第百九話 十二人で帰った記録
長い一回はそれきりだった。右手首を二度叩いても、返事は来ない。
「今なら戻るか」
神崎さんが聞いた。
すぐに戻れとは言わない。
「座標は残ってます」
「戻る道の方は」
「残ってる保証はないです」
「じゃあ戻るなら今だ。扉が増える前に」
十一個の空窪みがある門を見る。ここを止めても、千紘たちの道が失敗する。向こうへ戻っても、中枢路が止まれば同じだった。
「それでも進みます」
「分かった。三分だ」
神崎さんは新しいロープの長さを確かめた。
「ただし、次の信号が来るまで三分。何もなければ一度分岐を探す」
「三分で戻れるとは」
「探すって言った。戻れるとは言ってない」
俺より雑に聞こえる。
レオンは門の前へ座り込み、三枚の樹脂板を床へ並べた。
「復元する記録を選びます」
「十一個のどれでもいいのか」
「表示だけなら」
エルマーの写真を門へ近づける。
空の窪みが一つずつ光った。
第零迷宮。沈降駅。樹海反転。首都環状。石狩湾港。
スヴァールバル。灰海。欠損中継核が三つ。世界退避中枢。
十一個。
「どの記録を戻す」
「最も完全に記録できるものです」
「中枢じゃないのか」
「直前までいました。構造も見た」
「だから足りない」
レオンが門へ手を伸ばしかける。
「中枢は、まだ終わってない」
エルマーたちが残り、生存記録も生命維持線も向こう側にある。今ここで完全な記録にすれば、生きている途中を終わったものとして閉じることになる。
「では、第零迷宮。沈降駅か、樹海でもいい」
「第零迷宮は今も変わってる。向こうの久世駅も、コボルトが戻った先も知らない。どれも途中だ」
「あなた、すべてに未確認を残していますね」
「レオンもだろ」
「私は未確認を記録します」
「それなら完全じゃない」
「完全な記録が存在すると思っていますか」
言い返せなかった。
門は一つを復元しろとしか言っておらず、完全にしろとは書いていなかった。
「石狩にします」
レオンが決めた。
「私が最初から最後までいた世界杭です。覚えていない部分があれば、あなたに否定してもらえる」
神崎さんは石狩へ行っていない。
「俺は知らないぞ」
「だから必要です。二人とも知っていると、間違ったまま同意するかもしれない。知らない神崎さんには、説明の通らないところを止めてもらいます」
レオンは五つ目の窪みへ手書き図を当てた。
《記録固定》を使う。
薄い白線が樹脂板から門へ伸び、空だった窪みの中に立った水面が現れた。
「MP、四十使いました」
――――――――――
世界杭記録の復元を開始します。
候補記録:
《石狩湾港迷宮攻略》
主要攻略者:大月在真
討伐対象:七環クラーケン
結果:迷宮核収容
――――――――――
「その記録は違う」
最初の三行で止めた。
白線が揺れる。
「どこがです」
「主要攻略者って何だ」
「中枢側の分類でしょう」
「俺だけで入ってない」
水面の中へ、当時の通路が映る。
七つの金属輪。
立った水。
安全索。
俺が七輪目へバールを差し込む場面だけが、中央へ大きく出ていた。
「尾崎さんが現場責任者だった。先行班七人に、俺たち追加が五人。全部で十二人です」
口にすると、水面の端へ人影が増えた。最初から全員がそろっていたわけではない。最初に動けたのは五人だけで、久保田さんと真鍋さんは別の層にいた。
レオンが樹脂板へ書き足す。
映像の中央が縮んだ。
俺の周りへ、ロープを引く人間が増える。
「千紘が七つの輪を聞いた。レオンが八層を記録した」
「私は覚えています」
「なら先に入れろ」
「あなたがどこまで覚えているか見ていました」
「今やるな」
「今しかできません」
神崎さんが水面へ顔を近づけた。
「その十二人で、どう帰った」
「そこにいた全員で」
「それじゃ通じない」
知らない人間に言われると、言葉が止まる。
久保田さんの担架を運ぶ帰り道で空間がずれた。俺は負傷した手で持とうとして、柴田さんに止められた。
「柴田さんたちが担架を運んだ。俺は後ろで誘導索を持って、隔壁へ流されたときだけ《係留》を使った」
神崎さんは、水面に残った「迷宮核収容」の文字を指でなぞった。
「これも、お前が核を持ち帰ったように読める」
「持ち出してません。物理核は石狩に残した。第零迷宮へ入ったのは制御記録だけです」
「所有権も未確定です」
レオンが続けた。尾崎さんが認めたのは緊急停止のための収容で、その先は別に協議することになっている。終わったはずの記録へ、当時残した話が次々戻ってきた。
水面の表示が変わる。
――――――――――
参加者:12
生還者:12
管理個体:七環クラーケン
状態:停止
迷宮核:
制御記録は第零迷宮へ収容
物理核は石狩湾港迷宮内へ残置
所有権未確定
――――――――――
「攻略成功、は」
神崎さんが聞く。
「表示されません」
レオンが答える。
「誰も死ななかったなら成功じゃないのか」
「帰ったあとも久保田さんと真鍋さんは入院した。迷宮核の問題も残った」
「それでも失敗ではない」
「はい。成功とも言えません」
成功でも失敗でもない。十二人で帰った。確かなのはそこまでだった。
五つ目の窪みへ、水色の輪が戻る。
核ではない。
七環クラーケンが巻いていた輪と、十二本の細い線だけが記録として残った。
――――――――――
世界杭記録を復元しました。
《石狩湾港迷宮》
未解決事項を保持します。
第一関門を開放します。
――――――――――
「未解決のままでいいのか」
「その方が正確です」
レオンは樹脂板を外した。
《記録固定》の白線は消えたが、水色の輪は窪みに残っている。
門が左右へ開いた。
向こう側は、石狩の水路ではなかった。
透明な壁を挟んで、通常迷宮固有核路が並んでいる。
壁のすぐ向こうに千紘がいて、両手を黄色いロープへ巻きつけていた。
灯さんは地面へ膝をつき、倒れたオーガの胸へ手を当てていた。脇腹から黒い杭が生え、その先に小さな迷宮核が刺さっている。
ガルは杭を噛んで逆方向へ引き、その周りでも魔物が動いている。
ゴブリン二体がオーガの肩を押さえ、コボルトが黄色いロープを石柱へ回す。スケルトンは胸へ刺さった杭を両手で持ち、引き抜くのではなく角度を保っていた。
誰も戦っていない。黒い杭が、オーガごと核を中枢側へ運ぼうとしていた。
「長い一回は、引かれてるってことか」
千紘が顔を上げ、透明な壁越しに口を動かした。声は聞こえない。
右手首が二回震え、少し置いて短く三回続いた。
「今決めたな」
意味は分からない。けれど、千紘は俺たちが見えてから打ち方を変えた。
レオンが透明な壁へ触れようとする。
「レオン、待て」
神崎さんが止める。
壁の中を、黒い線が走っていた。
こちらの門に復元した水色の輪から、オーガへ刺さる杭へ続いている。
「石狩の記録を戻したから、向こうの杭が強くなった?」
「可能性があります」
「それを先に言え」
「復元するまで観測できませんでした」
レオンの答えに、神崎さんが舌打ちする。
壁へ右手を置く。冷たさはなく、代わりに石狩へ残した物理核の重さが伝わってきた。
あの迷宮核はまだ現地にある。終端は記録だけでなく、残した核まで引いている。
「その線は切ったら駄目」
千紘の声が、壁の向こうから一瞬だけ通った。
「今、全部こっちへ来る」
通常側の奥で、いくつもの黒い杭が持ち上がる。一本ではない。自立、要支援、判別不能。
分類したはずの迷宮核を刺したまま、終端の柱へ向かっていた。




