を送ったが、ネオンは理解できず、不思議そうに首をかしげるだけだった。クロレラに至っては、部屋の探検をしていて気付きもしない。


 マリモは何を言おうとしているのだろうとネオンが立ち上がると、足元でごつんと音がした。紳士を蹴ってしまったらしい。一回転して床に頭をぶつけた紳士にネオンがわたわたしていると、じいさんは呵呵大笑、いっそう上機嫌になった。


「マリモちゃん、わしゃぁなあ、そのジジイが嫌いだったんじゃぁ」

「あら、どうして?」


 紳士は追加の痛みで目が覚めたらしく、四つんばいのままうめいた。ネオンが手を差し伸べて仰向けに寝かせた。


 じいさんはマリモにすり寄っていた。今度は手でなく、肩をなでている。あしらいに長けた女はそれを止めずに、先を促した。


「金金とうるさいんじゃあ。遺産目当てで誘拐されたのじゃと思うとる」

「おじいさんも誘拐されたのかしら」


 クロレラがネオンにそっと耳打ちする。「ああやって客の財布具合を聞きだすのさ」クロレラは五連ピアスを引っぱりながら細い目を開き、老いらくの擬似恋愛の観察に余念がない。


「まさか! わしゃ酒池肉林のお誘いというパンフレットを見てここへ来たんじゃ。こんなジジイと一緒にされて参っとったとこじゃわ。しかもこのジジイ、わしを誘拐犯の一味だと言いよる。困ったもんじゃぁ」


 ──酒池肉林! そんなうまい話がある訳ないだろう、このクソジジイ!


 心とは裏腹に、マリモは眉を八の字にして、しなを作る。


「まあ、それは災難だったわね。きっと騙されたのよ。うまい話には裏があるって、昔から言うでしょう」


 紳士は天井を向いたまま、ジェントルにあるまじき緩んだ顔をしていた。口角にこびりついた白い泡がはじけるたび、ネオンは身体をのけぞらせた。

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