第百十九話 三つ目を選ぶ
白い階段を下りたのは、最初の六人だけだった。
薫とノアは十四人の道へ残った。蓮も来ようとしたが、自分で引いた灰色の保留線を見て戻る。
「ここが消えそうなら呼ぶ」
誰へ言ったのかは分からない。
返事を待たず、折れたチョークで線をなぞり始めた。
エルマーは階段の前まで来た。
「私は、こちらに残ります」
「中枢を壊したら、その身体は」
「すでに半分ありません」
「それ、答えになってない」
「残っている半分で、行き先を決めます」
レオンが何か言いかける。
エルマーは先に首を横へ振った。
「記録は頼みません」
「まだ何も言っていませんよ」
「もう樹脂板に手を入れています」
「これは……」
「三年前も同じでした」
レオンは樹脂板へ手を入れたまま、取り出さなかった。
俺たちは階段を下りる。
統括竜の胸から続く道は短かった。
十段目で、足元が白い部屋へ変わった。壁も天井も見えず、中央に黒い核が浮いている。
人の頭ほどの多面体を十一本の黒線が囲み、その下を青い線と白い線が走っていた。青は通常迷宮、白は人と魔物の個人記録。三色は一つに見えるほど近い。
「三本が近いだけ」
千紘が言う。
「まだ中では混ざってない」
左手の受信器を黒い核へ向けている。
振動はなかった。
代わりに、各地の音が少しずつ減っていく。
外で移し替えを終えた入口から、通信を切っている。
最後まで残ったのは、三回、短く一回。
直人の信号だった。
救助終了。
「外の作業、終わった?」
灯さんが聞く。
「外でできるところまでは」
「向こう側の人たちは」
レオンが写真を出す。
エルマーの椅子も、街区も映っていない。
白い背景に、六万二千三百九十七という数字だけが残っていた。
その下に、新しい文字が出る。
『通常迷宮固有核網への個人記録移行 完了』
『本人照合待ち記録は、移送を確定せず保留』
全員が今すぐ行き先を選んだわけではない。眠っている者も、答えを出さなかった者もいる。その状態ごと、中枢の外へ出た。
「これなら、まだ選べる」
俺が言うと、三つの表示が開いた。
――――――――――
最終処理を選択してください。
一、《世界統合》
接続中の世界、都市、迷宮、個人記録を一つの世界へ統合します。
二、《全迷宮消去》
特殊迷宮、通常迷宮、迷宮由来能力をすべて消去します。
三、《中枢破壊》
世界杭系統と特殊迷宮を消去します。
独立済み通常迷宮、個人記録、ステータス、レベル、種族、称号、固有スキル、一般スキル、種族特性は残留します。
付加処理:
《通常迷宮固有核網の分離》
《個人記録の相互照合・保留》
《全迷宮管理権限の廃止》
――――――――――
「三つ目でいい?」
千紘が言う。
「うん」
千紘は返事の代わりに、表示の三つ目を指した。触れるのは俺だ。
「俺も三つ目を選ぶ」
「なら、押して」
右手を表示へ伸ばす。
左肩は動かさない。
指が《中枢破壊》へ触れた。
――――――――――
《中枢破壊》を最終選択として登録しました。
実行には世界接続核の物理破壊が必要です。
破壊後、特殊迷宮の施設、帰還路、保管機能は消失します。
――――――――――
黒い多面体の周囲で十一本の線が膨らみ、細い杭へ変わる。
一本目が胸へ飛んできた。
神崎さんの防壁が受ける。
板は一度で割れ、杭の先が神崎さんの左脇を擦った。
「神崎さん!」
「浅い傷だ。続けろ」
本人は傷を見ず、残る杭へ身体を向ける。
灯さんも駆け寄らなかった。
医療袋から圧迫材だけを投げる。
「自分で押さえて」
「処置は後でいい」
「今押さえて」
神崎さんは片手で受け取り、脇へ押し込んだ。そこへ二本目と三本目が続けて来る。
ガルが一本へ飛びつくが、杭そのものには牙が立たない。表面を滑った牙で黒い線だけを噛み、頭を振って杭の軌道を壁のない横へ逸らした。
もう一本を短棒で受ける。硬い音が右手へ返り、棒の表面が割れた。
完全には止まらない。胸当てへ当たる前に《衝撃分散》を使い、足元へ逃がした力で白い床を砕く。
HP三千百六十、MP三百七十。
「青と白、動いた!」
千紘が打音器を床へ当て、《音界地図》を使う。
黒い杭が暴れるたび、その下の二色まで核へ巻き込まれている。
「先に外す。青、右下。白は左奥」
右下は見える。
白は見えない側だった。
レオンが左へ回り、樹脂板を白線の下へ差し込む。
「切る場所はここです」
「まだ持てる?」
「固定はしません。位置だけ残します」
白い個人記録を、レオンの記録へ所有させない。
板の縁で浮かせるだけだ。
神崎さんが黄色い縄を青線へ通す。
「身体へは結ぶなよ」
「それは分かってる」
「一応、言っとかないと」
「今その確認をやるか」
縄は輪にせず、青い束の下を往復する。
灯さんが反対側を取った。
二人で持ち上げる。
通常迷宮の線が、黒い核からわずかに離れた。
「今!」
《世界杭干渉》で、黒から青へ流れていた力の向きを反転させる。通常迷宮同士の横のつながりへ戻した。
MP二百九十。
青い線が核の周囲から外れ、白い部屋の壁のない外側へ広がった。次は白だ。
個人記録へ触れた瞬間、声ではないものが入ってきた。腹が減った感覚。寒さ。誰かに肩を揺すられている眠気。帰りたい者と、戻りたくない者。決められないまま黙っている者。
一つへまとめられないし、まとめなくていい。
《係留》で、白線を現在の位置へ留める。
MP二百六十。
三秒だけあればいい。
「千紘」
「左。あと少し奥」
声が震えている。
鼻血が顎まで落ちた。
千紘は拭わず、白線と黒線が触れる音だけを追っている。
「そこ!」
見えない側へ短棒を差し込む。
割れた先が何かへ当たった。
白線が跳ね、レオンの板から離れる。
ガルが落ちてきた端を前脚で押さえた。
白い束も核から外れた。残ったのは、十一本の世界杭と、その中心にある世界接続核だけだ。
白い階段の上から、大きな音が来た。
統括竜が頭を下げている。
胸から落ちた最後の黒杭を、鼻先で階段へ押していた。
誰のものでもない杭が一段ずつ落ちてきて、神崎さんが受け止めた。
「最後の杭、使うか」
「ここで使う」
五人で黒杭を運ぶ。
神崎さんと灯さんが後ろ。レオンが中央。千紘は左前。
俺は右前だけを持った。
誰かの号令では揃わない。杭が飛んでくるたび持ち方が崩れ、その場にいる者が先に直す。
ガルは十一本目へ噛みついたまま戻ってこない。
「ガル!」
呼ぶ。
耳だけがこちらへ向く。
離せとは言わなかった。
ガルが選んだ一本を任せる。
残る十本を黒杭の先で押し分け、核へ近づく。
右から弾かれた細い杭が千紘の左脛を打ち、身体が回る。足首を捻ったまま膝をついた。
千紘のHPが二千九百七十へ落ちた。
それでも杭から手は離れない。
左側から肩を入れる。
傷へ体重がかかり、息が詰まる。
「そっち、逆」
「そっちは右で見えない」
「私が右に行く」
千紘が杭の下をくぐり、俺の右側へ移った。
見えない場所から、千紘の手が重なる。
「そこにいる?」
「いる。手を伸ばして」
短い返事だけで杭を押すが、黒い核の表面へ当たった先端は弾かれた。筋力だけでは入らない。
《空歩》で、床ではなく黒杭の後端へ一歩を作る。そこを蹴ると全員の手が前へ動き、杭の先が多面体の一面を割った。
中から黒い液体が噴き出し、腕へ触れた部分から世界統合の映像が流れ込んだ。
祖父の家の向こうに崩れた都市が重なり、知らない人たちが庭にいる。千紘の指には、救急車で見た銀の輪。ガルの首へは新しい金属帯が巻かれ、俺の右目も戻っていた。
そこにいる俺は、庭の中央から誰もかもを配置するように見渡していた。
「在真!」
千紘の声で、今の右側へ顔を向ける。
何も見えない。
何も見えない。そのままでいい。
黒い液体へ右手を入れる。世界接続核と十一本の黒線が触れる一点へ、《断界》を通した。
一度では切れず、亀裂が半分で止まる。MP百九十。
黒杭が押し戻され、全員の足が滑った。
「もう一回できる?」
千紘が聞く。
「MPはある。左は使えない」
「それで『できる』って言わないで」
千紘の息が、すぐ近くで一度詰まった。
右手だけは離さない。神崎さんの脇から血が落ち、灯さんの靴も滑っている。
レオンの樹脂板は白線の下に残したまま、手元にはない。ガルは十一本目を噛み、ノアたちは階段の上で入口線を保っている。
今なら、もう一度できる。
黒い亀裂へ指を入れ、二度目の《断界》を通す。MPは百六十。
音は小さかった。ガラスの縁を爪で弾いたような、一度きりの音だ。
世界接続核が二つに割れる。
十一本の黒線が、根元から灰になった。
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世界接続核の破壊を確認しました。
《中枢破壊》を実行します。
消去対象:
世界杭系統
世界退避中枢
第零迷宮
終端迷宮
世界杭により成立した特殊迷宮
残留対象:
独立済み通常迷宮
通常迷宮固有核網
個人ステータス
レベル
種族
称号
固有スキル
一般スキル
種族特性
個人記録
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足元の白い部屋が消える。
レベルアップの表示が、その途中へ重なった。
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大月在真
レベル:64 → 68
最大HP:4,960 → 5,200
最大MP:1,600 → 1,680
現在HP:3,160
現在MP:160
未配分能力値:160
スキルポイント:60 → 64
称号《終端迷宮踏破者》を取得しました。
三枝千紘
レベル:48 → 50
最大HP:3,780 → 3,900
最大MP:1,340 → 1,380
現在HP:2,970
現在MP:1,000
未配分能力値:80
スキルポイント:46 → 48
――――――――――
千紘のHPも減っていた。
脛や足首を確かめる前に、白い階段が崩れる。
統括竜の身体は入口線を放したまま透け、フロストジャイアントたちはそれぞれの入口へ腕を戻している。
星の道がばらばらになる。
「帰路!」
神崎さんが叫ぶ。
《退路標示》の矢印が開いた。
後ろではない。
星の中にある、小さな水路の入口を指している。
《久世西用水路迷宮》
第零迷宮ではなかった。
「出口は通常迷宮だ」
「残る方ならいい!」
灯さんが千紘の腕を取る。
千紘は一歩目で顔をしかめた。
「左足、どうした」
「左。捻っただけ」
「自分で歩ける?」
「今なら歩ける」
俺が右側へ入る。
肩を貸そうとして、左しか空いていないことに気づく。
千紘が先に俺の腰帯を掴んだ。
「今は二人とも支えられる側」
「じゃあ、どうやって歩く」
「二人で一緒に歩く」
ガルが黒線を離して俺たちの前へ来た。神崎さん、灯さん、レオンが続く。
階段の上では薫とノアが十四人を入口ごとに分け、蓮が保留線の印を最後までなぞっていた。
エルマーの姿は見えなかった。
探す時間もない。
水路の入口へ飛び込む。冷たい水が膝へ当たり、泥の匂いがした。
本物の水だった。
背後で、黒い星だけが消えていった。




