廃管一階
この世界のことなんて結局誰も知りやしないのさと、男は笑って息を吐いた。
女は鼻の頭に浮いた脂をしきりに気にしながらも、あたしはこの世を泳ぎぬく、と誓った。
少年は諦めを知っていたから、ただ脚をぶらぶらさせた。
背負う過去がないのは、少女だけだった。
***
じゃらじゃらと麻雀牌を混ぜながら、ゼロはくわえ煙草の灰を落とした。マリモは残り少ない点棒をマニキュアのついた人差し指でかきまぜ、クロレラはネオンの酒を飲んでまずそうに顔をしかめた。
安く上がって勝ち逃げするつもりがなかなかうまくいかない──ネオンは一人寝転んだまま、弧を描く天井を視線でなぞった。麻雀牌が万里の長城のように並ぶ卓上が目に入った。
再び天井へ視線を戻す。弧を描く天井は壁になり、壁は床になっていた。耳を床につけたまま床板を叩くと、あちら側で音が反響する気配がある。床板の奥で、弧の続きがどんな形になっているのかわからないが、床の下に空間があるらしいことは確かだ。
ネオンは部屋の形に気を取られて目を回す前に、雀卓から飛び出した。この部屋はトンネルのような形になっていると、四人の中で一番の古株のゼロが語るのを聞いたことがある。
壁が弧を描くのにくらべ、横は直線状だから、たしかに球状ではないだろう。横方向は歩いて十三分はかかる広さだ。恐らくゼロの見立てで間違いない。元々ゼロがいたのはずっと上の階だったというが、そこも似たような部屋だったそうだ。「何階下りても同じような部屋が延々と続いている」とゼロが吐き捨てたのを思い出して、ネオンは部屋が上下に連なる様子を想像した。
「ちょっと出て来ます」
ネオンがそう言うと、ゼロは右手で帽子を押さえたままわずかに目線を上げ、マリモは点棒を指でつまんで落とし、クロレラは童顔に似合わないピアスのついた舌を、べろんと出して見せた。痛そうだ。クロレラの大きな舌ピアスを見て、ネオンは目を丸くしながら鼻をひくひくと動かした。
「どこに行くのさ?」
「だから『ちょっと』ですよ」
「その『ちょっと』でどこに行くのか聞いてんのよ、お嬢ちゃん」
ゼロは無言で便所を見、マリモは慣れた手つきで牌を捨て、クロレラは「大海原に冒険しに行くんじゃないかな」と目を輝かせたが、ネオンの行き先はもっと漠然としていた。
「遠いトコですね」
管の端がどうなっているのか知りたいと三人に漏らすと、「やっぱり冒険だ」とクロレラははしゃいで、手前に並んだ牌を崩した。クロレラは負けていたから、わざとだろう。上の階からここまで下りてきた年長者二人の反応は悪く、ゼロは煙を吐き出してニヒルに鼻を鳴らし、マリモは髪をかきあげて、香水だか煙草だかわからないニオイを撒き散らかした。
「クソ、《廃管》なんぞに閉じ込めやがって」
クロレラが「ゼロがしゃべった。何日ぶりだろう?」と目を丸くして飛び上がると、その拍子に牌の山があっけなく崩れ去った。ゼロがしわがれ声をいらだたせたのがわかって、ネオンはうつむく。その一方でマリモは煙草を手にとり、いつも通り卓の端でとんとんと薬指を動かしていた。
「あたしらは隔離されたんだ。たとえその日に食うものがなくても、貧乏で借金だらけでも、今まで住んでたところが楽園だったのさ」
前の居住区が楽園だというのも自分たちが隔離されているというのも、ネオンには納得できなかった。今はただ、新しい居住区に移送されている最中なのだと、ネオンは信じている。でなければ何の仕事もしていない自分たちに食材が配られるわけがない。自分たちは選ばれて、新しい居住区に連れていかれるだけなのだ。ネオンは鼻息を荒くする。頭を大きく左右にふると、縮れた黒い髪がさらさらと揺れて風を起こした。
「じゃあ、マリモねーさんは、ここから『出られない』と思ってるのですか?」
待ち時間の長いゼロやマリモにとって、ここ……《廃管》での生活はすっかり日常と化していた。待ち時間は日がな一日どころか、もう一ヶ月は続いている。退屈を通りこして、時間という概念がなくなってしまったような気すらする。がらんどうの時間を埋めようにも娯楽がなく、たまたま置いてあった麻雀でもして時間を潰すより他にない。そうこうしているうちにここから出ることを諦めてしまう。ゼロやマリモは、自宅に戻る努力に飽きてしまったのに違いない。
「じゃあ、私たちが隔離されたのはなぜ?」
ネオンは素朴な疑問を投げる。彼女がこの《廃管》にやってきたのは、ある雨の夜だった。ゼロは連行と言い、マリモは隔離、クロレラは参加したと言った。当のネオンは「呼ばれた」のだと感じている。
ネオンをここに呼んだのは水玉模様のネクタイをしめた、市役所の男だった。クロレラはCD屋で今月の新譜を試聴をしていたところを誘われ、マリモはバーで仕事明けに一服していたところを無理矢理連れてこられたというから、考え方にばらつきがあるのも仕方がない。
ゼロとマリモはどちらもそこそこの年齢のはずだから、年齢が関係しているというわけでもないだろう。クロレラはネオンより、三つ年下だから十四だ。逆にマリモは三十を超えていそうだ。彼女は「女の歳は十七で止まるのよ」としか言わないが、それくらいの予想はできる。
「にーさん、ねーさん、なぜですか?」
年齢も性別もばらばらだ。ここに来た経路すらも違う。皆に共通することなど、ネオンには見つけられない。片言のようにも聞こえる発音で問うと、投げやりな答えが返ってくる。
「知るか」
「知るわけないじゃない」
付き合いも一ヶ月をこえると、ゼロとマリモのように息があうようになるらしい。ゼロは下りてくる途中で、マリモと合流したのだそうだ。クロレラは、チューイング・ガムでも噛むように頬を膨らませて「ネオンも僕も、知らないから知りたいんだよ」と屁理屈にも禅問答にも聞こえる台詞を吐いた。
「みんなが《廃管》に来た理由が、サッパリわからないのです」
ネオンの問いは至極もっともで、誰もが一度は考えた問いでもあった。
「そういうことはあたしらに聞かないで、このへんてこな部屋を作ったヤツに聞いてちょうだい」
マリモが赤いマニキュアのついた指先で点棒を弾きながらそう言うと、クロレラはそのあだ名の由来になった大きな泣きぼくろをなでた。その仕草は「もう泣きたいよ」ということなのかもしれない。麻雀中もしきりになでていた。
「ゼロは何階上から来ましたか?」
ゼロは黙ったまま、クロレラが崩した万里の長城から牌を引いた。待てども答えはなく、ただ牌だけがかちかち鳴った。突然「ツモ」とか「ロン」とか言いかねない。こういうときのゼロは怖い。
「さては覚えてないんだろ?」
クロレラが胸を張ってにやりと笑ったのを見て、マリモが代わりに答えた。
「ゼロはあたしより上から来たよ。あたしがいたのは、少なくとも十七つは上の階。十七までは数えたんだけどサ」
ネオンは「また十七だ」と心の中で驚いた。年齢を聞いたときと同じだ。マリモの人生に、十七以上の数字は存在しないのではないかと疑いたくなる。
「きっとマリモの本当の歳と同じくらい上からきたんだ」
ゼロは薄く笑ってマリモを一瞥した。クロレラは耳たぶにぶらさがった五連ピアスを親指で触ってにこにこしている。ピアスの重みで耳たぶが揺れていた。
「失礼なガキだね」
輪郭のくっきり描かれたマリモの唇が歪んだ。彼女はシャワーから上がると、即座にドレッサーの前に座り、化粧をはじめる。肌に液状ファンデーションをこってりと塗りたくる。眉を細い山型に整え、まぶたを黒く縁取り、唇に赤い口紅を乗せ、下唇を必ずぷっくりと描く。目尻にも同じ赤をほんのり乗せて、マスカラを塗る。そうして最後に、遠くの虫までおびきよせるような濃い匂いの香水をふりかけ、ようやく「できあがり」らしい。化粧ができあがったというよりも、マリモができあがったような感じだ。眉毛の生えた犬のような顔をした女はマリモではなく、赤沢絹子というのだそうだ。
「マリモねーさんは永遠の十七歳ですよ」
赤沢絹子さんはいくつかわからないけど、と言いかけてやめた。その選択は正しかった。マリモは「だからあんたのこと嫌いじゃないわ」と微笑みをネオンによこした。タバコの煙を吹きかけられたクロレラとは大違いだ。
廃管の部屋で、生活に困ることはない。バスルームもあれば、キッチンもドレッサーもある。食材やタバコなどの消耗品は、朝目覚めたら机の上に置いてある。誰かが届けているのだろうが、その正体は見たことがない。
「ご飯は、いつ来るのでしょう? 配達してくれる人がいるのかな」
「配達人はいない。降ってくる」
「降ってくる!? 一体どこから」
ネオンの声に無言で上を指差すと、ゼロは雀卓の上に牌で円を作って、円の真ん中に点棒を置いた。
「この部屋の断面図だ」
クロレラやマリモも、ずいと身を乗り出す。期せずして四人で雀卓を囲む格好になった。
「上半分が今いる部屋だ。下半分がどうなっているかは知らん」
ネオンは先ほどぐるりと見渡した天井の弧を思い出した。やはりこの部屋は円形なのだろう。
ゼロは最後の煙を吐き出して煙草をもみ消すと、さらにもう一つ、円を作って見せた。牌がアラビア数字の八の字になる。
「この部屋の下半分には恐らく、下の階用の食糧が置いてある」
「天井が開いて、ばらばら飯やらタバコが降ってくるって? 嘘くせえ」
クロレラは泣きぼくろを押さえた。もしかしたら泣きたいのかもしれないとネオンは思ったが、その理由にまでは思い至らなかった。
クロレラの言う通り、ゼロの話はたやすく信じられる内容ではない。
「信じる信じないはテメェの勝手だ」
ゼロがぎろりと鋭い眼光をクロレラへ向けたのを受けて、マリモがあわてて二人の間に入る。立ち上がって雀卓から離れたゼロは、ゆるやかなカーブを描く壁を思い切り殴った。わんわぁん、うわぁん。鉄製の壁に反響して、音が徐々に遠のいていく。
「やっぱりネオンの言う通り、端を見に行こう。端にたどり着けば、どうなってるのかわかるもの」
クロレラの言葉に反対する者は誰もいなかった。ゼロは帽子を投げ捨てて、白髪まじりの頭を見せ、再度煙草をくわえた。




