第百七話 入口に残る人
最初に黒壁を越えたのは、ガルだった。
「待て」
神崎さんの声にも止まらない。開ききっていない隙間へ身体を入れ、尾まで向こうへ消えた。
すぐに鼻先だけが戻ってくる。
「見てきたのか」
ガルは答えず、俺の胸当てを噛んだ。引くのではなく、留め具の横へ歯を当てている。
「これ?」
直人がしゃがみ、胸当ての脇を押した。朝まで使っていた予備の保護具に、黒い樹脂板が一枚増えている。閉鎖前に第零迷宮から持ち出せた端材を、直人が手で削って左肩へ重ねたものだ。
「痛いとこ、ずれてない?」
「少し当たる」
「先に言え」
「今つけたから分かった」
「昨日も寸法取っただろ」
「昨日より腫れが引いた」
直人が留め具を外し、樹脂板の穴を一つずらした。
ガルはもう口を離している。
「お前の方が先に気づくの、腹立つな」
鼻を鳴らし、また黒壁の向こうへ入った。
「ガルは入る、と」
東條さんが名簿へ書く。
「今ので決めるんですか」
「本人がもう入りました」
「戻ってきたけど」
「鼻だけです」
名前の横には、所属も役職もない。迷宮獣、ガル。それだけだった。
「次、決めるぞ」
神崎さんが言う。
全員の返事を集めてから決める時間はない。だからといって、神崎さんが順番を割り振るわけでもなかった。
「俺は入る。外の救助指揮は村瀬へ渡した」
端末を見せる。村瀬さんから返ってきていたのは、長い了解文ではなかった。
『帰路はこっちで作る。そっちで勝手に残るな』
「同じこと言われてますね」
「お前には親父さんがいるだろ」
「神崎さんにも村瀬さんがいる」
「あいつは親父じゃない」
少し離れたところで、父が笑った。
神崎さんは聞こえなかったふりをして、救助ロープを確認する。
「退路標示が終端の層でも残るか試す。残らなければ、道具だけで戻す」
「退路標示が戻らなかったら?」
灯さんが聞いた。
「その判断をするために、お前がいる」
「それ、私が入る前提?」
「入らないのか」
「入るよ。聞き方が嫌」
灯さんは医療用の背負い袋を地面へ下ろし、中身を半分出す。輸液、固定具、消毒、縫合用品。迷宮内で使える量には限りがある。
「こっちは置いてく。入口で使う方が多いから」
「灯さん、避難所は」
「交代してきた。全迷宮が消えるかもって聞いて、一晩で治してほしい人、まだ並んでる」
袋へ残したのは、止血と搬送に使うものが中心だった。
「向こうで治療槽が使える可能性は?」
レオンが聞く。
「使えても先に患者を見る。攻略者用って決まってないから」
「在真を先に診てください」
「本人がちゃんと申告したらね」
俺を見ずに言った。
名簿へ三人目が加わる。
レオンは自分の樹脂板を一枚ずつ外していた。首から下げていた十二枚を、三枚まで減らす。
「何を置いていくんですか」
東條さんが聞く。
「私が死んだあとも必要な記録です」
「聞き方を変えます。何を持っていきますか」
レオンの手が止まり、残した三枚を裏返す。
一枚目には、エルマーの写真。
二枚目には、世界杭と通常迷宮の線を分けた手書き図。
三枚目には、名前だけが並んでいた。
マティアス。
イングリッド。
エイダ。
オーウェン。
雨宮灯。
三枝千紘。
大月在真。
ガル。
「記録です」
「人の名前だ」
直人が言う。
「今は、同じものです」
「それ言うとまた怒られるぞ」
「誰に」
「書いてある全員」
レオンは名前を見直し、樹脂板を首へ戻した。
「では、怒られに入ります」
四人目。
東條さんは自分の名を記入しなかった。
「私はここに残ります」
「各国との連絡?」
「それだけなら代われます」
折り畳み机の下から、黒い箱を出す。終端迷宮入口へつながる物理閉鎖装置だった。第零迷宮が自動で閉じなくても、物置ごと耐火壁を落とせる。
「内部から世界統合へ変更された場合、入口を封鎖します。止められる保証はありません」
「俺たちが変えたら?」
「理由を聞きます。通信できなければ、変更された事実だけで閉じる」
「最初から信用してないんですね」
「信用と、閉じる手段を残すことは別です」
東條さんは俺を見た。
「それでいいです」
笑う場面ではなかった。
けれど、少しだけ口元が動いた。
直人は名簿へ近づかない。
「俺も外に残る」
「入らないのか」
「昨日、お前が触った十秒で機械の方が先に答えを出しただろ。中に持っていくより、世界中に置いてある七百台を使う」
「海外に置いた分も動いてるのか」
「正規品はな。コピー品まで含めたら、たぶん倍以上」
「把握してないの?」
千紘が聞く。
「勝手に真似されたやつだから。ネジの位置まで違う」
「それ、ちゃんと鳴るの」
「鳴らす。壊れたら、そこの人に叩いてもらう」
直人は千紘へ、小さな受信器を渡した。イヤホンへ直接つなぐものではなく、手のひらに振動を伝える薄い板だった。
「耳だけで拾うと頭痛いんだろ。手でも分けられるようにした」
「いつ作ったの」
「昨日の夜中」
「試した?」
「一応、俺の手では」
「それ、試したって言わない」
千紘は受信器を返さず、左手袋の内側へ入れて指を二度曲げる。
「強い。半分にして」
「今ここで?」
「今しかない」
直人は小さな工具で裏蓋を開けた。
同じ形のもう一枚を、俺へ投げる。
「大月は右。二枚で打った振動も拾う」
右手首のバンドへ差し込んだ。握ると、千紘の手袋から送られた二回が皮膚へ返る。誰が入るか決める間にも、装備はまだ完成していない。
千紘は自分の名前を名簿へ書いた。俺の次でも最後でもない、空いていた五行目に自分で書いた。
「大月さん」
東條さんがペンを差し出す。
「俺は聞かれないんですか」
「聞く必要がありますか」
「一応」
「入りますか」
「入ります」
六人目。
在真、千紘、神崎さん、灯さん、レオン、ガル。
名前を書いた順番と、向こうで歩く順番は違う。
父と目が合った。
何か言われる前に、俺から口を開く。
「行ってくる」
「帰ってこい」
「帰る」
「帰ったら何をする」
「指輪を取りに行く。一週間後だ」
父は俺の左肩を避け、胸当ての中央を拳で一度押した。
「店が一週間後もあるようにしてこい」
返事をすると、うまく言いすぎる気がした。
だから頷くだけにした。
黒壁の向こうから、ガルが低く吠える。
直人が受信器の裏蓋を閉じた。
「出力、半分にした」
千紘が握る。
「まだ強い」
「もう行け。中で布巻いて調整して」
「雑」
「時間ない」
東條さんが時計を見る。
「十六時二分。外部との通信試験は進入後三十秒で行います」
神崎さんが先へ出ようとする。
千紘が腕をつかんだ。
「ガルが戻ってこない」
「先で待ってる」
「足音が遠ざかってる」
俺たちは黒壁を越えた。
そこに、昨日までの階段はなかった。
地面は駅のホームだった。
天井から樹海の根が下がり、その間を首都高速の標識が横切っている。足元の黄色い線より低い場所には灰色の海があり、遠くで氷原の黒い環が回っていた。
全部を並べた景色ではない。一歩ごとに、どれかが前へ出てくる。
ホームへ足を置けば発車ベルが鳴り、根を避けると身体の下が横へ変わる。標識の矢印へ視線を移しただけで、灰海が膝の高さまで上がった。
「入口!」
神崎さんが振り返る。
東條さんたちのいる庭は、まだ見えていた。
距離は三歩ほど。救助ロープを投げる。
ロープの先は庭へ届かず、途中で雪へ埋まった。
神崎さんが《退路標示》を使う。
ホームの床へ、黄色い矢印が浮かんだ。
入口を向いていない。
ガルが進んだ奥を示している。
「帰路じゃない」
神崎さんが矢印を踏まずにしゃがむ。
「戻るための道を出した」
「終端の方が、戻る場所を決めてる」
千紘は左手の受信器を握った。
「外、鳴ってる」
「聞こえる?」
「手なら。耳は別の音が多すぎる」
東條さんの姿が、黒い膜の向こうで揺れる。
三十秒にはまだ早い。
それでも直人は、もう中継器を鳴らしていた。
三回。短く一回。
救助終了の合図。
入ったばかりなのに。
「違う」
千紘が受信器を握り直す。
「これ、東山じゃない。同じ打ち方が、何百個も重なってる」
灰海の下で何かが動いた。
ゴブリンの短い腕。
スライムの膜。
サハギンの背鰭。
白いスケルトンの指。
別々の迷宮にいたものが、水面のすぐ下へ押し込まれている。
どれもこちらを見ず、奥へ向かって互いを踏み越えながら泳いでいる。
その先にガルがいた。黒い柱へ前脚をかけ、首だけをこちらへ向けている。
柱には二つの入口が開いていた。一つは、太い黒線が下へ続く道。もう一つは、無数の魔物と通常迷宮の線が流れ込む道。
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終端迷宮 第一分岐
《世界杭中枢路》
《通常迷宮固有核路》
両経路の同時維持が必要です。
一方が停止した場合、攻略方針は失敗します。
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「いきなり分かれろってこと?」
灯さんが医療袋を背負い直した。
ガルは二つの道の間から動かない。俺たちが来る前に、どちらへ行くか決めていなかった。




