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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第二十五章 指輪のある日

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第百二十話 指輪のある日

 用水路の水深は膝ほどしかない。それでも流れに押され、足場を取れなかった。


 千紘と互いの腰帯を掴んだまま、二人で壁へぶつかる。後ろから来たガルが脚の間を抜け、先に浅い場所へ上がった。


「六人!」


 水路の外で誰かが叫ぶ。


「進入班六人、確認!」


 声が重なった。


 消防の照明が眩しい。右目がないことを忘れて顔を背け、左側まで白く潰れたところで腕を掴まれた。


「在真、こっち」


 父だった。


「左肩は触るな」


「血、出てるだろ」


「右も上がらない」


「それも知ってる」


 父は俺の脇へ入ろうとして一度止まった。どちらから支えるか迷っている。


「腰なら持てる」


 自分から言うと、父は安全帯を掴んだ。


 引き上げられた場所は、久世西用水路迷宮の入口前だった。夜のはずなのに人が多い。


 採取組合の軽トラック、消防車、市の車、知らない放送局の車。入口の周りには土嚢と排水管が増え、二日前まで畑へ流れていた水が仮設水槽を通っている。


 神崎さんは自分で上がり、脇へ押し込んだ圧迫材を灯さんに取られた。


 立ち上がろうとした膝を、灯さんが片手で押し戻す。


「座って」


「大月よりは軽い」


「比べる相手を変えて」


 灯さんは神崎さんをその場へ座らせた。


 レオンは水路から上がる前に、濡れた樹脂板の枚数を数えていた。


「一枚、置いてきました」


「取りに戻るなよ」


 神崎さんが言う。


「戻れませんよ」


「戻れたらだ」


「考えておきます」


「考えなくていい。座って」


 灯さんがレオンまで座らせた。


 千紘は自分で水路の縁へ手をかけたが、左足へ体重を置いたところで顔をしかめる。


 今度は俺より先に、母親が駆け寄った。


「左足、どうしたの」


「ちょっと捻っただけ」


「だけかは病院で決めるの」


「灯さんにも言われた」


「じゃあ二回目」


 千紘は言い返さず、母親の肩を借りた。その間を、直人が濡れた端末を抱えて走ってくる。


「ステータス、残ってるか?」


 聞き方が雑だった。直人の端末は画面の半分が消え、本人の右手にも細かい切り傷がある。


「ステータスは残ってる」


「開いて見せて」


「今ここで?」


「今。外の中継器が一度全部落ちた。通常核は戻ったけど、個人側が確認できない」


 表示を開く。


――――――――――


名前:大月在真

種族:真竜人

種族ランク:上位種

レベル:68


HP:3,160/5,200

MP:160/1,680


筋力:1,740

耐久:2,040

敏捷:1,625

器用:840

感覚:495

精神:1,075


未配分能力値:160

スキルポイント:64


称号:

《第零迷宮初踏破者》

《隻眼の攻略者》

《黒狼の盟友》

《沈降駅踏破者》

《世界杭攻略者》

《終端迷宮踏破者》


固有スキル:

《継承》Lv.8


継承能力:

《断界》Lv.1

《衝撃分散》Lv.1

《空歩》Lv.1

《座標記録》Lv.1

《係留》Lv.1

《道標共有》Lv.1

《記憶固定》Lv.1

《世界杭干渉》Lv.1


一般スキル:

《呼吸合わせ》Lv.1

《境目抜け》Lv.1

《足場読み》Lv.1


種族特性:

《真竜鱗》

《真竜脈》


――――――――――


 右目の欠損は消えていない。左肩からは血も出ている。


 数字だけが残ったわけではなかった。今までの身体ごと残っている。


「俺のは大丈夫そうだ」


「千紘の方も見せて」


 直人が呼ぶと、千紘はすでに自分の表示を開いていた。


「レベル五十。エルフのまま。上位進化の候補は出てない」


「調べるのはあとで」


 直人は端末へ打ち込みながら、少しだけ笑った。


 周囲でも声が上がった。消防隊員、採取組合の人、水路の奥にいるゴブリンにも、ステータス表示が残っている。


 通常迷宮の入口も消えない。


 水路の壁では、スライムが排水管を避けて流れていた。


「第零迷宮の入口は?」


 俺が聞くと、父が顎を上げた。


「家の裏は閉じた。入口が薄くなって、最後に砂が少し出るところまで見届けた」


 父が足元を見る。


 ガルは水路から上がり、濡れた身体を一度振った。誰かの車へ乗ろうとはせず、山の方角へ鼻を向けてから父の軽トラックへ歩いていく。


 自分で荷台へ乗った。


「家へ帰るつもりみたい」


 千紘が言う。


「帰れば分かる」


 救急隊の担架が、俺と千紘へ一台ずつ来る。


 先に乗せられた千紘が、隣の空いた担架を見る。


「在真も乗って」


 父と灯さんがこちらを見ている。


 言い返す前に、隣の担架へ座った。


 横になる前に、母からメッセージが届く。


『指輪、予定どおり来週できるそうです』


 店から届いた受け取り予定日の連絡を、母が転送してきた。千紘にも同じ通知が来ている。


「一週間後、取りに行けるかな」


「その頃には歩けるだろ」


「在真の肩の話」


「俺も行く」


「それなら、病院で聞いて」


 救急車の扉が閉まる。今度の搬送先は、最初から病院に決まっていた。


     ◇


 二年後、祖父の家の裏には何もなかった。黒い入口があった場所だけコンクリートの色が違う。


 ひびを補修し、周りへ土を入れ直したが、四角い跡までは消えなかった。今はその上へ長机が置かれ、白い布、料理、紙コップが並んでいる。


 家の庭で結婚の集まりをすると決めたとき、父は会場を借りろと言った。母は雨が降ったらどうするのと聞き、千紘の母親は人数を数えてから黙った。


 結局、庭になった。


 澄江さんは「式じゃないなら、手伝いでいいね」と朝から台所と庭を往復していた。煮物の大皿を置いたあと、通り道が狭いと言って長机を物置側へ押す。黒い四角の端が白布の下から出たが、気にせず次の皿を取りに戻った。


 テントは消防から借りていない。


 神崎さんが知り合いの祭り道具屋から持ってきた。


「救助用と間違われるからな」


 本人はそう言いながら、黄色い縄で脚を固定している。


「それ、余計に救助用に見えます」


 レオンが言う。


「倒れないようにしてるだけだ」


「記録にはそう書きます」


「結婚式の記録へ書くな」


「式ではないと聞きました」


「今それ言うか」


 東條さんは庭の端で通話を終え、二年前と変わらない濃紺の上着のポケットへ端末を入れた。世界杭が消えても、通常迷宮を巡る各国の避難・救助の取り決めは増え続けている。今朝も国外との会議を一つ終えてから来たらしい。


 着信がもう一度鳴った。画面を確かめ、今日は別の担当者へ回す、と短く打ってから電源を切った。


 二人のやり取りを、灯さんが料理の皿を運びながら聞いている。


「神崎さん、縄より先に椅子」


「今やってるだろ」


 神崎さんは縄を置かなかった。


 代わりに近くにいた薫が椅子を運ぶ。灯さんが指を二本立てると、もう二脚を取りに戻った。


 こちらの世界へ来てから髪を短く切り、銃のない腰へ何度か手をやる癖だけが残っていた。


 灯さんが笑う。


 ノアは台所で母と揉めていた。


「この鍋は客用じゃない」


「もう煮えてる」


「それはガルの分です」


「人間用の鍋より大きい」


「食べる量が違うから」


 ガルは縁側から動かない。首に輪はない。庭に知らない人が増えるたび耳を起こし、近づきすぎた子供がいれば先に立って距離を取る。


 蓮はその子供たちと、コンクリートの四角い跡へチョークで線を引いていた。迷宮の図ではない。途中から家になり、海になり、何か大きな翼へ変わっている。


「消して帰れよ」


 薫が言う。


「雨で消える」


「降らなかったらどうする」


「明日来て消す」


「明日来る気か」


「来たらだめ?」


 薫は答えず、三脚目の椅子を取りに行った。


 中枢に残っていた六万二千三百九十七人が、全員こちらへ来たわけではない。崩れずに残った街へ留まった人も、通常迷宮同士の接続を使い、少しずつ別の土地へ移った人もいる。


 照合を保留したまま眠っている人も、まだ千人単位で残っていた。


 解決したとは言えない。ただ、誰か一人の命令で行き先を決められることはなくなった。


 エルマーは向こう側にいる。半身は戻らなかった。


 先月届いた写真では、右手だけで三枚の書類を押さえ、口でペンの蓋を外していた。裏には『記録を頼まなかった件は撤回します』と書かれている。レオンはその写真も式の記録箱へ入れようとして、薫に止められた。


「在真、ちょっと来て」


 千紘が居間から呼ぶ。


 白い服ではない。薄い青のワンピースに、いつもの耳当てを首へかけている。


 俺も礼服は着ていない。角へ引っかかる帽子だけは、母に言われて試してやめた。


「これ、ちゃんと留まってない」


 千紘が左耳の後ろを見せる。


 髪留めの金具が外れかけていた。


 右側へ回ろうとして、見えないことに気づく。


「反対向いて。後ろからやる」


「右手でできる?」


「右手だけでも、たぶん」


「今日のたぶんは怖い」


「じゃあ、母さんを呼ぶ」


「それは嫌」


 千紘は背を向けた。


 髪留めを一度落とし、畳の上を探した。


「もっと左」


「今は見えてる」


「さっきは見えてなかった」


「今はちゃんと見えた」


 二回目で留まったが、少し斜めになっている。直そうとすると、千紘が首を振った。


「もうそれでいい」


「少しずれてる」


「また落とす方が嫌」


 そのまま庭へ出ると、長机の前で両家の親と仲間が待っていた。役所への届けは朝に出している。ここで必要な手続きはない。


 神崎さんが何か始めようとしたが、進行表を灯さんに取り上げられた。


「短く」


「まだ何も言ってない」


「進行表が二枚もある」


「一枚は予備だ」


 誰かが笑い、俺も少し笑って千紘の左手を取った。


 二年前に受け取った銀の指輪には、細かい傷が増えている。攻略へは着けていかないし、大学へ行く日も、家で洗い物をするときも外すことがある。


 千紘がなくしかけたのは三回。俺の方は角に紐を引っかけ、庭へ飛ばしたことが一度ある。それでも、新しい指輪には替えなかった。


「これからもよろしく」


 用意していた言葉は、口にすると短くなった。


「うん」


 千紘が返す。


 それだけでは終わらず、俺の手を少し引いた。


「遠征、勝手に予定へ入れないで」


「それ、まだ言うのか」


「結婚したから、もう一回」


「先に聞く」


「私も聞く」


 指輪を互いの指へ戻した。拍手の途中でガルが立ち上がり、人の輪を避けて庭の端へ行く。山ではない方角へ鼻を向けていた。


 千紘の耳当てから、小さな音が漏れた。


 直人が端末を持って駆けてくる。


「ごめん。今じゃないのは分かってる」


「ならあとで」


 千紘が言う。


「でも、反応はS級」


 直人は端末を伏せなかった。画面には、日本海溝の観測機が捉えた海底の映像がある。昨日まではなかった入口だ。


 世界杭の黒線はない。通常迷宮の固有循環だけが、深い海の底でゆっくり回っている。


 入口の奥から、三度、低い音が届いた。


「新しいダンジョン?」


 俺が聞く。


「たぶん。通常型だけど、深さと反応が今までと違う」


 千紘は画面を見たまま、俺の手を離さない。


「明日になったら見る?」


「今日は行かない」


「うん。私も」


 直人が何か言おうとしたが、神崎さんに肩を掴まれ、料理の方へ連れていかれた。


 海底の音は、もう一度だけ鳴った。庭では聞こえた人の方が少ない。


 ガルは海のない方角を向いたまま、しばらく座らなかった。

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