第9話「信じなかった代償」
私は一歩前へ進み出て、泥濘の上に敷かれた厚板の上で背筋を凛と伸ばした。
眼前で停車した豪奢な馬車の扉が開き、黄金の獅子紋章を胸に刻んだ壮年の男が降り立つ。
王家直属の近衛兵たちを従え、威厳に満ちた足取りで進み出てきたのは、国王特使――ラインハルト伯爵だった。
泥まみれで這いつくばっていたセオドアが、救いを求めるように顔を跳ね上げた。
「と、特使殿……! よくぞ来てくださった! この北部の野蛮人どもが、グランヴェル公爵家の嫡男である俺に刃を向けたのです! 早くこいつらを捕らえ――」
「控えよ、罪人セオドア」
特使の冷徹な一喝が、荒野の空気を切り裂いた。
「な……っ?」
セオドアの声が引きつり、間抜けな音を立てて途切れる。
特使は泥水にまみれたセオドアを一瞥することすらなく、懐から重厚な封書と、国王の印章が押された羊皮紙の令状を取り出した。
「国王陛下ならびに中央評議会の命により通告する。セオドア・グランヴェル、ならびにミレイア・フォード。両名に国家叛逆、職務怠慢、文書偽造、ならびに虚偽告発の容疑で即時逮捕令状が発付されている」
「は……? な、何かの間違いだ……! 俺は筆頭公爵家の嫡男だぞ! 父上が……グランヴェル公爵が、そんな処分を認めるはずが――」
「お前の父親なら、とっくに貴様を見限ったわ」
特使は吐き捨てるように告げると、一通の親書をセオドアの鼻先へと叩き落とした。
泥の上に落ちたその書状には、グランヴェル公爵家当主の直筆の署名と、朱色の封蝋が確かに刻まれていた。
「グランヴェル公爵より国王陛下へ、貴様の即時廃嫡届が提出された。家門の取り潰しを恐れた公爵自らが、お前との親子の縁を完全に断ち切ったのだ。お前はもう公爵令息でも何でもない。ただの重罪人だ」
「嘘だ……! 嘘だぁぁぁっ!」
セオドアの絶叫が荒野に木霊した。 震える手で泥まみれの親書を拾い上げ、狂ったように文字を追う。
そこには、トカゲの尻尾切りのように、全財産の没収と家名からの抹消が容赦なく記されていた。
さらに特使は、青ざめて白目を剥きかけているミレイアへと冷たい視線を向けた。
「ミレイア・フォード。貴様がかつて大聖堂で演じた『服毒狂言』の真相も、すべて白日の下に晒されたぞ」
「ひっ……!?」
「貴様が密かに王都の闇薬師から微毒薬を買い取っていた購入台帳が、薬師ギルドと近衛兵の合同捜査により完全に押収された。エレーナ嬢に罪を着せるための自作自演であったことは明白だ」
特使の宣告に、ミレイアは喉から引きつった悲鳴を漏らし、泥の中にへたり込んだ。
「さらに、長女を不当に陥れ追放に加担した生家のフォード伯爵夫妻に対しても、連座処分が下された。爵位の剥奪、所領の没収。フォード家は完全に取り潰され、貴様の親は平民長屋へと叩き落とされた」
「あ、あぁ……お父様……お母様……っ!」
ミレイアは髪を振り乱し、泥水に頭を擦り付けて震え上がった。
自分たちが贅沢三昧を貪るために姉から奪った地位も、名誉も、財産も、すべてが一瞬にして泡となって消え失せたのだ。
「エレーナ……っ! エレーナ、頼む!」
突如、セオドアが泥濘を這いずり、私の足元へと取りすがってきた。
かつての傲慢な貴族の面影は微塵もなく、鼻水を垂らし、血走った目で私のドレスの裾を掴もうとする。
「俺が悪かった! すべてミレイアの嘘に騙されていたんだ! お前が正しかった! お前の育てた薬草があれば、王都の瘴気熱も治せるのだろう!? 頼むから特使に言ってくれ! 俺たちは婚約していた仲じゃないか! 俺を助けてくれぇっ!」
泥のついた手が、私の靴に触れようと伸びてくる。 カルディス閣下の長剣の鞘が、容赦なくその腕を払い除けた。
「……触れるなと、言ったはずだ」
凍りつくような閣下の低音に、セオドアは悲鳴を上げて身を縮めた。
私は、泥にまみれて惨めに命乞いをする元婚約者を、静かに見下ろした。 大聖堂で、私がどれほど事実を訴えても、耳を貸そうとしなかった男。
妹の涙と甘言だけを信じ、私の誇りも、手柄も、すべてを床に投げ捨てた男。
私の唇から、静かに、澄み切った声が零れ落ちた。
「――あの子の嘘は信じたのに、私の言葉は信じてくれないんですね」
「…………っ!」
セオドアの息が止まった。 心臓を氷の杭で撃ち抜かれたかのように、男は目を見開き、口をパクパクと金魚のように開閉させた。
「王立薬草園の土の呼吸も、酸みの抜き方も、私は幾度となくお伝えしました。ですが貴方は、それを『下賤な泥いじり』と嘲笑い、あの子の祈りだけで薬草が育つという嘘を信じた」
私は一歩も引かず、冷徹な視線でセオドアを突き放した。
「今さら真実に気付いたところで、すべて手遅れです。私の言葉を信じなかった代償を、生涯をかけてお支払いなさい」
「エレーナ……! 見捨てるな、頼む、エレーナぁぁぁっ!」
泣き叫ぶセオドアの腕を、近衛兵たちが容赦なく背後でねじ上げ、冷たい鉄の手錠を噛ませた。
「セオドア・グランヴェル。貴様には、王立薬草園の全滅による国家機能麻痺の責任、ならびに軍規違反の領境侵犯の罪により、爵位剥奪の上、北部開拓地最前線での無期限土木労役刑に処す。泥水をすすり、己の手で土を掘り続けるがいい」
「い、嫌だぁぁぁっ! 肉体労働などできるわけがない! 助けてくれぇぇっ!」
「ミレイア・フォード。平民への降格処分、ならびに王都外縁の隔離病棟救護院における、生涯無給の汚物清掃および感染患者の雑役奉仕刑に処す」
「嫌ぁぁぁっ! 汚いのは嫌! お姉様、助けてぇっ! お姉様ぁぁぁっ!」
ミレイアは狂乱し、泥の地面を爪が剥がれるほど掻きむしりながら喚き散らした。 だが、誰一人としてその叫びに同情を寄せる者はいなかった。
二人は近衛兵たちによって家畜のように泥の中から引きずり起こされ、護送用の檻の馬車へと乱暴に放り込まれていった。
鉄格子の閉まる重い音が、荒野にガチャンと響き渡る。 喚き声と呪詛を乗せた馬車の車列は、慌ただしく王都へと引き返していった。
静寂が戻ってきた。
私は深く、胸いっぱいに息を吸い込んだ。 頬を撫でていく北部の風は、どこまでも澄み渡り、冷たく、そして心地よかった。
大聖堂で受けた理不尽な侮蔑も、家族に裏切られた冷たい記憶も。 すべてが過去の彼方へと吹き飛び、私の心には、一本の濁りもない誇りと解放感だけが満ちていた。
ふと、温かな気配が私の隣に寄り添った。
振り返ると、カルディス閣下が静かに佇んでいた。 閣下は、まだ微かに震えていた私の肩へと、そっと手を伸ばした。 以前のような躊躇いや戸惑いはない。
優しく、だが二度と離さないという強い意志を込めて、私の身体を自らの胸元へと力強く抱き寄せた。
「閣下……」
「……もう、誰も君を貶めることはできない」
耳元で囁かれた低く甘い声。 そして閣下は、私の額へと、熱く深い口づけを落とした。 触れられた額から、全身へと温かな熱が溶け出していく。
「君の尊厳も、その奇跡も、私が命に代えて守り抜く。……これからは、君の望む世界を、君の好きなように生きるといい」
その言葉に、私の目頭が熱くなった。 私はそっと閣下の胸元に額を預け、頷いた。
◇
夕暮れ時。 騒乱が完全に去った荒野の丘の上に、私は立っていた。
見渡す限りの大地に、満開のルミナス草が白銀の光を放ち、風に揺れている。
かつての呪われた死地は、いまや世界で最も清らかで、豊かな生命に満ちた奇跡の園へと生まれ変わっていた。
丘の頂、銀色に輝く花畑の真ん中で。 カルディス閣下が、夕陽を背にして私を待っていた。




