第百四話 残る側の穴
家へ戻って最初にしたのは、作戦会議ではなかった。
「脱げ」
父に言われ、玄関へ座らされた。
「靴?」
「上だ。血がついてる」
予備胸当ての脇に、乾きかけた赤い筋があった。中枢で肩を打ったとき、前の傷が少し開いたらしい。
自分では気づかなかった。
灯さんが庭へ入ってきた。救急箱を持っているが、白衣ではなく、薄い灰色の作業着だった。
「また開けた?」
「少しだけ」
「少しって言う人の少し、信用してないから」
父が胸当ての留め具を外そうとする。角へ引っかかり、俺が首を傾けると、今度は耳へ当たった。
「待て。自分でやる」
「毎回それ言うな」
結局、千紘が後ろから留め具を外した。
灯さんは玄関先で傷を見た。洗浄液が入ると、肩の奥まで遅れて痛む。
「縫い直しはいらない。今日は腕、肩より上に上げないで」
「あと二十三時間です」
「聞いてない」
「いや、今から――」
「上げないで動く方法を考えて。治す方に全部投げない」
包帯を切る音が短く鳴る。
灯さんは俺の返事を待たず、千紘の鼻と耳も見た。千紘は顔を背けようとしたが、顎をつかまれて戻される。
「鼻血は止まってる。頭痛は?」
「ちょっと」
「ちょっと?」
「在真の少しよりは、ほんとのちょっと」
「比較対象が悪い」
庭の向こうでは、暗くなった空を報道用のカメラが撮っていた。
午後四時十八分。
雲が厚いわけではない。太陽の位置は分かるのに、その手前へ薄い黒布を何枚も重ねたように光だけが落ちている。
街灯が点き始めていた。
端末の緊急通知は三分おきに更新された。
『迷宮入口付近から離れてください』
『ステータスおよびスキルに異常が生じる可能性があります』
『表示された選択肢には触れないでください』
三つ目は通知のたび、少しずつ言葉が強くなった。
触れないでください。
操作しないでください。
選択は世界全体へ影響します。
最後の一文が増えたあと、父が画面を伏せた。
「触るなって通知が来ると、触るやつが出るぞ」
「もう出てます」
東條さんが物置から戻ってくる。
「カザフスタンの停止施設で一人。表示へ手を置きました。ただ、最深部ではないので確定していません」
「何を選んだ」
「《全迷宮消去》です」
父の眉間に深い線が入った。
「攻略者じゃないのか」
「娘さんが迷宮内の事故で意識不明だそうです。ステータスを消せば戻ると思った、と」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
間違っていると切るのは簡単だった。
その娘が何を失ったのか、俺は知らない。
「確定してないなら、まだいい」
千紘が言った。
「でも、二十四時間ずっと全部の入口を押さえるの、無理じゃないですか」
「停止済み世界杭は十一地点。そこは守れます。問題は――」
東條さんの端末が鳴った。
神崎さんからだった。
『久世西用水路、聞こえてるか』
声の後ろで、水が勢いよく流れている。
「そこ、普通の迷宮ですよね」
『E級だ。昼まではな』
「今は?」
『入口からスライムが出てる。黒い線も一本増えた』
庭にいた全員が物置を見た。
第零迷宮の入口は、黒い壁になったまま閉じている。
『こっちは三択が出てない。代わりに、奥から何か引っ張られてる。お前の三つ目を試すなら、先に普通の方を見ろ』
神崎さんは来いとは言わなかった。
止めるとも言わない。
すでに自分で現場へ入り、分からないものだけをこちらへ投げてきた。
「場所を送ってください」
『送った。灯はそっちか』
「いる」
『連れてくるな。西側の避難所で薬が足りてない』
灯さんが俺の肩へ最後のテープを貼った。
「もう向かうって返した」
『そうか』
「今の言い方、ちょっと腹立つ」
『悪い。じゃあ切る』
「そこじゃない」
通話が切れた。
灯さんは一度だけ端末を見て、救急箱を閉じる。
「二人とも、傷が熱くなったら戻って。能力で動けても、傷が治ってるわけじゃないから」
「灯さんは?」
「薬を集める。あと、病院の治療スキル持ちを避難所へ回す。迷宮が全部消えるかもって話が出たら、今のうちに治してくれって人が増えるから」
それだけ言って、もう車へ向かった。
ガルは縁側の下から出てこない。
呼ぶと耳だけが動いた。
「行かないのか」
もう一度、耳が動く。
物置の黒い壁へ鼻先を向けたままだ。
十一個の核が沈んだ場所を、ここで見ているつもりらしい。
「分かった。頼む」
ガルは返事をしなかった。
父が軽トラックの鍵を投げてくる。
「俺が運転する」
「現場に入れないだろ」
「入口まででいい。お前、今の肩でハンドル切る気か」
言い返せず、助手席へ乗った。
千紘が後ろの席へ入る。膝へ打音器と耳当てを置き、シートベルトを締めてから、俺の肩を前から一度だけ見た。
「上げないんじゃなかった?」
「上げない」
「誰が信じるの」
「灯さんよりは信じてくれ」
「無理」
父がエンジンをかけた。
町の空は、走る間にも暗くなった。
信号はまだ動いている。店も開いている。けれど、スーパーの駐車場には買い物を終えた人より、入口を見たまま端末を握っている人の方が多かった。
ラジオでは、海外の攻略者が《世界統合》を支持したと繰り返していた。
向こう側の六万人を殺すのか。
こちらの何十億人を危険へさらすのか。
どちらの声も、相手が見えていないぶん大きかった。
父が途中でラジオを切る。
「お前は聞かなくていい」
「決めるなら聞く」
「今、決められる頭か」
肩に触れかけた手を止めた。
痛みはある。眠気も遅れて来ていた。
「たぶん違う」
「じゃあ聞くな。現場だけ見ろ」
横から言われると腹が立つ。
それでもラジオは戻さなかった。
久世西用水路迷宮は、田畑の間を走る古い水路の補修口から生まれた小型迷宮だった。
世界震動から二か月後に見つかり、内部は四百メートルほど。水属性スライムとダンジョンラットが出るだけで、採れる薄青い膜は簡易浄水材に使われている。
入口の周りには農協の軽トラックと消防車が並んでいた。
水路から、半透明の塊が次々に押し出されている。
消防隊が長柄の網で受け、民間攻略者が魔石を傷つけないよう槍の石突きで床へ転がしていた。
「倒してない?」
千紘が車を降りながら聞く。
「こいつら、外だと十分くらいで干からびる」
答えたのは、黄色い胴長を着た若い女だった。名前は知らない。左腕の腕章には《用水路採取組合》とある。
「今ここで割ると、水門へ膜が詰まる。畑まで止まるから、シートで受けてる」
怪物を逃がさないためではなく、水を止めないために動いている。
俺たちが来る前から、ここで何度もやってきた手つきだった。
「中は」
「神崎さんと、うちの二人。黒いのが奥へ伸びてから戻ってない」
女は俺の角を見たが、そこで話を止めなかった。
「入るなら、右の壁は蹴らないで。昨日補修したばっかり」
「分かりました」
「あと、その肩で網は持たないで」
「見ただけで分かる?」
「うち、じいさんばっかだから。隠すやつ慣れてる」
千紘が小さく笑った。
入口の手前で父は止まった。
「一時間だ」
「終端まで二十三時間ある」
「だから一時間で一回戻れ。長く入れば偉いわけじゃない」
「分かった」
今度は素直に答えた。
補修口をくぐる。
コンクリートだった水路は、十歩ほどで青い石壁へ変わった。
足首まで流れる水は温かい。いつもなら腰の高さを流れているスライムが、今日は上流から押されるように何体も滑ってくる。
俺たちを見ても襲わない。
逃げている。
千紘が左耳へイヤホンを入れた。
「黒い線、聞こえる」
「能力はまだ使うな」
「使ってない。水の音が、そこだけ抜けてる」
指した先には、石床を縦に走る黒い筋があった。
第零迷宮で見た太い線より細い。
靴先で触れる前に、右手を下げた。
《世界杭干渉》が反応する。
目で見る黒さとは別に、遠くへ向かう引きが掌へ入った。久世駅でも、樹海でも触れた感覚だ。
ただ、その下にもう一つある。
水路の奥から入口へ巡り、石壁の内側を戻る、短い輪。
この迷宮だけで閉じている。
「在真?」
「外へつながる線と、中で回ってる線が重なってる」
「切れる?」
「まだ分からない」
分かる前に切れば、三つ目と同じだった。
奥から金属音がした。
一度。少し置いて二度。
神崎さんが決めた消防の退避合図ではない。
千紘が顔を上げる。
「バールは神崎さん。近くに二人いる」
「全員いるな」
「違う。その下にも、一人」
水の流れが止まった。
足首に触れていた温かさだけが残り、遅れて、全部が入口側へ逆流し始める。
逃げていたスライムが俺たちの足へまとまってぶつかった。
奥の暗がりで、黒い線が持ち上がる。
その下から、人の手が出た。
指先だけが石床をつかみ、三度、弱く叩いた。




