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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第二十三章 すべての迷宮の先

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第百十三話 同じ床に立てない

 最初に動いたのは、海面だった。


 薄い水の板が足首を通り抜け、膝の高さまでせり上がる。濡れた感触はない。代わりに身体が軽くなり、靴底が線路から浮いた。


「踏ん張るな」


 神崎さんの声と同時に、氷が割れた。


 足元の白い筋が一気に枝分かれする。


 右足を引こうとしたが、踵だけが道路へ貼りついた。上半身は海へ浮き、左足は氷に残される。


 三つの方向から引かれ、左肩の奥で留め直したばかりの傷が脈を打つ。


「在真」


 千紘の手が胸当てへ届く前に、その姿が横へずれた。


 離れたわけではない。俺の左手は千紘の腕へ触れている。それなのに目に見える千紘は、線路二本分向こうの枝の上に立っていた。


「触ってる?」


「触ってる」


「私も」


 指先の体温と、見えている位置が合わない。


 ガルの低い唸りが足元から響いた。


 姿は海面の下にいる。前脚だけが道路へ出て、尾は樹海の枝へ巻きつくように曲がって見えた。


「動くな。全員、今触れてる床を言え」


 神崎さん自身は、腰から下が氷へ沈んでいる。


「線路と海が重なってる」


「枝の上。たぶん道路も重なってる」


「私の足元は氷」


 灯さんはしゃがんでいた。


 右膝は氷へついているのに、左足は何もない場所を踏んでいる。


「私の左足、どこ?」


「道路です」


 レオンが答えた。


 声はすぐ横から聞こえるのに、本人は遠くの海面へ胸まで沈んでいる。


「私の右手は枝です。左足が線路。見えている位置を基準にしないでください」


「無茶言うな」


 神崎さんが黄色いロープへ手をかける。


 灯さんの袋へ留めたままだった端を引き、俺へ投げようとした。


 縄は手を離れなかった。


 神崎さんの指から一メートルほど先で五本に分かれ、それぞれ別の床へ垂れる。


「この重なりを切る?」


 灯さんが聞く。


「待て」


 切れば戻るかもしれない。その逆もある。俺たちを六人と認識しているのが、あの縄だけなら。


 考えたところで、氷の割れる音が下から上へ走った。


 腰が落ちる。


 咄嗟に掴んだのは線路だった。冷たい鉄へ右手を回すと、海の浮力が強まり、今度は肩から上へ引かれる。


「ガル!」


 黒い毛が視界を横切る。


 ガルは俺ではなく、五本に分かれた黄色い縄へ噛みついた。


 首を振る。


 一本が枝から外れ、灯さんの左足が何もないところから道路へ落ちた。


「そういうこと?」


 千紘が耳当ての上から左耳を押さえる。


「床が分けてるんじゃない。私たちの方を、前に通った場所へ分けてる」


 遠くで発車ベルが鳴った。


 線路が後ろへ走り出す。


 握った右腕ごと持っていかれそうになり、指を離した。落ちると思った身体は落ちず、樹海の枝へ背中からぶつかる。


 葉が肌を擦った。今度は本物だった。濡れた土と青臭い樹液の匂いが鼻へ入り、五つのうち樹海だけが急に厚みを持ったと分かる。


「枝!」


 俺が叫ぶより早く、灯さんが医療袋を投げた。


 袋は空中で三つに分かれ、そのうち一つだけが枝へ落ちる。


 灯さんは残った肩紐へ両腕を通したまま引かれ、樹海の板へ滑り込んだ。


「来れる人だけ来て!」


「どうやってだよ」


「知らない!」


 灯さんは袋を抱え、太い枝へ身体を押しつける。


 いつもなら処置の順番を崩さない人が、どう来るかをこちらへ投げ返した。


 神崎さんは黒杭を一本、肩から下ろした。


 先を床へ向けない。


 横に寝かせ、五本へ分かれた黄色い縄をまとめて巻きつける。


「杭として使うなよ」


「見りゃ分かる」


「言っとかないと刺すだろ」


「誰に向かって言ってる」


 言い合いながら、神崎さんが黒い棒を回した。


 分かれていた縄が一本へ寄る。完全には重ならず、黄色い繊維の間から海水と氷片と枯れ葉が同時にこぼれた。


 レオンが海面から腕を伸ばし、棒の反対側を掴む。


「これは、石狩の記録にはありませんね」


「なくていい。持て」


「持っています」


 千紘が枝の上で膝をついた。


 見えている姿はまだ遠い。だが、俺の左手には腕の感触が残っている。


「在真、引いて」


「どっちへ引くんだ」


「私の手」


「見えてない」


「触ってるでしょ」


 言われて、指へ力を入れた。


 細い手首が返してくる。


 見えている千紘ではなく、触れている方を引く。何もない空間から肩が現れ、次に髪、耳当て、顔が戻った。


 千紘は俺の胸へぶつかり、そのまま枝の上へ倒れ込む。


「痛い」


「悪い、力を抜く」


「強くなりすぎ」


「今言う?」


「今だから」


 息を吐いた千紘の向こうで、海面が薄くなった。


 樹海の板が厚くなるたび、ほかの四枚は透けていく。


「順番がある」


 千紘は床へ耳をつけなかった。


 打音器も出さない。


 枝の震えを靴底で確かめ、神崎さんの黒杭へ続く縄を見た。


「五つとも、厚くなるときがある。今はここ」


「次はどこへ行く?」


「まだ分からない」


「聞けば――」


「今は聞かない」


 千紘が俺を見る。


 強く言ったわけではない。それで十分だった。


「分かった」


 神崎さんとレオンが黒杭を引く。


 縄に触れていた灯さんの姿が一つへ戻り、ガルが枝の下から這い上がった。


 最後にレオンが海面から抜ける。


 神崎さんだけが氷へ腰まで残った。


「先に行け」


「その言い方、やめた方がいいです」


 灯さんが枝を滑り、神崎さんの腕を掴む。


「何がだ」


「置いていけに聞こえる」


「先に縄を引けって意味だ」


「そう言って」


 レオンが黒杭へもう一巻き加え、俺も棒の中央を掴んだ。


 引く。


 神崎さんの身体が氷から抜けた。


 右足だけが最後まで白く透けていたが、ガルが靴の踵を鼻先で押すと、黒い作業靴へ戻った。


 六人が同じ枝に乗った瞬間、枝が裏返った。


 腹が浮く。


 葉も土も頭上へ落ちていき、俺たちの身体だけが樹皮へ張りついた。


「次、来る!」


 千紘が叫ぶ。


 枝の奥から、車の走行音が近づいていた。


 道路の板が厚くなり始める。


 俺たちは黄色い縄を離さず、枝が薄くなる前に足を移した。


 道路へ着いた途端、頭上を走っていた土が消えた。


 濡れたアスファルトが靴の下へ戻る。


 前方に、古い救急車が停まっていた。東京救急三十八号。後部扉は開いているが、中には誰もいない。


 空のストレッチャーの上へ、銀色の指輪が一つ置かれていた。


 注文したものとは違う。


 幅も、傷も、俺は知らない。


 千紘が俺の左手を掴んだ。


「触らないで」


「触らない」


 指輪がひとりでに転がった。


 車内の床へ落ちる前に消え、右手首の受信器が一度だけ強く震える。


 救急車の運転席で、誰かが息を吸った。

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