第百三話 十一個目の音
太い音は、地面の下から一度だけ鳴った。
それで終わらない。
第零迷宮の壁が同じ音を返し、物置の外からも遅れて響く。山の向こう、さらに離れた市街地から、方向の違う低音が重なった。
世界中の迷宮核が応じている。
千紘は鼻へ当てた布を替えながら、階段の上へ顔を向けた。
「久世駅の方も鳴った」
「沈降駅は止まってる」
「入口の奥に、核があった場所は残ってる」
ガルが核保管室から出てくる。
十一個目の窪みへ収まった黒い外殻には近づかず、記録室と治療槽の間を何度も嗅いだ。
床の線が増えている。
これまでは核保管室から各施設へ一本ずつ伸びていた。今は十一個目を中心に黒い線が枝分かれし、古い十個の窪みだけでなく、壁の向こうへ入り込んでいる。
「外へ出ます」
東條さんが言った。
片手には、家族通話を切っていない端末がある。畑の端へ避難した父たちと、神崎さんたちの声が重なっていた。
「保有核の変化が始まる前に、全員を地上へ戻します」
「帰還線は閉じた」
「それでもです」
「十一個目を置いて出たら、誰が見る」
「無人記録に切り替えます」
「床がカメラごと沈んだら?」
東條さんの返事が止まる。
言い負かしたいわけではなかった。
外へ出た方がいい。左肩と腰はまだ痛み、MPも戻っていない。千紘は続けて能力を使い、レオンも灰海から消えた記憶を抱えたままだ。
だが、世界中へ同じ音を送っているものを無人のカメラへ任せる気にはなれなかった。
「在真」
千紘が呼ぶ。
「配って。今のうちに」
未配分の能力値を思い出す。
二百ポイント。
灰海から戻った直後は、痛みに引きずられて決めそうで保留した。けれど、中枢で足りなかったものはもう分かっている。
力だけで線は分けられない。
速さだけでも、右側は見えない。
耐久、精神を落とさず、どれか一つへ寄せすぎない。
――――――――――
能力値を配分しました。
筋力:1,380 → 1,500
耐久:1,680 → 1,800
敏捷:1,350 → 1,450
器用:680 → 720
感覚:420 → 450
精神:875 → 975
最大HP:4,240 → 4,300
最大MP:1,340 → 1,380
現在HP・MPは回復しません。
未配分能力値:0
――――――――――
現在HPは三千八百三十、MPは九百八十のまま。
数字が変わると同時に、足元の黒線がさっきより細かく見えた気がした。
感覚を上げたせいか、《世界杭干渉》を得たせいかは分からない。
千紘も百六十ポイントを配る。
筋力百八十、耐久四百五十、敏捷五百八十五、器用七百二十、感覚九百七十五、精神八百。最大HP三千百八十、最大MP千百二十。現在HP二千八百八十、MP九百八十は動かない。
「感覚、二十だけ?」
「鼻血出したあとに聞く?」
「聞いただけだ」
「在真も二十じゃん」
言われてみれば同じだった。
床が揺れる。
地震とは違う。
核保管室の壁だけが奥へ移動し、十一個の窪みを載せた石板がゆっくり立ち上がった。その裏に、今までなかった黒い空洞がある。
レオンが近づこうとする。
ガルが前へ出て道を塞いだ。
「私だけですか」
レオンが聞く。
ガルは動かない。
「さっき名前を読んだから怒ってる?」
「そういう決めつけ方はやめろ」
「では、なぜ」
ガルの耳はレオンではなく、首から下がる樹脂板へ向いていた。
板の裏に入れたエルマーの記録写真から、細い青い光が漏れている。
レオンが写真を抜く。
三年前のエルマーの顔は消え、代わりに中枢で見た椅子の輪郭が薄く写っていた。
「記録が更新されています」
「今も向こうとつながってる?」
「写真だけです。たぶん」
「その『たぶん』を持って近づくな」
東條さんが透明な袋を出した。
レオンは不満そうにしたが、写真を自分で袋へ入れる。袋は東條さんへ渡さず、核保管室の入口から離れた床へ置いた。
ガルもようやく横へ動く。
黒い空洞の中で、三つの光が点いた。
――――――――――
世界退避中枢制御核の収容を確認しました。
収容核数:11
接続元世界の退避処理は停止しています。
接続先世界の迷宮網に終端処理を開始します。
――――――――――
「終端って何」
千紘が言う。
表示はすぐに続かなかった。
代わりに、東條さんの端末が震える。
一件ではない。
日本国内の緊急回線、国際迷宮連絡機構、各国の管理施設から着信が重なり、画面が切り替わり続ける。
東條さんは最初の一件だけ取った。
『石狩です。核保管部の壁が開いて――』
声の後ろで、同じ太い音が鳴った。
『表示が三つあります。統合、消去、中枢――』
通話が切れる。
次はスヴァールバルからだった。レオンが受け取り、英語で短く確認する。返ってきた内容は同じらしい。
「世界杭を停止した迷宮すべてに、選択表示が出ています」
レオンは表示から目を離し、核保管室の奥を見た。
「第零は向こう側の退避中枢ではない。受け入れた側で、接続の終わらせ方を選ぶための制御系です」
「誰が選べる」
「核に触れた攻略者。複数いる場所は、まだ表示だけです」
「勝手に押す人が出る」
俺が言うと、東條さんはすでに別の回線へ切り替えていた。
「全地点、操作禁止。封鎖ではなく、まず触れないでください。表示の撮影と読み上げだけを」
『国家命令にできますか』
「命令を待っている時間がありません。現地責任者判断で止めて」
返事を聞く前に次へ移る。
三つの光が文字へ変わる。
――――――――――
終端処理の方針を選択してください。
《世界統合》
接続元世界の都市・生存記録・迷宮を、接続先世界へ上書きします。
《全迷宮消去》
両世界の迷宮網、ステータス、レベル、スキルを消去します。
《中枢破壊》
世界退避網と世界杭中枢を破壊します。
通常迷宮の分離が完了していない場合、接続中の全迷宮を巻き込みます。
選択は終端迷宮最深部で確定します。
――――――――――
今ここで押すものではなかった。
三つとも、終端迷宮へ入るための方針だ。
「統合は却下」
父の声が端末から聞こえた。
東條さんが通話を切っていなかったらしい。
『向こうの人を助けるためでも、こっちの家や人間を上から潰すなら同じだ』
「それは選ばない」
『全消去は』
「向こうの迷宮固定者が死ぬ。こっちも、迷宮の治療や設備で生きてる人がいる」
『じゃあ三つ目しかないだろ』
「通常迷宮まで巻き込むかもしれない」
『お前が残したいのはどっちだ』
問い方が雑だった。
特殊迷宮だけを消して、通常迷宮とステータスを残す。
最初からそれができると決まっているわけではない。三つ目を選んでも、分離に失敗すれば全部消える。
《世界杭干渉》を開く。
黒い空洞から伸びる線のうち、太い十一本だけが同じ方向を向いている。その間には、細く不揃いな線が何千本もあった。
通常迷宮。
世界杭が来る前から向こう側にあったもの。こちらで世界震動後に生まれ、すでに生態系や町の仕事へ入り込んだもの。
太い線から分けられる可能性はある。
「三つ目へ行く」
選択欄へは触れない。
「今は決めないんですか」
レオンが聞く。
「最深部でしか決まらない。ここで言うだけなら、まだ誰も巻き込まない」
「それでも、口にした記録は残ります」
「残してくれ」
東條さんが通話の合間に振り返る。
「大月さん個人の決定としてではなく、第三案の検討開始として残します。各国にも、通常迷宮の分離手段がある可能性だけを共有します」
「《世界杭干渉》のことは」
「能力名はまだ出しません」
俺へ確認はしなかった。
隠す範囲も、東條さんが決めている。
黒い空洞が広がった。
核保管室の床が割れたのではない。部屋の奥行きそのものが伸び、十一個の窪みが遠ざかっていく。
治療槽、装備工房、記録室へ続く通路も引かれる。
「下がって!」
千紘がレオンの樹脂板をつかむ。
俺は東條さんの腰帯を引き、階段側へ戻した。
ガルだけが核保管室との境目へ踏みとどまる。
黒い空洞の中から、太い柱が一本上がってきた。
表面には、これまで攻略した迷宮の一部が重なっている。
駅の黄色い線。樹海の蔓。首都環状の道路標識。石狩の立った水面。氷原の黒い環。灰海の白い名札。
その全部が、同じ柱の中で動いていた。
――――――――――
第零迷宮の終端化を開始します。
終端迷宮への移行完了まで:23時間59分
移行中、第零迷宮の全施設を閉鎖します。
――――――――――
治療槽の青い明かりが消える。
記録室の扉も閉じた。
ガルの前脚が境目から押し戻され、核保管室ごと黒い壁の向こうへ沈んでいく。
地上へ続く階段だけが残った。
父が端末の向こうで何か言った。
今度は、太い音に消されず聞こえた。
『帰ってこい。二十四時間ある』
俺たちは階段を上がった。
物置の外では、まだ午後四時を過ぎたばかりなのに、空が夜みたいに暗くなっていた。




