第百十七話 命令する側
俺の足元だけ、道が太くなっていた。靴幅ほどしかなかった線が黒い床へ変わり、世界杭統括竜の前まで真っ直ぐ続いている。
ほかの道は細いままだ。千紘の足元も、神崎さんたちの足元も。
十四人へ続く線は、少しずつ暗闇へ沈み始めていた。
「その権限は承認しない」
表示へ触れずに言った。
変化はない。
統括竜は頭を下げたまま、用意された答えだけを待っている。
「表示が聞こえてないのか」
「聞こえているでしょう」
エルマーが後ろから言う。
「拒否を選択として認めていません」
「こういう権限、前にもあったな」
帰還か処分しかなかった回収記録。
統合か消去か破壊しかない最終選択。
並んでいるのは、用意した側が選ばせたい答えばかりだった。
「触れば元へ戻せる?」
千紘が聞いた。
「触れば、たぶん戻せる」
「たぶんで全迷宮はやめて」
「分かってる。触らない」
「その手を下ろしてから言って」
「さっき灯さんにも止められてた」
灯さんが十四人の後ろで頷いた。
「してた」
触れる前に止められ、少し腹が立った。その程度の感情が残っていることに、息が抜ける。
「管理権限があれば、全部切り分けられるかもしれない」
俺が言うと、千紘は否定しなかった。
「そうかもね」
「通常迷宮も、向こうの人も」
「うん」
「命令を消したあと、権限を捨てればいい」
「捨てられなかったら?」
黒い床の下で、無数の入口が動く。
俺が右足を前へ出すと、それだけで近くの道がこちらへ寄った。
命令していない。それでも適合しただけで、迷宮側が俺の動きを待っている。
「在真」
千紘は俺の腕を掴まない。
「私は、在真に決めてもらうためにここまで来たんじゃない」
「今度こそ分かってる」
「結婚しても、たぶん同じ」
「それは――」
「本当に分かってる?」
一度、口を閉じる。
「今度のことは分かってる」
「なら、今はいい」
千紘は太い床へ乗らなかった。
自分の細い線へ残り、受信器を握る。
「外の人たちも待ってない」
掌から振動が続いている。
一回だけの場所。
十回以上重なる場所。
救助終了の三回と短い一回を返さず、別の打ち方を始めた入口もある。
各地が、自分たちの核に合う方法を試していた。
「俺が持つ必要はない」
統括竜の頭へ向かって言う。
「ここへ返さず、それぞれの迷宮へ戻す」
――――――――――
全迷宮管理権限は分割できません。
単一管理者を指定してください。
――――――――――
「俺は承認しない」
表示が消えた。
統括竜の首が上がる。
左右で形の違う角が、星の道を引っかけた。
翼に巻きついていた入口線が一斉に張る。
年配の女の前にあった石の入口が、暗闇へ引かれた。
向こうで手を上げていた子供の姿も遠ざかる。
「待って!」
女が線へしがみつく。
五人分まで太くなった道が、細い糸へ戻っていく。
ほかの入口も同じだった。
統括竜は俺たちを攻撃していない。
拒否された権限を、自分へ戻している。
「残ってる杭をくれ」
神崎さんが残った黒杭を持ってくる。
「刺すなよ」
「誰に言ってる」
「自分に言った」
「なら声に出すな」
神崎さんは杭を投げず、黄色い縄の端を解いて、黒い棒だけを俺の足元へ滑らせた。
統括竜から回収した物ではない。搬送管理個体の背に刺さり、通常核を終端へ運んでいた杭だ。まだ管理権限の流れが残っている。
右手で触れる。
竜の翼へ集まる無数の線と、黒杭がつながった。
「何する?」
神崎さんが聞く。
「集まる向きを変える」
「どこへ返す」
「元の入口、全部へ」
「相変わらず雑だな」
「細かく分ける時間がない」
「なら急げ」
《世界杭干渉》を使う。
翼へ向いていた流れを、黒杭から外へ押し返す。
一本に集められた権限を、元の無数の入口へ押し戻す。
右腕の内側へ、今までで一番重い感触が入った。
水ではない。
駅の振動、土の湿り気、潮の圧力、凍った空気。知らない迷宮の熱や匂いまで、皮膚の下へ押し込まれる。
MPが六百八十へ落ちた。
統括竜が咆哮する。
音は耳から来なかった。
足元の道が縦に割れ、身体の中を下から突き上げた。
神崎さんの防壁が開く。
一枚ではない。
俺たちの足場と十四人の足場へ、別々の半透明な板が立った。
竜の咆哮は板を砕きながら進む。
最後の一枚が割れる前に、フロストジャイアントの掌が横から入った。
巨人は咆哮を受け、指二本を失う。
氷の欠片になった指が暗闇へ落ちた。
それでも手を引かなかった。
「あの竜、胸が空いてる!」
蓮が叫ぶ。
十一個の窪み。
収容核を入れるための穴だ。
今は何も入っていない。
空だから、世界中の線を吸い込める。
「あの窪みを塞げばいい?」
薫が銃を拾い直す。
「弾じゃ無理です」
レオンは記録板を胸へ戻し、黒杭の端を掴んだ。
「これを入れます」
「また運ばせるのか」
「いいえ。所有者なし、搬送先なしの記録を入れる」
前の一本を救急車へ渡したときと同じ記録。
命令を運ぶ杭なのに、命令する者も行き先もない。
統括竜が二度目の咆哮を溜める。
翼から線が外れ、一本ずつ鞭のように振られた。
千紘が打音器を鳴らす。
《音界地図》。
暗闇へ広がる音を追わず、竜の胸だけへ向けていた。
「窪み、十一個じゃない」
「今度は何個だ」
「奥で一つになってる。入れるなら真ん中」
真ん中の窪みは、右目のない側だった。
首を動かしても見えない。
「同じ場所を二回鳴らす」
千紘が言った。
「音の方へ投げて」
「杭は投げられない」
「なら持っていく」
空へ踏み出し、《空歩》を使う。一歩目で黒杭の中央を蹴り上げ、左腕を使わず右肩へ担いだ。
黒杭の重さに、足場のない二歩目で身体が右へ傾く。そこへ咆哮が来た。
《衝撃分散》で受けたが、黒杭ごと後ろへ押され、胸当ての左側が開いた。傷へ入った風で、熱ではなく急に冷える。
HPは三千六百、MPは六百二十。
落ちる。下に道はない。
黄色い縄が腰へ当たった。身体へは結ばれていない。神崎さんと薫が両端を持ち、暗闇へ渡している。
黒杭を縄へ載せた。
「レオン!」
「記録しています!」
「長い!」
「所有者、なし。搬送先、なし。使用目的――」
レオンが言葉を止めた。
使用目的まで決めれば、杭へ別の命令を入れることになる。
「未定です」
黒杭の表面から、残っていた光が消えた。ノアが縄の中央へ右腕を置き、焼けた帯から移した火で管理印だけを焼く。
ガルが反対側から噛みつき、そのまま押した。俺は縄を足場にし、杭の端を右手で持つ。
千紘の打音が二度鳴った。見えない窪みの位置へ、黒杭を押し込む。
統括竜の胸が閉じた。十一個の空窪みが内側から一本の黒い棒に塞がれ、翼へ集まっていた線も止まる。
黒杭を離さず、《係留》を使った。権限をこちらへ引くのではなく、誰のものでもない状態をその場へ残す。
三秒。
――――――――――
全迷宮管理権限に所有者が存在しません。
権限競合を確認しました。
単一管理者を再指定します。
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適合者の欄に、俺の名前が出る。
すぐ下に千紘。
神崎さん、灯さん、レオン、薫、ノア、蓮。
十四人の名前。
数え切れない通常迷宮の入口名。
表示が書き換わり続ける。
一人へ絞ろうとするたび、別の名が押し返してくる。
統括竜の閉じていた目が、右だけ開いた。




