第百五話 切る前の十秒
床から出た手は、素手ではなかった。濡れた橙色の手袋をしている。
指が石を探り、黒い線へ触れた瞬間、手首まで沈んだ。
「つかめる?」
千紘が腰を落とす。
「待て」
俺は左手で胸当てのロープを外した。
「上げないって言ったばっかり」
「右でやる」
「右も悪いでしょ」
否定できない。
短棒を黒線へ差し込む。先端は石へ当たらず、冷たい水の中へ入ったように抵抗が消えた。
手は床の下にいるんじゃない。別の場所が、薄く重なっている。
橙色の指がまた動き、今度は石を三回叩き、続けて一回。
「救助の合図?」
「知らない。聞いたことない音」
千紘がイヤホンを外した。
能力を使う前に、自分の耳で聞き直している。
「下の人、息が速い。水もこっちと逆に流れてる」
奥からバールの音が返った。
一回。二回。
今度は神崎さんの退避合図だった。
「先に三人と合流する」
「この手、離したら沈む」
橙色の手袋は、もう指先しか残っていなかった。
千紘が手首をつかむ。
「千紘」
「合流して戻るまで、何分?」
「分からない」
「じゃあ、戻るまで私が持ってる」
足首へスライムがぶつかり、千紘の身体が揺れた。
俺も右手で橙色の腕をつかむ。
冷たい。
手袋の下に骨の形がある。引けば、向こうからも握り返した。
「神崎さん!」
声を出すと、奥のバールが止まった。
「大月か!」
水路の曲がり角から神崎さんが現れた。黄色い胴長の男が二人続く。一人は長い採取網を引きずり、もう一人は水門用のハンドルを抱えていた。
「何持ってる」
「人です」
「見れば分かる。どこのだ」
「まだ分かりません」
神崎さんは黒線の手前で膝をついた。
橙色の腕を一度触り、手袋の手首にある白い文字をこする。
「東山県央雨水迷宮」
「東山?」
「ここから六十キロは離れてる」
胴長の男が言った。
「そっちも水路型だけど、つながってないぞ」
神崎さんは端末を取り出した。地下でも通信表示は残っているが、電話は一度ではつながらない。
二度目で、女の声が出た。
『県央現地本部です』
「久世消防、神崎。そっちで人が一人消えてないか。橙手袋、白字入り」
『待ってください』
向こうで複数の声が重なる。
橙色の腕が、また少し沈んだ。
「引くぞ」
神崎さんが俺の隣へ入る。
「肩、使うな。腰で下がれ」
「分かってます」
「その返事のやつは使う」
千紘が俺の背中のロープをつかんだ。
胴長の二人は互いに目を合わせ、水門ハンドルを壁の金具へ通す。採取網の柄と組み、即席の巻き取り軸にした。
「腕へ直接ロープは巻けん。脇まで出せ」
「出したあと巻く。せーので行くぞ」
誰も俺の指示を待たなかった。
橙色の腕を引く。
黒線が指の間へ食い込んだ。
線ではない。薄い膜の縁だ。左右へ広げようとすると石床へ戻り、上へ持ち上げると向こう側の水までついてくる。
冷水が噴き出した。
久世西用水路の温かい流れとぶつかり、白い泡が上がる。
神崎さんの左手が、男の肩を追って膜の中へ滑った。
「もう一回!」
神崎さんが腰を落とした。
俺も下がる。
左肩は使っていない。それでも胸と背中がつながっているせいで、傷の奥が引かれた。
橙色の肩が出る。
ヘルメット。
俯いた男の顔。
水を吐きながら、男は向こう側で何か叫んだ。
翻訳機は日本語として拾わない。
日本人ではなかった。
『こちらでも腕が出ています!』
神崎さんの端末から声がした。
『久世消防の腕章です。男性、意識あり。こちらで保持しています』
「俺の腕章?」
神崎さんが自分の左腕を見る。
そこには、ちゃんと久世消防の腕章がある。
別の神崎さんではない。
黒線は人間を複製していない。こちらの一部を向こうへ、向こうの一部をこちらへ通している。
「引くのやめて!」
千紘の声が近くで弾けた。
全員の手が止まる。
橙色の男は胸までこちらへ出ていた。反対側では、神崎さんの腕だけが東山へ抜けている。
このまま片方だけを引けば、境目がどこで閉じるか分からない。
「向こうに、戻します」
千紘は男へ顔を近づけ、手で押す向きを示した。
男は何度も咳をしたあと、理解したように頷く。
「神崎さんも、左腕を下へ」
「向こうでつかまれてる」
『離します!』
通話の声と同時に、神崎さんの肩がこちらへ戻った。
胴長の二人が巻き取り軸を逆へ緩める。
俺たちは橙色の男を押した。
顔が膜へ沈む直前、男が俺の手首をつかむ。
何か短く言った。
翻訳機が遅れて音を拾う。
『先に切るな』
男の手が消えた。
黒い膜は細い線へ戻る。
『戻りました! パウロ、全身こちらです。意識あり』
神崎さんが息を吐いた。
「こっちも全員そろってる」
返した声が少し掠れていた。
千紘は黒線へ耳を近づけたまま動かない。
「まだ場所が重なってる」
「切るなって言ってた」
「たぶん、人が途中にいるときにって意味」
「たぶんで切れるか」
「だから、切っていいか確かめる」
千紘は通話中の端末を神崎さんから借りた。
「そっちの音、聞かせてもらえますか。水を一回だけ叩いてほしいです」
『何で』
「こっちとの距離を見たいです」
言い切らず、少し考える。
「聞きたいです。切っても戻せるか」
『分かりました』
向こうで水を打つ音がした。
ほとんど同時に、足元の黒線から同じ音が上がる。
千紘は打音器を石床へ一度当てた。
東山側の端末から、その音が返ってくる。
「今、同じ場所にいます。距離がない」
「六十キロ離れてるぞ」
「地上は。迷宮の外側だけ、ここにまとめられてる」
終端迷宮が、通常迷宮を一つずつ引き寄せている。
全部を自分の一部として処理するために。
俺は黒線の脇へ右手を置いた。
短い輪は、水路の壁と奥の核を回っている。
太い引きは、そこへ外から食い込んでいるだけだ。
根を切るのとは違う。
結び目を外へ出せばいい。
「十秒だけ離してみる」
「戻せるのか」
神崎さんが聞く。
「切らない。《世界杭干渉》で接続先を空ける」
「十秒経って戻らなかったら」
「東山側から打音を続けてもらう。聞こえなくなって、戻ったら成功です」
千紘が端末へ伝える。
東山側では、パウロという男が自分で鉄棒を持ったらしい。
『準備できました』
乾いた打音が規則正しく続く。
俺は黒線へ触れた。
《世界杭干渉》を使う。
押し返される。
中枢の青線より軽いと思っていた。
違った。
一つの迷宮だけではない。水路型、地下水型、雨水型。似た循環を持つ入口が何百本も、黒線の向こうで束ねられている。
まとめて動かそうとすれば、MPが足りない。
一番近い結び目だけを探す。
久世西用水路の温かい輪。
東山県央の冷たい流れ。
重なっている二本の間へ、指を入れる。
「今!」
線が外れた。
――――――――――
通常迷宮《久世西用水路迷宮》
迷宮固有核:稼働
外部供給:不要
終端網から仮分離します。
維持時間:00:00:10
――――――――――
水音が一つになった。
東山から続いていた打音も消える。
「十」
千紘が数え始めた。
久世側の水は入口へ流れず、元の方向へ戻っていく。
奥から押し出されていたスライムも止まった。壁へ張りつき、しばらく動かなかったあと、一体ずつ上流へ滑り始める。
「五、四」
黒線が細く震える。
「三、二、一」
足元で二つの水が重なった。
東山の打音が戻る。
『聞こえましたか』
「戻った」
神崎さんが答える。
俺は黒線から手を離した。
MPが八十減っている。
十秒だけで、八。
「できたじゃん」
千紘は笑わなかった。
「一個だけなら、できた」
世界中には、いくつある。
東山側から別の声が入る。
『こちらにも表示が出ました。迷宮固有核――損傷。外部供給、一部必要』
「東山も同じ状態?」
『違います』
同じ束から外しても、すべてが自力で残れるわけではない。
採取組合の男が水へ手を入れた。
「いつもの温度に戻ってる。十秒だけだけどな」
もう一人は奥を見た。
「核まで行けば、もう少し分かる。俺らは進むぞ」
神崎さんへ許可を求めてはいない。
自分たちの迷宮を、ここで見てきた二人だった。
「俺も行く」
神崎さんが立つ。
「大月たちは一度戻れ」
「核まで――」
「一時間で戻るって親父さんに言ったんだろ」
聞かれていた。
神崎さんは端末を軽く振る。
「それと、世界中の入口をお前が一個ずつ触る案はなしだ。十秒で手が震えてる。途中で倒れる」
手の震えを握って隠す。MPだけではなかった。何百本もの水路を一度に触った感覚が、右腕へまだ残っている。冷たい水、濁った水、何かが泳ぐ水。知らない場所の流れが、皮膚の内側で混ざっていた。
「形は覚えた」
「なら外で説明しろ。ここの核は俺たちが見る」
採取組合の二人は、もう奥へ歩き始めていた。
千紘が俺の背中を入口側へ押す。
「帰ろ」
「まだ三十分も経ってない」
「余った分、寝られる」
黒線の下から、東山側の打音がもう一度聞こえた。三回。一回。
意味は分からないままだった。千紘も返さなかった。俺たちは端末の録音だけを止めずに入口へ戻った。




