第百二十話 指輪のある日
用水路の水深は膝ほどしかない。それでも流れに押され、足場を取れなかった。
千紘と互いの腰帯を掴んだまま、二人で壁へぶつかる。後ろから来たガルが脚の間を抜け、先に浅い場所へ上がった。
「六人!」
水路の外で誰かが叫ぶ。
「進入班六人、確認!」
声が重なった。
消防の照明が眩しい。右目がないことを忘れて顔を背け、左側まで白く潰れたところで腕を掴まれた。
「在真、こっち」
父だった。
「左肩は触るな」
「血、出てるだろ」
「右も上がらない」
「それも知ってる」
父は俺の脇へ入ろうとして一度止まった。どちらから支えるか迷っている。
「腰なら持てる」
自分から言うと、父は安全帯を掴んだ。
引き上げられた場所は、久世西用水路迷宮の入口前だった。夜のはずなのに人が多い。
採取組合の軽トラック、消防車、市の車、知らない放送局の車。入口の周りには土嚢と排水管が増え、二日前まで畑へ流れていた水が仮設水槽を通っている。
神崎さんは自分で上がり、脇へ押し込んだ圧迫材を灯さんに取られた。
立ち上がろうとした膝を、灯さんが片手で押し戻す。
「座って」
「大月よりは軽い」
「比べる相手を変えて」
灯さんは神崎さんをその場へ座らせた。
レオンは水路から上がる前に、濡れた樹脂板の枚数を数えていた。
「一枚、置いてきました」
「取りに戻るなよ」
神崎さんが言う。
「戻れませんよ」
「戻れたらだ」
「考えておきます」
「考えなくていい。座って」
灯さんがレオンまで座らせた。
千紘は自分で水路の縁へ手をかけたが、左足へ体重を置いたところで顔をしかめる。
今度は俺より先に、母親が駆け寄った。
「左足、どうしたの」
「ちょっと捻っただけ」
「だけかは病院で決めるの」
「灯さんにも言われた」
「じゃあ二回目」
千紘は言い返さず、母親の肩を借りた。その間を、直人が濡れた端末を抱えて走ってくる。
「ステータス、残ってるか?」
聞き方が雑だった。直人の端末は画面の半分が消え、本人の右手にも細かい切り傷がある。
「ステータスは残ってる」
「開いて見せて」
「今ここで?」
「今。外の中継器が一度全部落ちた。通常核は戻ったけど、個人側が確認できない」
表示を開く。
――――――――――
名前:大月在真
種族:真竜人
種族ランク:上位種
レベル:68
HP:3,160/5,200
MP:160/1,680
筋力:1,740
耐久:2,040
敏捷:1,625
器用:840
感覚:495
精神:1,075
未配分能力値:160
スキルポイント:64
称号:
《第零迷宮初踏破者》
《隻眼の攻略者》
《黒狼の盟友》
《沈降駅踏破者》
《世界杭攻略者》
《終端迷宮踏破者》
固有スキル:
《継承》Lv.8
継承能力:
《断界》Lv.1
《衝撃分散》Lv.1
《空歩》Lv.1
《座標記録》Lv.1
《係留》Lv.1
《道標共有》Lv.1
《記憶固定》Lv.1
《世界杭干渉》Lv.1
一般スキル:
《呼吸合わせ》Lv.1
《境目抜け》Lv.1
《足場読み》Lv.1
種族特性:
《真竜鱗》
《真竜脈》
――――――――――
右目の欠損は消えていない。左肩からは血も出ている。
数字だけが残ったわけではなかった。今までの身体ごと残っている。
「俺のは大丈夫そうだ」
「千紘の方も見せて」
直人が呼ぶと、千紘はすでに自分の表示を開いていた。
「レベル五十。エルフのまま。上位進化の候補は出てない」
「調べるのはあとで」
直人は端末へ打ち込みながら、少しだけ笑った。
周囲でも声が上がった。消防隊員、採取組合の人、水路の奥にいるゴブリンにも、ステータス表示が残っている。
通常迷宮の入口も消えない。
水路の壁では、スライムが排水管を避けて流れていた。
「第零迷宮の入口は?」
俺が聞くと、父が顎を上げた。
「家の裏は閉じた。入口が薄くなって、最後に砂が少し出るところまで見届けた」
父が足元を見る。
ガルは水路から上がり、濡れた身体を一度振った。誰かの車へ乗ろうとはせず、山の方角へ鼻を向けてから父の軽トラックへ歩いていく。
自分で荷台へ乗った。
「家へ帰るつもりみたい」
千紘が言う。
「帰れば分かる」
救急隊の担架が、俺と千紘へ一台ずつ来る。
先に乗せられた千紘が、隣の空いた担架を見る。
「在真も乗って」
父と灯さんがこちらを見ている。
言い返す前に、隣の担架へ座った。
横になる前に、母からメッセージが届く。
『指輪、予定どおり来週できるそうです』
店から届いた受け取り予定日の連絡を、母が転送してきた。千紘にも同じ通知が来ている。
「一週間後、取りに行けるかな」
「その頃には歩けるだろ」
「在真の肩の話」
「俺も行く」
「それなら、病院で聞いて」
救急車の扉が閉まる。今度の搬送先は、最初から病院に決まっていた。
◇
二年後、祖父の家の裏には何もなかった。黒い入口があった場所だけコンクリートの色が違う。
ひびを補修し、周りへ土を入れ直したが、四角い跡までは消えなかった。今はその上へ長机が置かれ、白い布、料理、紙コップが並んでいる。
家の庭で結婚の集まりをすると決めたとき、父は会場を借りろと言った。母は雨が降ったらどうするのと聞き、千紘の母親は人数を数えてから黙った。
結局、庭になった。
澄江さんは「式じゃないなら、手伝いでいいね」と朝から台所と庭を往復していた。煮物の大皿を置いたあと、通り道が狭いと言って長机を物置側へ押す。黒い四角の端が白布の下から出たが、気にせず次の皿を取りに戻った。
テントは消防から借りていない。
神崎さんが知り合いの祭り道具屋から持ってきた。
「救助用と間違われるからな」
本人はそう言いながら、黄色い縄で脚を固定している。
「それ、余計に救助用に見えます」
レオンが言う。
「倒れないようにしてるだけだ」
「記録にはそう書きます」
「結婚式の記録へ書くな」
「式ではないと聞きました」
「今それ言うか」
東條さんは庭の端で通話を終え、二年前と変わらない濃紺の上着のポケットへ端末を入れた。世界杭が消えても、通常迷宮を巡る各国の避難・救助の取り決めは増え続けている。今朝も国外との会議を一つ終えてから来たらしい。
着信がもう一度鳴った。画面を確かめ、今日は別の担当者へ回す、と短く打ってから電源を切った。
二人のやり取りを、灯さんが料理の皿を運びながら聞いている。
「神崎さん、縄より先に椅子」
「今やってるだろ」
神崎さんは縄を置かなかった。
代わりに近くにいた薫が椅子を運ぶ。灯さんが指を二本立てると、もう二脚を取りに戻った。
こちらの世界へ来てから髪を短く切り、銃のない腰へ何度か手をやる癖だけが残っていた。
灯さんが笑う。
ノアは台所で母と揉めていた。
「この鍋は客用じゃない」
「もう煮えてる」
「それはガルの分です」
「人間用の鍋より大きい」
「食べる量が違うから」
ガルは縁側から動かない。首に輪はない。庭に知らない人が増えるたび耳を起こし、近づきすぎた子供がいれば先に立って距離を取る。
蓮はその子供たちと、コンクリートの四角い跡へチョークで線を引いていた。迷宮の図ではない。途中から家になり、海になり、何か大きな翼へ変わっている。
「消して帰れよ」
薫が言う。
「雨で消える」
「降らなかったらどうする」
「明日来て消す」
「明日来る気か」
「来たらだめ?」
薫は答えず、三脚目の椅子を取りに行った。
中枢に残っていた六万二千三百九十七人が、全員こちらへ来たわけではない。崩れずに残った街へ留まった人も、通常迷宮同士の接続を使い、少しずつ別の土地へ移った人もいる。
照合を保留したまま眠っている人も、まだ千人単位で残っていた。
解決したとは言えない。ただ、誰か一人の命令で行き先を決められることはなくなった。
エルマーは向こう側にいる。半身は戻らなかった。
先月届いた写真では、右手だけで三枚の書類を押さえ、口でペンの蓋を外していた。裏には『記録を頼まなかった件は撤回します』と書かれている。レオンはその写真も式の記録箱へ入れようとして、薫に止められた。
「在真、ちょっと来て」
千紘が居間から呼ぶ。
白い服ではない。薄い青のワンピースに、いつもの耳当てを首へかけている。
俺も礼服は着ていない。角へ引っかかる帽子だけは、母に言われて試してやめた。
「これ、ちゃんと留まってない」
千紘が左耳の後ろを見せる。
髪留めの金具が外れかけていた。
右側へ回ろうとして、見えないことに気づく。
「反対向いて。後ろからやる」
「右手でできる?」
「右手だけでも、たぶん」
「今日のたぶんは怖い」
「じゃあ、母さんを呼ぶ」
「それは嫌」
千紘は背を向けた。
髪留めを一度落とし、畳の上を探した。
「もっと左」
「今は見えてる」
「さっきは見えてなかった」
「今はちゃんと見えた」
二回目で留まったが、少し斜めになっている。直そうとすると、千紘が首を振った。
「もうそれでいい」
「少しずれてる」
「また落とす方が嫌」
そのまま庭へ出ると、長机の前で両家の親と仲間が待っていた。役所への届けは朝に出している。ここで必要な手続きはない。
神崎さんが何か始めようとしたが、進行表を灯さんに取り上げられた。
「短く」
「まだ何も言ってない」
「進行表が二枚もある」
「一枚は予備だ」
誰かが笑い、俺も少し笑って千紘の左手を取った。
二年前に受け取った銀の指輪には、細かい傷が増えている。攻略へは着けていかないし、大学へ行く日も、家で洗い物をするときも外すことがある。
千紘がなくしかけたのは三回。俺の方は角に紐を引っかけ、庭へ飛ばしたことが一度ある。それでも、新しい指輪には替えなかった。
「これからもよろしく」
用意していた言葉は、口にすると短くなった。
「うん」
千紘が返す。
それだけでは終わらず、俺の手を少し引いた。
「遠征、勝手に予定へ入れないで」
「それ、まだ言うのか」
「結婚したから、もう一回」
「先に聞く」
「私も聞く」
指輪を互いの指へ戻した。拍手の途中でガルが立ち上がり、人の輪を避けて庭の端へ行く。山ではない方角へ鼻を向けていた。
千紘の耳当てから、小さな音が漏れた。
直人が端末を持って駆けてくる。
「ごめん。今じゃないのは分かってる」
「ならあとで」
千紘が言う。
「でも、反応はS級」
直人は端末を伏せなかった。画面には、日本海溝の観測機が捉えた海底の映像がある。昨日まではなかった入口だ。
世界杭の黒線はない。通常迷宮の固有循環だけが、深い海の底でゆっくり回っている。
入口の奥から、三度、低い音が届いた。
「新しいダンジョン?」
俺が聞く。
「たぶん。通常型だけど、深さと反応が今までと違う」
千紘は画面を見たまま、俺の手を離さない。
「明日になったら見る?」
「今日は行かない」
「うん。私も」
直人が何か言おうとしたが、神崎さんに肩を掴まれ、料理の方へ連れていかれた。
海底の音は、もう一度だけ鳴った。庭では聞こえた人の方が少ない。
ガルは海のない方角を向いたまま、しばらく座らなかった。




