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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第二十三章 すべての迷宮の先

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第百十四話 搬送先なし

 運転席で、もう一度息を吸う音がした。


 深くはない。眠っていた人間が目を覚ましたときのような、喉の奥で引っかかる呼吸だった。


「望月さん?」


 千紘が呼ぶ。


 返事はなかった。


 助手席側から回り込もうとした神崎さんを、灯さんが肘で止める。


「後ろ」


 開いていた後部扉が閉まり始めていた。


 ガルが鼻先を差し込む。扉はその背へ当たって止まらず、黒い毛を透けて進んだ。ガルの身体ではなく、道路の記録だけを閉じようとしている。


「中へ入れる気はあるみたいだな」


「親切ではないでしょうね」


 レオンが扉の縁へ記録板を挟んだ。


 今度は止まった。


 空のストレッチャーには、指輪が転がった跡だけが残っていた。


 銀色の細い筋を覗き込むと、二つへ分かれた。片方は病室の白い壁へ続き、もう片方は知らない台所の床へ伸びていた。


 壁際には子供用の椅子がある。誰の家かは分からない。ただ、テーブルへ置かれた黒い耳当てと、取っ手の曲がった古鍋には見覚えがあった。


 視線を外す。


 台所は消えた。


「何が見えた?」


 千紘が聞いた。


「家が見えた」


「どこの家だ」


「分からない。ガルの鍋があった」


「指輪はどうなった」


「見たことない指輪」


「私も。私の指には大きかった」


 千紘にも見えていた。


 同じものを見せられたわけではない。


「俺には、はめてるところまで見えてない」


「私もそこまでは」


 少し間が空く。


「なんで張り合ってるの」


「張り合ってない」


「ならいいけど」


 運転席で布の擦れる音がした。


 女が振り返る。


 紺色の救急服。後ろで束ねた髪。東京救急三十八号に乗っていた望月志保と同じ顔だった。


 以前に見た記録とは違い、胸が呼吸で動いている。目も、俺たちを順に追った。


「三十八号、搬送対象あり。乗員六名」


 声を聞いたガルが、後部扉から離れた。


「搬送対象は誰です」


 灯さんが尋ねる。


 望月の視線が空のストレッチャーへ落ちる。


「搬送対象あり。乗員六名」


「名前」


「記録なし」


「怪我の記録は」


「記録なし」


「生きてる人なの?」


 望月の口が開いた。


 声は出ない。


 代わりに俺の右手首が強く震え、千紘が左手を押さえた。


「今の、私じゃない」


「外から聞こえたのか?」


「違う。もっと近い」


 厚くなっていた道路の端で、氷の板が白さを増していた。


 その奥に人影がある。一人ではない。吹雪に消え、数までは見えなかった。


「先に氷へ渡るか」


 神崎さんが黒杭へ巻いた縄を解く。


 道路から氷までは三メートルもない。


 けれど、一歩踏み出したレオンの爪先が道路へ戻ってきた。本人は前へ進んでいるのに、二歩目も同じ場所へ落ちる。


「距離が記録されていません」


 レオンは足を止めた。


「この車で搬送しなければ、次の場所が決まらない」


「誰か寝かせるの?」


 灯さんがストレッチャーを見る。


「嫌ですよ」


「私も嫌。聞いただけ」


 神崎さんは残った二本の黒杭を路面へ置いた。片方には黄色い縄が巻きついたままだ。もう片方を持ち上げ、ストレッチャーへ載せる。


「これでどうだ」


 固定金具がひとりでに閉じた。


 黒杭の中央へベルトが二本かかる。


 望月が前を向く。


「三十八号、搬送対象あり。乗員六名」


「変わらないな」


「対象の記録がないからです」


 レオンが後部へ乗り込み、固定された黒杭を記録板で軽く叩く。


「名称、世界杭搬送管理個体から回収。黒杭一。状態、機能残存。所有者なし」


 天井の照明が赤から白へ変わった。


「搬送対象一。乗員――」


 望月の声が止まる。俺たちは、まだ外にいる。


「乗らなければ六名にならない」


 レオンは降りようとしなかった。


「私だけが乗れば、乗員一名になるのか。残り五名を道路へ置いたまま六名と数えるのか。確認できます」


「確認して違ったら?」


 神崎さんが聞く。


「扉を開けてください」


「それは確認じゃなくて賭けだ」


「記録は大抵そうです」


 神崎さんが顔をしかめる。


 俺より先に後部へ乗った。


「扉は俺が持つ。灯、外を見てろ」


「私も乗る」


「見てろって」


「中から見た方が早い」


 灯さんは医療袋を先に放り込んだ。


 千紘が俺の左に立つ。


「分かれても同じだった」


「今度は同じ車に乗れって?」


「たぶん。嫌だけど」


「俺も同じだ」


 ガルは乗らない。後部の金具を嗅いで道路の端へ戻り、氷の向こうにいる人影へ低く唸った。


「置いていけない」


「乗せる必要はないかもしれない」


 千紘が車体を指で叩いた。薄い振動が道路へ流れ、ガルの足元で一度返る。


「車の中と外が同じ床。さっきみたいに見えてる場所だけ違う」


 俺は黄色い縄を自分の安全帯へ通した。反対側は黒杭に巻かれ、その先をガルが踏んでいる。


「走り出したら離すなよ」


 言ってから、誰に向けたのか自分でも分からなかった。


 ガルは顔を上げない。


 俺と千紘も後部へ入ると、扉が閉まった。


「搬送対象一。乗員六名」


 望月が言った。


 ガルを含めて数えている。


 エンジンがかかる。車体は走り出したが、窓の外の道路は動かず、速度計だけが二十、四十、六十と上がる。


 荷室の床が細かく震え、左肩のテープが皮膚を引いた。


「右へ曲がります」


 望月が告げる。


 前方には道がない。


 右は海面だった。


 ハンドルが切られ、救急車の前半分が灰色の水へ入る。水はフロントガラスへ当たらず、車体の下で道路に変わった。


 次は樹海だった。枝が屋根を貫き、荷室の壁から葉が生える。灯さんは頭を下げるより先に、医療袋を足元へ抱き寄せた。


「次、下がる!」


 千紘の声で全員がベルトや手すりを掴む。


 氷原へ落ちた。


 身体が一瞬だけ浮き、黒杭が固定具の中で跳ねる。


 左肩へ熱が走った。


 息を止める。


 HPは減っていない。


 灯さんはこちらを見たが、車が傾いている間は手を伸ばさなかった。


「開いてない?」


「たぶん、開いてる」


「止まってから見る」


「ちゃんと止まればね」


「俺が止める」


 救急車は五つの床を横切るたび、形を少しずつ失った。ミラーが消え、窓がなくなり、荷室の壁が白く透ける。


 最後に残ったのは運転席とストレッチャーだけで、望月の背中も薄くなる。


「搬送先を入力してください」


 前方に三つの文字が浮かんだ。


《世界統合》


《全迷宮消去》


《中枢破壊》


 どれかを選べば、この車はそこへ行く。


 今なら、たぶん最深部まで届く。


「入力しない」


 俺が言うと、望月の顔が少しだけ左へ向いた。


「搬送先がありません」


「途中で降ろして」


 灯さんが答える。


「搬送先がありません」


「目の前でいい」


「搬送先が――」


 神崎さんが前席の背を叩いた。


「救急車だろ。患者が行き先を決められないなら、運転してる方が安全な場所を探せ」


 望月は黙った。


 記録だから理解しないはずだった。


 それでも、ハンドルを握る指が動いた。


「路上停車します」


 ブレーキがかかる。


 壁を失った荷室から五人の身体が氷へ投げ出され、ガルは最初からそこにいたように俺たちの横へ着地した。


 ストレッチャーだけが車内へ残った。


「残ってる杭は」


 神崎さんが立ち上がる。


 透明になった救急車の中で、黒杭が望月と一緒に遠ざかっていた。


「ここへ置いていく」


 もう追えない。


 一本は黄色い縄と一緒にこちらへある。神崎さんは残った方を担ぎ直した。


 吹雪が弱くなり、氷の向こうにいた影がこちらへ歩いてきた。


 千紘が数える。


「入口に十四人いる」


 先頭の二人は薫とノアだった。


 二人の間で、半身のないエルマーが肩を借りている。


 その後ろに蓮と、見覚えのない十人。


 全員の胸から、青い線が消えていた。

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