第百六話 三つ目を選ぶまで
地上へ戻ると、父は時計を見た。
「四十二分」
「一時間以内だろ」
「だから何も言ってない」
そう言いながら、俺の右手を見ている。震えは止まっていた。代わりに、指を曲げるたび、別々の温度の水が皮膚の下を流れる。
「触ったのか」
「十秒だけ」
「それでその手か」
「戻れば消える」
「戻らなかったら?」
答えずに軽トラックへ乗った。
千紘が後部座席から、父へ録音端末を渡す。
「帰りながら聞いて。東山とつながったところ、入ってるから」
「俺が?」
「運転は在真より上手いんでしょ」
父は端末を受け取ったが、再生はしなかった。
「家で聞く」
空はさらに暗くなっていた。
午後五時を過ぎたばかりなのに、道路沿いの店は看板まで点けている。用水路の入口では、まだ採取組合の女たちがスライムをシートへ移していた。
十秒の仮分離で流出は止まった。けれど、外へ出た個体が一斉に消えるわけではない。乾ききる前に薄青い膜を採るもの、用水へ戻すもの、状態の悪いものへ水をかけるものに分かれている。
迷宮が残るか決まっていなくても、今日の仕事はなくならない。
祖父の家へ戻るまでに、東條さんから三十一件の報告が届いた。
固有核稼働。外部供給不要。
固有核稼働。外部供給一部必要。
固有核損傷。
表示なし。
同じE級でも結果は違う。
入口が閉じたままの迷宮もあれば、魔物が外へ出始めた場所もある。
「全部、切り離すだけじゃ駄目か」
父が運転しながら言う。
「東山みたいなところが止まる」
「迷宮一つだろ」
「そこに人がいたら、入口ごと消えるかもしれない」
「先に出せばいい」
「中に町があるところもある。魔物も暮らしてる」
「じゃあ全部背負うのか」
「それを決めるために戻ってる」
声が強くなった。
父は前を向いたまま、しばらく何も言わない。
「悪かった」
先に出たのは父の方だった。
「今は、お前に聞くことじゃなかった」
信号が赤になる。
父はハンドルから片手を離し、録音端末を千紘へ返した。
「家に着いたら食え。話はそれからだ」
祖父宅の庭には、車が増えていた。
直人が縁側へ座り、泥のついた機材箱を開けている。隣ではレオンがエルマーの写真を透明袋越しに撮り続けていた。
東條さんは物置の前に折り畳み机を出し、三台の端末を別々の回線へつないでいる。
ガルだけは、出る前と同じ場所にいた。
黒い壁から鼻を離していない。
「遅い」
直人が言った。
「四十二分」
「慎吾さんの報告、細かすぎん?」
「何が分かった」
「まず飯。食ってから」
「お前までそれか」
「灯さんから、食わせるまで説明すんなって」
縁側には、おにぎりと味噌汁が置かれていた。
母が持ってきたらしい。父の車が着く前に、自分は避難所へ戻ったとメモがある。
梅。
昆布。
角に海苔がつくから、千紘が笑う。
「取って」
「自分で取れるでしょ」
「右は見えない」
「そういうときだけ使う」
文句を言いながら取ってくれた。
二つ食べ、味噌汁を半分飲んだところで、直人が機材をこちらへ向けた。
「もう話していい?」
「灯さんに聞け」
「聞いたら三つ食わせろって言うから、俺の判断で二つ」
父が直人の後頭部を軽く叩いた。
「三つ目を食わせろ」
結局、鮭も食べた。
機材箱に入っていたのは、迷宮用の小型中継器だった。
首都環状迷宮の作戦後、直人たちが民間向けに規格をそろえたものだ。入口側と内部側へ一台ずつ置き、時刻、気圧、振動を記録する。
同じ型が国内だけで七百台以上、海外にも出ていた。
「黒線が出たあと、全部同じ誤差を出してる。内部側の時計だけ、〇・三秒遅れる」
直人が画面を指で広げる。
「機械が壊れたと思ったけど、水路も洞窟も塔型も一緒。終端へ引っ張られるたび、入口の外とずれてる」
「仮分離した十秒はどうなった」
「久世西だけ戻った。ぴったり十秒。その間、東山の遅れが〇・五秒まで増えてる」
「久世が使ってた分を、東山が受けた?」
「たぶん。他の水路型も少しずつ増えてる」
直人は言い切らなかった。
画面に並ぶ線は同時に動いている。
一つを外すと、残りがその分を受ける。
「外部供給って、世界杭から直接じゃない」
千紘が言った。
「束の中で回してる?」
「そう見える。ただ、今は終端が束ねてる」
直人が別の地図を出した。
中継器を置いた入口が、点になって世界へ浮かぶ。水路型は青、洞窟型は茶、塔型は白。その点の間を、細い線がつないでいた。
「こいつを残せばいい。終端を壊す前に、普通の迷宮同士へ線を返す」
「機械でできるのか」
「機械だけじゃ無理」
「早いな」
「俺のは見つけただけ。触れるのはお前」
役割を渡して終わる言い方ではなかった。
直人は画面を閉じず、国内の中継器へ新しい記録間隔を配信する。終端まで一秒ごとだったものを、〇・一秒ごとへ変えた。
「触る直前まで形を追う。変わったら、こっちで叫ぶ」
「迷宮の中では通信が切れる」
「世界中の入口で同じ機械を鳴らす。千紘なら聞けるだろ」
「世界中の音は無理」
千紘がすぐに返す。
「近い層に重なったら、何個かは聞こえる。でも全部は無理」
「じゃあ聞こえたやつだけ拾って。俺も全部つなげるとは言ってない」
二人で勝手に方法を削っていく。
俺が入る余地はなかった。
レオンが写真から顔を上げる。
「エルマーも同じことをしています」
透明袋の中で、写真が変わっていた。
椅子に残る半身の周りへ、青い線が集まっている。
一本ずつを支えているのは、エルマーだけではない。ノア、薫、継続局の制服を着た者、名前の分からない住民が線へ手を置いている。
「七秒前の写真です。能力は使っていません。写真の記録側がこちらへ送っている」
レオンは写真を袋から出さなかった。
「向こう側も、残存世界杭から生命維持線を外そうとしています。外せばすぐに死ぬ人がいる。中枢へ全部を戻す気はないようです」
「向こうと連絡は取れないのか」
「できません」
「じゃあ想像だろ」
「そのとおりです」
レオンは珍しく、すぐ認めた。
「ですが、私はそう読みます」
東條さんが通話を一つ終えた。
「報告が集まった通常迷宮のうち、約八割が外部供給不要。残りは一部必要、核損傷、判別不能です」
東條さんが一覧の下端で指を止めた。
「久世西の試験だけでは、八割で残りを支えられるかまでは断定できません」
「誰が決めた」
「各入口にいる人たちです」
東條さんは画面をこちらへ見せた。
採掘を止めた鉱山迷宮。
患者を地上へ運び出す治療迷宮。
入口を開けたまま、内部集落へ戻った獣人。
核へ触れないと決めた攻略隊。
損傷核の隣へ、自立している迷宮から線を回せないか試す技術者。
「国家として第三案に同意した数ではありません。残したい通常迷宮と、先に退避させる場所の報告です」
「第三案に賛成したわけじゃない」
「ええ。自分の入口をどうするか、先に決め始めただけです」
東條さんの声も疲れていた。
こちらへ決定を求めてもいない。
「今夜中に通常迷宮を、自立、要支援、退避優先へ分けます。明朝から、それぞれの入口で準備を始める。大月さんが第三案をやめても、避難には使えます」
「やめると思ってます?」
「思っていません。だから、先に作ります」
端末がまた鳴る。
東條さんは俺の返事を待たず取った。
午後十一時を過ぎても、庭の照明は消えなかった。
空は昼から同じ暗さを保っている。
第零迷宮の黒壁には、細い白線が増えていた。終端までの時間が減るたび、一本ずつ階段の上へ伸びてくる。
俺は縁側で横になった。
眠るつもりはなかった。
毛布をかけられ、気づけば朝の六時だった。
誰がかけたのかは分からない。
千紘は庭の机へ突っ伏して眠っている。片手にはイヤホン、もう片方には、世界各地から届いた打音の一覧があった。
父は物置の前でガルと並んで座っていた。
直人はいない。午前二時に工房へ戻り、中継器の一斉更新を始めたとメモがある。
起き上がると、肩の熱は引いていた。
痛みは残る。
右腕を上げずにステータスを開く。
――――――――――
名前:大月在真
種族:真竜人
種族ランク:上位種
レベル:55
HP:4,130/4,300
MP:1,300/1,380
未配分能力値:0
スキルポイント:51
――――――――――
全部は戻っていない。
ちょうどいいと思った。
満タンなら、また無理をしていい気になっていたかもしれない。
「勝手に寝た」
千紘が机へ伏せたまま言う。
「起きてたのか」
「今起きた」
「毛布、千紘?」
「知らない」
頬に紙の跡をつけたまま、身体を起こす。
「聞こえたやつ、分けた。三回、一回は救助終了だって。パウロさんのところの合図」
「意味あったのか」
「あった。返さなくてよかったけど」
千紘もステータスを開いた。
HPは三千百二十、MPは千百二十まで戻っている。
「私も満タンじゃない」
「MPは戻ってる」
「頭痛は数字に出ない」
イヤホンを外し、耳を揉む。
「今日は全部聞かない。聞こえたところだけ言う」
「それでいい」
「在真も、全部触らないで」
「触れないと終わらない」
「全部を一人で、って意味」
返事はしなかった。
代わりに、冷めた味噌汁を温め直した。
午前中、各地の通常迷宮は三つに分けられた。
自立できるものは、固有核の周囲から人を退かせ、終端網へ送り返す余力を記録する。
支援が必要なものは、同系統の自立核と仮接続できる位置を探す。
判別できないものと、内部に人がいるものは、最後まで切断対象から外す印をつける。
完全な準備ではない。
途中で変わる場所もある。
第三案を選んだあと何が起きるか分からないまま待つよりはよかった。
午後三時五十八分。
祖父宅の庭へ、神崎さん、灯さん、直人、レオン、東條さんがそろった。
誰が終端迷宮へ入るかは、まだ決めていない。
灯さんは避難所から戻ったばかりで、袖に消毒液の跡がある。神崎さんの胴長は乾いておらず、直人は工房の油を頬につけたままだった。
最初から待っていた者はいない。
それぞれの場所で動いて、残った時間に間に合った。
黒壁の白線が、階段の一段目へ届く。
――――――――――
第零迷宮の終端化完了まで:00時間01分
攻略方針を仮登録してください。
《世界統合》
《全迷宮消去》
《中枢破壊》
最終確定は終端迷宮最深部で行われます。
――――――――――
父が後ろにいる。
母は避難所に残った。
向こう側では、エルマーたちが青い線を持っている。
通常迷宮の入口には、名前も知らない人たちがいる。
全員の答えが同じではない。
俺が残したいものだけは、昨日より分かっていた。
「俺は、三つ目にする」
黒壁へ手を置く。
「特殊迷宮と世界杭中枢を壊す。通常迷宮は、互いにつなぎ直して外へ出す」
「失敗した場合は、どうなります」
東條さんが聞く。
「残そうとしてるものまで、全部消える」
「向こう側の生命維持はどうなります」
「エルマーたちが外せなければ止まる」
「在真も戻れないかもしれない」
千紘が言った。
「千紘もだろ」
「まだ入るって言ってない」
嘘だった。
軽量胸当ての下に、もう安全帯を着けている。
「じゃあ、あとで聞く」
「今聞いて」
「入るのか」
「入るよ」
「分かった」
「雑」
黒壁の中で、三つ目の文字が沈んだ。
――――――――――
攻略方針《中枢破壊》を仮登録しました。
付加目標を確認しました。
《通常迷宮固有核網の分離》
達成条件:
終端網から世界杭系統を破壊する。
通常迷宮固有核の相互接続を維持する。
未判別迷宮は分離対象へ含まれません。
――――――――――
未判別を無理に切らない。すべてを救う表示ではないが、三つのどれにも書かれていなかった条件が加わった。
直人が端末を見て息を吐く。
「中継器、世界中で鳴った」
千紘が左耳を押さえた。
「近い。昨日より、ずっと」
神崎さんは入口ではなく、庭にいる全員を見た。
「一分だ。入るやつも残るやつも、ここで決めるぞ」
命令ではなかった。返事を求める声だった。
白線が最後の一段へ届き、黒い壁が中央から左右へ開き始めた。




