第二章 ~『未熟な神官』~
夕刻になる頃、客室の扉が控えめに叩かれ、ミアが顔を上げる。
「エミール神官様かもしれません。いつも、この時間に診に来てくださいますので」
「分かりました。どうぞ、お入りください」
アリアが入室を許可すると、扉が開き、神官服をまとった青年が姿を見せる。淡い茶髪をきちんと整えた、まだ若い神官だった。幼さの残る顔立ちとは裏腹に、背筋はまっすぐ伸びている。
「ミア、具合はどうですか?」
そこで、エミールの声が止まる。長椅子の傍に立つアリアと、すでに顔色を戻しているミアを見比べた。
「もう、回復しているようですね」
「はい。アリア様が診てくださいました」
ミアが答えると、エミールの眉がわずかに動く。その表情には、安堵よりも戸惑いが強く混じっていた。
アリアは一歩前へ出る。
「初めまして。アリアです」
「エミールです。神殿から王宮へ派遣され、主に王宮内の治療を担当しています。アリア様のことは、噂で聞いておりました」
エミールは礼を取ったが、視線はすぐミアへ移す。
「頭痛や眩暈は残っていませんか?」
「ありません。身体も軽くなりました」
「そうですか」
エミールはほっとしたように頷いた。だが次の瞬間、アリアへ向き直る。
「失礼ですが、アリア様は正式な聖女教育を受けていないと聞いています」
「そうですね」
「でしたら、治療は僕に任せてください」
エミールは声を荒らげない。ただ、若い神官らしい硬さを崩さなかった。
「回復魔術は患者の状態を見極めて治療を施す高度な技術です。訓練を積んでいないあなたには荷が重いかと……」
敬いながらも、言葉の端には明らかな棘があった。
ミアが慌てて口を開く。
「エミール神官様、アリア様は私を助けてくださったのです」
「それは分かっています。ですが、善意と適切な治療は別です」
エミールはミアへ視線を向けたあと、またアリアに目を戻した。アリアもまた彼の瞳を見据えた。
「忠告は受け取っておきます。それと、これまでミアを何度も診てくださったこと。感謝いたします」
「当然です。ミアは王宮に仕える侍女で、僕は王宮内の治療が仕事なのですから」
エミールの返答には迷いがなかった。
責任感の強い人物なのだろう。だからこそ、自分の診断にも強い自信を持っている。
「エミール様は、ミアの症状をどのようにお考えで?」
「疲労です。発熱も外傷もない。回復魔術を施せば症状は軽くなる。疲労と判断するのが妥当です。これまでの診察でも、同じ結果でした」
「疲労ですか……」
「はい。少なくとも、僕はそう診断しました」
エミールはきっぱりと言い切った。
アリアは責めるでもなく、ミアへ目を向ける。
「ミア。体調を崩すようになったのは、この部屋で働き始めてからですよね?」
「はい。こちらの部屋を担当するようになってからです」
「他の場所で同じようになることは?」
「今のところ、ありません」
アリアは頷き、室内へ視線を巡らせた。
磨かれた家具。整えられた寝台。白い花が飾られた窓辺。どれも、よく手入れされているように見える。
それでも、ミアがこの部屋で作業した時だけ体調を崩すのなら、何か理由があるはずだった。
「少し、調べてみてもよろしいでしょうか?」
「調べる?」
エミールが眉を上げる。
「アリア様は、この部屋が原因だと?」
「まだ断定はできません」
「王宮の客室ですよ。そんな異常があれば、僕が先に気づきます」
「もしその異常が小さければどうです?」
「それは……」
エミールが言い淀む中、アリアが指先へ魔力を集めると、淡い光を放った。
光が室内に満ちていき、床の継ぎ目をなぞり、壁際へ向かう。
エミールは黙ってその光を見つめており、先ほどまでの厳しい表情には、かすかな緊張が混じっていた。
やがて、光は壁に設置された照明用の魔石の前で強い輝きへと変わる。
「ここです」
「照明用の魔石ですか……」
ミアが近づこうとしたため、アリアは手で制した。
「少し離れていてください」
アリアが魔石へ手をかざす。
夕暮れの室内で淡く輝いている魔石は、一見すると何の問題もない。だがアリアの魔力が触れた瞬間、表面に黒い霧のようなものが浮かび上がった。
「これは……瘴気!」
彼は魔石を覗き込む。意識しなければ気づけないような細い傷が、魔石の表面に走っていた。
「こんな傷が……」
「ご存知の通り、照明などに使われる魔石は、魔物の体内から採取されたものです。正常な状態なら、内部に残った瘴気は封じられていますが、壊れれば外へ漏れ出すことがあります」
「…………」
エミールの顔から先ほどまでの自信が消える。
「亀裂が小さかったため、漏れ出す量もわずかでした。ですが、ミアはこの部屋で毎日作業していた。少しずつ吸い込んでいたなら、体調を崩しても不思議ではありません」
「だから、治療していただいても、また……」
ミアが胸元を押さえる。
「はい。原因がこの部屋に残っていたからです」
アリアは魔石からにじみ出る瘴気を浄化し、そのまま亀裂を回復魔術で修復する。瘴気は消え去り、魔石は本来の淡い輝きを取り戻した。
「アリア様、先ほどは失礼しました」
エミールが申し訳なさそうな表情を浮かべながら、勢いよく頭を下げる。
「僕は診断を誤り、疲労だと決めつけた。原因を探るべきだったのに、それを怠った……」
「エミール様が悪いわけでは……」
「いえ、瘴気を感じ取るのも神官の役目です。僕は、その役目を果たせなかった。上司へ報告し、大人しく処分を受けます」
「処分ですか?」
「当然です。王宮付きの神官として、異常を見抜けなかったのですから」
自分の誤りをごまかさず、正面から受け止めようとしている。先ほどの刺々しさとは違う誠実さが、そこにはあった。
「私はあなたに罪はないと思います」
「ですが……」
「少なくともエミール様の治療があったから、ミアは今日まで働くことができました。そうですよね?」
「は、はい。エミール神官様が来てくださらなければ、もっと早く倒れていたと思います」
ミアはエミールへ向き直り、両手を前で揃えた。
「何度も診てくださったこと、本当に感謝しています」
エミールは唇を引き結ぶと、少し間を置いてから、もう一度頭を下げた。
「僕は、あなたを王家に推された未熟な聖女候補だと見ていました。正式な教育を受けていない以上、危うい存在だと……ですが、判断を改めます」
エミールは顔を上げ、アリアをまっすぐに見た。
「あなたは僕より優秀な、見習うべき相手です」
「エミール様……」
「だから、これからも未熟な僕に力を貸してください。その代わり、僕が知っていることは、分かる範囲ですべてお教えします。きっと、正式な聖女を目指す上で役に立つはずです」
その言葉に、アリアは頷いた。
「では、お願いいたします。エミール様」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
エミールが礼を取ると、ミアも明るい顔で一歩前へ出た。
アリアは二人を見比べる。
失敗を認めて前を向こうとする神官と、献身的に支えてくれる侍女。そんな二人の仲間と共に、王宮での新しい生活を始めるのだった。




