第百十八話 一人にしない
統括竜の右目に、俺の顔が映っていた。
正面にいるのに左半分しか見えず、映っているのは右目を失う前の顔だった。
黒杭を握る右手へ、細い線が巻きつく。
全迷宮管理権限。拒否しても、俺は最初の候補から外れていない。
「この候補線だけ切る」
「待って」
千紘が言ったが、《断界》を使った。
自分の手首へつながる線だけを切る。
MPが五百六十へ減る。
統括竜の右目から俺の顔が消えた。
代わりに千紘が映る。
「だから待ってって言った」
千紘の左手首へ、黒い線が巻きついた。
「次へ移るのか」
「私を切っても神崎さん。その次、灯さん」
候補は一人ずつ選び直される。ここにいる全員が拒否しても、世界中の誰かへ移るだけだ。
「もう切らないで」
千紘は自分の線を掴まなかった。
受信器を黒杭へ押し当てると、世界中の振動が統括竜の胸へ流れ込んだ。
右目の中で千紘の顔が乱れ、神崎さん、灯さん、レオン、見知らぬ人間、ゴブリン、コボルト、オーガへ変わっていく。
何千もの姿が重なっては、一人分の輪郭へ押し込まれる。
統括竜が前脚を上げた。
星の道が沈む。
「千紘、離れろ!」
「まだ離れられない」
黒杭から手を外さない。
右目のない側から、竜の爪が落ちてくる。
見えない。
神崎さんの黄色い縄が胸当てへ当たり、身体を後ろへ引いた。
同時にガルが千紘の腰へぶつかる。
二人で爪の下から外れた。
爪は黒杭を踏まない。
寸前で軌道を変え、周囲の細い道だけを三本切った。
統括竜自身も、胸の権限を失う攻撃だけは避けている。
「胸は守る!」
薫の銃声が二度響く。
弾は竜の翼の付け根へ当たり、巻きついた入口線を一本弾いた。
ノアが落ちてきた線を焼けた右腕で受ける。
火は線を燃やさず、表面に浮いた管理者候補の文字だけを消した。
「全部それで消せる?」
蓮が聞く。
「私の腕が先になくなる」
「じゃあ少しずつ」
蓮は暗闇へ落ちかけた線へチョークを擦りつけた。
白い印が一つ残る。
「消したやつ、これ」
「同じに見えます」
レオンが印の横へ、自分の樹脂板を差し込んだ。
「名称を書いてください」
「迷宮の?」
「そこにいる人でも、魔物でも」
「全員は知らない」
「分かる範囲でいい」
蓮は線の先を覗き込み、見えたものを書き始める。
入口名ではない。
赤い帽子の人。
片腕のゴブリン。
寝ている二人。
名前が分からないものを番号へ戻さず、見えたまま残していく。
レオンも別の線へ移った。
記録板一枚へ世界中を収めることはできない。一枚へまとめず、書ける入口から始めている。
統括竜の翼が振り下ろされた。
海面と氷が一緒に押し寄せる。
息を吸うより先に灰色の水へ沈み、足が凍った。
《衝撃分散》。
水圧を道へ逃がす。
氷の亀裂が星の入口へ走り、いくつかの線が大きく揺れた。
HP三千三百八十。
MP五百四十。
左肩のガーゼが水を吸う。
赤く滲む前に灯さんが剥がした。
「次」
新しいガーゼを当てる。
「処置してる場合か」
「してないと次がない」
灯さんの足元も水へ沈んでいる。
自分の安全帯を俺の腰へ通し、両手だけを傷へ使っていた。
「千紘の方は?」
「自分で立ってる」
見ると、千紘はガルの横で膝をついていた。
黒い線はまだ左手首にある。
「聞こえる?」
俺が声を上げる。
「音が多すぎる」
「いったん音を切るか」
「まだ切らない」
千紘は耳当てを外した。
鼻から血が一筋落ちる。
《音界地図》を使う。
黒杭ではなく、そこから伸びた一本一本の先へ音が走った。
「返事して!」
誰に向けた声か分からない。
受信器の向こうだけではなかった。
星の入口へ向かって、千紘は同じ言葉を繰り返す。
「今いる場所、鳴らして! 人じゃなくてもいい!」
最初に返ったのは、三回、短く一回の金属音だった。次は木を叩く音。水面を尾で打つ音。石同士をぶつける音。
人間の設備がない迷宮からも返ってくる。
どれも乱れ、同じ合図ではない。揃っていないから、一つの命令にはできない。
統括竜の右目が激しく揺れた。
千紘の顔を保てなくなり、今度はガルを映す。
首の古傷へ黒い線が伸びる。
ガルは避けなかった。
線へ噛みつく。
引きちぎるのではなく、口にくわえたまま黒杭へ歩く。
自分へ向けられた候補線を、噛んだまま中央へ返している。
「ガルに命令権限を渡す気か」
神崎さんが縄を巻き取る。
「そういうことじゃない」
ノアはガルの前へ立たなかった。
「あいつ、返しに行ってる」
統括竜が口を開き、喉の奥に十一個の黒い光が並んだ。収容核の形をした炎が吐き出される。
道を焼く火ではない。触れた入口を、統括竜の胸へ強制的に引き戻していく。
ガルの前へ出て、《世界杭干渉》を使った。十一の炎を止めず、統括竜へ戻る線だけを入口同士の横のつながりへ流す。
右手の皮膚が裂け、血が暗闇へ丸く散った。MP四百六十。
炎のうち九つが、別々の入口へ吸い込まれる。残る二つが右側から来た。
空へ踏み出し、《空歩》で一つを越える。もう一つは避けられない。
フロストジャイアントが腕を差し込み、炎を受けた。青白い腕へ黒い文字が這い、巨人の顔が統括竜の右目に映る。
次の管理者候補。
巨人は自分の腕を反対の手で掴み、胸から遠ざけた。命令線を受け入れず、肘から先を自分で折る。
大きな腕が、炎ごと暗闇へ落ちた。
後ろの三体が身体を支えた。誰も俺を見ず、どうするかも聞いてこない。
「もう一回、向きを変える!」
言う前から、周りは動いていた。
神崎さんが黄色い縄を黒杭へ巻き直し、薫が反対側を取る。
ノアは焼けた帯を杭の管理印へ押しつける。
レオンは樹脂板へ一行だけ書いた。
『各迷宮のことは、そこにいる者が決める』
「大きすぎる記録です」
エルマーが言う。
「それは分かっています」
「このままでは固定できない」
「あなたなら固定できる?」
レオンに聞かれ、エルマーは透けた左側を見た。
「三年前なら、できないと言った」
「今ならできます」
「書く場所を分けます」
エルマーは樹脂板を受け取らず、最も近い入口へ右手を入れた。
向こう側の壁へ、指先で同じ一行を書く。
薫、ノア、蓮。
十四人。
入口の向こうにいる人間や魔物まで、見える場所へそれぞれの言葉で残し始める。
黒杭へ集まった振動が統括竜の身体へ逆流し、鱗の一枚ずつに別の入口名が浮かぶ。
一つへまとめようとする右目だけが、形を保てない。
「千紘!」
「聞こえてる!」
二度の打音で、右目の位置が分かる。
空中でもう一歩踏み、統括竜の顔へ近づいた。左腕は下げたまま、右手を眼球の表面へ押しつける。
硬くない。何千もの名前と入口が、皮膚の下で入れ替わっていた。
《係留》で、一人を選ぼうとする瞬間だけを止める。
三秒の間に、揃わないままの振動が各入口から流れ込んだ。右目へ映る人間も魔物も消え、最後に俺の顔が一度戻る。右眼のある姿から、今の欠けた顔へ変わった。
眼球へ亀裂が走る。
統括竜の身体は崩れなかった。翼がゆっくり閉じ、入口線を一本ずつ放していく。
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単一管理者の指定に失敗しました。
全迷宮管理権限を廃止します。
通常迷宮固有核:
各接続先の判断記録へ管理を返還します。
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胸の黒杭が床へ落ち、十一の空窪みが開いた。その奥に白い階段が現れる。
統括竜は道を塞がなかった。
右目を失った顔を伏せ、星の入口群の間へ身体を横たえる。
階段の先で、三つの選択が待っていた。




