第百十六話 星の数だけ
黒い壁の向こうに、床はなかった。
暗闇へ浮かぶ無数の入口が、近づいたり離れたりしている。石の門、土に開いた穴、地下鉄の階段、用水路の隙間。どれも現実にある通常迷宮だった。
人が立てる場所は、入口から垂れた細い線だけだ。
「先へ行く前に肩を見せて」
灯さんが俺の胸当てを引いた。
「ここで脱ぐのか」
「床がないところでやる?」
「床のないところではやらない」
「脱いで」
さっきと同じやり取りだったが、痛みは同じではない。
固定テープを剥がすと、左肩の傷から新しい血が流れた。布の下に溜まっていた分が二筋、腕を伝う。
「今ここで縫い直せる?」
千紘が聞く。
「今は無理。端がもう脆い」
灯さんは傷を寄せず、厚いガーゼを当てて圧迫する。
「止血だけ。腕は下げたまま」
「分かった。腕は上げない」
「次も肩を使うつもりでしょ」
否定できなかった。
灯さんは返事を待たず、胸当ての留め具を一つ外した。左側だけ緩くなり、腕を上げても保護板が傷を擦らない。
「その代わり、防御は落ちたから」
「防御が落ちるのは困る」
「肩を残す方を選んだの」
神崎さんが黒杭を下ろす。
「前は俺が受ける。今度こそ後ろにいろ」
「前に床がないです」
「できたらの話だ」
千紘が小さく笑い、すぐ暗闇へ目を戻した。
左手の受信器は鳴り続けている。
二回、三回、五回。
今は八回も混じった。
「また増えてる」
「向こうの人数が?」
「たぶん。同じ入口から返る回数」
千紘は耳当てを外さない。
左手を握ったまま、指先で振動を分けている。
俺も表示を開いた。
未配分は百六十。
さっきの一撃で、速さが足りなかったわけではない。
右が見えないことも、左肩を上げられないことも、数字を配れば消えるわけではない。
それでも、触れたあとに線を保持する時間は必要だった。
筋力と耐久へ四十。敏捷へ三十。器用へ二十。感覚へ十。精神へ二十。
――――――――――
能力値を配分しました。
筋力:1,620 → 1,740
耐久:1,920 → 2,040
敏捷:1,550 → 1,625
器用:800 → 840
感覚:480 → 495
精神:1,025 → 1,075
最大HP:4,900 → 4,960
最大MP:1,580 → 1,600
現在HP・MPは回復しません。
未配分能力値:0
――――――――――
HPは三千八百、MPは七百六十のまま。
千紘は俺の配分を覗かず、自分の表示へ指を動かしていた。
筋力へ十。耐久、敏捷、器用、感覚へ二十ずつ。精神へ三十。
――――――――――
能力値を配分しました。
筋力:200 → 210
耐久:490 → 510
敏捷:630 → 660
器用:780 → 820
感覚:1,075 → 1,125
精神:880 → 940
最大HP:3,720 → 3,780
最大MP:1,320 → 1,340
現在HP・MPは回復しません。
未配分能力値:0
――――――――――
「精神に十多く振った」
「聞こえないふり、難しいから」
「聞こえないふりなのか」
「全部を聞くよりはまし」
千紘の現在HPは三千百二十、MPは千六十。
数値を閉じても振動は止まらない。暗闇の入口が一つ光り、次にその隣も光った。受信回数が増えた入口から順に、細い線が太くなっていた。
「収容した人数が道になる?」
ノアが一番近い穴へ手を伸ばす。
土の入口から垂れた線は、指一本分しかない。
「その線には触るな」
薫が右腕を掴んだ。
「触らないって分かってる」
「今、触ろうとした」
「熱を見ようとしただけ」
「それを触るって言う」
ノアは手を引いたが、薫の腕を振りほどかなかった。
十四人のうち、年配の女が二人の横を通る。
「それ、私がつないだところ」
細い線の前で膝をついた。
入口の奥には、石造りの小部屋が見える。壁際に干した草が束ねられ、木の寝台が五つ並んでいた。
「四人残ってるって言ってたな」
「ええ、そうです」
女が線へ手を置く。
入口の光が五回、明滅した。
暗闇へ垂れていた線が板ほどの幅へ広がる。
「私を入れて五人です」
「元の世界へ戻るのか」
「戻らない。まだ」
女は入口の向こうへ声をかけた。
知らない言葉だった。
少しして、寝台の間から子供が顔を出す。
女は笑わない。
何か短く言い、手のひらをこちらへ見せた。
子供も同じように手を上げる。
線の幅は消えなかった。
「つながってる人が両側で認めれば、太くなる」
エルマーが透けた半身を押さえながら近づく。
「中枢の生存記録とは違う。保持しているのは人数ではなく、互いの照合です」
「一人ずつ核を割り当てなくていい」
「ええ。ただし、片側だけで登録すれば、また管理記録になります」
「向こうの人も選ぶ必要がある」
「選べる状態の者は」
言い方が引っかかった。
「選べない人は?」
エルマーはすぐ答えなかった。
病室で眠ったままの人。
迷宮へ身体の大半を固定され、声を出せない人。
六万二千三百九十七人の全員が、今ここで手を上げられるわけではない。
「代理で決めるなって話なら、また止まるぞ」
神崎さんが言う。
「ここでは止めません」
灯さんは十四人の処置を続けたまま答えた。
「返事できない人を置いて進むとも言ってない」
「じゃあ、どうやって進める」
「返事が来るまで待てるようにする」
灯さんは腹を押さえていた男の服を切った。
皮膚には傷がない。
代わりに腹の中で、迷宮核と同じ青い光が弱く脈打っていた。
「この人たちの身体、もう中枢だけで保ってたわけじゃない。切ったあとも止まってない」
男が息を吐く。
「俺の核に、眠ってるやつも二人いた」
「向こうから返事は」
「ない。でも、切る前と同じ音が残ってる」
千紘がしゃがみ、男の腹へ触れずに耳を傾けた。
「三人分ある。一人だけ速い。二人はずっと遅い」
「選べない二人を置いてきた?」
灯さんが聞く。
「置いてきたくなかった。だから俺の線に重ねた」
正しかったのかは誰にも分からず、本人たちが望んだかも聞けない。けれど、二人の脈は消えていない。
「返事を待てる保留を作る」
俺は暗闇の入口群を見る。
「選べる人は両側で照合する。返事がない人は、今の生命維持をそのまま通常核へ移す。統合も移送も確定しない」
「いつまで待てる」
薫が聞く。
「起きるまで。別の方法ができるまで」
「つないだ核が壊れたら?」
「ほかの自立核から支える」
「その核が全部壊れたら」
「全部壊れる前に直す」
「それ、答えになってない」
「答えじゃないのは分かってる」
薫は銃を拾わなかった。
黙ったまま、千紘の左手を見ている。
振動が変わった。
三回、短く一回。救助終了の合図が、世界中から重なる。
すべてが終わったという意味ではない。各地で、今できる移し替えが終わっただけだ。
星のような入口から、太さの違う道が中央へ伸びる。
一人分、五人分、数百人分。返事のない者を保留した灰色の道も、切られずに残っていた。
道は一枚の床にはならず、隙間だらけのまま暗闇の奥へ続いている。
「これを渡るのか」
神崎さんが黒杭を持ち上げた。
足元にいたガルが、先に一歩を置く。
最も細い線だった。
前脚が沈む。
すぐ隣から、青白い大きな手が伸びた。
フロストジャイアントの一体が、掌を線の下へ差し込んでいる。
命令は外れている。支えろと頼んでもいない。
ガルは巨人を見上げ、手の上を通った。
残り三体も別の隙間へ腕を渡す。
十四人が歩き始めた。誰かが先頭を決めたわけではない。
年配の女は自分の入口前へ残り、子供と話を続ける。腹を押さえた男は灯さんの肩を借りながら進み、蓮は灰色の保留線へチョークで印をつけた。
薫とノアはエルマーを挟まなかった。
透けた男の前を歩き、足が止まったときだけ振り返る。
俺たちも、靴幅ほどしかない線の道へ乗る。
右側が見えず、足先を置くたび暗闇へ半分はみ出している気がした。
千紘は手を貸さず、一歩前を歩き、右へ穴があるときだけ踵で二度鳴らす。
俺はその音へ足を寄せた。
道の途中で、右手首が震えた。
直人からの信号ではない。
千紘も送っていない。
道の先に、無数の入口から伸びる線を翼へ巻きつけた巨大な影がいた。
四本の脚と長い首。角は左右で形が違い、鱗の隙間に線路、枝、道路、氷、海面が浮かんでは消える。
ドラゴンだった。胸の中央へ、十一個の核を収める窪みがある。
窪みはすべて空だった。黒い翼が開き、線の道が揺れた。
神崎さんが俺より前へ出ようとする。
ドラゴンは攻撃せず、長い首を下げて俺へ頭を垂れた。
――――――――――
終端管理個体《世界杭統括竜》が適合者を確認しました。
対象情報
種族ランク:未判定
個体分類:最終管理個体
レベル:120
HP:250,000/250,000
MP:80,000/80,000
筋力:18,000
耐久:22,000
敏捷:15,000
器用:9,000
感覚:13,000
精神:20,000
適合者:大月在真
種族:《真竜人》
全迷宮管理権限を継承しますか。
承認後、通常迷宮を含む全存在へ命令可能となります。
――――――――――
どの能力も、真竜人になった俺の数値を大きく上回っている。筋力だけでも十倍を超えていた。それでも竜は牙を向けず、俺へ頭を下げていた。
星の道が、俺の足元だけ太くなった。




