第百二話 残すために切る
記録官リッチの顎が開いた。
最初に出たのは老人の咳だった。
次に子供の泣き声、知らない言葉の祈り、誰かを呼ぶ声が重なる。六万を超える記録のどれかを、一つの喉で順番もなく流している。
『退避先の生存圏を確認』
最後に、システムと同じ声へ揃った。
『収容処理を再開します』
頭蓋の中にある街の灯が一斉に明るくなる。
吹き抜けを埋めていた都市断片が、俺たちのいる中央へ動き始めた。
「止めろ!」
薫が銃を向ける。
「頭は撃つな」
レオンがその前へ腕を出した。
「中にある灯が記録なら、壊した時に何が消えるか分かりません」
「じゃあ、どこを撃つの」
「それを今から見ます」
「今から?」
薫の声が裏返った。
撃てないまま、足元の坂が起き上がる。
蓮が滑った。
千紘が左手を伸ばし、上着の背をつかむ。その身体ごと傾き、ノアが千紘の腰帯を短剣の柄で引っかけた。
俺は三人へ向かおうとした。
白い骨の腕が床から生える。
指一本が人間の胴ほどある。右側から上がってきた手の甲へ胸を押され、中央の椅子まで吹き飛ばされた。
空中で身体を丸め、《衝撃分散》にMPを二十使う。背中が椅子へ当たった。
衝撃の大半を脚から骨の床へ逃がしたが、肩と腰に残った。HPが三千八百三十まで落ちる。
床へ触れた骨の手が砕ける。
破片は止まらず、白い文字になって宙へ浮いた。
俺の名前が混じっている。
大月在真。
年齢、種族、レベル、欠損した右目。さっき表示したばかりの数値まで、白い文字が勝手に並べていく。
『現行世界個体を記録』
文字が椅子の背へ吸い込まれる。
右腕の輪郭が薄くなった。
身体が消えたのではない。自分の腕を、ここにあるものとして認識しにくくなる。
「記録を持っていかれてる!」
レオンが叫ぶ。
彼は《観測》を使わず、椅子の後ろへ回っていた。樹脂板の記録と俺の身体を何度も見比べる。
「白は記録です。青は生命維持。黒い線だけが、向こうの地球へ伸びている」
椅子の下を見る。
三色の線が一本の太い束に編まれていた。
千紘が蓮を薫へ押し戻し、打音器を拾う。
「一回、全部聞く」
「さっき使っただろ」
「だから、これで最後」
止める前に鳴らし、《音界地図》へMPを二十使った。
椅子を中心に、床の骨、頭蓋の街、吹き抜けの都市が同時に響く。
千紘が両耳を押さえた。
鼻から血が落ちる。
「青は外から中へ来て、また外へ戻ってる。白は頭の中で回ってる」
「黒は?」
「こっちから、在真たちの地球へ出てる。三本が重なってるの、椅子の下」
断つ場所は分かった。
黒だけを切ればいいとは限らない。三色は途中で編まれ、椅子の真下では隙間がほとんどない。
記録官リッチが右腕を上げる。
今度は床だけではなかった。
吹き抜けの病院から、学校から、住宅から、白い骨の手が生える。都市そのものが身体になり、中央へいる全員をつかもうとする。
継続局の女が鉤を一本、薫へ投げた。
薫は銃を下ろさず、左手だけで取る。
「使い方は」
「青い輪へ掛けて。黒は引かないで」
「そっちが黒を引いたら撃つ」
「今はそれでいい」
五人が別々の街区へ散る。
さっきまでエルマーを連れ去ろうとしていた連中が、病室と中央をつなぐ青い輪を支え始めた。
ノアも隣には行かない。
個体十二と学校側へ回り、落ちてくる青い線を短剣の腹で持ち上げる。
ガルは椅子の下へ走った。
黒い線へ牙を向ける。
「まだ切るな!」
俺の声で止まったのではない。
その奥にある青い脈を嗅ぎ、口を閉じた。
個体十二が反対側から来る。
二頭は椅子の脚を挟み、黒と青の間へ鼻先を入れた。片方が押し、片方が引くと、編まれた束に指一本分の隙間ができる。
「そこ、保てる?」
千紘が聞く。
ガルは答えない。
前脚の爪が床を削り、個体十二の首布から青い光が漏れ始める。
長くはもたない。
エルマーが椅子へ近づく。
「私を青へ戻せ」
「戻したら中枢に使われる」
レオンが止める。
「今も使われている。なら、使う場所くらい選ぶ」
胸の穴へ自分の手を入れ、青い骨を一本引き出した。
膝が崩れる。
薫が支えようとして、途中でやめた。代わりにエルマーの外套をつかみ、椅子の横まで引きずる。
「三年前の分」
「何の話だ」
「あとで殴る」
「残っていれば」
エルマーは青い骨を、生命維持線の束へ差し込んだ。
街区ごとに乱れていた脈が揃う。
ガルと個体十二が作った隙間が少し広がった。
「在真、今!」
千紘の声が飛ぶ。
骨の手がもう一度、目の前へ落ちる。
正面から越える時間はない。《空歩》にMPを四十使い、骨の指の上へ一歩を置く。
二歩目を椅子の背へ置き、頭蓋の横を越える。右目側から別の手が来たが、ガルの吠え声で首を左へ倒した。
指先が角を掠める。
椅子の下へ落ちた。
黒い線が目の前にある。
青と白は、二頭とエルマーが引いている。
それでも一部は触れていた。
「青をこの場へ留める」
俺は左手で生命維持の束をつかんだ。
《係留》へMPを三十使い、青い脈を現在の層へ固定する。
三秒。
それより短いかもしれない。
右手を黒い線へ入れる。
向こう側の都市を、俺たちの世界へ重ねようとする接続だけを探す。
指先へ冷たい継ぎ目が触れた。《断界》へMPを三十使うと、黒い線が切れた。
記録官リッチの顎が大きく開く。
六万を超える声が一度に漏れ、音ではなく圧力になって身体を押した。
千紘が膝をつく。
レオンの樹脂板から、手書きの文字が一行消える。
薫は蓮へ覆いかぶさり、ノアは個体十二の首布を押さえたまま離さない。
白い記録線が暴れる。
俺の右腕はまだ薄い。
名前を取られたまま黒い線だけ切れば、記録官は次の個体を接続先にする。
「レオン、俺の記録は」
「残っています。右腕も、右目も」
「右目はない」
「欠損した記録が残っています」
「ならいい」
白い文字が集まる椅子の背へ、薄くなった右手を押しつけた。
新しいものを切らない。
持っていかれた現在の記録だけを、自分の身体へ戻す。
《断界》は使えない。
代わりに腕を引いた。
真竜脈の熱が肩から指へ集まり、白い文字が骨の隙間へ引っかかる。皮膚が戻るのではなく、ここに腕があるという重さが少しずつ戻った。
ガルが俺の袖へ噛みつく。
個体十二もガルの首の後ろを引く。
三人分の力で、白い文字の束を椅子から引き抜いた。
頭蓋の街灯が一つずつ消える。
病院や住宅の灯ではない。俺の名前と数値を写した分だけが消えていく。
右腕の重さが戻った。
記録官リッチの身体が椅子へ沈む。
青い生命維持線だけが残り、黒い上書き線は床へ落ちた。
――――――――――
管理個体《記録官リッチ》を停止しました。
世界退避中枢の上書き処理を停止しました。
レベルが50から55へ上昇しました。
最大HPが3,940から4,240へ上昇しました。
最大MPが1,240から1,340へ上昇しました。
未配分能力値を200獲得しました。
スキルポイントを5獲得しました。
現在HP・MPは回復しません。
――――――――――
千紘の表示も開く。
レベル四十。最大HP三千百二十、最大MP千百。現在HP二千八百八十、MP九百八十。未配分は百六十、スキルポイントは三十八になった。
喜ぶ声は出なかった。
中枢の青い脈が、停止した椅子の下で弱くなっている。
病院の窓にいる人たちの胸も、同じ速さで上下を失い始めた。
エルマーが青い骨を押し込む。
「長くは保たない」
椅子の背から、黒い外殻だけが外れた。
中には青い核が残っている。
黒い外殻へ触れると、三つの候補が表示された。
――――――――――
中枢迷宮核から継承する能力を選択してください。
《世界杭干渉》
迷宮核の接続方向を変更する。
《記録複製》
接触した記録を一時複製する。
《領域支配》
中枢に接続した管理個体へ命令する。
選択できる能力は一つです。
――――――――――
迷わなかった。
命令する力はいらない。
記録を増やしても、今ある身体を生かせるとは限らない。
《世界杭干渉》へ触れる。
――――――――――
《世界杭干渉》Lv.1を継承しました。
《継承》がLv.8へ上昇しました。
――――――――――
黒い外殻が崩れ、第零迷宮へ続く光へ吸い込まれる。
青い生命維持核は椅子へ残った。
それでも脈は弱い。
「どこへつなぎ直す」
俺には、二つの方向が感じ取れた。
一つは俺たちの地球。切ったばかりの上書き先。
もう一つは、崩れかけた向こう側に残る複数の世界杭だった。
安全な方ではない。
元へ戻すだけだ。
「こっちへはつながない」
青い核へ両手を当て、《世界杭干渉》へMPを八十使う。現在世界へ向いていた切断面が閉じた。
青い脈は吹き抜けの外へ伸び、向こう側に残る世界杭へ分かれた。
病室の老人の胸が、ゆっくり持ち上がる。
ほかの七人も呼吸を続けていた。
すべての街区が助かったかは見えない。
――――――――――
世界上書き:停止
生命維持接続:継続
接続元世界の崩壊進行により、維持状態は保証されません。
――――――――――
期限は消えた。
代わりに、いつまで保つか分からなくなった。
継続局の女が、下ろしていた鉤を拾う。
「これで助けたつもりですか」
「今すぐ殺すのは止めた」
「明日崩れるかもしれない」
「なら、明日までに別の方法を探す」
「なければ?」
答えは出なかった。
薫もノアも、俺の代わりに言わない。
エルマーは椅子へ背を預けた。胸の青い骨は生命維持線につながったままだ。
「帰還線が閉じる前に行け」
「お前は」
「半分はここに置いた。今さら全部は運べない」
薫が拳を握る。
「殴る分は残ってる?」
「左頬なら」
「覚えとく」
蓮が柱に残ったチョークを一本、エルマーの膝へ置いた。
俺たちは中央を離れた。
帰着経路の位置は頭に残っている。移動した街区の間を、千紘と薫が鐘の反響で戻し、ノアが崩れた近道を選んだ。
帰還線の前で、個体十二が止まる。
ガルと鼻先を触れ合わせた。
前と同じように、どちらも相手を引かなかった。
ガルは自分で黒い面を越える。
レオン、千紘、俺が続いた。
第零迷宮へ戻ると、帰還線は残り四時間以上を残して閉じた。
核保管室の十一個目の窪みに、黒い外殻が収まっている。
床の奥で、今まで聞いたことのない太い音が鳴った。
千紘は血のついた鼻を押さえたまま、核保管室ではなく地上を見上げる。
「外でも鳴ってる」
世界中の迷宮核が、同じ音を返し始めていた。




