第百十五話 記録から外れた十四人
十四人は、誰も走ってこなかった。走れないのだと、近づくにつれて分かった。
薫は左脚を引きずっている。ノアの右腕には新しい布が巻かれ、焼けた帯の下から血が滲んでいた。
二人に支えられたエルマーは、身体の左半分がない。骨になっているのではなく、肩から腰まで薄く透け、その向こうの吹雪が見えていた。
「止まって」
灯さんが十四人へ向かう。
「そこにいて。歩ける人も」
薫が銃を上げかける。
手が途中で止まり、銃口を氷へ下げた。
「あんた、医者か」
「救急。今はどっちでもいい。倒れる前に座って」
「座ったら凍る」
「じゃあ、そのまま」
灯さんは薫より先に、後ろの男へ手を伸ばした。
男は腹を押さえていた。指の間から血は出ていないが、顔色が白い。
「俺より先に、その人を」
男が隣の年配の女を示す。
「その人、三回吐いてる」
「あんたも見る。順番を決めるのは私」
女は何か言い返そうとして、口元を押さえた。
灯さんがしゃがみ込む。
十四人の列がそこで止まった。
「本当に来たんだな」
ノアがガルを見る。
ガルは近づかない。
ノアの右腕ではなく、十四人の胸を順に嗅ぐように鼻を動かしている。
「青い線がない」
千紘も同じ場所を見ていた。
蓮が上着の中から白いチョークを出す。
短くなった一本だ。
「青い線なら切った」
「自分で切ったのか」
「ここにいる全員、自分で切った」
蓮は氷へ十四本の短い線を引いた。
最後の一本だけ途中でチョークが折れたが、蓮は指先で欠片を拾い、続きを描いた。
「俺たちは生きてるよ」
「それは見れば分かる」
「記録の中にはいないから」
言われて、返す言葉が遅れた。
生きていることを、本人が先に説明しなければならなかった。
エルマーが薫の肩から顔を上げる。
「あなた方が返した手順を使いました」
「もう手順を実行したのか」
「実行したのは十四件だけです」
声は以前より細い。
それでも話す速度だけは変わらなかった。
「自立核へ接続できた者が九人。要支援核から自立核を経由した者が五人。中枢の生存記録を外し、個人記録を通常迷宮側へ移しました」
「ほかの人たちは」
「まだ中枢にいます」
「何で十四人だけ先に来た」
神崎さんが聞く。
「十四人で先に試したからです」
薫がエルマーの代わりに答えた。
「成功するか分からなかった。失敗したら十四人で終わらせるつもりだった」
「子供まで入れたのか」
神崎さんの声が低くなる。
「子供は俺だけだ」
蓮は折れたチョークを握った。
「薫は反対した。俺が勝手に線を切った」
「そこで胸を張るな」
「張ってないよ」
蓮は俯かなかった。
薫がその後頭部へ手を置きかけ、触れずに下ろす。
「元の世界へ戻れる?」
千紘が聞いた。
十四人の誰もすぐには答えなかった。
エルマーの透けた胸には、細い白線が一本だけ残っている。
「私たちの個人記録は通常迷宮側にあります。向こうへ戻る入口も、こちらへ出る入口も、まだ作られていません」
「じゃあ、ここを壊したあと」
「まだ分かりません」
エルマーが言い切る前に、氷が鳴った。
蓮の描いた十四本の線が黒くなる。
折れたチョークの欠片まで、指の中で灰色へ変わった。
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終端記録外生命を検出しました。
対象数:14
世界統合への再収容、または中枢破壊前の排除を実行します。
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「どっちを選んでも勝手だな」
薫が銃を構えた。
氷の下から大きな手が突き出し、青白い五本の指が床を掴んだ。続いて頭が出る。
人間の三倍はある。皮膚は凍った岩のように割れ、髭の間へ氷柱が垂れていた。
フロストジャイアント。
一体ではない。十四本の黒線を囲むように、四体が氷を割って立ち上がる。
どれも胸へ黒い四角の板が埋め込まれていた。
通常種そのものを、終端の排除装置へ変えている。
「撃つな!」
神崎さんが薫へ言った。
「頭じゃない。胸の板だ」
「胸の板だろ。分かってる」
薫は返事と同時に発砲し、一体目の胸板をわずかに欠けさせた。
巨人の腕が薫へ落ちる。前へ出たノアは短剣で受けず、焼けた右腕を黒線へ押しつけた。
火が走り、巨人の動きが一拍だけ遅れる。ガルが薫の腰へぶつかって軌道から外した。
拳が氷を砕く。割れた床が足元ごと持ち上がり、身体が傾いた。
千紘の手が鳴った。受信器ではなく、打音器を左の掌へ打ち、短い音を一度だけ氷へ落とした。
「四体じゃない。板は一つ!」
「千紘、どこだ」
「下。十四本の線の真ん中」
《音界地図》の表示が視界の端へ出る。
千紘は目を閉じない。
鼻血もない。
聞こえたものを全部追わず、足元だけへ顔を向けていた。
「深さ二メートル。巨人が踏むたび動く」
俺は黒い線へ右手をついた。
冷たさの下に、硬い引っかかりが四つある。
別々の命令ではない。一枚の排除記録を、四体へ分けている。
「あの板だけ止める」
《世界杭干渉》を使う。
壊すのではなく、四本を一つへ戻す。
右腕の内側を、凍った水が逆流した。
巨人たちが同時にこちらを向く。
「全部来るぞ!」
神崎さんが残った黒杭を氷へ横たえた。
黄色い縄を外し、杭の中央だけに一巻きする。
「蓮、そこの線を延ばせ!」
「十四本とも黒くなってる」
「色はどうでもいい!」
蓮が折れたチョークで十四本をつなぎ始める。
誰かの能力ではない。黒く染まった線を、白い粉で横切っていく。
十四人のうち、腹を押さえていた男が立ち上がった。
灯さんが腕を掴む。
「その人を座らせて」
「あれ、俺の核だ」
男は二体目の足元を指した。
「接続したとき、同じ音がした」
「まだ自分で立てる?」
「走るのは無理」
「じゃあ、私に掴まって」
灯さんは止めるのをやめ、自分の肩を貸した。
年配の女も口を押さえたまま立つ。
別の若い男がその肘を持ち、三人で氷の割れ目へ近づいた。
負傷者も、十四人を囲む側も、俺の指示を待ってはいなかった。
薫は弾を撃ち切る前に銃を捨て、黒杭の縄を取った。ノアは一体へ火を残したまま、別の巨人の踵を蹴る。
レオンが十四人の名前を聞き始めていた。
「今やるのか?」
神崎さんが怒鳴る。
「今でなければ、また番号になります!」
一人が名を答える。
次の一人は咳き込み、隣の女が代わりに呼んだ。
名前が増えるたび、氷の下の板が近くなる。
記録から外れた人間ではない。
名前を持った十四人が、ここにいる。
巨人の拳が右から来た。見えない。風圧で角の横が冷える。
衝撃を床へ逃がしても全部は消えず、胸当てが軋み、身体は横へ飛んだ。
氷へ肩から落ち、左の固定テープが裂ける。HPが三千八百へ減った。
「在真、起きて!」
千紘の声は近い。
すぐには立てず、右手だけを黒線へ戻す。四つの引っかかりが、一つに重なった。
MPは八百二十。そこから《係留》を使い、動き続ける排除板を蓮がつないだ十四本の中央へ三秒だけ留める。
「今!」
神崎さんと薫が黄色い縄を引いた。
黒杭が氷を滑る。
先端は床へ刺さらず、横倒しのまま白い線の中央を叩いた。
氷が抜ける。
レオンが穴へ腕を入れ、黒い板を掴んだ。
「さすがに重いですね」
「離せ!」
「まだ二人の名前を聞いてない」
「あとで聞ける!」
「その保証がない」
腹を押さえた男と年配の女がレオンの腰を掴み、十四人の側から引いた。
板が氷上へ出ると、四体の巨人が一斉に膝をつく。
立ち上がれないまま黒い板へ触れる。通常種の生命線と排除命令が重なっていた。胸板のときと同じだ。
命令だけを《断界》で切ると、黒い表面へ細い亀裂が走った。
四体の巨人から四角い板が外れ、氷へ落ちる。それでも青白い身体は消えなかった。
一体が倒れた仲間の肩へ手をかけた。
別の一体は、自分の胸に空いた穴を押さえている。こちらへ拳を振り下ろす個体はいなかった。
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終端排除記録の停止を確認しました。
終端記録外生命:14
通常迷宮固有核網への接続:14
個人記録の保持を確認しました。
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続いて、レベルが上がる。
最大HPとMPだけが増え、左肩の血は止まらない。
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終端排除記録の停止に参加しました。
大月在真
レベル:60 → 64
最大HP:4,660 → 4,900
最大MP:1,500 → 1,580
現在HP:3,800
現在MP:760
未配分能力値:160
スキルポイント:56 → 60
三枝千紘
レベル:45 → 48
最大HP:3,540 → 3,720
最大MP:1,260 → 1,320
現在HP:3,120
現在MP:1,060
未配分能力値:120
スキルポイント:43 → 46
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十四人の表示は消えなかった。
生存記録へ戻ったわけでもない。
それぞれの名前の横に、別々の通常迷宮名が残っている。
「全員に使えるのか」
エルマーへ聞く。
半身のない男は、薫から離れて自分の足で立とうとしていた。
「全員分の核が足りません」
「あといくつ足りない」
「六万二千三百九十七人へ、一人一基は用意できない」
「一人ずつじゃなくていい」
腹を押さえていた男が言った。
「俺のところ、三人まで音が重なった。怖くなって、俺だけ来た」
年配の女が口元から手を外す。
「私のは五人。残った四人、まだ向こうにいる」
十四人は、十四個の核を使ったわけではなかった。同じ通常迷宮へ、複数の個人記録を残せる。
千紘の左手が震える。
世界中の中継器からだった。
二回、三回、五回。同じ核へ入った数が、場所ごとに返ってくる。
終端側が用意した三つの手順ではない。外にいる人たちが、四つ目を作り始めていた。
氷原の先で、黒い壁が左右へ開く。
その向こうには床がなかった。
数え切れない迷宮の入口が、夜空の星のように浮いていた。




