第百十話 杭の向きを変える
黒い杭を抜けばオーガは楽になる。見ただけならそう思うが、灯さんは抜かなかった。
杭の周りへ布を当て、身体との隙間を押さえている。オーガが暴れようとすると、胸ではなく顎を手で止めた。
何か言っているが、透明な壁に遮られて声は届かない。オーガの手が上がり、灯さんを払うのかと思った。けれど太い指は自分の胸へ伸び、杭の根元で止まる。抜くなと、自分でも分かっている。
「あの核、オーガのものか」
「個体の核ではありません。自分で持って逃げたように見えます」
レオンは壁越しに、オーガの足元を見ていた。
オーガの脇には粗い布の袋が落ち、中に小さな魔石と干した肉が入っていた。迷宮が終端へ引かれたから、核を持って逃げた。
逃げる途中でも核を捨てなかった。人間が守ろうとするのと変わらない。
「壁を壊すか」
神崎さんがバールを出した。
「切ったら、向こうの道ごと止まる」
「壊さず通れる場所を探す」
壁へバールの先を当てる。叩かず、上下へ滑らせて継ぎ目を探す。
千紘がこちらへ顔を向け、左手を二度握る。右手首へ同じ二回が来て、俺も二度返した。
次に千紘は、黒い杭から伸びる線、その先で通常側の床を回る青と緑の細い線、さらに俺の手を順に指した。
「向きを変えろってことか」
千紘が頷く。
レオンが復元した水色の輪を見る。
黒線はそこを通って門の奥へ続いている。石狩の物理核を引く流れと、オーガへ刺さる杭を、同じ記録がつないでいた。
「こっちから触れる」
俺は水色の輪へ右手を置いた。
《世界杭干渉》が開く。昨日の用水路より重い。
石狩だけではない。復元した一つの記録を入口に、同じ形で収容された核が重なっている。
黒い杭を抜くのではなく、行き先を終端柱から通常迷宮側の線へ変える。
向こうの青と緑は見えるが、どれへつなぐべきか分からない。
自立核、要支援、判別不能。色では分かれていなかった。
「千紘、選べるか」
声は壁で潰れる。
代わりに、千紘が打音器を床へ当てた。
《音界地図》を使う。
通常側の道が震えた。
魔物の足音も、灯さんの呼吸も、オーガの心臓も一度だけ遠ざかる。
青と緑の線が音の速さで分かれた。自力で回る核は二回。途中で止まり、ほかの核から返されるものは三回。返らないものもある。
千紘が一番太い二回の線へ手を置く。
俺の右手首も二度鳴った。
「そこだ」
黒い接続を押しても動かず、MPだけが先に削られそうになる。
「大月、腰」
神崎さんが後ろから安全帯を引いた。
「身体ごと持っていかれてる」
自分では右腕しか前へ出していないつもりだったが、靴の先が水色の輪へ半分入っていた。
神崎さんが柱へロープを回し、俺の腰と結んだ。
「続けろ。こっちは持つ」
命令されているのに嫌ではなかった。今は身体を戻す手がいる。
黒い杭の行き先を、太い二回の線へ重ねる。
《世界杭干渉》を使った。
MPが八十減る。
壁の向こうで杭が横を向き、オーガの身体を貫いたまま先端だけが終端柱から離れていく。
ガルが噛む位置を変え、ゴブリンとコボルトが押す。スケルトンが角度を保ち、灯さんは杭の根元へ手を添えたままオーガの身体を倒した。
黒線の先が青と緑の輪へ入り、真っ黒だった杭の表面へ水色の筋が一本通った。
――――――――――
通常迷宮固有核を終端柱から分離しました。
接続先:
自立核系統
要支援核一基を仮接続します。
相互接続記録:1
――――――――――
オーガの胸から杭がゆっくり抜けても、穴は消えない。
灯さんがすぐに布を詰め、両手で圧迫した。
《生命縫合》の白い糸が傷の周りへ広がる。
ガルは抜けた杭を噛んだままオーガから離れ、食いちぎらず、水色へ変わった線が消えるまで床へ押さえている。
千紘が左手を二度握った。
俺も返す。
「一個、つながった。けど、一個ずつじゃ間に合わないな」
神崎さんは通常側の奥を見た。黒い杭は、数えられる範囲だけで百を超えている。
レオンも水色の輪から目を離さない。
「今の形は記録されました。ただ、別の状態も必要かもしれません」
「種類も数も出さずに、か」
「はい」
神崎さんは濡れた手袋で顔を拭った。
壁の向こうでオーガが目を開き、灯さん、ガル、胸から抜けた杭の順に見て、腕を上げた。
灯さんが傷口を押さえたまま何か言うが、オーガは止まらない。
大きな手がガルの頭へ伸びても、ガルは避けなかった。指先が額へ触れる。
撫でるというより、そこにいることを確かめるような一度だった。
その手が床へ落ちると、灯さんは顔をしかめ、また傷へ集中した。
終端側の奥から、金属が引きずられる音がした。
水色の輪が暗くなる。
レオンが樹脂板を押さえた。
「記録固定が切れます」
「あと何分持つ」
「一分も持ちません」
「もう一度使えるか」
「使えます。ただ、同じ記録を固定し直せる保証はありません」
門の向こうで、黒い影が起き上がる。
人の形だが頭はない。左手に円盾、右手に長い斧を持ち、背中へ三本の黒杭を差している。デュラハン。
首のない鎧騎士は、普通なら失った頭を探す魔物だと資料にあった。
こいつが探しているのは頭ではなかった。胸当ての中央に、復元した石狩の輪と同じ大きさの空の窪みがある。
デュラハンが斧を床へ落としても衝撃は来ず、代わりに通常側の黒杭が一斉に立った。
抜けたばかりの水色の杭まで黒へ戻る。
ガルが口を離す前に、杭が跳ねた。
透明な壁を突き抜け、こちらへ飛んでくる。神崎さんが俺の前へ円形盾を出し、《集団防壁》を展開した。
半透明の面へ杭が当たり、神崎さんの靴が床を滑る。
止まらない。俺も両手で盾の裏を押すと、左肩の傷が熱を持った。
杭の先端が、防壁を一枚ずつ割っていった。




