第百八話 同じ道を行かない
二つの入口は同じ幅で、片方だけが狭いわけでも暗いわけでもない。なのに、通常迷宮固有核路の前にだけ魔物が集まっていた。
ゴブリン、コボルト、スケルトン。身体の半分を水へ沈めたサハギンもいる。
人間を見て武器を構える個体もいる。隣の種族へ牙を見せる個体もいる。けれど、今は互いに争うより先に、入口の奥から響く音を気にしていた。
奥から三回、短く一回と響く。人間側では救助終了の合図だが、ここで同じ意味かは分からない。
「ガルはそっちだ」
千紘が言う。
二つの道の間にいたガルは、通常迷宮側へ鼻先を入れていた。
黒い中枢路も一度嗅いだが、戻らなかった。
「じゃあガルと俺が通常側を――」
「在真は中枢」
俺が言い終わる前に、千紘が切った。
「《世界杭干渉》がいる」
「通常側にもいるだろ」
「最後に線を分けるときは。今は、固有核路を止めずに進める人がいればいい」
「それが千紘?」
「聞こえるの、私だから」
千紘は左手の受信器を握り、世界中の中継器から来る振動と、目の前の魔物が出す打音を一緒に拾っていた。
「私が中枢へ行って、在真がこっちへ来ても、結局また戻ることになる」
分かっていた。それでも、一緒に入った直後に別れるとは思っていなかった。何か言おうとして口を閉じる。千紘はもう、自分が行く道を見ていた。
「灯さん」
千紘が振り返る。
「何」
「一緒に来て、とは言わない」
「うん」
「でも、来てほしい」
「どっち」
「通常側」
灯さんは医療袋の肩紐を直した。
「理由は?」
「あっち、人間以外も多い。私、スライムの怪我とか分からない」
「私も分からないよ」
「私よりは触れる」
「たぶんね」
灯さんは中枢路と、魔物の集まる道を見比べた。
「じゃあ行く。治せないものは治せないって言うから」
そのままガルの後ろへ移る。
神崎さんは迷わず中枢側に立った。
「俺の標示がこっちを帰路にしてる。原因を見る」
「通常側の退路は」
「外で村瀬が作ってる。中はガルに任せる」
ガルの耳が神崎さんへ向いた。
「お前に命令してない」
今度は尾が動く。
レオンの胸元では、エルマーの写真から伸びた青い光が中枢路へ入っていた。
「私は選ばなくてもこちらです」
「写真を置いていく選択は」
「置いてはいきません」
「即答ですね」
「昨日、置こうとしてガルに止められました。今日は袋も二重です」
答えになっていない。
レオンは、写真を手放す気がなかった。
「これで三人ずつ」
灯さんが言う。
「数は同じ。強さは知らない」
「何かあったら」
言いかけた俺へ、千紘が受信器を見せた。
「これで二回。返せそうなら返す」
「返事が返せなかったら」
「そのときは返せない」
それ以上の意味は足さない。連絡がないことを、危険とも無事とも決めない。
千紘は俺の袖を一度つかみ、左肩ではないと確かめてから離した。
「先で」
「先で」
ガルが通常側へ入っても、魔物の群れは散らなかった。
最初のゴブリンが刃を上げる。ガルは牙を見せず、その横を通り過ぎた。
千紘も武器へ手を出さない。
灯さんは一番外側を歩き、足元で潰れかけた小さなスライムを靴先から避けた。
三人の姿が青い石壁へ薄くなると、入口が閉じ始めた。神崎さんが黄色い救助ロープを投げ、灯さんが振り返って端を拾う。
「両方で持つ」
「閉じたら切れ」
「そっちが先に離して」
「分かった」
二人とも離さないまま、入口がロープを挟んで細くなり、黄色い繊維がきしんだ。
どちらかが手を放さないと、壁の中で切れる。
神崎さんは最後まで灯さんを見ていたが、閉じる寸前に端を放った。
ロープは通常側へ引き込まれた。
「持っていかれましたね」
レオンが言う。
「渡したんだ」
「同じでは」
「違う」
神崎さんは新しいロープを出した。一本失うことを、帰路を失うのと同じにはしない。
中枢路へ入る前に分岐の床へ手を置き、《座標記録》を使う。帰れる道は固定できなくても、千紘たちと別れた場所だけは残す。MPが六十減った。
――――――――――
座標を記録しました。
記録対象:終端迷宮 第一分岐
空間層の変化により、経路は保証されません。
――――――――――
「行くぞ」
神崎さんが中枢路へ入り、今度は俺が二番目、レオンが最後に続いた。
三歩進むと、入口は消えた。
黒い道の両側に、扉が並んでいる。
最初の扉には家の裏のコンクリートが貼りつき、二つ目は久世駅の古い車両扉、三つ目には生きた樹皮が張っていた。
奥へ行くほど、石狩の防水扉、氷で覆われた隔壁、灰海の白い名札を重ねた扉へ変わっていく。
十一枚。
どれも少しだけ開いていた。
「触らないでください」
レオンが言う。
「何が見える」
「迷宮の記録です」
「何が記録されてる」
「私たちが別の選択をした場合」
最初の扉の隙間には、右目を失っていない俺が立っていた。祖父の家の台所で、窓の外にダンジョンはない。スマートフォンへ父から着信が続いているが、そいつは出ない。
隣の扉では久世駅が沈んでおらず、ホームにいた千紘は俺を見ても足を止めず、電車へ乗っていった。
「記録じゃない」
俺は扉から目を外した。
「起きなかったことだ」
「中枢には、選ばれなかった処理も残ります」
「じゃあ偽物だ」
「はい」
レオンが認めるまで、一拍あった。
「でも、偽物だから見なくていいとは思いません」
レオンは二つ目の扉へ近づいた。手は触れず、中を一度見ただけで先へ進む。
「何があった」
「私が資料を公開しなかった世界です」
「どうなってた」
「分かりません。扉を開けていないので」
「見たかったんじゃないのか」
「見たいです」
声は平らだったが、歩く速さだけが少し上がった。
十一枚の扉を半分過ぎたところで、右手首の受信器が震えた。
二回。千紘からだ。器具の縁を親指で二度叩いて返すが、振動がどこへ届いたかは分からない。
神崎さんがこちらを見た。
「三人とも無事か」
「向こうは、今のところ」
「お前自身は」
「大丈夫です」
「今のところ、をつけろ」
「今のところ」
足元が沈んだ。
黒い床が灰色の水へ変わり、膝、腰、胸まで一息で上がった。
神崎さんが壁の扉へロープをかけようとする。
「触るな!」
レオンがその腕を押さえた。
ロープの鉤が扉をかすめると、隙間から神崎さんと同じ手袋をした白い手が伸び、鉤を扉の奥へ引いた。
神崎さんはロープを切った。
灰色の水が顎へ届く。上はない。扉へ触れずこの場を離れるため、《空歩》を使った。
水面の上へ足場を作り、神崎さんの安全帯をつかんだ。
MPがさらに四十減る。
左肩は上げない。
腰の高さで引き、レオンへ反対の手を伸ばす。
「自分で上がれます」
レオンは浮いていた。
灰海で残った影響ではない。樹脂板のエルマーの写真から青い線が伸び、水面より上へ身体を支えている。
「それ、信用していいのか」
「今の四秒だけなら」
俺も同じ答えを返される。
神崎さんが水面の足場へ片膝を乗せた。
「次は何秒だ」
「四秒です」
足場の残りを答える。
神崎さんは濡れたロープを新しい鉤へ結び直して前方へ投げ、通路の奥に立つ黒い柱へ巻きつけた。
「行け!」
三人で足場を蹴ると、黒い柱へ身体が引かれた。
水面へ落ちる直前、神崎さんが先に柱をつかんだ。俺の安全帯を引き、レオンは青い線をたぐって横へ移る。
足場が消え、その一秒後に灰色の水も床へ戻った。濡れた服だけが残る。
「扉、十一個じゃない」
レオンが息を整えながら言う。
「増えてます」
振り返る。
通ってきた道の両側に、扉が何十枚も並んでいた。
開いている隙間には、迷宮へ入らなかった俺たちがいる。帰った者。残った者。死んだ者。誰にも会わなかった者。
黒い柱の先に閉じた門があり、表面へ十一個の窪みが並んでいる。全部、空だった。
――――――――――
世界杭中枢路 第一関門
収容核の返還を確認できません。
通過には、世界杭記録を一つ復元してください。
――――――――――
「返せってことか」
神崎さんが切ったロープを巻き直す。
「核を戻せば、また迷宮が開く」
「戻す核は持っていません」
レオンがエルマーの写真を見る。
「要求しているのは物ではなく、記録です」
俺の手首が、二回震えた。続けて、長く一回。
千紘からだった。決めていた合図には、長い一回なんてない。




