第百十四話 搬送先なし
運転席で、もう一度息を吸う音がした。
深くはない。眠っていた人間が目を覚ましたときのような、喉の奥で引っかかる呼吸だった。
「望月さん?」
千紘が呼ぶ。
返事はなかった。
助手席側から回り込もうとした神崎さんを、灯さんが肘で止める。
「後ろ」
開いていた後部扉が閉まり始めていた。
ガルが鼻先を差し込む。扉はその背へ当たって止まらず、黒い毛を透けて進んだ。ガルの身体ではなく、道路の記録だけを閉じようとしている。
「中へ入れる気はあるみたいだな」
「親切ではないでしょうね」
レオンが扉の縁へ記録板を挟んだ。
今度は止まった。
空のストレッチャーには、指輪が転がった跡だけが残っていた。
銀色の細い筋を覗き込むと、二つへ分かれた。片方は病室の白い壁へ続き、もう片方は知らない台所の床へ伸びていた。
壁際には子供用の椅子がある。誰の家かは分からない。ただ、テーブルへ置かれた黒い耳当てと、取っ手の曲がった古鍋には見覚えがあった。
視線を外す。
台所は消えた。
「何が見えた?」
千紘が聞いた。
「家が見えた」
「どこの家だ」
「分からない。ガルの鍋があった」
「指輪はどうなった」
「見たことない指輪」
「私も。私の指には大きかった」
千紘にも見えていた。
同じものを見せられたわけではない。
「俺には、はめてるところまで見えてない」
「私もそこまでは」
少し間が空く。
「なんで張り合ってるの」
「張り合ってない」
「ならいいけど」
運転席で布の擦れる音がした。
女が振り返る。
紺色の救急服。後ろで束ねた髪。東京救急三十八号に乗っていた望月志保と同じ顔だった。
以前に見た記録とは違い、胸が呼吸で動いている。目も、俺たちを順に追った。
「三十八号、搬送対象あり。乗員六名」
声を聞いたガルが、後部扉から離れた。
「搬送対象は誰です」
灯さんが尋ねる。
望月の視線が空のストレッチャーへ落ちる。
「搬送対象あり。乗員六名」
「名前」
「記録なし」
「怪我の記録は」
「記録なし」
「生きてる人なの?」
望月の口が開いた。
声は出ない。
代わりに俺の右手首が強く震え、千紘が左手を押さえた。
「今の、私じゃない」
「外から聞こえたのか?」
「違う。もっと近い」
厚くなっていた道路の端で、氷の板が白さを増していた。
その奥に人影がある。一人ではない。吹雪に消え、数までは見えなかった。
「先に氷へ渡るか」
神崎さんが黒杭へ巻いた縄を解く。
道路から氷までは三メートルもない。
けれど、一歩踏み出したレオンの爪先が道路へ戻ってきた。本人は前へ進んでいるのに、二歩目も同じ場所へ落ちる。
「距離が記録されていません」
レオンは足を止めた。
「この車で搬送しなければ、次の場所が決まらない」
「誰か寝かせるの?」
灯さんがストレッチャーを見る。
「嫌ですよ」
「私も嫌。聞いただけ」
神崎さんは残った二本の黒杭を路面へ置いた。片方には黄色い縄が巻きついたままだ。もう片方を持ち上げ、ストレッチャーへ載せる。
「これでどうだ」
固定金具がひとりでに閉じた。
黒杭の中央へベルトが二本かかる。
望月が前を向く。
「三十八号、搬送対象あり。乗員六名」
「変わらないな」
「対象の記録がないからです」
レオンが後部へ乗り込み、固定された黒杭を記録板で軽く叩く。
「名称、世界杭搬送管理個体から回収。黒杭一。状態、機能残存。所有者なし」
天井の照明が赤から白へ変わった。
「搬送対象一。乗員――」
望月の声が止まる。俺たちは、まだ外にいる。
「乗らなければ六名にならない」
レオンは降りようとしなかった。
「私だけが乗れば、乗員一名になるのか。残り五名を道路へ置いたまま六名と数えるのか。確認できます」
「確認して違ったら?」
神崎さんが聞く。
「扉を開けてください」
「それは確認じゃなくて賭けだ」
「記録は大抵そうです」
神崎さんが顔をしかめる。
俺より先に後部へ乗った。
「扉は俺が持つ。灯、外を見てろ」
「私も乗る」
「見てろって」
「中から見た方が早い」
灯さんは医療袋を先に放り込んだ。
千紘が俺の左に立つ。
「分かれても同じだった」
「今度は同じ車に乗れって?」
「たぶん。嫌だけど」
「俺も同じだ」
ガルは乗らない。後部の金具を嗅いで道路の端へ戻り、氷の向こうにいる人影へ低く唸った。
「置いていけない」
「乗せる必要はないかもしれない」
千紘が車体を指で叩いた。薄い振動が道路へ流れ、ガルの足元で一度返る。
「車の中と外が同じ床。さっきみたいに見えてる場所だけ違う」
俺は黄色い縄を自分の安全帯へ通した。反対側は黒杭に巻かれ、その先をガルが踏んでいる。
「走り出したら離すなよ」
言ってから、誰に向けたのか自分でも分からなかった。
ガルは顔を上げない。
俺と千紘も後部へ入ると、扉が閉まった。
「搬送対象一。乗員六名」
望月が言った。
ガルを含めて数えている。
エンジンがかかる。車体は走り出したが、窓の外の道路は動かず、速度計だけが二十、四十、六十と上がる。
荷室の床が細かく震え、左肩のテープが皮膚を引いた。
「右へ曲がります」
望月が告げる。
前方には道がない。
右は海面だった。
ハンドルが切られ、救急車の前半分が灰色の水へ入る。水はフロントガラスへ当たらず、車体の下で道路に変わった。
次は樹海だった。枝が屋根を貫き、荷室の壁から葉が生える。灯さんは頭を下げるより先に、医療袋を足元へ抱き寄せた。
「次、下がる!」
千紘の声で全員がベルトや手すりを掴む。
氷原へ落ちた。
身体が一瞬だけ浮き、黒杭が固定具の中で跳ねる。
左肩へ熱が走った。
息を止める。
HPは減っていない。
灯さんはこちらを見たが、車が傾いている間は手を伸ばさなかった。
「開いてない?」
「たぶん、開いてる」
「止まってから見る」
「ちゃんと止まればね」
「俺が止める」
救急車は五つの床を横切るたび、形を少しずつ失った。ミラーが消え、窓がなくなり、荷室の壁が白く透ける。
最後に残ったのは運転席とストレッチャーだけで、望月の背中も薄くなる。
「搬送先を入力してください」
前方に三つの文字が浮かんだ。
《世界統合》
《全迷宮消去》
《中枢破壊》
どれかを選べば、この車はそこへ行く。
今なら、たぶん最深部まで届く。
「入力しない」
俺が言うと、望月の顔が少しだけ左へ向いた。
「搬送先がありません」
「途中で降ろして」
灯さんが答える。
「搬送先がありません」
「目の前でいい」
「搬送先が――」
神崎さんが前席の背を叩いた。
「救急車だろ。患者が行き先を決められないなら、運転してる方が安全な場所を探せ」
望月は黙った。
記録だから理解しないはずだった。
それでも、ハンドルを握る指が動いた。
「路上停車します」
ブレーキがかかる。
壁を失った荷室から五人の身体が氷へ投げ出され、ガルは最初からそこにいたように俺たちの横へ着地した。
ストレッチャーだけが車内へ残った。
「残ってる杭は」
神崎さんが立ち上がる。
透明になった救急車の中で、黒杭が望月と一緒に遠ざかっていた。
「ここへ置いていく」
もう追えない。
一本は黄色い縄と一緒にこちらへある。神崎さんは残った方を担ぎ直した。
吹雪が弱くなり、氷の向こうにいた影がこちらへ歩いてきた。
千紘が数える。
「入口に十四人いる」
先頭の二人は薫とノアだった。
二人の間で、半身のないエルマーが肩を借りている。
その後ろに蓮と、見覚えのない十人。
全員の胸から、青い線が消えていた。




