第二章 ~『神殿の聖女の立場』~
エミールとミアが部屋を出ていってから少しして、神殿について学ぶための本が届けられた。
エミールが王宮の者に頼んで用意してくれたものらしく、添えられた紙には、基礎から学ぶならこの本がよいと几帳面な字で書かれている。
アリアは椅子に腰を下ろし、分厚い革表紙の本を開く。
最初のページに記されていたのは、神殿の組織図だ。頂点に立つのは聖女で、その下に大神官長、大神官、神官長、神官と続く。
神官は各地の神殿に属し、治療や浄化、結界維持の補助を担う。
神官長は一つの神殿を束ね、大神官は複数の神殿を管轄する。そして大神官たちを束ねる存在が大神官長であり、聖女がその指名権を持つと記されていた。
(実質的に聖女が神殿の人事権を握っているのですね……)
アリアは指先で文字をなぞり、少しだけ目を伏せる。
これまで聖女は、神殿が推薦した候補の中から選ばれてきたという。セレーネもそうだった。大神官長が推し、神殿が聖女候補として認めた人物である。
だからこそ、神殿の権力者たちは自分たちに都合のよい者を推す。自分の立場を守るために、扱いやすい候補を立ててきたのだ。
アリアは本を閉じず、しばらくページを見つめていた。
もし自分が聖女になったなら、役職に相応しくない者を、そのまま置くことはしないだろう。肩書や家柄ではなく、役目を果たせるかどうかで判断する。
それは、神殿の権力者たちにとって都合が悪いはずだ。
しかも、アリアを推薦しているのは神殿ではなく王家である。組織外の権力が介入してくることも望ましくはないはずだ。
(もしかしたら、私は邪魔な存在なのかもしれませんね)
アリアは自分の立場を再認識しながら、窓の外に目を向ける。
夕日は、まだ完全には落ちきっておらず、王宮の白い壁が、薄い橙色に染まっている。
(少しだけ歩いてみましょうか)
栞を挟み、アリアは立ち上がる。
王宮に来たばかりで、まだ分からない場所は多い。食堂、来客用の廊下、庭へ続く通路。
ミアに口頭で紹介してもらったとはいえ、実際に歩いて覚えなければ、いつまでも部屋の中だけで過ごすことになる。
廊下へ出ると、人の数は少なかった。
それでも、夜の支度に向かう侍女や、書類を抱えた文官たちが行き交っている。アリアに気づいた者は立ち止まり、丁寧に礼をした。
王家推薦の聖女候補。
その肩書が、王宮の中でどのように受け止められているのか、アリアにはまだ分からない。だがそれを教えてくれるかのように、廊下の角の先から小さな話し声が聞こえてきた。
「アリア様って、結局どれほどの方なのかしら」
廊下の角の手前で足を止める。声の主たちは、アリアが近くにいることに気づいていないらしい。
「神殿で前の聖女候補を失脚させた方でしょう?」
「殿下に気に入られたから、特別扱いされているだけでは?」
言葉に強い悪意が込められているわけではない。
だが、そこには明らかな警戒があった。王宮にも、神殿を信じる者は多い。これまで聖女候補は、神殿が正式に推した人物だった。
そこへ突然、王家推薦のアリアが現れたのだ。
こうした噂が出るのも理解はできるため、アリアは何も言わず、その場を去ろうとした。
その時だ。
「アリア様は、そのような方ではありません」
聞き慣れた声が、廊下の角から響く。
ミアだった。角の向こうでは、三人の侍女が驚いた表情を浮かべている。
「何よ、ミア。新人のくせに偉そうに」
「そうよ。専属に選ばれたからって、私たちに意見するつもり?」
「逆らう相手を間違えると、王宮ではやっていけないわよ」
侍女たちの声が低くなる。
ミアは一瞬だけ唇を結んだが、それでも、逃げなかった。
「私は、事実を申し上げているだけです。アリア様は、私が倒れた時に治療してくださいました。それだけではありません。私の体調不良の原因まで見つけてくださったのです」
アリアの優秀さを語るミアに対し、侍女の一人が眉を吊り上げ、一歩詰め寄る。別の侍女も、廊下の先を塞ぐように立った。
(このままでは、ミアの立場まで悪くなってしまいますね……)
一触即発の空気が流れる中、アリアは意を決し、廊下の角から姿を現す。すると、侍女たちの顔色が変わった。
「ア、アリア様……」
三人は慌てて頭を下げた。
先ほどまでの勢いは消え、廊下に気まずさだけが残る。ミアも振り返り、アリアがそこにいたことに気づくと、はっと目を見開いた。
「アリア様、これは……」
「ミア、私を庇ってくれてありがとうございます」
「わ、私は、本当のことを申し上げただけで……」
「それでも、嬉しかったです」
アリアがそう告げると、ミアの頬が少し赤くなる。
侍女たちは頭を下げたまま、何も言えずにいる。誰かが小さく「失礼いたしました」と呟いたが、その声は消えてしまいそうなほどに小さかった。
「私について何を思うかは、皆様の自由です。ですが、私を庇ったことでミアが不当な扱いを受けるようなら、その時は黙っておりません」
「はい……」
侍女たちは深く頭を下げ、足早にその場を離れていく。廊下に残されたのは、アリアとミアだけだった。
「ミア、困ったことがあれば、いつでも相談してください」
「ありがとうございます。私もアリア様のお力になれるように頑張ります」
「それは心強いですね」
アリアが答えると、ミアの表情がほころんだ。
王宮に来たばかりのアリアには、まだ分からないことが多い。神殿の思惑も、王宮に流れる噂も、自分へ向けられる視線の意味も、すべてを理解できているわけではない。
けれど、隣に立ってくれる人がいる。
アリアはミアと並んで、来た道を戻り始める。先ほどまで遠く感じていた王宮の廊下が、ほんの少しだけ、自分の居場所に近づいた気がした。




