第百十三話 同じ床に立てない
最初に動いたのは、海面だった。
薄い水の板が足首を通り抜け、膝の高さまでせり上がる。濡れた感触はない。代わりに身体が軽くなり、靴底が線路から浮いた。
「踏ん張るな」
神崎さんの声と同時に、氷が割れた。
足元の白い筋が一気に枝分かれする。
右足を引こうとしたが、踵だけが道路へ貼りついた。上半身は海へ浮き、左足は氷に残される。
三つの方向から引かれ、左肩の奥で留め直したばかりの傷が脈を打つ。
「在真」
千紘の手が胸当てへ届く前に、その姿が横へずれた。
離れたわけではない。俺の左手は千紘の腕へ触れている。それなのに目に見える千紘は、線路二本分向こうの枝の上に立っていた。
「触ってる?」
「触ってる」
「私も」
指先の体温と、見えている位置が合わない。
ガルの低い唸りが足元から響いた。
姿は海面の下にいる。前脚だけが道路へ出て、尾は樹海の枝へ巻きつくように曲がって見えた。
「動くな。全員、今触れてる床を言え」
神崎さん自身は、腰から下が氷へ沈んでいる。
「線路と海が重なってる」
「枝の上。たぶん道路も重なってる」
「私の足元は氷」
灯さんはしゃがんでいた。
右膝は氷へついているのに、左足は何もない場所を踏んでいる。
「私の左足、どこ?」
「道路です」
レオンが答えた。
声はすぐ横から聞こえるのに、本人は遠くの海面へ胸まで沈んでいる。
「私の右手は枝です。左足が線路。見えている位置を基準にしないでください」
「無茶言うな」
神崎さんが黄色いロープへ手をかける。
灯さんの袋へ留めたままだった端を引き、俺へ投げようとした。
縄は手を離れなかった。
神崎さんの指から一メートルほど先で五本に分かれ、それぞれ別の床へ垂れる。
「この重なりを切る?」
灯さんが聞く。
「待て」
切れば戻るかもしれない。その逆もある。俺たちを六人と認識しているのが、あの縄だけなら。
考えたところで、氷の割れる音が下から上へ走った。
腰が落ちる。
咄嗟に掴んだのは線路だった。冷たい鉄へ右手を回すと、海の浮力が強まり、今度は肩から上へ引かれる。
「ガル!」
黒い毛が視界を横切る。
ガルは俺ではなく、五本に分かれた黄色い縄へ噛みついた。
首を振る。
一本が枝から外れ、灯さんの左足が何もないところから道路へ落ちた。
「そういうこと?」
千紘が耳当ての上から左耳を押さえる。
「床が分けてるんじゃない。私たちの方を、前に通った場所へ分けてる」
遠くで発車ベルが鳴った。
線路が後ろへ走り出す。
握った右腕ごと持っていかれそうになり、指を離した。落ちると思った身体は落ちず、樹海の枝へ背中からぶつかる。
葉が肌を擦った。今度は本物だった。濡れた土と青臭い樹液の匂いが鼻へ入り、五つのうち樹海だけが急に厚みを持ったと分かる。
「枝!」
俺が叫ぶより早く、灯さんが医療袋を投げた。
袋は空中で三つに分かれ、そのうち一つだけが枝へ落ちる。
灯さんは残った肩紐へ両腕を通したまま引かれ、樹海の板へ滑り込んだ。
「来れる人だけ来て!」
「どうやってだよ」
「知らない!」
灯さんは袋を抱え、太い枝へ身体を押しつける。
いつもなら処置の順番を崩さない人が、どう来るかをこちらへ投げ返した。
神崎さんは黒杭を一本、肩から下ろした。
先を床へ向けない。
横に寝かせ、五本へ分かれた黄色い縄をまとめて巻きつける。
「杭として使うなよ」
「見りゃ分かる」
「言っとかないと刺すだろ」
「誰に向かって言ってる」
言い合いながら、神崎さんが黒い棒を回した。
分かれていた縄が一本へ寄る。完全には重ならず、黄色い繊維の間から海水と氷片と枯れ葉が同時にこぼれた。
レオンが海面から腕を伸ばし、棒の反対側を掴む。
「これは、石狩の記録にはありませんね」
「なくていい。持て」
「持っています」
千紘が枝の上で膝をついた。
見えている姿はまだ遠い。だが、俺の左手には腕の感触が残っている。
「在真、引いて」
「どっちへ引くんだ」
「私の手」
「見えてない」
「触ってるでしょ」
言われて、指へ力を入れた。
細い手首が返してくる。
見えている千紘ではなく、触れている方を引く。何もない空間から肩が現れ、次に髪、耳当て、顔が戻った。
千紘は俺の胸へぶつかり、そのまま枝の上へ倒れ込む。
「痛い」
「悪い、力を抜く」
「強くなりすぎ」
「今言う?」
「今だから」
息を吐いた千紘の向こうで、海面が薄くなった。
樹海の板が厚くなるたび、ほかの四枚は透けていく。
「順番がある」
千紘は床へ耳をつけなかった。
打音器も出さない。
枝の震えを靴底で確かめ、神崎さんの黒杭へ続く縄を見た。
「五つとも、厚くなるときがある。今はここ」
「次はどこへ行く?」
「まだ分からない」
「聞けば――」
「今は聞かない」
千紘が俺を見る。
強く言ったわけではない。それで十分だった。
「分かった」
神崎さんとレオンが黒杭を引く。
縄に触れていた灯さんの姿が一つへ戻り、ガルが枝の下から這い上がった。
最後にレオンが海面から抜ける。
神崎さんだけが氷へ腰まで残った。
「先に行け」
「その言い方、やめた方がいいです」
灯さんが枝を滑り、神崎さんの腕を掴む。
「何がだ」
「置いていけに聞こえる」
「先に縄を引けって意味だ」
「そう言って」
レオンが黒杭へもう一巻き加え、俺も棒の中央を掴んだ。
引く。
神崎さんの身体が氷から抜けた。
右足だけが最後まで白く透けていたが、ガルが靴の踵を鼻先で押すと、黒い作業靴へ戻った。
六人が同じ枝に乗った瞬間、枝が裏返った。
腹が浮く。
葉も土も頭上へ落ちていき、俺たちの身体だけが樹皮へ張りついた。
「次、来る!」
千紘が叫ぶ。
枝の奥から、車の走行音が近づいていた。
道路の板が厚くなり始める。
俺たちは黄色い縄を離さず、枝が薄くなる前に足を移した。
道路へ着いた途端、頭上を走っていた土が消えた。
濡れたアスファルトが靴の下へ戻る。
前方に、古い救急車が停まっていた。東京救急三十八号。後部扉は開いているが、中には誰もいない。
空のストレッチャーの上へ、銀色の指輪が一つ置かれていた。
注文したものとは違う。
幅も、傷も、俺は知らない。
千紘が俺の左手を掴んだ。
「触らないで」
「触らない」
指輪がひとりでに転がった。
車内の床へ落ちる前に消え、右手首の受信器が一度だけ強く震える。
救急車の運転席で、誰かが息を吸った。




